語らい(1)
トーミット家も監視が完全に剥がれてしまっているのでファルマは夜番から外れて昼間に情報収集に出掛けている。
チャムは窓際に椅子を置いて、物憂げに外を眺めていた。
全部吐き出してしまった気分になって、ちょっと放心状態である。今朝の鍛錬でも身が入らず、途中で気が乗らないと言って止めてしまっている。
「入るよ」
ノックの音に応じるとカイが変わらぬ笑顔で入ってきた。叱られるか心配されるかどちらかと思ったがどうやら違うらしい。
「チャム」
そのまま動かないでいると、彼は正面に立って声を掛けてくる。
「僕に何か言いたい事が有るんじゃないかな?」
「…………」
見上げた顔には特に何の感情も含まれていないようだった。
「置いていくわ」
「どうして?」
静かな声音が余計に胸を締め付けた。つい目を逸らす。
「付き合えないから。私には成さねばならない事が有るから、ずっとここにはいられない」
「僕はもう要らないって意味?」
「違う!」
反射的に否定してしまった。失敗に気付いて顔を上げると、真摯な、それでいてどこか悲しそうな視線に出会ってしまう。
「あなたはジーナを守りたいんでしょう? だったら動けないじゃない。そうでしょ?」
「僕はそんな事を言ったかな? それともそう感じさせるような事をした?」
記憶を探れば幾つかは簡単に浮かんでくる。
「だって彼女の言う事は絶対に否定しないじゃない? どれだけ大事に思っているかそれで分かったわ。きっとあなたはジーナをタクミと同じで、自分と対になる存在だと思っているはず」
「確かにそうだね。彼女は拓己君と同じだ」
自分が引き出した回答にもかかわらず、その言葉が心を引き裂いているように感じ、チャムは焦って表情を悟られないように視線を落とした。
「だったら……」
「だから僕は彼女を否定しない。対になるのだからぶつかり合ってはいけないんだよ。同じ強さの柱同士がぶつかり合えばどちらも削れていくでしょ? それは当然の事なんだ」
理屈は解る。しかし、それは一つの事実も示唆している。
「そうね。よく解ったわ。対になるのなら隣り合って立っていなければならないものね」
結論は導かれる。
「あなたは彼女の傍にいてあげて。ここでお別れしましょう?」
その時、スカートに何かが落ちる音に彼女はぼやけていた目の焦点を合わせる。染みを作っているのは涙だ。初めて自分が泣いているのにチャムは気付いた。
それを隠すように顔に手を持っていこうとしたが、その時には腕を引かれて立ち上がらされている。いつの間にか彼女はカイに抱きすくめられていた。
「放さないよ」
耳元で囁かれたその声の響きがチャムの背筋を駆け抜ける。
「絶対に放さない。君が本気で拒まない限り放さない。離れない」
「あなたを拒むなんて……、そんな事……、出来ない……」
決意溢れるカイの声音に対して、自分がどれほどの鼻声で応じているかが分かって情けない。
痛いほどにきつく抱き締められているのに、それが心地良いと感じているのが不思議だった。
触れている面積に比例して伝わってくる温かさが、身体の芯までその心と共に伝わってくるようだった。
うなじに掛かるカイの熱い吐息が普段見せない彼の内の熱さを表し、別れの覚悟がその熱で溶かされていくように感じた。
「僕は……」
抱き締められていた力が少し緩んでいる。それは彼がその言葉をチャムに染み込ませようとする意志の表れだろうか?
「僕は恋愛には向いてないとずっと思っていた」
チャムは頭を彼の肩にもたせ掛けて、ちゃんと聞いていると伝える。
「居場所を見失ってこの世界に転移してきて、姉ぇに助けてもらって優しくされても、全然恋愛感情は湧いてこなかった。それどころか、家族に感じる親愛の情は湧いても、異性に抱く特別な感情というのが全く解らなかったんだ」
カイの肩に埋めた鼻が汗とは違う男の匂いを捉える。それは今彼が抱いている感情を表しているような気がした。
「一度戻って落ち着いてから、もう一度この世界を望んでやってきた時、世界の色が変わっているように感じたんだ。そこには君がいた。傍に居たいと思った」
彼女を抱く力が少しだけ強まる。それはその時に感じたカイの想いの強さを想起させた。
「心が寄る辺を求めていた時に僕を仲間として受け入れてくれて、君が欲しくなった。一緒に居る時間を重ねるほどに君が欲しくて欲しくて堪らなくなった」
彼が青い髪を優しくなぞるようにそっと撫でる。それは初めて自分の中に生まれた感情と欲望に戸惑いながらも、その強さに揺り動かされるカイの心を表しているのではないかと思った。
「これが恋というものだと知って僕は慄いた。その感情は、自分だけでなく相手まで巻き込んでしまう怖ろしいものだと解った。自分一人では処理出来ず、相手にぶつけずにいられないような貪欲な感情」
抱き締める腕が細かく震え、何かに耐えるように拳が握られる。それは折れるほどに抱き締めたいのに、相手を傷付けてまで押し付けてはいけないと耐えるカイの心を象徴しているようだった。
「でも絶対に悟らせてはいけないと思った。あまりに強い執着は、確実に君を遠ざけてしまうと分かっていたから。だから必死に押さえ込んで心の奥に沈め、普通に好意を向ける良い人を一生懸命演じた」
無理して緩めた腕を下げ、柔らかく腰を抱くようにする。視界に入る耳や首は赤みを帯びて来ていて、体温が熱いほどに上がっているのが、深奥を曝け出す事に羞恥を感じているのを示している。
「僕の自制心を壊そうとする恋という感情がどれだけ新鮮でも、それに酔ってはいけなかった。君に嫌われるのだけは絶対に避けないといけないから。君が許してくれるだけ、その分だけ近付ければそれで満足しようと心に決めていた」
左手で腰を支えたまま、うなじを回った右手が後ろから彼女の顎を持ち上げ、正面から向き合う。そこには情熱に燃える黒瞳がチャムを見つめて放さないでいる。
「でも、そんな顔をされたら、もう抑えきれないよ?」
黒瞳に射すくめられたチャムは動けない。
「絶対に離れない! 放さない! 君がもう要らないって言うまで決して離れない!」
その言葉に彼女の顔は華やかに綻んだ。
「ごめんなさい。無理をさせていたのね」
チャムの両腕が彼の脇を通って背中に回る。引き寄せて左肩に頭を預けると、唇は彼の耳朶近くにある。
「バカな人。女は聡いのよ。あなたの身に宿る熱さなんてとっくに感じていたわ。黙っていただけ」
「ずるいよ」
「憶えておきなさい。女はずるい生き物よ」
チャムは改めて認識する。彼は自分しか見ていないのだ。出会った頃からずっと。
本当にカイを包み込んで癒してあげられるのは彼女しか居ない。正確に言うと、カイはチャムにしかそれを認めないだろう。
彼の獣を制御出来るとしたら彼女しか居ない。ずっとその首輪に付いた鎖を握っていたのはチャムだ。だからこそカイは冷静に世界を見つめていられたのだろう。いざとなれば彼女が鎖を引いてくれると信じているから。
「解ってくれたかな?」
もたせ掛けていた頭を持ち上げて、上目遣いで見透かすように見上げてくるチャムに彼が問い掛ける。
「ええ、そこまで言わせて知らない振りなんてしたら、女が廃るでしょ?」
「もう、無理して別れるとか言わない?」
「言わないから許して。でも、ジーナはどうするの?」
その問いの答えはチャムが予想だにしていないものだった。
「僕は彼女の傍には居られないんだよ」
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