驚きの変化
仔竜の輪郭は大きく揺らぐと、まるで着ていた衣を脱ぎ捨てるように拡散消失していく。そして、暴風のように吹き荒れていた魔力が収まると、そこには小さな男の子の姿が残っていた。
「人化…、しました…、ですぅ…」
腰が抜けたように尻餅を突いたフィノだが、あまりの驚愕に垂れ耳は立ち上がり、ふさふさの尻尾は毛が立ちあがって三倍以上の太さになっている。
「おいおいおいおい、冗談みたいなもん見ちまったぞ!」
「衝撃的な光景だわ。震えが来るくらい」
実際にチャムは自分の身体を抱くようにして、見開いた目を男の子に向けている。
「これでいーい?」
その子は自分の顔を指差すと、首を傾げて訊いてくる。
「はわっ! 喋りましたですぅ!」
「見た目だけなら喋っても変な話じゃねえがよぉ」
「それでもやっぱり…、ねぇ?」
彼女もトゥリオと苦笑いを交わすしか出来ない。
「どうしたものかしらねぇ?」
振り向いたチャムの視線の先には、見たことないほどの呆然とした表情を貼り付けているカイが居た。
「変形した…」
しばらく口をパクパクさせていた黒瞳の青年は、やっと絞り出すようにそのひと言を零す。
「そうね。でも、少し前にドラゴンの人化の話はフィノに聞いたじゃないの?」
「違う…。違うんだ…。固有形態形成場が変形した」
膝を突いた姿勢で乗り出すと、元仔竜の少年の両手を取ると凝視する。
「今、この子の形態形成場は人間の形をしている」
「そう…、なの?」
「驚きだ。目の前の現実が信じられない」
カイの口からまず聞かれない台詞が漏れた。
固有形態形成場は、物体の形態を司る情報体である。故に短時間で大きな変化をする事は無い。
確かにカイには操作能力もある。固定化というのがそれだ。しかし、それは既に変形させた物体の情報を現在の形に書き換える作業なのである。言うなれば、現在の形状情報を形態形成場にコピーしているに過ぎない。
ところが今、仔竜がやって見せたのは、固有形態形成場を変形。それに合わせるように身体形状を変化させたのである。
大きな差異は無いように思われるかもしれないが、この二つの間には越え難い壁がある。後者はイメージ力だけで固有形態形成場を変形させる事が出来なければ不可能だからだ。
カイがやっているのは版画の作業に似ている。版画の元になる原画を描き上げてから、それに合わせて原版を掘り上げていく作業だ。既にある原画の情報を原版に転写するだけ。
仔竜がやったのは、固有形態形成場という原版そのものをまず変形させる方法。出来形に合わせて原版を掘り上げてから版画にする作業になる。
後者のほうが行程が減って楽なように感じるかもしれないが、そんな事は無い。生体という、極めて緻密な構造体の膨大な情報をイメージだけで零から組み上げる必要が有る。
それに必須のイメージ力や構成力は想像を絶するとカイは思っている。
「すごいね、君は。ドラゴンが魔法生物だというのを実感しているよ。これが出来るんなら、通常魔法なんか児戯のようなものだろうね?」
仔竜はカイが言っている事を全て理解しているとは言い難いようだが、褒められているのは分かるようだ。
「すごいー? えへへー」
「うんうん、大したものだよ」
喜色満面という様子で彼の胸に飛び込むと、そのまま膝に座り込んでしまう。
身長が
それだけの質量を、変化中の様子からリドと同じ方法で魔法空間に格納しているのだと予想される。とてつもない量の情報処理を並行して実行出来なければ絶対に不可能な芸当である。
ドラゴンという超越した種を象徴するような能力であった。
「名前は何て言うの?」
膝の仔竜に向かい合うように座るチャムが訊く。
「ドラゴンって自分達で名前を持っているものなのですかぁ?」
「ええ、持っている筈よ。歴史上、極めて有名な何体かのドラゴンの名前が記録に有るのよ。あまり公言するものではないって聞かされているけど」
「それって訊いても良いんでしょうかぁ?」
「不便じゃない」
切って捨てられた。
確かにそうだが、そこまでの振りは何だったんだろうとフィノは思ってしまう。
「ぼく、テュルムルライゼンテール」
脱線したのでカイが訊き直すと普通に答えが返ってくる。
「長っ!」
「舌噛みそうですぅ」
「これが普通なのよ」
彼らが家名を持たない事を説明したチャムは、幾つかの法則性が有るのを補足する。
「当たり前に親が名付けるみたいだけど、親の名前の一部を受け継ぐ習慣があるみたい。だからといって、現存のドラゴンの名前の情報が無きに等しいから、あまり意味が無いんだけどね」
「有名無名があるって事はドラゴンの世界にも階級が有ると思って良いの?」
「明確には無いって。でも、力の差は明確にあるらしいわ。そういう意味で大物は存在するって話」
彼女は少ないながらも、自分の持っている情報を全て明かしてくれたらしい。
「とりあえず、君はティムルね。そう呼ぶ事にするから覚えて」
カイの膝の中に大人しくちょこんと座っている人化仔竜の鼻をツンツンとしながら言い聞かせる。
「ティムルー。わかったのー」
「それじゃあ、よろしく、ティムル」
「えへー」
彼は嬉しそうに寄り掛かって黒瞳の青年の顔を見上げる。
人化したティムルは金髪金眼という派手な容姿をしているが、それ以外に特に変わった所は無く、普通の子供と同じ外見をしている。人化した今は素っ裸なので、背中に翼が残っていたり、蜥蜴のような尻尾が生えていないのも確認出来た。
フィノが毛布を出して
簡素な白い上衣とズボンを着せただけなのだが、ふっくらと丸っこくて幼げな容姿に白い肌と、薄っすらと赤い頬が映えて非常に愛らしい。金髪と相まって、どこかの良家のお坊ちゃんみたいになってしまった。
敷物を敷いてお茶を淹れ、クッキーやスコーン等の焼き菓子を出すとティムルは夢中になって嚙り付く。あまりに熱中しているので、訊きたい事を棚上げにしてしばらくは微笑ましく眺めていた。
「にんげんのたべもの、おいしー!」
大量の焼き菓子をお腹に収めて、可愛らしい笑みを見せる。
「ずいぶん詰め込んだな? そんなに美味かったか?」
「おいしー。 トゥリオはきらいー?」
「甘い物はそんなに得意じゃねえな。だが、お前さんにゃお似合いだ」
屈託のない笑顔で「おにあいー、おにあいー」と手を叩いている。
彼の血統がどのようなものかは窺い知れないが、同年代の子供と同じような仕草は彼らを安心させた。
「ところでティムル、聞かせてくれないかしら?」
ドラゴン形態では出来なかったコミュニケーションが今なら可能だろう。
「なーにー?」
「帰り道が分かっているなら帰れる筈なのに帰りたくないって言ったのはなぜ? 勝手に出掛けてきたから叱られちゃうとか?」
「ちがうのー。ちゃんとかかさまにいってでかけたー」
かかさまとは母親の事だと思われる。ちゃんと許可を得て出掛けたのなら、何かトラブルに遭遇しても咎められる道理はない。むしろ親のドラゴンは彼を案じて探し回っている事だろう。速やかに戻ったほうが良いに決まっている。
「なら、どうして帰りたくないの?」
「にんげん、こわいー」
そのひと言は彼らを凍らせるに十分な威力を持っていた。
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