ファルシャの侮辱
パスピエは零れ落ちる涙を抑える事が出来なかった。悔しくて悔しくてどうしようもなく、その姿をヌダーツに見せるのも嫌で仕方なかった。実際にヌダーツはニヤニヤとしながら自分を眺めている。
それでもここでカイに恥をかかせる訳にもいかないと思う。もし彼が院の子供達に幻滅をしてその運営を放り出してしまえば、パスピエを温かく迎え入れてくれたこの院の皆を一時の自分のように路頭に迷わせてしまい兼ねないからだ。だからパスピエは血が出そうなほど噛んでいた下唇を放して口を開く。
「ごめんなさい……」
「よく我慢した。偉いね。君の勇気は受け取った」
(え?)
パスピエは後ろから抱きすくめられて驚いた。
「この子は謝りました。本来であれば今度は彼に対する暴言をそちらが謝るべきなのですが、それはもう結構です」
カイは革袋を取り出すと
「お代はお返しします。お引き取りを」
「な、な、何をおっしゃってますの?」
「解りませんか? 暴言に対して暴力で応じてしまった事を、この子は勇気を出して謝ってくれました。これ以上はこちらから譲るべきものは何一つ有りません。僕はこの子の勇気を誇らしく思っています」
「うう……、うわあああああーん」
パスピエは感極まってカイに抱きつく。彼はしっかりと受け止め抱き上げてくれた。
「当院では性格矯正や品性を養う教育は行っていません。それは家庭で行う躾で身に着けるべきものです。もしそれらも養われるという話が有るのでしたら、それは当院の子供達が互いに助け合い思いやる心から生み出されているのです。何も特別な事などしてはいないのです。僕はそんな子供達を誇りに思います」
子供達の間から鼻を啜る音が聞こえ始める。そしてその目はファルシャを非難する色を帯びていた。
「言ってくれますわね」
ファルシャは
「ウチのヌダーツが品性に欠け性格が悪いとおっしゃいますのね? この子は誇りあるテレメンツ商会の跡取りですのよ。どれだけお金をかけて教育されてきたと思っていますの? ちょっと噂になるほどの勉学の時間を取っていると聞いたからどんなものか試してみただけですのよ。それをこんな扱いを受けるなんて思ってもいませんでしたわ。噂など当てにならないものですわね。この話、皆にして差し上げねばなりませんわ。後悔しても遅いですわよ?」
「子は親の鏡とはよく言ったものです」
「何ですって!」
「ですからもう結構です。どうぞお引き取りを。これ以上、侮辱されると僕も黙っていられません。大切な大切な『僕の子供達』を」
院の子供達は皆がカイに集まり縋り付いて声を上げて泣き始める。嬉しくて堪らなかったからだ。あの英雄『魔闘拳士』が自分の子供だと言ってくれた。それは彼らにとって大きな支えと自信になった。
「よくもそこまで悪しざまに言ってくれましたわね? ただでは済ませませんことよ。何をやっていますの、あなた。何のために連れてきたと思っているのかしら?」
ファルシャは護衛に視線を送ってけしかけるように言う。
「無理言わないでください、奥様。あれはあの魔闘拳士ですよ? 俺にどうこうできる相手じゃないです」
「魔闘……、拳士?」
ここに至ってファルシャは誰を相手にしていたのか気付いた。それまでは頭に血が上って総責任者の意味を正しく理解していなかったのだ。彼女とて託児孤児院を運営しているのがルドウ基金で、その代表が魔闘拳士だというのは知識としては知っている。
「な……、だ、だ、だから何だって言いますの!? 歴史あるテレメンツ商会は御用商人の方々ともお付き合いが有りますのよ。孤児なんか集めて偽善で胸を張るような輩にとやかく言われては堪りませんわ。そ、そうよ、たかが冒険者風情に」
「そうですね。冒険者風情には貴女の子供は荷が重かったようです。僕も、僕の子供達も人を生まれや育ちや職業で差別などしませんが、あなた方にはその格が生きる誇りなのでしょう。理解出来ない僕達が悪いのでしょうね、あなた方にとっては」
カイの口調には諦めが強く含まれてきている。苛立ちより虚しさのほうが強くなり、彼はもう背を向けた。そして子供達に優しい微笑みを投げ掛ける。
「さあ、もう泣くのは止めよう。そろそろお昼だね。僕も一緒しても良いかな?」
皆が口々に肯定と喜びを伝えてくる。
「みっともない」
チャムに蔑むような視線を送られたファルシャは、机に置いてあったお金をふんだくるように取ってその場を後にする。
それで済ませておけば良かったのだが、憤懣やるかたない彼女は暴挙に出るのだった。
◇ ◇ ◇
フィノはちょっとした理不尽を感じていた。最初の頃こそ恐る恐る彼女の耳や尻尾を触りに来ていた子供達だったのだが、今は入れ代わり立ち代わり頭を撫でていくのだ。
「何で皆、フィノの頭を撫でていくです?」
「鏡、要る?」
チャムの無情なる言葉にフィノは目をしばたかさせる。
昼食のテーブルは非常に賑やかになり、その中で目を惹いたのは本当に幸せそうに食事をするフィノの姿だったのだ。その姿は子供達でさえ衝動的に愛でたくなるほどのものだったのは否めない。
フィノにしてみれば、こういう食事風景は夢のような手の届かない場所だった。
最近こそパーティーでの顔を晒したままの食事が当たり前になってきて慣れてもきたが、こんな風に大勢でわいわいと楽しむ食事に憧れもあった。そんな思いがフィノの表情にあらわれ、皆を暖かい気持ちにさせたとしても決して変な話ではないだろう。
普通であれば午後は自由な時間なのだが、この
この託児孤児院で算術の勉学に用いられているテキストは、カイがホルムトに帰って夜な夜な作っていたものを複写したものだ。その頃は彼も自分がルドウ基金の代表だとは知らなかったのだが、院で勉学の時間を設けるようお願いするつもりで作っていた。それの有効利用がされている。
「はい、正解。偉いね」
前に出て黒板に書かれた問題を解いていた女の子が正解を出してカイに褒められ、撫でられてこそばゆげにしている。その隣では未だ答えの出せないパスピエが俯いて悔し気に頭を掻く。
「なるほど、ここで引っ掛かっているんだね」
「ごめん、兄ちゃん。俺、馬鹿だからこんな問題も解けなくって」
「別に構わないよ。君はまずあの『九九』をしっかり身に染み込ませるところからやっていこう?」
「でもペティみたいな小さい子だって解けているのに俺が出来ないって…」
パスピエは自分より幼い子供達が当たり前のように乗算の問題を解いていくので焦りを感じている。だから無理して繰り返し問題に挑戦しては挫折していた。
しかしカイは黒板の横に、別の掲示板に貼られている『九九』を指差して言う。
「一足飛びに解けるようになるものじゃないよ? 大事なのは基本なんだ。算術で大事になる基本があの『九九』で、あれを覚える事から始めるのが一番手っ取り早いからね」
カイは、問題に取り組むパスピエが『九九』をチラチラと横目で見ていたのに気付いていた。
「実は僕も
それはパスピエにもなかなか衝撃的な事実だった。
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