英雄の帰還(3)
部屋に飛び込んできた嵐には「クライン・ゼム・ホルツレイン」という名前が付いていた。
この国の王太子その人である。鼻息荒いその王太子殿下はバタバタと駆け込んできてカイの顔を確認すると凄まじい形相でツカツカと歩み寄る。
「あら、旦那さま。廊下を走っては危険ですわよ?」
彼は美しい妻に諫められるとすぐに萎れてしまうのが常だった。
しかし、この時ばかりは憤懣やるかたない様子で、掴み掛らんばかりでハインツに羽交い絞めで制止されなければならなかった。
ハインツも通常ならそんな不敬に及ぶことは絶対にないのだが、さすがに王宮内の一室で、しかも彼の愛する家族の前で暴力行為にまで及ぶのは忍びなく、とっさに止めていたのだ。
「カイ! 君は! 君はなんで…、居なくなった? いや、なんとなく予想は付いている…。それでもっ! エレノアがどれだけ悲しんだと思っている。親しい者がどれだけ辛かったと思っている。讃えるべき対象を失った民衆がどれだけ落胆したと思っている。自分の重要性をもっと自覚すべきだ、君は!」
「怒られるのはもうお腹一杯です、クライン様。お元気そうで何よりです」
「私の言葉で反省するようなタマじゃないって知ってはいるが、もうちょっと何とかならないのか!」
「お気持ちはごもっともで。この身も殿下に激しく同意しているのですが、ここはどうかお納めを。外の者の目もありますので」
ハインツに促されて改めて目をやってセイナの隣に見慣れぬ少女を認め、酷く怯えさせてしまっている事に気付いてしまったクラインは一つ息を吐いて居住まいを正した。
「国民は
クラインが少しは落ち着いたのを見て、カイは真剣な顔で真意を伝える。
専制君主の治める国ならではの考え方かもしれない。しかしそれは情に欠くもので、それを割り切れないくらいの青さをまだクラインは持っていた。
「理屈は分かる。分かるがそれで終わらせるようでは人の心は着いて来ない事を覚えるんだ、カイ」
「解りました。帝王学であなたに勝つつもりなどありませんから」
珍しく素直に応じる。ただ、それで済ませないのもカイという男だ。
「でも安心しました。僕の存在が過去の英雄としていい感じに熟成されて象徴みたいなものになっています。これなら少しくらいここに居ても大丈夫そうです」
最大限の尊敬を以て頂く存在である王家と、口の端に上らせて面白おかしく語られる英雄に国民の目は分離したとカイは言っている。
その意味を噛みしめたクラインは頷く。稀代の英雄に心を奪われた国民が、冗談でも彼を王に望み始めるような事態を彼らは一番恐れていたから。
「済まない。ところで私にも彼らを紹介してくれないか?」
醜態を演じて見せてしまったのを申し訳なく思っているクラインは席に着き、立ち上がっていた皆にも着席を促して要求する。
チャムとバーデン一家を順番に紹介していったカイは、チャムがクラインに試すような目を向けているのに気付いたがスルーする。それぞれの挨拶に鷹揚に応じたクラインは当然の疑問を口にする。
「どうやらカイが世話になったようだね。感謝する。が、これはどういう状況なのか誰が説明してくれるのかな?」
「あ、僕がそう仕向けました」
確かにここまでの経緯は理解できる。
だが、それが市井の民をこの王宮深くまで招き入れるほどの理由にはならない事をカイも理解しているはずだ。
そうしたい理由が有るはずだと察してクラインは問い掛けたのだ。
「オーリーさん、アレを」
一瞬、舞い上がって何の事だか分からなかったオーリーだが、商人特有の頭の回転の早さを発揮して思い出すと、身から離すのが怖過ぎてずっと持ち歩いている物をテーブルの上にゴトンと置く。
「こ…、れは!」
「宜しければ献上いたします」
「それはダメです。売却の伝手はオーリーさんにも無いんでしょう? だったらこの国で一番のお金持ちの家の人に買ってもらいましょうよ」
緊張して思いがけない言葉が出てきてしまったオーリーをすぐさまカイが制止して交渉に話を持っていく。
「いや、そんなおこがましい…」
「いや、それで構わない。カイの知人からこれほどの代物を巻き上げるなんて私の顔に泥が付く。まだまだ先の事になるが私が即位する時の王笏を飾らせてもらうのに十分なサイズだから買い取らせてもらおうと思う。だが、対価は財務と相談せねばならないから少し待ってもらっても良いだろうか?」
「もちろんでございます、王太子殿下」
完全に処分に困っていた、分を超える商品があれよあれよという間に買い取り先が決まってしまった。
どうやら自分に降りかかってきたのがハッピーエンドらしいと分かって気が抜けて崩れ落ちそうになるオーリーだが、貴人を前にしてそんな醜態はあり得ないと気を張りなおす。
「ところで隊商主殿。貴殿は店を構えるつもりはないのだろうか?」
「はいぃ?」
クラインから思いがけない質問が飛んできて、オーリーは変な声で応えを返してしまう。
「も、申し訳ございません。見ての通りの小さな隊商の主でございます。とてもそのような力など…」
「資金ならすぐに手に入るだろう?店舗を構えるくらい造作もないような額だと思うが違うかな?」
「それは仰せの通りでございますが、わたくしにはそんな器はないかと」
謙遜しきりのオーリーだがクラインは話を進めようとする。
「まあ聞いてくれ。実は私の立太子から
「はあ、左様で…」
完全に話が怪しい方向に進みつつあるのをオーリーはひしひしと感じているのは確かなのに、目の前の雲上人の話を妨げる度胸は無い。
「我が義弟が信頼してここまで連れてきたほどの人物だ。私もその信は疑うべくもない。ならば貴殿は商会を立ち上げて、これまで培った伝手を生かして私も助けてくれないものだろうか?」
「……、これはあまりに大きなお話になってしまうので、少々考えるお時間をいただいても構いませんでしょうか? 従業員達とも相談せねばなりませんので」
「無論だ。良い返事を期待している」
王太子にここまで言わせて断る事など出来ないのは確定なのに、即答には踏ん切りが付かないオーリーなのだった。
「その判断はたぶん正解ですよ、クライン様」
従業員を思いやって利益を削ってでも警護を増やす心。そしていざという時は商品でなく従業員の命を最重要視する判断。そんなオーリーには、カイはもっと大きな商いをして欲しかった。
幸せになる人を増やして欲しかった。それは彼の負担になるかもしれないが、いつか充実した人生だと彼が思ってくれると信じてもいる。
遠回しにでも少しずつオーリーがそんな風になるよう働きかけようと思っていたカイには、このクラインの話は渡りに船だ。気持ち良く乗らせてもらおうと思う。
「ふむ、なんか乗せられたような気がしないでもないが、予断を交えぬこれは紛う事なき私の要請だから変な遠慮はしないでくれていい」
オーリーが不安にならぬよう心遣いを見せる。
「では、仮証文と城門通行証を作らせるからそれを受け取って下がってくれ。その者に宿の名を教えておいてもらえると使いが出しやすいので頼む」
今後の手筈を整えたクラインはバーデン一家に辞去の許可を与える。
「タニア、今後もセイナと仲良くしてもらって構わないか?彼女には君のような友人も必要だと思っていたのだ」
「はい、仰せのままに!」
突然の貴人の声掛けにビックリして答えてしまったタニアだったが、後であまりに軽々しく約束をしてしまったのをちょっと後悔するのだった。
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