深奥の慟哭

 状況が状況なので、中学校に電話連絡を入れて登校を再開する日付を擦り合わせる。拓己の中学校だけでなく、櫂の中学校にも警察の調査が入ったようだ。それは生徒達にとってはちょっとしたお祭り騒ぎなのだが、教師達は戦々恐々としていたらしい。どこの学校にも程度の差こそあれ虐めは存在する。痛い腹を探られるのは相手が医者でも遠慮したいものだ。


 登校する道々にはいつもの様なけたたましさは無く、さわさわと噂する声だけが微かに聞こえてくる。この沈黙は自分が連れて歩いているものなのだから、他の場所ではいつもの光景が展開されている筈だ。

(当分はこんな雰囲気の中での生活を余儀なくされちゃうだろうね)

 腫れ物に触る様な扱いを受けるのは回避不能な状況なのだから、仕方ないので初めから諦めている。


 特に指示は無かったので真っ直ぐに教室に向かい席に着く。男子達の腰が重たげな態度はよく解るのだが、女子達のそわそわしている様子が理解出来ない。暴力に忌避感のある彼女らにしてみれば、櫂の存在が圧力プレッシャーになっているのではないかと彼は予想しているのだが、そこには大きな誤解が有るのだ。

 女子達にしてみれば、櫂は女子の尊厳を傷付ける暴漢から鷺原を救ったヒーローだ。彼女らの無料通信チャットグループでは大変なお祭りになっていた。凡庸に毛が生えた程度の容姿の櫂だが、彼女らのフィルターの掛かった目には相当な美男子に映っていたのだ。(誰から声を掛ける?)的な駆け引きが行われていたのだが、櫂には知る由もなかった。


 そこへ、そんな空気を変える人物が登校してくる。

「おう! 来たか、流堂!」

「やあ、おはよう、井出君。迷惑掛けちゃったかな?」

「なんて事無いって。気にすんな気にすんな」

「そう、ありがとう」

 何気なく向けた笑顔に「きゃあ!」と教室の後ろから嬌声が上がる。

「?」


 比較的仲の良い井出良明の目から見ても、櫂の笑顔が少し変わったように見える。少し深みの加わったその笑顔は女子達を興奮させるには十分だと思ったが、癪なんで教えてやらない。

(その内、それとなく伝えてやるか)と井出は思っていた。


「クラスの奴らはもちろん、顔が利く連中には普通にするように言ってあるからな。心配せずに普通でいこうぜ、普通で」

「手間を掛けちゃったね。ありがとう、井出君」

「大したことじゃないから気にすんなって」

 確かに彼ほど協調性が有って、顔の広い知人は居ない。彼がそう言うならそうなのだろう。


「それが俺の正義!」

 井出がポーズを決めて言う。

 櫂のインタビューが流れてから、これがちょっとしたブームになっている。

「…………」


 朝のHRで担任からひと言あったが、それ以外は何事もなく授業が進んでいく。ただ、欠席が長きに渡った櫂は取り戻すのに少々苦労しそうだ。

(ちょっと勉強頑張らなきゃな)と、そう思いながら、誰からノートを借りようかと考える。これだけは井出には向かない分野だ。


 遠巻きに女子達の視線を受けながら下校して家に着くと、居間では礼美がTVを見ていた。その中では夕方のワイドショー番組に出演するお笑い芸人が「正義」を連呼してネタにし、笑いを取っている。

「もう、最近こんなんばっかりよ。飽きちゃったわ」

「そうだね。ごめんね」

「そ、そうよ。あんたの所為なんだから反省しなさい」

「うん……」


 着替えに戻った自分の部屋で鞄を放り出すと、櫂は立ち尽くす。顔を顰めて震える拳を見つめる。それのぶつけどころに困り、枕に叩き付けた。

「何だよ! これじゃ道化じゃないか! 僕は! 僕は何をしたんだ!」


 どこにも何も伝わらない。ただ無力感だけが櫂を苛む。何もかもが馬鹿らしく思えてくる。

「ごめんよ、拓己くん。でも僕は……」

(こんな道しか知らない)


 その悲痛な思いを受け止めてくれる相手は、もうこの世に居ない。


   ◇      ◇      ◇


「師匠、ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした」

 座にどっかりと構えている諏訪田剛人の前で、櫂は頭を下げる。

「連絡も取れませんで」

「連絡できる状況じゃなかっただろ? 構わねえよ。大騒ぎだったからな」

「ええ、自業自得ですので弁明のしようが有りません」

「仕方ないな。大事な奴だったんだろ?」

「僕は彼の片翼になりたかったんだと思います」

 もう飛ぶことは出来ないだろうと櫂は思っていた。

「いつまでもしけた面してても誰も浮かばれんぞ。吹き飛ばしてやるから、さっさと着替えてこい」

「まだ僕はここに居ても良いんですか?」

「当たり前だ。お前みたいな奴、野放しに出来るか」

 それは諏訪田の心遣いだろう。


 今は縋れる相手が居るのが嬉しくて仕方ない。


   ◇      ◇      ◇


「よお!」

 道場からの帰途、見覚えのある顔が櫂を待ち受けている。

「ちょっと話そうぜ」

「僕達はそんなに親しい間柄でしたっけ?」

 ジャーナリストの北井と名乗った男だ。

 あの取材攻勢はもう形を潜めている。あれ以来、近付いてくると言えばこの男だけだ。櫂は自転車から降りて押し始める。

「そんな寂しい事言うなよ。おじさんにも優しくしとけ、ヒーロー君」

「そんな風に呼ばないでくれるよう、この前お願いしましたよね?」

「そうだったか? 記憶にねーなー」

「もう耄碌してるみたいですね?」

「ひでーなー、おい」


 少し歩いたところで一人の少女が佇んでいた。その顔には見覚えがある。

「あ!」

 櫂の顔を確認すると少女の顔には喜色が浮かんだ。どうやら待ち人は彼だったらしい。

「あ、あの……、友達がこの辺で見かけたって言うから……」

「不用心ですよ。この前も忠告した筈ですよね?」

 少女の顔がぱあっと明るくなる。覚えてもらっていたのが嬉しかったようだ。

「流堂櫂君ですよね? 改めまして、鷺原翔子と言います。あの時は助けてくれてありがとうございました」

「いえ、たまたまの事です。お気になさらないでください」

「でも、助けてもらったのは事実だから……」

「では、どういたしましてと言っておきます。今後は気を付けてくださいね」

「はい! その……」

 彼女は櫂の傍に居る北井の存在が気になるようだ。

「この人は記者さんです。余計な事をしゃべらない方が身の為ですよ」

「そんな事ねーよ。俺はゴシップ染みたネタなんぞに興味はねーからご自由にどうぞ」

 当てになるんだかならないんだか解らないような事を言って距離を取る北井。


「あなたは先輩ですよね? 大事な時期じゃないんですか?」

 あの三人の同級という事は、翔子は中三の受験生の筈だ。こんなとこで待ち惚けている時間は無いように思う。

「そうなんだけど……、あれから全然勉強が手につかなくなっちゃって、やっぱり流堂君にちゃんと会ってお礼を言わなくちゃって」

「それは申し訳ない事をしました。そんなに印象的でしたか」


(そりゃ、忘れられるような経験じゃねーだろ!?)とツッコミを入れたくなる北井。


「あの、良かったら連絡先を教えてもらえるかな? ……うん、お願いします。お友達になってください!」


 完全に面喰ったのは櫂だ。そんな展開になるなんて思ってもいなかったから。だが、翔子はこの千載一遇のチャンスを逃してはならないので、第三者の存在を頭から閉め出したのだ。

 北井にしてみれば、さもありなんな話である。翔子にしてみれば、櫂は正義の騎士に見えている事だろう。それで脳内が埋め尽くされてもおかしくない年頃であるし。


「うーん、どうしてもですか?」

「出来れば……」

「僕も道場通いで忙しくしています。付き合えたとしても、勉強の気晴らしくらいが精々ですよ?」

「それで良いからお願い」

「はい、解りました……」

 翔子は今、自分の存在も暴行の一因になっていると思っているのだろう。それを拒んで余計に傷付けるのは本意ではない。愚痴に付き合うくらいは構わない。そんな風に櫂は思っていた。

「良かった……」

 そんな笑顔を見せられれば、断らなくて正解だったかと思う。第一段階として、お互いにSNSのIDを交換して別れる。

「じゃあ、また。連絡するから」

 そう言って翔子は足早に帰宅する。


「青春だねえ。甘酸っぱいなー」

「彼女に絡む気ならば考えがありますよ」

「そんな事しねーって。信じろよ」

「どの口で言うんです? 僕にはずかずかと踏み込んできたくせに」

「何の事だかなー。だが、お前さん、本当は断りたかったんだろ?」

「解ります?」

 そんな簡単に顔色を読まれるとは思っていなかったが、それに関しては大人には敵わないようだ。

「少し怖くなってしまってるんです。大事な人を作って身近に置いてもまた守れないんじゃないかって。自分にはまだ力が足りないんじゃないかって」

「そーか。悩め悩め青少年。青春の特権だぜ?」

「他人事ですね?」


 櫂は自分がこのいい加減な大人との会話を楽しみ始めているのに気付いたのだった。

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