国境協議

 国境協議の席に着いたフリギア外事部政務官次席マスフェティン子爵は、正面に居るホルツレイン王太子クラインに配慮して先にホルツレイン側の要求を伺う流れにした。

 彼に課せられた任務はどれだけ旧トレバ領南部を削り取れるかであって、まず中央線からのスタートで構わないと考えている。先にバッサリと南部を要求してから始める譲歩戦術も頭には有ったが、今後のホルツレインとの交渉事を考えると初手から強く押すのは下策であると思えたのだ。

 ところがクラインが口を開くと、彼を含めたフリギア勢は驚嘆させられる事になる。


「ロアジンの北50ルッツ60kmの地点、北端密林地帯を含めた北側を譲り受けたい」


 ここで密林地帯に言及したのはカイの入れ知恵である。ホルツレインの目的は北部の住民であるが、そこから目を逸らすのに密林を利用したのだ。

 こういう表現をすればフリギアは勝手に邪推してくれる。ホルツレインはトレバ北端の密林内に何かが存在するのを掴んでいるのではないか? そう考えてしまうだろうからだ。


「……それは、何かご理由が有っての事でしょうか?」

 実際にマスフェティン子爵は動揺を隠しきれていない。交渉事に於いては海千山千の筈の外事の交渉人とは思えない態度に、クラインは(してやったり)と思っていた。

「何をおっしゃる、子爵殿。私はサルート陛下と政務卿バルトロ殿が南部を強くお望みになるから譲ったまでの事。どこに問題が?」

「いえ、我が国といたしましては何ら異存はございませんが、……貴国との良好な関係を望む為のものでもあり、その……、陛下も一方的な要求を押し付けるつもりなど無く……」

「我らが父王陛下はこう宣われた。『余が望むは民の安寧である』と。陛下にとってはそれが東部の民であろうが北部の民であろうが変わりないと理解した私は、ここはフリギアの要望に応えるのが今後の両国の平和に繋がると信じているのだが?」

 歯切れの悪いマスフェティンを国王の名まで出して突き放す。この辺りはアルバートとクラインが事前に打ち合わせてある部分だ。

「さすが英傑との名高いアルバート陛下。わたしも感服の至りではありますが、共に未来を歩む者同士として平等な利を得るのが望ましいと愚考いたします」

「そう言われてもな。御存じであろうが我が国は現在、大きな発展の一歩を踏み出したばかりである。この戦も拡大を望んでの事ではなく、近在の憂いを取り払いたいが為のもの。利を得たいなどとは考慮外なのだ」


 マスフェティン子爵はクラインの意図が全く読めない。彼もクラインの言葉を額面通りに受け取るほどの間抜けではない。だが、どうにもホルツレインの目的が見えてこないのだ。

 北部を望むという事は、ホルツレインは獣人居留域の現状を掴んでいるのだろうか? それは間違いないだろうというのは解る。彼の陣営には魔闘拳士が居るのだ。彼の口から詳しく伝わっている事だろう。しかし、だからと言ってホルツレインでフリギア獣人居留域と同じ事が出来るとは思えない。あれは獣人の存在が在って初めて可能なのである。獣人差別が根強いホルツレインで定着するとは思えない。


 ならば別の理由が有る筈だ。有望な鉱脈でも発見したのだろうか? そういった可能性は考え辛い。フリギアと同じくホルツレインも長きに渡りトレバとは断交状態だったのである。当然、ホルツレインも間者は入れてあっただろうが、そんな大規模な調査が秘密裏に行える筈も無い。

 同じ理由で、表に出ない他の何かが北部に隠されているとは思えない。もし可能性が有るとすれば、事前に潜入していた魔闘拳士の調査能力だ。しかしトレバ国内での動向はスタイナー伯がエントゥリオから聞いたと言っていた。その中に何らかの調査をした話は無かった筈だが。

 マスフェティン子爵の頭の中は様々な可能性が巡って纏まりが付かない。


(まさか!)

 マスフェティンは一つの可能性を思いつく。


 もしかして南部は空っぽなのではないのだろうか? 南部に放たれた捕縛分隊はまだ一つも帰還していないので、南部の状況は把握出来ていない。もし南部の民の大多数がホルツレインに脱走していたとしたら? そこには放棄されただけの農地が広がっているだけだとしたら?

 現実にそこまでの動きが有ればフリギアにも情報は入っている筈だ。そこに気付けなくなるほどマスフェティンは混乱していたのだが、その可能性をクライン自身が消してくる。


「おお、忘れていた。実はホルツレインにはトレバ南部からの難民も多数流入している」

(やはりか)とマスフェティンは思う。危うく荒れてしまった農地だけを押し付けられるところだった。

「そうは言っても人数的には一部には過ぎないと思う。その者らは既に我が国内に於いて開墾を行い農地を得て定住している者も居るのだが、もし住み慣れた土地に戻りたいという希望者が有ればフリギアで受け入れてやっては貰えないだろうか?」

「それは……! や、やぶさかではございませんが、宜しいので?」

「良いも悪いも本人がそう望むのならば無下にも出来まい?」

「仰せの通りで」

「殿下、そろそろご勘弁いただけませんでしょうか?」

 沈思する時間も長く、青くなったり赤くなったりと忙しいマスフェティン子爵を見てドリスデンが助け舟を出してくる。

「それがしは外交の場の化かし合いには明るくありませんが、少々役者が違うようであるのは解りまする。ここは一つ、この老体に免じて腹を割った話をしていただければ助かりまするが」

「ふむ、そう申されても私とて全く嘘を言っている訳ではないのだが。ただ、本当に欲するものが見事に分かれているのであれば、それぞれが得れば良いと考えている」

「クライン殿下、どうかこのわたしめにホルツレインが欲するものをお教えください。その上での判断を持ち帰らねば、この身は陛下の前に醜態を晒す羽目になります。どうか……」

 マスフェティン子爵は完全に折れてしまった。もしホルツレインの思うがままにされて帰国し、後々気付かされたのでは無能の誹りを受けるのは間違いない。

「そう難しい話ではないのだ」

 もったいぶるのではないのだが、ホルツレインの現状をぶちまけるのも少々恥晒しな部分もあって憚られる。

「カイ……、魔闘拳士よりトレバ北部の民の農耕を始めとした各種技術が侮れないものだと聞き及んでいる。それをそのまま土地毎引き受けられるのであれば、今後のホルツレインの利になるというだけの事だ。気の長い話ではあるがな」

「そうでありましたか」

「理解いただけたかな?」

 ドリスデンとマスフェティンは低頭するのだった。


「もう一つ、検討してもらわねばならない物があるのだが」

 一度、解散して本国との意見調整を申し出たマスフェティン子爵にクラインは一枚の文書を差し出して引き留める。

「これを魔闘拳士より預かっている」

 マスフェティンが受け取った文書にドリスデンも注目する。


『宣言書


 これよりホルツレイン・フリギア両国に於いて、戦争責任を問われない旧トレバ皇国民を国家として不当に差別したり搾取するような事例が認められた場合、並びに民間に於けるそれを意図的に見過ごす事例が認められた場合、我カイ・ルドウが個人的に厳しい対応をする事をここに宣する。


 以上


 カイ・ルドウ』


「うっ! これは!」

「これは写しなので差し上げよう。読んで字の通りだ。単なる個人の念書なのだが、我が国ではこれの写しに陛下が署名捺印して彼に渡すつもりだ。フリギアがどういう対応をするかはお任せする」

「殿下は本当にお人が悪い……」


 それが魔闘拳士の意思を示す物なのは明確で、無視など出来ないのは自明なのであった。

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