第六章 【参謀】《戦闘準備》

 第六章【参謀】《戦闘準備》

《愛するマルティムへ

 まず初めにTOE完成を祝ってくれてありがとう。私の『多次元振動律相対原理』と、それに基づく『幾何学概念』を、あなたは美しい世界を記述した、史上最も美しい理論と表現したそうね。その事については異論があるけれど、あなたの賛辞は謹んで承るわ。『ヤハウェ』が私のTOEが正しいことを証明するには、あと半年以上かかるそうだけど。

 それからあなたのプロポーズは受けられないわ。意味がないもの。私たちは既に世界に一人きりなのよ、常にね。それにあなたはプロポーズの返事より、私の出す別の答えに関心があるのではないかしら。いまからそれについて書くわね。


 大雑把に言ってしまえば、例のブラックホール、所謂『ピット・オブ・ギャラクシー』と宇宙膨張の反転が私の理論に収まりきらなかったのは、それが人間由来のものだったからよ。

 第一にあのピットはダークマターの一種、もしくは超対称性粒子、その本質は人間の愛よ。ダークマターの本質は、存在するもののやるせなさ。存在はそのやるせなさによって寄り添うように引き合い、まとまろうとする。その力は愛と呼ばれるものに等しいわ。宇宙創成のとき無から存在はあらわれ、その当初から存在は愛を育み続けてきた。そうやって銀河団は各個まとまり生成されてきたのよ。実のところ愛はそもそも宇宙の始まりから存在していたものなのね。そして人類誕生の瞬間、人間の愛は私たちの銀河の中心から累乗的に増殖し始め、あのピットを生み、今や臨界を超えているわ。

 第二に宇宙を加速膨張させてきたダークエネルギーの本質は、存在するものの喪失感。存在はその喪失感によって新天地を求め、旅をし広がってゆく。その力は開拓心と呼ばれるものに等しいわ。そして人間の登場によって愛が臨界を超えた今、開拓心は折れて内側の方向にむかった。それによってビッグクランチは加速しながら内に存在する愛、つまりあのピットに帰結し、世界は滅ぶ。臨界を超えた愛と、内側に向かう開拓心が世界の運命を決めるの。最終的にはあのピットがすべてを呑み込むわ。人間の愛が世界を消滅させるのよ。

 愛や開拓心、あなたはきっと私がいったいどうやって、こんなデタラメな話を生み出したのかと問うわね。でも真理なのよ。これはTOEでは説明できないとされる、現象的意識やクオリアに迫るものでもあるわ。そして私の追い求める究極の『なぜ』にも迫るはずのものよ。これはアインシュタインが最初に、相対性理論を論理的な数式として求めたのではなく、イメージできた、つまり純粋な情景として浮かんだのと同じように、私が理解したものよ。

 そう、ある日私は理解できたの、世界のすべてをイメージできたの。そしてそのまま世界そのものになったの。私自身が歯車と歯車ががっちり噛み合うような感覚で、現象的意識やクオリア、愛や開拓心、ちゃちな文学流に言えば魂、それらの領域も含む、総括的な世界と合一したのよ。そして私は自分のTOEが正しいこと、そしてピットが私の理論と矛盾しないことを確認した。それだけじゃないわ、これは初めて他人に明かすのだけれど、私は魂の世界の住人と話せるのよ、頭の中で。『彼』の持っている知性は筆舌に尽くしがたいわ。『彼』の名前はゲーテの作品からとってファウストというの。『彼』をいずれあなたに紹介するわね。


 あなたは私をそこまで駆り立てるものは何かと以前問うたわね。私は世界の決定論的な性質を完全に理解したうえで、存在の『なぜ』に答えを出したかったの。物理学は根源的に決定論的なものよ。量子力学は確率の問題によって、物理学で扱う実在について議論の余地を与えたけれど、私の立場では量子力学の波動関数も、確かに実在する決定論的なもので、素粒子のふるまいも決定論的ならば、すべての次元や異なる宇宙も含むこの世界観全体の本質も、私の『螺旋振動関数』と『幾何学概念』で記述できる、決定論的なものなのよ。この世界はね。私が一番問題にしているのはそこなのよ。この世界が決定論的なものだということが不満なの。私の研究の出発点はそこにあるわ。

 私を駆り立てたのは、決定論的なものに対する『なぜ』という問いなの。それは究極的には自分自身に問う『なぜ』で、そしてそれは存在そのものに対する『なぜ』よ。私はその答えを追いかけて走り続けてきた。そして答えは出ると信じて、世界の真理を求め始めた。万物理論を完成させればその答えが出ると信じてね。(その意味では今考えると科学者としては失格だったわ)結局私は世界の真理であるはずの、万物理論を完成させた。そこでは世界の始まり、すなわち量子ゆらぎから生まれるマルチバースの発生、無から宇宙が、そして存在のすべてが自発的に生成することをも証明したのよ。少なくともその時点では創造主を必要とせずにね。そして今やピットの本質まで理解した。けれど、いまだ究極の『なぜ』に答えは出ていない。でも最初から最後まで私の行動原理はただひとつ、答えを出すことよ。

 万物理論で私の目指した究極の『なぜ』に答えを出すことは、いわば科学の力で神を駆逐することだったわ。あらゆるものを包括した私の『螺旋振動関数』で、神も記述できると信じていた。それがこの世から神を消すことになると。結局究極の『なぜ』に答えは出ず、神の存在する余地もまだある。私の試みは半分は失敗した。成功は半分だけ。そして失敗した残りの半分は、全人類によってこれから成される。全人類の愛によってね。例のピットよ。人間の愛が神を殺し神の世界を消滅させる。これが私が失敗した、これから成される半分。成功した私の半分はそのあと必要になるわ。

 私のTOEは神自体を記述できなかったけれど、神の仕事は記述している。世界の設計図は手にしているのよ。その設計図をアレンジして私たちの納得がいく世界を作ることは今や可能だわ。私の半分はそうやって役に立つのよ。そしてあなたにはトリガーを引いてもらう。

 あと三十年弱でピットが地球を呑み込むわ。その前に人類を情報化して、すべてを量子コンピューティング・ナノマシンで構築する、仮想現実に移行すれば、私たちは助かるわ。所謂ブラックホールコンピューティングというわけ。時間は少ないけれど間に合う運命のはずよ。あなたは論文を書いてね。それからこれも覚えていて頂戴、人間を情報化できるのと同じように、世界のすべても情報化できるということを。


 最初の話に戻るけれど、私は真の美しさは人間性の本質の中にしかないと思っているの。世界が美しいのはきっと人間がいるからなのよね。少なくとも私は人間と人間の行為以外のものを美しいと思ったことはないわ。

 これから私は『彼』の元へ行く。今直ぐ『彼』と一緒になりたいの。それは理解できない行動かもしれない。『彼』の元へ行くことは、あなたへの愛に背くことに見えるかもしれない。それでも私はあなたを愛しているわ。それはあなたもいずれ解るはずよ。私が目的を達成したあと、新しい世界で再び会いましょうね。そこから私たちは永遠に一緒よ、ずっとね。そのときはあなたが一度見たいと言っていた、タンホイザー・ゲートのオーロラを見に行きましょう。その世界に無いものは無いのだから・・・・・・

 私の言いたいことはこれで終わり。私は『彼』の元へ行くわ。今からはしばらくの別れよ。また会いましょうね、さよなら。

                         藤川夏澄》

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 現実界、外はあらしで、窓という窓に狂犬の如く雨が叩きつけている。儀躰に入った僕は、このまま最後を迎えるつもりだ。やっとカスミの元へ逝く決心がついた。三十余年前に『オーバーロード』によって発見された、四百万年前から存在し、指数関数的に増大するブラックホール、通称『ピット・オブ・ギャラクシー』はあと数分で地球を呑み込む。『オーバーロード』は当時、膨張していたはずの宇宙が、現在は収縮に転じていることまで確認した。地球を呑み込んだピットは、やがて宇宙全体も呑み込むだろう。

 僕はカスミが三十年前に紙に直筆で書いた、僕に宛てた遺書のオリジナルを読み返していた。カスミは当時僕の恋人で、TOE(万物理論)を完成させた偉大な科学者だった。彼女のTOEが正しいことは、人類の生み出した最強の進化型AI、『ヤハウェ』によって、速やかに証明され、彼女の名は人類史に永遠に刻み付けられることとなった。しかし彼女は『ヤハウェ』の証明を待たずして、レミング病でこの世を去ってしまった。僕を置き去りにして。

 彼女の指示通り僕は論文を書いた。ブラックホールに引きずり込まれても、それ以上分解されない粒子レベルの、量子コンピューティング・ナノマシン群をベースにした、恒常的に自己強化する情報化された超人知(ポストヒューマン)が創造、更新し、AIが管理する、居住可能な仮想空間そのものを、ピットに取り込ませれば、生命は進化さえできる状態で、生き残ることができるかもしれない。カスミが遺書に書いたことはそういう意味だった。そして、その方向性で、僕が主導するプロジェクトが、此処三十年かけて進められた。

 僕の論文が完成する以前から、『シンギュラリティ』を迎えた人の人為的な進化は、似たような方向に進んでいた。非常に多くの人が、身体組織及び身体情報をデザインすることによって、人類そのものや環境に有害な種類の、根源的な欲求や本能をコントロールできるようになり、極めて合理的で平和的な生命体へと進化した。事故や病気など、肉体を持つが故の物理的な脅威を回避するため、自己存在自体を完全情報化する動きも進み、『バーサクウイルス』の変異による盛り返しも、その傾向に拍車をかけた。今や地球上の九十七%の人間が、デザインされた身体情報を内包した精神体として、ネット上、仮想現実上、仮の肉体内に存在し、世界中を駆け巡っている。人類は老化を克服し、死は自ら望んだものにだけ訪れる。

 カスミは『レミング病』によって自ら死を望み、命を絶った。彼女の遺書に書かれていることは正気の沙汰ではなかった。宇宙における愛や開拓心。魂の世界の住人と話せる。これらは統合失調症の症状であり、『レミング病』に典型的な症状とされているものに相当する。僕も最初はカスミの死をそのように受け取り、彼女の論理、論理と呼べるのかも怪しかったが、とにかく僕はそれを信じなかった。しかし彼女の遺書を何回も読んでいるうちに、彼女のいう愛のピットについて、僕の中にある仮説が浮かび上がってきた。今、僕はカスミの言うことは、真実に限りなく近いとさえ思っている。

 カスミは遺書に、ピットが自分の理論に収まりきらなかったのは、それが人間由来のものだったからと書いていた。僕はその意味を考え続けた。そしてそれはこういうことだった。世界の方程式を超越した人間由来のもの、それがピットなのだ。別の言い方をすれば、未来の僕たち、つまりピットに取り込まれたあとも生き残り、進化を続けた人類が、やがて時間をも超越する存在となり、人類誕生の瞬間に遡って、あの人間の愛を収集するブラックホールのたねを蒔いたのだ。歴史上のすべての人類の魂を救済するために。このパラドックスのようなものが何を生むのか僕は知らない。仮説が百%正しいともいえず、僕はこの考えを誰にも明かしていない。しかし今僕はそれを、カスミを、信じていた。内側に折れた開拓心も、臨界を超えた愛も含めて、すべてを。


 今や僕たちの良心や善意は、洗練の極みにあり、個人の人格はこの上なく尊重される。永遠の若さと美しさの体現者だったカスミ、文学と音楽を愛していた。ゲーテとヘンリー・ミラー、マアヤ・サカモトを崇拝していた。精神の気高さと美しさで人間の価値が計れると信じていたカスミ。精神性の登高にすべてをかけていた。究極の美を追求していた。尊さを知り、悲しみを知り、真実の喜びを知る、性に貪欲だったカスミが僕は好きだった。

 僕の儀躰の左手の小指には、カスミに渡せなかった結婚指輪が嵌められている。もう一度これを持って、カスミに会いに行くつもりだ。今、情報化された全人類の九十七%が存在する仮想現実を構成するナノマシン群は、各地に設置されたカプセルの中で、その時を待っている。そして僕の仮説が正しく、カスミの遺書が真実を述べているなら、残りの三%、そして僕も、いや、それだけでなく時空を超越したあらゆる存在さえも、まもなくカスミと再会を果たすだろう。

 僕は外に出て夜の空を見上げる。星は見えず暗黒が漠然とただ広がっている。あらしはすっかり治まっていた。時は満ち、あたたかい愛が降り注ぐ。ピットが一瞬ですべてを呑み込み、そして僕は宇宙で最も美しく懐かしい彼女の声を聴いた。

「来て!愛しているわ、永遠に!」

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