触発の廊下

 アルバートは国王執務室で政務秘書官の差し出す書類に次々と目を通し、サインをして決済の箱に放り込んだり、修正点を書き込んで差し戻しの束に重ねたりと忙しい。目を通さねばならない書類は多いのだが、時折り目は文字を上滑りして意味が頭に入って来なかったりする。


「あの面倒臭そうなのを焚き付けましたね、陛下?」

 それもその筈、執務室の壁に腕組みしたカイがもたれ掛かってじっと見つめているからだ。

「焚き付けてなどおらぬぞ。余はあれを止めようとした。聞かなんだのはあれの勝手だ」

「当人はそうは思っていないようですよ。陛下は魔闘拳士の暴走に心を痛めながらも、その功績と人気に遠慮して制する事が出来ないのだそうです。そう声を大にして喧伝して回っていますよ。その専横を戒めるられるのはあの神聖騎士とか云うのしかいないらしいです。侯爵様といい陛下といい、なぜ僕を政争に巻き込みたがるのですか?」


 然るべき場所での彼が隙を見せない所為だとは言えない。カイが政敵に踏ませる尻尾をプラプラさせながら歩き回ってくれないと、誘き出して首根っこを押さえる事が出来ないのも事実なのである。


「それは困ったものであるな。余が心を痛めているのはそなたの扱いだ。そなたが我が臣であれば余は全力を尽くして守れるものを」

「おや? 陛下は自分の為に働かない者は守る価値など無いと仰せなのですね。セイナが聞いたら幻滅するでしょうね?」

 責任転嫁してこようとするアルバートにカイは鋭く切り返していく。

「む。孫を盾に脅迫とは汚いぞ、カイ。我が身くらい守るのが容易いそなただからこそ自由にさせているものを。信あっての事ぞ」

「解りましたよ。我が身が可愛い僕は逃げ回るなり叩き潰すなり自由にさせてもらいますよ。出来るだけ陛下の目の届く範囲でね」

 軽口で執務の邪魔をするにも限界がある。実際に秘書官はさっきから彼を睨んできている。


 こうやって念を押して置けば、悪戯心を起こしたアルバートの気も軽くなるだろうと思ってカイは切り上げるのだった。


   ◇      ◇      ◇


「あまり派手にやり過ぎるなよ、大司教殿」

 果実酒の杯を合わせながらその貴族は窘めるように言う。だがその顔には薄笑いが浮かんでおり、本気であるとは誰にも思えないだろう。

「彼奴め、軽く挑発すれば激昂すると思ったものを、なかなかに馬脚を現しませんな」

「あの小賢しい小僧はそう容易い相手ではない。真っ当に攻めても難しいかも知れぬぞ。そう急くな。間違えても王宮で血を流すような真似は止しておけ」

「心得ておりますとも」


(有力とは言え一国の貴族程度相手におもねらねばならんとは…)

 フォルディートは業腹に思いながらも笑みは絶やさない。彼の者の支援が無くば本国への納金も儘ならないのだ。

(銀爪の魔人とはよく言ったものよ。奴が現れてからホルツレインはどれほど難物になったか知れぬ。以前は『西の金庫』とまで揶揄された赴任地が)


 表立っては口にしないが、口さがない連中は内輪でそんな風に言っていたのは事実。それがこの十足らずで大きく変容してしまっている。魔闘拳士に人気が集まり、それを重く遇する王家に人気は移り、英雄が伝説になっても登場人物である王家は人気を維持し続け、アトラシア教会は民衆の心を掴めなくなってきた。

 とにかく今は直接対決で魔闘拳士を打ち倒さねば良い風は来ない。しかし魔闘拳士のほうは乗ってくる気配は無い。どうしたものかと頭を悩ませているフォルディートだが、意外なところから機会はやって来る。


 彼が望む展開が、彼が望まぬ状況から生まれてきてしまう。


   ◇      ◇      ◇


 ホルツレイン王宮でも窓台巡りでリドは遊んでいる。違うと言えば追跡者が付く時が有る事だろうか。


「ちるー!」

「待ってー!」


 パタパタと走るゼインの足音を聞きながら離れ過ぎず近寄せ過ぎず距離を保って窓台を走る。たまに窓から中を覗いてはゼインを招くように鳴いてまた走り出す。遊んでもらっているのか遊んであげているのか分からないが、この一匹と一人はこの遊びを楽しんでいる。

 追いかけっこをしては花瓶に生けられた花を愛でたり、通り掛かる王宮メイドに纏わりついたりして、単調な遊びの中にも変化を取り入れて続ける。


 しかしこの追いかけっこは急に終わりを迎えた。

 足音が聞こえなくなったのに気付いたリドはすぐに身を翻した。ゼインはこの遊びの途中で飽きて放棄したりしない。疲れてしまったとしても必ず声を掛けてくる。それが無かったという事は何かが起こったという事だ。


「ぢぃ ── !!」

 まず目に入ったのはゼインの不安気な表情。そして白銀の鎧の後姿だ。リドはその鎧に見覚えがあった。回廊でカイ達を挑発してきた騎士である。危険を察知した彼女はすぐさまゼインの前に飛び降りて威嚇を始めたのだ。

「このような所にまで汚らわしい獣めが現れるか?」

 周囲を窺い、左の口端を吊り上げていやらしい笑みを浮かべたクスガンが見下ろしてきた。そして長剣の柄に手を掛け言ってくる。

「これは天の配剤。我が清めてやろう」

「ダメっ!」

 ハッキリと意味は解らなかったが、良からぬ気配を漂わせる神聖騎士に怯えつつも前に出てリドを庇う。ゼインは『倉庫』から短剣を取り出して抜き、覚束ない手つきで構える。

「子供よ。そのような玩具とはいえ相手に刃物を向ける意味は解っておるな?」

「僕が守る!」

 ゼインから見てリドは小さい友人だ。守るべき大切な友人だ。両足はガクガクと震えて止まらないがここは絶対に退けない。

「ちっ…、ぢぅぅ ── !」

 ゼインは気付いていないがリドの身体から魔力が膨れ上がりつつある。嫌な感覚に捕われたクスガンは鞘から僅かに剣を引き抜く。


「抜こうとしましたね? こんな子供相手に」

 その言葉と共に吹き付けてきた闘気に、クスガンの背筋は震え上がった。


「実害が無いなら見逃しても構わないとも思っていたんですが、無理みたいですね? いいでしょう。望み通りお相手いたしましょう。決闘です」


   ◇      ◇      ◇


「この愚か者が!!」

 フォルディートは自分が呼び招いた神聖騎士を叱り付ける。

「彼奴めを引っ張り出すのはいい。目論見通りだ。しかし王族に剣を向けてどうする! 貴様、彼奴が仕掛けて来なければ不敬の罪で打ち首だぞ! さすがに私も庇いきれぬわ!」

「良いではありませぬか? 我が魔闘拳士めを打ち倒せばアトラシアの矜持は保たれます」

「貴様はもっと脳も鍛えるべきだぞ。もしこの勝負に勝ったところで、もうホルツレインにアトラシア教会の居場所は無いわ! 叛乱の疑いありと見做されても仕方ないのだ」

「猊下の申されている事の意味が解りません。アトルの神への信仰無き民の関心が必要か? 我の役目は教会の敵を滅ぼす事のみ。この地に他の用など無いではありませんか」

「貴様に無くとも私には有ったのだ……」

 フォルディートの言葉には諦念が滲み出ている。


 一触即発の状況から救い出されたゼインは、涙でボロボロになった状態でカイに部屋まで連れ帰られた。クスガンを陥れる意図など無かったが、エレノアに泣き付いて彼の語った事情はやはり大きな問題になる。

 エレノアに着いていた近衛騎士から報告が上がり、クスガン捕縛の命が下されそうになったがそれはカイが止めた。彼が決闘を以って全てに決着を付けると宣したのだ。

 そんな事態にまで及ぶとは思っていなかったアルバートは面白がっている場合でないと思い制しようとしたのだが、既に状況はそれを許さなかった。王孫に剣を向けたアトラシアの神聖騎士に、魔闘拳士が正義の拳を振るうと噂が駆け巡っていたのだ。


 かくしてカイとクスガンは王宮練兵場の中央で対峙している。

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