【士官】《具体的戦略の詳細確認》〈五ノ壱〉②

 ②

 重力がなくなり、ヴィルヘルが目を覚ました。

「今、私の躰を見ていたでしょ、やらしいわね」

 彼女はことあるごとに僕にセクハラを仕掛けてくる。

「体調、気分はどうだい、無重力空間は久しぶりだろう?」

「気分爽快よ、電子脳化しているサイボーグが気分悪いなんて言ったら大問題よ。あなたのほうこそ顔色が悪いわ」

「照明の加減でそう見えるだけだよ。僕も気分爽快だ」

「今どき完全生身は珍しいわよ。運動能力補正くらいすれば良いのに」

「人体や精神を単なる物理的被造物として扱うことに抵抗があるんだ」

「機械論的な価値観に抵抗があるのよね。あなたのお父さんは神学者だったわね。でもあなたの不快感や人体改造で問題視される事象の大部分は、機械論的価値観が自由市場主義と結び付くところにあるのよ」

「なんだい、それは」

「機械論的見識を肯定する科学の進歩そのものは、人間が真実と理想に向かうために必然のものよ。それが金銭的利益追求のために、倫理的議論の必要性を差し置いて発展していくところに、ゆがみが生じるの。個々が私欲に基づいて自由に相互作用する事で、整合した合理的な状態が生まれるとする、市場原理のイデオロギーには穴があるわ。科学よりむしろ経済社会のシステムに問題があるのよ。かつての核兵器の売買拡散や、臓器闇市や、不妊女性のために子宮と卵子を提供する代理母を斡旋する、赤ちゃんブローカーが発展途上国の貧困層の女性を搾取した際のからくりや、バイオ作物および生体物質の特許闘争など、etc、etc・・・金の絡む例を挙げ始めたらきりがないわ。十字群衆などの現代テロが問題視する事象もほとんどはじつは、科学より市場主義の問題であることが多いのよ。そして現在もそのイデオロギーはしぶとく残っている、それが厄介なのよ」

 彼女がそれらしき本を最近、ダウンロードして読んでいたのを僕は思い出した。

「君の言うとおりだとして、世界が現実に機械論と市場原理の双輪によって進んでいるかぎり、それは危険な道程だと言えるね。そこまで危険を冒しても、進み続ける理由が僕たちにはあるのかな」

「なぜって、今私たちは全てのものが幸福な世界に住んでいるわけじゃないからよ。さっき言ったように、科学の究極の目的は真実と理想よ。真実を掴み、理想郷を築くまで私たちは進むしかない。そういう風に私たちはできているのよ。そして私たちは確実に目的地に近づいている。しかも目的地は意外と近くにある」

「君の得意分野の『シンギュラリティ』だね」

「そうよ。少し遅れたけれど、『シンギュラリティ』はもう始まっているわ。私たちは、私たちの作り出したAIという、新しい生命とともに、遺伝子の支配から抜け出し、自らの手によって自らを急速に進化させ、いずれは完全な存在になり、全てのものが幸福である世界を実現させるのよ。それはできるだけ早いほうが良い。何故ならもうウンザリだからよ。世界は呆れるほど沢山の呪いと死を蓄積してきた、これ以上犠牲者を増やすことはないわ。既に臨界なのよ、この世界は」

「でも、いくら君の言うような呪いや死を駆逐するためとはいえ、そういう人為的な進化が、正しい進化の形と言えるだろうか」

「進化が、たとえ目的が後付けにせよ、生物が環境に適応して自己を確実に受け継いでゆくため、すなわち生き残していくために、自然選択によって複雑化していくものなら、進化して今に至る人類が、自然選択によってもたらされた『知力』によって、過去と同じ目的で、人為的に進化することが自然に反している、しかも悪だとどうして言える? そもそも生命倫理とは何のためのものなの? 私たちは生き残るために行動しているのよ? 人間は結局、何をしようが自然の一部分でしかないんだわ、少なくともこの世界ではね。それに私たちの細胞組織が、日々生まれ変わっている事実が証明しているように、私たちの本質は、個々の細胞、ニューロンやDNAそのものなどではなくて、それらが形作っている情報のパターンなのよ。そのパターンが継続しているかぎり、たとえ全てが機械化されたとしても、私たちは私たちであり、人間と呼べるものに違いないのではないかしら。私たちの魂と呼ぶものの本質もそこにあるんじゃないかしら」

「君の言うことが正しいとして、じゃあそうやって僕たちは何処まで行くんだろう。進化して、幸福な世界を実現して、神にでもなるのかな。十字群衆じゃないけど、もし実際神がいたとしたら、僕らの進歩は何処まで許されるんだろうか」

「神学者の息子らしいセリフね。神は私たちがたとえ悪魔と契約したとしても、たゆまぬ前進を続けるかぎり全てを許してくれるでしょうよ、そんな例が文章として残っているわよ」

「冗談のつもりかい」

「ふふっ、でもそうね、未来において神がいるかいないかはそれほど重要なことではないわよ。完璧な神の役割を人間が担うことができるならそれに越したことはないもの。神が存在を見せないなら、今ここにいる私たちが、私たちの手で、やるしかないんじゃないかしら。むしろ私たちは、そういう努力をすべきなのよ。一丸となってね。祈るより建設的でしょ? やるべきことは決まっているし、目標は明確だわ。私たちはその目標を新たなアイデンティティとして足場を築き協力しあえば良い。理想郷は近いわよ」

「僕は未来についてそこまで楽観的にはなれないよ」

「核兵器は撤廃に向かっているし、残留放射能を無害化する技術も採算無視で完成したわ。そして『バイオテック社』は特許を放棄したわよ、ノーベル賞が目的だったわけでもなくね。今、『バイオテック社』の研究開発費や社員の給料は、世界中からの寄付で賄われているのよ。文明進歩のエンジンであるにもかかわらず、諸悪の巨大な源泉でもあった市場主義の欠点を、洗練された良心や善意で克服できることは証明されているわ。だって均衡理論やゲーム理論が何のために生まれたか考えてご覧なさいな。理性的で良心的な人々の努力は続いているのよ。ちなみに現代の良心と善意の洗練は、周知の通り自立した芸術由来のものね。私たちは明確な目標と、そこに向かうための羅針盤をすでに手にしている。今はそれで充分よ。良い? 解りにくいかもしれないけれど、私が話している良心と善意に基づいた、理性的で明確な目標は、これまでの宗教や、市場原理のイデオロギーに、とって代わるものに成り得るものよ。あなたにもいずれ解るときがくるわ」

 彼女の言う、自立した芸術由来の良心や善意の洗練とは、今や社会の通念となっている道徳に対する認識の一つだ。自立した芸術とは、宗教や政治的意図から自立したものと解釈してくれて良い。それらの芸術は現実の異化により、道徳的な模索をモデル化して提示すると同時に、理性の自己更新の触媒となる。更新された理性は常に帰結主義的な道徳を弁護する。このシステムが車のエンジンのように推進力を持ち、良心や善意を自己内省的に洗練させていくのだ。簡単に言ってしまうと、時には挑発的で時には自制的に真理に迫る、それらの芸術に触れることが、結果を重視する道徳について考える機会を与え、理性を育てていくと同時に良心や善意の質が高まっていくということだ。

 教育の改善、指導者の演説、裁判の判決など、道徳的価値観の更新に直接的な影響を及ぼす行為の、バックボーンとなるのが芸術である。そして芸術は、メディアのグローバル化による情報拡散の波に乗って、自らが洗練されながら世界全体規模の道徳的価値観の一般化に貢献するのだ。芸術由来の価値観の拡散によって、ほとんどの宗教は形骸化し、例えばキリスト教では僅かに、抽象的な神と『隣人愛』の概念のみが芸術に取り込まれ、世界規模で一般化しつつある。イスラム教圏は、カタストロフィを経験した新しい価値観を持った世代が、芸術が開放された社会の中核を担う年齢になり、様変わりした。宗教が終わりを迎えようとしていることは、僕も含め、今や誰もが知っていることだ。

 ちなみにこのグローバル芸術の作用は、それを最もあからさまにおこなった故に、計らずもその始祖として祭り上げられることになった、二十世紀のあるミュージシャンに敬意を表する形で、『イマジン効果』と呼ばれる。


 電子音がして、カプセル搭乗時に注文しておいた、周回軌道ステーションのマップと、スタッフも含む現在の滞在者リストのファイルが、ゲストルームの端末に転送されてきた。『ゾチカ』に保存させてから、ファイルを開く。ステーションは三階建てで、野球場四つ分の広さがあり、一般客エリア、VIPエリア、スタッフエリアに分かれている。宇宙港では、一隻の宇宙船が建造中だ。

「VIP客が一人もいないのはどういうことかしら」

 僕は即座に端末から問い合わせる。

「これで全員か?」

「その・・・一部のお客様は機密扱いになっていまして・・・」

 係員はしどろもどろだ。

「僕たちを何だと思っているんだ。情報はすべて開示しろ」

「すみません・・・上のものに確認いたしますので、少しお待ちください」

 なんとも要領を得ない係員に、ヴィルヘルも肩をすくめる。しばらくしてVIP客のリストが送られてきた。

「あら、身内だわ、会議かなにかかしら、各国国連大使、国連事務次官補、アメリカ国防副長官にヨーロッパ連合防衛庁事務次官?・・・ロシア大統領補佐官だって! ちょっとレインに聞いてみるわ」

 僕も『ゾチカ』をサイバーネットの秘匿回線に接続して、レイン大佐と音声を繋いだ。彼はまだワシントンにいた。

「今、滞在客のVIPリストを見たわ。どういうことかしら。なぜうちの連中が集まっていることを教えてくれなかったの」

「機密だったからだ。今そこで会議が行われていることを知っているのは、国連関係者では当人たちを除いて、私と君たち、『オーバーロード』と事務総長しかいない」

「何の会議なの」

「それは言えん」

「なんでわざわざこんなところで集まってんのよ」

「これは特殊な会議で、秘密裏に行う必要のあるものなのだ。オンラインでやるわけにはいかん」

「ちっ、この情報化社会にリアルで集まりたがるのは人間の悲しい習性かしら」

「何か言ったか?」

「うちのボスが出席しているのに、私たちには何の情報もないのね」

「何を言ってる、お前たちのボスは大使や次官補ではなく、この私と『ブリュンヒルデ』だ。私たちの命令だけに従え」

 ヴィルヘルは何も言わず回線を切り、僕は大佐に挨拶をしてから回線を切った。

「どう思う?」

 ヴィルヘルが僕に尋ねる。

「メンバーは変則的だけれど、規模から見て安全保障理事会の会議だね。相当な数のSPがいるから、僕たちは補佐的な役割でいいんだろう。SPの中に僕たちの士官学校時代の後輩がいるよ。上に着いたら彼と連絡を取ってみよう」

 会議室は二階のVIPエリア、ステーションの丁度真ん中にある。僕は『ゾチカ』にVIPリストを追加保存させた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る