クエンタの夢

「やむを得ず捕縛しての事になりましたが、ここザウバに戻る道々、黄金こがねの穂波が貴方がたの目にも入った筈です」


 捕虜にした千九百のラガッシ軍の兵をザウバまで連行したクエンタ軍は、彼らに治療と食事、休養を与えた。そして翌陽よくじつ、軍駐屯地の柵内に拘束した彼らを並べてクエンタはその前に立っている。


「あれがこのメルクトゥーの正しい姿なのです。先王ラガッシは国政を誤り、軍国化に舵を取ってしまいました。若者に剣を取らせ農地をないがしろにすれば、あの黄金色の海は姿を消していきます。お腹が減れば貴方がたが戦えなくなるように、食料生産が落ち込んだ国も瘦せ衰えていきます。それは有ってはならない事なのです」


 最初こそ敗北の悔しさからクエンタを睨み付けるようにしていた兵達だが、少しずつ視線が落ちてくる。解り易いように国の舵取りを語る彼女の言う事が段々染みてきているからだ。


「貴方がたも国境砦近辺で農耕をして糧を得ていたと聞いています。その大変さは元々解っていた事と思います。その重労働を老人や女手に任せて農地が立ちゆくと思いますか? そして礎を失った国が発展していくと思いますか? 苦しみの中で貴方がたの家族は笑っていられますか? わたくしは皆が笑って暮らせるように、涙を呑んで弟を排しました。貴方がたの敵になりました。でもわたくしが守りたいのは貴方がたの家族はもちろん貴方がたを含めた民の全てなのです」


 もうほとんどの兵が俯いて、自らを省みている。何が大切なのか、何を守りたいのかを思い出そうとしている。


「わたくしは力で国を守る事でなく、立て直す事で人を守りたいと考えています。もし少しでもわたくしの考えに賛同してくださるなら、もし民の笑顔の為にその力を活かしたいと考えてくださるなら、立ち上がってその意を示してください」


 気持ちが揺れ動いているとは言っても、容易に立ち上がれるものではない。その心が揺れていると同時に、周りを窺って頭がユラユラと揺れている。


「賛同していただけないとおっしゃるならばそれは仕方のない事です。この事態が収束するまでは自由にさせて差し上げる事は敵いませんが、罪に問うつもりもありません。ですが、この拙い王を助けてくださるという方がいらっしゃれば、どうかお願いいたします。わたくしに力をお貸しください」


 クエンタは彼らの前で深々と腰を折った。


 本来ならば玉座に有る者が自分達に頭を下げるなど有ってはならない。しかし、女王は体面を捨ててでも民を思っての政治を守ろうとしている。意気盛んな若者がその状況で奮起しない訳が無い。恥も外聞もなく立ち上がって声を上げる。


「どうか我が力をお使いください、我らが女王陛下!」

「俺もだ! 俺も貴女の為に働きたい!」

「俺は……、俺は何を守りたくて兵になったか忘れていました。申し訳ございません、陛下」

 周りで一人立ち上がれば我も我もと立ち上がっていく。その波はどんどん広がっていき、ほとんどの者が立ち上がってクエンタに歓声を送る。

「ありがとうございます。皆が笑って暮らすというわたくしの夢にお付き合いくださいませ」


 ラガッシに感化された二百名ほどの捕虜が座り続けたが、千七百近い戦力がクエンタ軍に加わり、その数は四千にまで膨れ上がる。バルガシュ傭兵団六百の戦力もある。彼女はそれらを味方に、この国の未来を決める戦いに臨む。


   ◇      ◇      ◇


 山の中。

 幼い少女はただ泣き続けていた。



(お城を出て、いつものように街のおじさんおばさんとお話をして、またお城に戻ってきたけど今陽きょうは退屈。お爺様はお忙しそうにしていらっしゃるし、お父様とお母様はまだ赤ん坊の弟に夢中。そうだわ。裏庭のカシタンの樹の実が赤くなり始めていたわ。見に行ってみましょう)


 王宮の裏に回った少女は大きな樹の前に立っていた。当然、枝に実っている果実までは手が届かない。だが、そこには脚立も有った。


今陽きょうのわたしはついてるわ。うんしょうんしょ。ほら、手が届いた。美味しそうなカシタン)


 手にした赤い果実を服に擦り付けて拭くと、はしたなくもそのまま嚙り付く。


(甘ーい。内緒のおやつは格別。そうね、今後の為に他の樹も偵察しとかなきゃ。♪~)


 鼻歌を歌いながら裏庭を巡っていた少女は、いつにない事件に遭遇する。王宮が背にする隔絶山脈側の街壁の通用口がほんの少し開いている。この通用口は使用人が生ゴミを山に埋めに行ったりする為に設けられた物。おそらくゴミの処理を済ませた後、施錠を忘れてしまったのだろう。


(ついている時はついているものだわ。こんなに凄い遊び場への道が開いているなんて)


 少女は通用口からチラリと外を覗き、危険が無いのを確認する。そっと通り抜けると、彼女は喜び勇んで山を登っていく。


(未開の地を探検よ。道なんて無いけど平気。だって下っていけば絶対にお城は見えるもの)


 カシタンを齧りながら、少女は山を歩き回る。彼女は知らない。山の斜面にも様々な起伏が有り、下ったからと言って同じ場所には着かない事を。そして、樹間か開いているように見えても、林の中では視界は驚くほど狭い事を。


(ここ、どこ…)


 樹上を駆け回る栗鼠を観察したり、興味深げにこちらを見つめてくる兎と睨めっこしたりと山を堪能した少女は少し不安を覚え、山を下り始める。しかし、下れど下れど何も見えてこない。


(迷っちゃった……、の?)


 少女は突如襲い掛かってきた恐怖に押し潰されそうになる。自然と涙が溢れ、どうやっても止められなくなってしまった。自分の口からビックリするほどの大きな泣き声が聞こえてくる。それが危険な獣を呼び寄せる可能性など彼女の頭には無い。


(死んじゃうの? わたし、ここで死んじゃうの?)


 カサリと落ち葉を踏む音が聞こえた。恐怖は限界に達し、ビクリと震えた少女は嗚咽するに留まっていた。


「騒がしいわね。何事?」


(え?)


「人族の娘です、姫様。迷い込んだようです」

 振り返った少女の後ろには若い男性。黄緑色の長い髪の間から尖り耳が突き出している。


(森の……、民!? 嘘! おとぎ話の……)


 森の民の後ろから新たな人物が現れた。腰までの長い青い髪を翻してやって来た女性は、とんでもない美貌の持ち主だった。その後ろには幾人もの森の民が傅くように付き従っている。

 その美女は、少女をジッと見つめてくる。彼女は心の底まで見通されそうな感覚を覚える。


(怖い。でもなにか違う感じ)


「た、助けて」

 しゃくり上げながらも救いを求めるが、美女はずっと見つめてくる。一瞬だけ、その瞳に温かい光がよぎったように思えたが、視線はフイと逸らされた。

「人里近くまで連れて行ってやりなさい。行くわよ」

「はい、姫様」

 美女は二度と振り返る事は無かった。少女はその後姿を目で追っていたが、最初に出会った森の民が腕を取り、立ち上がらせてくれる。彼女がその手に縋るとゆっくりと歩き始め、麓まで連れて行かれた。

 少し先で林が途切れる所まで来たら手を放される。樹間からは王宮の姿が見えた。森の民の若い男は終始無言だった。


(お礼を言わなきゃ)


 しかし、森の民はすぐさま駆け出して林の奥へ姿を消す。彼女は救われた幸運を噛み締めながら針葉樹林を出る。ただお礼が言えなかったその事は悔いになった。



 少女は王宮に戻ると、迷子になった事を使用人に正直に告白した。両親の所へ連れて行かれ叱責を受けたが、とにかく彼女は告げなければならないと思っている。

「お父様、お母様。クエンタは山で森の民に助けてもらいました。お礼を言わないといけないので探してください」

「……馬鹿な事を。当分部屋で大人しくしていなさい」


 それは誰に告げても鼻で嗤われた。それが彼女を苦しめ、その事を記憶の隅に追いやっていってしまうのだった。

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