かいのゆ(1)

「カイ、もう限界よ。我慢出来ないの」

 青年の耳元で彼女が甘く囁く。

「堪らないのよ、身体が……。こんな事、あなたにしか頼めないの。お願い、何とかして」

「でも、僕、経験無いからチャムを満足させてあげられないかも……」

「良いの。あなたなら色々知ってるでしょ? 後は情熱だけで何とかして」

「そりゃ、僕も嫌いじゃ無いし、足りないものが多いかもしれないけどそれで良い?」

「構わないわ。一晩だけでも良いから」

「じゃあ、拙いだろうけど、ごめんね。そこに……」

 チャムは横たわって彼を待っている。


   ◇      ◇      ◇


 軍営が築かれてもう一往36日近くになる。今はフリギアとの国境協議に向けて待機中の状態だ。

 クラインは追加の小隊を繰り出して、宿場町や村落を回らせ、トレバ皇国解体の布告を出させている。それと同時に農兵を含めた脱走徴用兵に対して『ホルツレイン・フリギア両軍は脱走徴用兵を捕縛しない。出来得る限り、元の生活を守る様に』とも通告する。これによって国民生活が元通りと言う訳にはいかないだろう。それでも復旧への道は早まるだろうし、その為の支援も少なくて済む筈なのだ。

 彼に出来るのはこれくらいだ。後の支援を含めた対策は本国で協議されて実施されるだろう。それも国境協議が進まなければ限度がある。ホルツレインからも外事政務官の実務者を呼び寄せているが、到着にはまだ時間が掛かりそうだ。


 軍営暮らしが長くなれば自ずと出てくる問題もある。食は足りているとは言え、衣と住はなかなかに儘ならない。

 衣は何とも微妙なところだ。正式に揃えた制服を着せる制度など、この世界には無い。被服を大量生産する技術も無く、鎧下の平服は自由で多様性に富んでいる。ただ、当然目立つ原色などは避ける傾向にあるので、統一性が全く無い訳でも無い。それをそれぞれが洗い替えに何着か持ち込んでいる状態なのだから、長期の野営となれば自然、各所に張られた縄に洗濯物がひるがえる結果になるのだ。


 深刻なのは住だ。兵全員の天幕など望むべくも無ければ、ほとんどの者が野営生活を続けている。気候に大きな変動は無く、冷え込みで体調不良になる者が多数出る事は少ないのだが、衛生状態はお世辞にも良いとは言えない。

 クラインを筆頭にして貴族でも高位に在る者は従軍侍女の介助などを得て清潔を保つのも可能だが、そんな者は一握りに過ぎない。他の者は溜めた雨水をかぶったり濡れた布で清拭する程度に留まる。それが長期に渡るとなかなかに困った状態になるのだ。男性は比較的無頓着なので多少は誤魔化しが利く。いかんせん女性はそうもいかないのが現実だ。


 戦場では圧倒的少数派になる女性ではあるが、全く零でもない。彼女らの為に本営近くの外れた一角には、女性専用天幕が一張り用意される。そこは自由に利用出来、十分な量の水が用意されていて清潔を保てるよう女性に開放されているのだ。しかしそれで十分かと言えば、本音で言えば足りていないのが事実だろう。



 その女性専用天幕近くの場所にチャムが寝転んでいる。

「うそ……、そんなに大きいの……」

 彼女は覆い被さる様に片膝を突くカイを見上げて言う。

「うん、そのほうが楽しめるでしょ?」

「そうね。そうかも……。でも、私、溺れちゃいそう」

「そんなに深くは入れないから……」

 彼は手にした棒で地面に線を引いていた。その終着点はチャムだ。

「だってお風呂なんだからさ」



 チャムが限界を訴えたのは不思議な事ではない。旅暮らしをしているのに風呂を望むのは妙に思うのかもしれないが、機会は意外にあるものだ。よほど小さな宿場町でもなければそれなりに高級な宿屋はあり、そこには浴槽が備えられているもの。ブラックメダルの彼女の経済力ならそこを選択するのは当然だと言えよう。そういう機会が無くとも清浄な水場さえ有れば沐浴も可能だ。移動しない軍営地ではそれさえ存在しない。

 では獣人居留地ではどうだったかと言えば、逆に彼らは清潔な暮らしをしている。狩猟者である彼らは嗅覚も鋭く匂いにも敏感だ。それを獲物に察知される危険性も良く心得ている。平均して一陽いちにちに一回、豪雨スコールの降る彼の地では、水に困る事は無い。それを溜めた沐浴場には、彼らが密林で摘み取ってきた洗浄成分を含んだ草の葉が備え付けられており、それを使って身体を清浄に保っているのだ。毛皮を纏っている彼らだからこそ、その点には十分に配慮しているのが獣人なのである。


 チャムに風呂作りを頼まれたカイは、地面に横たわった彼女の身体の大きさを基準として浴槽を配置する目印とする線を棒で引っ張っていた。カイ自身が用途を問わず浴槽を制作した経験が無かった為、チャムにモデルになってもらっている。彼女を起点に四角く描かれた範囲は大胆に大きく設定されている。チャムが連想していたのは個人用バスタブなのだが、カイが思い描いていたのは温泉やスパのそれだったのだ。


「囲いの板や天幕のほうの準備は?」

「フィノが頼みに行ってくれてるわ」

「それなら始めちゃおうか」


 カイはマルチガントレットを装着して魔法増幅刻印マジカルブースターを起動させるとまずは土壁を立ち上げる。これで湯は張れるのだが、それでは保ちが悪いし肌触りも悪い。浴槽には防水加工が必要だ。

 これまでなら防水と言えば樹脂だったのだが、入れるのが湯でそれなりの温度にするのを考えると溶けだして身体に悪い影響がないかと若干の不安がある。そこで思案したカイは浴槽全体の表面厚さ半メック6mmを変性魔法でガラス化する。保温性は落ちるもののそこは周りを囲う土壁部分に期待して、防水性と表面の滑らかさを追求する。これで500メック6m四方の浴槽が出来上がった。


 次にカイが着手したのは洗い場だ。

 これは地面を平らに均して表面を硬化させるだけなのだが、彼は浴槽に向けて緩い傾斜を付け、土壁周囲に溝を作って排水溝とした。洗い場を含めると850メック10m四方もの広さになってしまったが、設備としてはかなり良い出来になった筈だ。


 しばらく待つとフィノが資材を持った男達を連れてやって来た。

 彼女の訴えを聞いたクラインは最初今一つピンと来なかったようだが、側仕えの従軍侍女の瞳がキラキラと輝いているのを見て折れた。資材の使用許可を出した彼は、皆に深々と腰を折られて自尊心を満足させたのでお互い様であろう。

 まずは洗い場の周囲に板囲いをする。これは目隠しの意味ではなく、飛び散った湯が天幕に掛からないように立てられる。カイの提案で入り口だけはただの狭間でなく屈曲した通路が設けられており、天幕の垂れ幕を潜っただけでは浴槽のほうが見えない仕組みになっていた。これは日本の銭湯などに用いられている構造の転用に過ぎないが、女性陣を感嘆させるに十分だったらしい。


 そうして板囲いが済んだ後には天幕が張られる。結果的に軍本営天幕に勝るとも劣らない規模の大きさになってしまったが、内包する構造物も利用できたし、フィノやカイが魔法で補助をしたので苦も無く完成するに至る。

 脱衣スペースには簡単な棚や衣服入れの箱が置かれて、結局恒久施設並みの作りになってしまう。その辺りになると従軍侍女達や女性兵が噂を聞きつけてやってきており、あれが欲しいこれが欲しいと言い出したので増えていってしまったのだ。


 こうしてホルツレイン軍営に『かいのゆ』が開業したのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る