トレバ戦役

クライン出撃

 全てを語った訳ではない。

 社会形態や文明の利器、使える語彙の違いで全ては伝えられない。

 それでも人の心の在り方は変わらない。

 伝わるものは有った。


 あの頃の心の痛みをもう感じる事は無い。

 目を細めて慈しむように見てくれる美しい人がいる。

 驚きながらもその苦しみを理解しようとしてくれる偉丈夫がいる。

 他人の心の痛みを我が事のように涙してくれる可憐な獣人がいる。

 彼を家族のように思ってくれる者達がいる。


 彼はもう大切な仲間に囲まれているのだから。


   ◇      ◇      ◇


(まるで壁のようだ)

 それがコンクレット将軍の感想だ。


 攻め掛けても攻め掛けても全く崩れない。彼我の兵力差は大きな問題になるほどではない筈なのに、押し下げる事も穴を開ける事も何も出来ないのだ。

 ならばと小部隊を迂回させて敵の補給線を狙ってみるも、どこかに消えたかのように撃破される。逆にこちらの兵站隊にはいつの間にか隠密部隊が迫っていて、少しずつ削り取られていく。このままでは戦線の維持さえ不可能だ。

 これでは大人と子供の喧嘩である。相手が本気を出した瞬間に一気に磨り潰されてしまう。


 コンクレット将軍は未だに何がどうなって今の状態になったのか想像も付かないでいる。極秘裏に行った侵攻作戦の筈なのに、敵軍は待ち構えていた。こちらを上回る大軍を用意して。敵の間者は一掃したという上層部の判断が誤っていたのか?そんな筈はない。暗殺部隊ダインの仕事は間違いないのだ。あれはトレバ皇国の虎の子。やり損じるなど考えられない。

 しかし現状は情報漏洩が有ったとしか思えない。そう考えてさえ対応が早過ぎる。自軍の編成からの陽数日数の計算が合わない。予知でもしなければこんなに早く迎撃軍が編成出来る訳が無い。まさかフリギア王国は予知魔法の開発でも行ったのか?

 コンクレット将軍の心にははそんな夢想さえ浮かんでしまう。


 彼の脳裏を「撤退」の二文字がよぎる。だがそこにも迷いはある。選択肢は少ない。ここで戦って討ち死にするか、逃げ帰って恥辱に塗れて死ぬかどちらかだ。いっその事、この場から逃げ出して野盗にでも身を落とすか?そんな事さえ考えてしまう。

 栄達を夢見たあのを遠くに感じる。全ては潰えてしまった。打つがもう無い。自分が絶望という奈落の淵に立っているのが解る。


 そして、彼に引導を渡す声が大きく響いてきた。

「突撃 ─── !!」


   ◇      ◇      ◇


 王命が下った時には感動があった。

 やっと自分にもそれほどの重責を背負わせようと思っていただけたのだと。父である陛下の御心に適う自分にならねばと背筋を震えが上がって来る。


 しかし、冷静になって考えてみるとクラインはこれから戦場に向かうのだ。そこは命を賭して遣り取りをする交渉場だ。最悪の事態ももちろん在り得るのだ。

 それをエレノアの顔を見た瞬間に気付いてしまった。違う震えが全身を支配する。妻の肩に手をやってもそれが止まらない。自分がそんな意気地無しだとは思わなかった。

「あなた?」

「済まない、エレノア。今になって怖くなってきてしまった」

 クラインが何も考えずに弱音を吐けるのはエレノアだけだ。王太子としての体面を保つためにずっと張っている気を緩められるのは彼女の前だけだ。

 その彼女が恐怖に強張らせている自分の頬に触れてくる。

「よく考えて、あなた。あのカイがあなたを見殺しにすると思って? あなたには西方最強の戦士が味方するのよ」

「そ、そうだった……」

「あなたは軍を前に従えて落ち着いて構えているだけで良いの。後は専門家の皆様とカイが全部終わらせてくれるから」

「そうだ。私が負ける訳が無いんだ。軍務卿が全部やってくれるんだ。私は信じて鷹揚に構えているだけで良いんだな、そうだな?」

「ええ、その通りよ。そして、わたくしの所に勝利を携えて帰って来てくださいね?」

「解った! 約束しよう。私は民と君に勝利を捧げる為に戦場に行く。そして無事に帰って来て見せる!」


 エレノアとて不安が無いと言えば嘘になる。戦場では何が起こっても不思議ではない。素人の彼女でもそれくらいは知っている。そこへ最愛の夫を送り出さねばならないのだ。

 しかし、今だけはその不安を絶対に表してはいけない。出征する夫を鼓舞するのが妻の務めだ。


 絶対に大丈夫な筈なのだ。彼らにはあの義弟が居る。

 普通の人間なら一詩6分とて生きていられないと言われる北部密林でさえ鼻歌混じりで踏破してくるのだ。いつも飄々として何でもない事のように笑っているカイが居る。彼が居る限り何も恐れる事は無い。


   ◇      ◇      ◇


 急拵えなそれの筈なのに、四万もの兵が連なる光景は壮観だった。

 恐怖に震えていた自分が恥ずかしくなってくる。これだけの力を前にしているのに何で自分が恐れる必要がある?

 立派な体躯を持つ軍馬を横にしてクラインはそう思っていた。


「お父様、御武運を。セイナは毎日お祈りしてお帰りをお待ちしております」

「ああ、ありがとう。何も心配要らないから良い子にしておいで」

「はい」

「僕も! 僕も姉様と一緒にお祈りしてる」

「ありがとう、ゼイン。君達の期待に応えられるよう頑張って来るからね」

「うん、父さま」

 二人と抱擁を交わし送られる花を受け取る。儀礼的なものだが嬉しいものだ。


「いってらっしゃいませ、あなた。御武運をお祈りしております」

「行ってくる。帰ってきたら君の作ったケーキが食べたいな」

「いけませんわ、そんな散歩に出るようでは。もう少し真面目になさって」

「おお、これは済まなかったな。何も心配要らないからセイナとゼインを頼む」

「はい、お任せくださいませ」

 この数陽すうじつで腹は決まったのか、クラインも余裕のある風情を見せている。

「そろそろ良いかい、殿下。行くさね」

「ああ、軍務卿も宜しく頼む」

「任せとくさね。殿下はお飾り。戦いが済んでからが出番だから」

「そんな露骨に言わないでくれ。せっかく奮い立たせた士気が下がる」

「そりゃ申し訳ない事をしたさね。士気を鼓舞するのが将の務めだってのにさ」

 悪びれた風も無くそんな事をいうガラテア。

「とりあえず皆に合図してやっておくれ」

「解った」

 クラインは軍馬に跨ると声を張り上げる。

「しんぱ ── つ!!」


   ◇      ◇      ◇


 進軍する途上では、近隣の者達が出て来てくれて皆が兵達に声援を送ってくれる。同盟国の危機を救う為の出兵なのに、負担の掛かる筈の彼らの声援を受けられるというのは有難い。それだけ王家の施策に信頼を得られているという証左になる。

 王家が民を思い、民が王家を思うこの関係はクラインの理想である。陛下の施策は今後も大きく転進する事はあり得ないし、自分も民に寄り添うまつりごとを旨とする陛下の御心を継いでいきたいと考えている。それならばこの国が大きく傾く事など無いと確信できる光景だった。


 国境を越える時こそ小さな衝突は有ったようだが、トレバの警備隊に四万と正対する力など無い。一応、形だけ剣を交えた後は全力で逃げ去ったと報告を受けている。

 そのまま、軍団は何の障害も無く進んだが、さすがに皇都ロアジンを5ルッツ6km先に見据えると、迎撃軍が待ち構えていた。こちらも全軍停止を命じ、装備転換と陣形編成に入る。それらはガラテアの指示で非常に速やかに行われていく。本来ならそのまま仕掛けるような事はせず、軍営を組んで兵に休息を与えてからの野戦になる筈なのだが、国境を越えてからも殊更に進軍を急がなかったホルツレイン軍は余裕が有った。兵たちの士気も高い。変に間を置かずのほうが勢いがあるとのガラテアからの進言もある。後は司令官であるクラインの号令だけだ。彼が決断を下そうとした時に音が鳴り響く。


「ピュイイィ ── ン!」


 それは軍馬の物入れの中の遠話器が立てた音だった。

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