喪失
あれから一年の時が流れた。
元々成績の良かった翔子は見事に志望校に合格して櫂をホッとさせた。事件の所為で彼女の人生が狂ったのでは堪らない。受験生の時も、高校生になった今も時々デートっぽいものはしているが、きちんと付き合っているかと言えば違うように思う。実際に翔子は不満気な様子を見せる時がある。情熱を感じさせず老成した物言いをする櫂は、女子高生には物足りないと思わせてしまうのかもしれない。
体よく信販会社から内定をもらって呑気な四回生を堪能している礼美が時々茶々を入れてくるが、女心を滔々と語られてもその半分くらいしか理解出来ない。異性との付き合いには向いてないんじゃないかと不安になるほどだ。自分にも情熱を傾けられるような女性が将来現れてくれるんだろうかと真剣に悩む事もある。そんな事を礼美に相談すると決まってからかわれてしまう。
でも、櫂と恋愛の話をした後に、自分が真剣になり過ぎている事に気付いて急にそっけなくなった挙句に、ちょっと頬を染めて逃げてしまう礼美が可愛らしくて止められないでもいる。
◇ ◇ ◇
拳が肉を打つ音が響く。相当に上達した自信が有るのに諏訪田の拳は未だに重く、捌くだけでも一苦労だ。
あの後、同じ門下生達に櫂は引っ張りだこだった。皆が櫂と組手をしたがるのだ。既に彼は門下筆頭だったのだから一対一で敵う者など居ないのに、叩きのめされて嬉しそうに笑うのだ。彼らにしてみれば一躍英雄に躍り出た櫂と手合わせ出来るだけで満足なのだが、櫂から見るといつから諏訪田道場はドMの巣窟に変わってしまったのかと不安になる。それでも小学生の同門達が非常に懐いてくれたのは彼にも嬉しいのだが。
一瞬に間合いに踏み込んで伸びてくる右正拳突きを右掌底で弾いてそのまま裏拳を飛ばす。それは左腕でガードされたと思うと、もう膝が腹付近まで迫ってきている。アウトステップしながら左手で膝を払い、距離を取ったところでクルリと回転して回し蹴りを放り込んだ。
そんな大技、普通は決まらないものだが、全体をコンパクトにしている櫂のそれはほとんど予備動作が無い。実戦の中に組み込んでも十分なレベルまで練り込んでいる。
腕をクロスしてガードした諏訪田は、受けたまま体重に任せて押し込んできた。その突進は、中三の平均体格程度でしかない櫂の体重では受けきれない。身体を擦り合わせるようなギリギリの見切りで交差し、通り抜けたところで膝裏に軽く踵を入れて諏訪田の態勢を崩す。足裏に高熱を感じるほどに踏ん張って身体にブレーキを掛けると、右足を跳ね上げて諏訪田の後頭部に狙いをすました踵を落とす。
だが、崩された態勢を利用して沈んだ諏訪田は、足払いを掛けて来ていた。見事に軸足を払われた櫂は、転びながらも手を突いて離脱しようとする。ゴロゴロと転がって諏訪田の追い打ちから逃れた櫂は、すぐさましゃがみの態勢で諏訪田に視線を飛ばしている。
「ふう、こんくらいにしとくか」
諏訪田の一言で組手の終わりを知ると、立ち上がった櫂は一礼する。
「ありがとうございました」
「今回はヤバかったな」
「まさか。結局組み立てで追い込まれたのは僕ですよ?まだ敵う気がしません」
櫂はこの一年で身体も大きくなった。良い筋肉も付いてきている。それに伴い拳の重さも諏訪田が手を焼くくらいになってきた。何より技のキレが一番の長所だ。更に言うと瞬発力も恐ろしいほどだ。道場での組手だから大きくは動かないが、広大な場所で動き回れば諏訪田では追いつけないだろう。とんでもない成長速度だと彼は思う。
(あと一年もすればこいつを壊さずに鍛えるのが難しくなるだろう。その三年後にはたぶん、俺は壊されずにこいつの前に立っている自信が無い)
そんな風に諏訪田は思っていた。
◇ ◇ ◇
慣れた道をロードバイクで走る。今日は道場は休む日だ。ひと月に一回、拓己の月命日の日には櫂は道場を休んで伯父の克己宅に向かい、仏壇に線香を上げる。それがこの二年近くの習慣になっている。
半年以上前に翔子から、優しい先輩と交際する事になったと告げられている。それに関しては特に落胆もしていないのだが、きちんと気持ちを伝え合わないままのこの結果は不義理だったかなとは思う。今も遣り取りは続いていて本当の意味で友達になったのかもしれない。彼女が幸せそうに惚気るのだから、問題はない筈だ。
ただ、別れたと思い込んでいる礼美には散々こき下ろされてしまった。
「あんたが全然手も出せないヘタレだから、取られちゃったじゃない。あんな可愛い子が自分から近付いてきてくれる機会なんてこの先ずっと無いわよ!」
煽る発言をしてくるのは姉としてどうかと思う。まだ自分は高校一年生なのだ。普通は清い交際をしているもんじゃなかろうか?それとも自分が遅れているのだろうか?その辺は考えても答えは出ない。
そんな事をつらつらと考えていたら、克己宅に着いた。いつも通り訪問の挨拶をして上がらせてもらう。
仏壇の前に正座をして線香を上げ、手を合わせる。
(拓己くん、今月も来たよ。僕は元気に暮らしています。あれから大きな騒ぎは起こしてない。僕なんかじゃ君の意思は継げないだろうけど頑張ってみるよ。僕なりの平和と調和を探して見せるから、見守っていてね)
焼香が済んで居間に戻ると、澄江伯母さんがお茶とお菓子を出してくれていた。遠慮無くいただきながら、最近どうしていたかなどをぽつぽつと話す。普段は少し話をしたらお
「ねえ、櫂くん。拓己の事を思ってくれるのは嬉しいんだけど、毎月来るのはもう止めてくれないかしら?」
「え……」
唐突に告げられた言葉に櫂は完全に混乱してしまう。
「おばさんね、櫂くんが元気に大きくなっているのを見ると辛くなる時が有るのよ。拓己も生きていたらこんな風に成長していたのかと思って」
「は……い……、おばさんの気持ちを汲み取れないでいたんですね、僕は」
「そうじゃないの。おばさんの我儘なのよ。ごめんね、櫂くん」
「いえ……、こちらこそ何も解らないでおばさんを傷付けていたなんて思ってもみませんでした。本当にごめんなさい」
澄江は目を押さえて涙ぐんでいる。櫂は自分が子供である事が呪わしかった。もっと配慮が出来る大人だったなら伯母を苦しめたりはしなかっただろう。
少し待って、落ち着いてきた澄江に問い掛ける。
「おばさんはもう大丈夫なんですね?」
「……ええ、もう大丈夫よ。思い出して泣く事も少なくなってきたから。だからもう櫂くんも自分の為に生きて頂戴。ごめんなさいね、こんな我儘を言って」
彼女は少し戸惑っていたようだが、しっかりとした答えが返ってきた。
「いえ、問題ありません。ご迷惑をお掛けしました」
別れの挨拶をして辞去する。
自宅近くまでロードバイクを走らせた記憶が無い。様々な思いが去来して、感情が制御出来ない。このまま帰宅すると父や母に何を言ってしまうか解らない。それだけは避けなくてはならないと思って近くの公園に立ち寄り、ベンチに座って気を落ち着けようと努力する。
それでも混乱は治まらず、嫌な考えばかりが脳裏をよぎる。
(僕はおばさんの重荷にしかなっていなかった。あの事件だって、おばさんには辛い思い出でしかないのかもしれない。僕は拓己くんだけでなく、彼の家族も守れていないんだ。僕がここに居る意味って何なんだろう?)
酩酊感が櫂を襲う。そして、いつの間にか意識をも手放していた。次にどこで目覚める事になるのかも解らないままに。
◇ ◇ ◇
時は現在。
「奴め、また居なくなりやがりましたね?」
ジョッキを傾ける北井は対面に座る相手にそう問いかける。
「まあ、放っときゃいい。俺はあいつをその辺でくたばるような軟な鍛え方はしていない」
「そりゃそうでしょうけどね」
諏訪田はそう言いながら、赤ら顔でガハハと笑う。
礼美の結婚式会場から櫂が消えてもうひと月半になる。北井が血眼になって探しても、今回も彼の行方は杳としてしれない。
北井は自分の情報網が役立たずなのが気に入らないようだが、諏訪田は何とも思っていない。
「全く、どこで何してやがんだ、櫂くんよ?」
「なあに、あいつならどこかで悪者退治でもしているだろうさ」
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