勉強会

 結果だけ言うとお城には向かわなかった。

 内側の壁の中にも邸宅はあり、そのほとんどが豪邸と呼んでいいものだろう。


 馬車はその一つに向かい、玄関前に乗り付けた。

 おそらく護衛役だと思われる男達が馬車の扉を開けて控え、世話役の女性が先に降りて恭しくエレノアの手を取る。

 おっかなびっくり櫂も地面に足を付ける。するとエレノアはカイの手を取ってさっさと玄関に向かう。周囲の者は儀式めいた所作を見せるのだが、エレノアはほとんどそれらに頓着している様子がない。


(苦労してそう)

 どういう地位にエレノアがあるのかははっきり窺い知れないが、この自由っぷりは供回りの者には大変だろうなと慮ってみる。櫂にどうこうできる問題ではないが。


(おおお、これが噂のメイドさんですね?)

 エレノアを出迎えて左右に並ぶ女性達がエプロンドレスを身に着けているのを見て、ちょっと感動する櫂。

 TVで観た秋葉原を闊歩するあの方達とは明らかに一線を画する存在感が彼女達にはある。手を引かれてズルズルと進む櫂は、自分がみっともなく感じられているのだろうなと悲しくなった。


「****、カイ*****、***********?」


 エレノアはメイドに何らかのお願い指図をしたようだ。

 メイドの一人が進み出て櫂に一礼する。慌てて礼を返していると、もうそのメイドは付いてこいと言わんばかりにお尻を向けて先導している。

 遅れまいとエレノアに手を振ってから早足に付いていった。


 一室に案内されると一時、櫂は放置されたが、戻ってきたメイドが衣服らしきものを手にしているのを見て、着替えを要求されているんだろうなと思う。それは乾いてきたとはいえ血みどろの服のまま屋敷に居られるのは彼女達には我慢ならないだろうなと納得する。


 ただ、メイドさんが出て行ってくれない。

 彼女を前にポンと脱いでしまう度胸は無い。考えあぐねていると、業を煮やしたのかメイドが近付いてきて服に手を掛けようとする。

 もちろんこれは色っぽい展開などではないだろう。放置すれば子供のように着替えさせられてしまうのだ。これはもう実力行使しかない。

 メイドさんの手を取った櫂はくるっと回転させて扉まで背中を押していった。

 扉を開けてメイドを押し出す事に成功した櫂だが、その瞬間にメイドが(まあ、子供ね)とばかりにほくそ笑んでいたのには気付かないのだった。


 慣れないが、単純な構造の服だったので着付けに困らないで済んだ。

 扉を出て待たせていたメイドに苦笑いでペコリと頭を下げると、近付いてきて各所の着こなしを直される。もうこの時点で彼女達には二度と頭が上がらないだろうと櫂は覚悟した。


 再び連れられて向かった部屋には軽いものに着替えたエレノアが待っていた。

 テーブルに置いたお茶を口にしながら待ってくれていた彼女は着替えた櫂を認めると笑顔で迎えてくれた。

 ただ、テーブルの脇のほうには多数の書籍が積み上げられている。手招かれてソファーに着いた櫂を待っていたのは勉強時間だった。


 エレノアが絵本らしきものを広げて一つ一つ指差し単語をゆっくりと口にしていく。

 言葉の勉強法としては正解なのは確かなのに、櫂は少し困る。一部ではあるが、見た事も無いものの絵を指してを聞いた事のない単語で表現されてもお手上げだ。

 例えばそれは樹木に実っているので果実なのだろう。子供向けに淡く描かれたそれを見て本物を想像するのは難事業に過ぎる。出来れば図鑑的な物を見せられたほうがまだマシかと思う。


(これは何とか頑張って方向転換を促したほうが良いよね。さて、どうしたものか)


 ここまで目にした絵本の内容から読み取ると、この世界の文字は表音文字だ。まずは対応表を作る事と図鑑を用意してもらおうと働きかける方針を立てる。


 エレノアに対して文字を書くジェスチャーを見せると、すぐに彼女は理解して皮紙とペンを用意してくれた。

 次に絵本の単語を部分的に隠して発音してもらい、母音と子音の判別を始める。するとエレノアは理解して協力的になる。

 この辺りでエレノアはカイが非常に勉強慣れしている事に気付いてくれたようだ。

 手取り足取りしなくても、図鑑や辞書などの資料を与えれば彼は自分で言葉を解読してしまうのではないかと思わせる事に成功した。

 一般にはそんなに多く出回っていないが、幸い彼女の邸宅には豊富に存在するらしい。様々な書物を用意され、彼女はカイの解読作業を見守り、彼が首を捻っている部分を補足してくれる。


 そんな風に進められた勉強会は驚異的なスピードで進んでいた。


   ◇      ◇      ◇


 疲れた風なカイを客間に下げさせてくつろいでいたエレノアは遅い帰宅の父に呼び出された。

 ここしばらくは忙しくしているようであり、今日も王宮から戻らないであろうと思っていた父が帰ってきたのに喜んでいそいそと父の執務室に向かった。


 エレノアの父、グラウド・アセッドゴーン侯爵は、ホルツレイン王国で政務大臣の要職に就いている。

 それは王の政策立案補佐を始め、施策指示、独自政策の計画・施策など政務に関するかなりの部分を担う重責だ。その気になれば国政をほしいままに出来かねない役割であるのに、王を立てて良く助け、実直な働きぶりを見せる反面、多岐に及ぶ実務を軽やかにこなし狡猾な一面まで見せる、極めて信任厚い重臣の一人と言える。


 部屋に顔を見せたエレノアに笑顔を向けて、帰宅を喜ぶ挨拶をする彼女に鷹揚に頷く。

 グラウドは厳しく振る舞っているつもりだが、その実娘には甘いのがバレバレで、家人にはそんなところも信頼を集める一因になっていた。

 グラウドにとってエレノアは世界一美しい自慢の娘なのだ。


「エレノア。今陽きょう、何か拾ってきたと聞いたぞ」

「はい、お父様。カイという子なんですがとても面白い子ですよ?」

 エレノアは散策に出かけた街門の外で魔獣に襲われた事。その危機にどこからともなくカイが現れて魔獣を一掃した事。そして言葉が通じなかった事を語り聞かせた。

「言葉が通じない?」

「はい、本人は何か喋っているように見えましたけど、何を言っているのかさっぱりでしたわ」

「話は聞けるか?」

「まだ無理です。でもとっても優秀なので近いうちには事情も聞けると思います」

 勉強会の進行度を鑑みれば、遠くない未来と思える。

「難しいようなら魔法院の研究者を手配するが」

「きっと大丈夫ですわ。すぐに話せるようになると思います」

「ずいぶんと買っているな」

「言葉は交わせないんですけど、わたくしへの細やかな心配りや家人への丁寧な対応が解るんです。絶対に優しい子ですわ」

「良かろう。任せる」


(監視はさせるがな)

 そうグラウドは心の中で付け加えるが。


 翌日以降も櫂の勉強は続き、エレノアの助けを得ながら喋れるようになるのにそれほどの時を費やす事は無かった。

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