望む未来

 この世界では九九や筆算という考えが普及していない。そもそも市井の民が算術に触れる機会が少ない。それは求められる技能ではないからだ。

 無論、財務に関わる政務官や商人などは算術に通じていなければならない。しかしそれを子供の頃から教え込まれるのは一部の者に限られ、その他の者は修行の中で自然に身に着けていくものだ。

 つまり潜り抜けなければ生きる術も失う実戦の中で算術に触れ、演算領域を発達させていく。その脳の使い方は、商売に使おうが魔法に使おうが実戦の中で鍛えられるものなのだ。

 だから九九は広く普及はしていないし、筆算は一般的なものとしては扱われてはいない。一般に用いられるのは暗算であり、この世界の計算尺の類似品がそれを補助しているに過ぎない。


「え? 兄ちゃん、偉い人なんだよね? このテキストも兄ちゃんが作ったって聞いたよ」

 カイの発言に信じられない思いでパスピエは問い掛ける。

「嘘じゃないよ。僕は九九を諳んじられるようになるまで一往36日以上は掛かったんだ。毎陽まいにち毎陽まいにちこの表と睨めっこして、ぶつぶつ言ってた。夜寝たら頭の中で数字がピヨピヨ鳴きながら駆け巡るんだよ。まさに悪夢だったね」

 彼の告白は子供達の笑いを誘う。中にはこくこくと頷いている者も居るが、それは同調している者だろう。

「そんな僕が言うのも何なんだけど、ここで引っ掛かる子が多いのも確かなんだ。諦めなければ乗り越えられるのは間違いないんだよ? でもその経験が『算術がつまらないつらいもの』だって思い込んでしまう。そうなっちゃうともう厳しい。人はつらい事に熱心にはなれないからね」


 そこでカイは九九の掲示板をパスピエの側に持ってきて、問題を解くように勧める。そうやればさすがにパスピエも表と見合わせながら乗算の筆算を進めていき、正解を導き出す。


「ほら、出来たね。正解だよ」

「やった!」

 カイに肩を抱かれ頭に手を置かれると、パスピエは本当に嬉しそうにする。

「解けたら楽しいよね? 九九だけ頑張って覚えたらこんなのスラスラ解けるようになっちゃうよ。そうしたらもっと楽しくない?」

「うん!」

 カイは成功体験で導こうとする。教育手法としては一般的なものだが、それだけに有効だ。一度楽しいと感じられたらその先は道が拓けていく。


「兄ちゃん、俺、頑張ってお国の為に働けるようになるから!」

 パスピエは一大決心をするように宣言した。

「どうして?」

「あれ、兄ちゃんはその為に俺達に勉学をさせてるんじゃ…?」

 心底不思議そうにするカイの様子に、彼は自分が的外れな事を言ってしまったと気付く。

「いや、全く。僕はそんな事の為に教養が必要だなんて思ってないよ」

「じゃあ俺は何の為に勉強すればいいの?」

 カイはパスピエを促して振り向かせてから言葉を紡ぐ。

「みんなも聞いて。僕が君達に望むのは自分の為に頑張る事。これから君達は少しずつ大人になっていく。そんな中で色んな夢を抱くと思う。物を作るのが好きだから物作りをする人になりたい。料理が好きで誰かが自分の料理を美味しそうに食べる姿を見たいから料理人になりたい」

 フィノを見ながらクスクスと笑う子が居て、彼女は真っ赤になってしまう。

「お金儲けがしたいから商人になりたい。そして、自分達みたいな不幸を経験する子供達が減るように王国を良くしたいからこの国を動かす立場になりたい」

 カイが真剣な目で見まわすと、ゴクリと息を飲む子が居る。大それた事だと思っているのかもしれない。

「誰かを守りたいから剣を取って強い人になりたい。それだって教養は必要なんだ。一人で守れるのは手の届く範囲だけ。みんなを守りたいなら複数の手を借りるしかない。意思を伝えるのに読み書きは必要。戦う道具がどれだけ必要で、どのくらい準備すべきかには算術も必要。何もかも教養が有ればより上手くいく」

 一見無縁だと思えるところにも教養が必要だと教える為に具体例を挙げて説明する。

「僕は、君達が夢を実現する為の手伝いがしたいからこうやって勉学の時間を作らせてもらっている。だから無理にお国のために働こうなんて考えなくていい。君達は何にでもなれるんだ。自由に夢の翼を広げて欲しい。君達が望む道で思う存分その力を振るえば、きっと誰もが豊かになれる。僕も、君達を取り巻く人々もきっと幸せになれる。そんな将来を僕は夢見ているんだ」


 フィノと職員達は目元を押さえている。チャムやトゥリオは微笑みを浮かべて頷いている。そして子供達は、カイの語る未来に笑顔で胸膨らませている。希望は手の届くところに在る。カイはそう思わせてくれた。


「ただ、ちょっとだけ、いや、結構僕は困っています」

 急に怪しくなってきた雲行きに子供達は首を傾げる。

「ルドウ基金を管理するにも、この託児孤児院を運営するにも全然人手が足りていません。でもここと同じ施設を色んな場所への作ったりとか広げたりとか、もう決まっちゃっています」

 目の前の、眉をへの字にした英雄の姿にどう対応すべきか戸惑う。

「このままでいくと全然手が回らなくなってしまいます。なので、この情けないお父さんを助けてあげても良いなと思う子が居たら、どうか助けてください。基金や院で働いてもらえると僕はすごく喜びます」

 とうとう子供達の眉もへの字になってきてしまう。

「締まらない話ねぇ」

 チャムの台詞に皆がケラケラと笑い始める。


 もちろん政務官の道を目指したいと思うような子が居れば、カイはグラウドに口利きするのはやぶさかではない。その他の道でも同様だ。

 しかし彼が誤魔化す事無く本心を吐露した事で、彼らは真剣に道を考え選ぼうとするだろう。それはそれで彼らの後押しをする必要な手続きであり、カイの思いを伝える術だったのだ。


   ◇      ◇      ◇


 その後には庭で大人しく待っていたセネル鳥せねるちょうに子供達が群がっていく。イエローを筆頭に、子供が嫌いでない彼らにとってもご褒美みたいなものだ。

 散々遊び倒して落ち着いてきた頃に、ちょっとした見世物をする流れになった。カイとチャムで演武みたいな組手をして子供達に見せる事にする。


「マルチガントレット」

 カイが無骨な銀爪を装備すると子供達からは「おお!」と歓声が上がり、チャムが刃潰しの剣を手に取ると彼らは胸躍らせて瞳をキラキラと輝かせた。


 横薙ぎの剣を掻い潜って打ち付ける拳は盾に当って重い音を轟かせ、金属的な余韻を響かせる。

 その動きは普段の組手の動きとは比べ物にならないほど緩慢なものだ。一つ一つの動きが見える事が必要な場面であるし、実はこういう組手も慣れていない訳ではない。動きの確認作業をする為に、意図的にゆっくり組む事も少なくないからだ。型を身体に染み込ませるにも有効な鍛錬になるのだ。


 様々な角度から襲い来る剣閃はヒラリヒラリと躱され、時折り飛び込んでくる拳を盾で受け、柄で叩き落す。二人は踊るように一進一退を繰り返し、子供達の歓声を受け止める。

 足払いを軽く飛んでいなすと、着く足で踏み込んで剣を振り下ろす。その剣閃はマルチガントレットで甲高い金属音を響き渡らせ、弾かれる。伸び上がってくるカイの上半身に上体を反らせて退くと、切っ先を跳ね上げる。力無い剣は弾かれるかと思っていたら、彼は上体は大きく後ろに反らせて両手を地面に着き、代わりにつま先が跳ね上がってきた。


 そんな大きな隙の出来る動きをカイは普段しないので対応を躊躇っていたら、そのつま先で剣を蹴り上げられた。手を離れた剣はクルクルと回っているが、それが地面に落ちる前に彼の両足が地面を蹴って再び顔が接近してくる。上半身を反らせたままのチャムの腰を抱き留めて覆い被さるように動きが止まった。

 キスせんばかりに間近にある二人の顔に、子供達、特に女の子たちの間から黄色い悲鳴が上がって組手は幕を閉じた。


 別れの挨拶を済ませても、子供達はずっと手を振って見送ってくれている。

「お前、あんな事考えてやがったんだな?」

「まあね。悪くないでしょ?」

「俺も今じゃ夢物語だって笑えなくなっちまうくらいには染まっているぜ」


 冒険者達にも充実した一陽いちにちになったのだった。

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