【諜報員】《諜報》②
②
任意の感情を発生させるには、それらの感情を誘発するような、身体感覚情報をねつ造してやればいい。たとえば触覚、温度感覚、圧覚などの、体性感覚からアプローチする場合は、皮膚、筋肉、様々な器官や神経などの身体からの入力は、まず、上部脊髄に流れ込むので、この初期段階で上部脊髄に、神経ガスや人工ウイルスなどによってねつ造した、偽の身体入力情報を送り込むのだ。
この情報は脳幹と中脳を通じ、ラミナ1ニューロンと呼ばれる細胞で、最新の状態を反映した身体マップとして処理されると、後腹内側核、島、紡錘細胞へと順に流れ込み、これらの領域では、身体の状況に対した複雑な反応が計算され、その反応が自己認識や、感情と呼ばれるものになる。視覚、聴覚、嗅覚などの特殊感覚も、初期経路は若干変わるが、ラミナ1ニューロンによって身体マップの一部として扱われ、後腹内側核以降で反応となるのは同じだ。
このように人間の感情のほとんどは、脳の中の身体マップに関する領域と密接に関係しており、身体マップに統合的に記述される身体の状態が、感情を左右する。それは全く能動的なものではなく、神秘的でも霊的なものでもない、入力に対するただの物理的反応にすぎない。ゴルはそういった反応を引き出すための情報をねつ造しているのだ。
攻撃的な感情や性欲の誘発は比較的容易だが、それは人間の生物としての、根源的な性質に根ざしている欲求だからだ。より原始的な欲求は、より誘発させやすい。自然淘汰を勝ち抜いて自分の遺伝子を残すために、原始時代から、もしくはもっと前から、生物としての人間は、戦士としてプログラムされている。より複雑な感情や思考の仕組みは、人間の進化の過程で、生存戦略として組み込まれ、社会とともに発達してきた。
たとえば生殖パートナーに対する共感は、自分の遺伝子を守り、保護し、残すために有用なシステムとして導入されたし、愛情や倫理的嫌悪感などの、効率よく生き残るために形成する社会の、根幹にかかわるシステムはその延長線上にある。
すなわち愛や共感などの平和的感情は、人間進化の過程で、やはり生き残るための戦略として開発されたものとしては、後天的なものだといえる。それらは原始的な欲求と比べると誘発が困難だ。しかしゴルはその後天的な愛や共感を生物の遺伝子に深く刻み付けたかった。そして彼女の研究はそれを実現する可能性を秘めている。
母体から胎児にも引き継がれるような、愛を感染させる良性のウイルスを開発できれば、この世界を愛で満たすことができるかもしれない。それは激情とはいかないまでの、ささやかな愛で良かった。ゴルは不条理な世界を幸福にするカギは愛だと思っている。
「愛に包まれるとき、私たちは幸せでしょ?」
それはやはり物理反応にすぎず、主に報酬系と呼ばれるシステムの産物にすぎないのだが、それでも私たちは愛に喜びを見出すことができる。私の愛のウイルスで世界を満たせば、世界は今よりもっと、素敵なものになるのではないだろうか。ゴルを研究に駆り立てるのは、こういった信念と、ゴル自身の愛にほかならなかった。
プレゼンテーションのあと、ゴルはミラー所長のところへ、今後の研究の方向性について、直談判に行った。しかしミラーは首をたてに振らなかった。
「いいか、うちは民間企業だ、社員を養い利益を上げるためにやってる。金にならん夢物語を追いたいなら他へ行け。おまえのばかげた思想を、受け入れてくれるようなところがあればの話だが。おまえにも生活があるだろう、食いっぱぐれたくなければ、社の方針に従い、言われたことを黙ってやってればいいんだ」
これが現実だった。
ロイが選んだ落ち着いた雰囲気の、ベトナム料理店での食事は美味しかった。食事のあとゴルはロイに手紙を差し出した。
「なにかな」
「このあいだの返事よ、あとで読んで」
「なんだか読むのが怖いな」
ロイは気恥ずかしそうに微笑む。彼がゴルの前だけで見せる、本来の人当たりのよい柔らかな性格がゴルを安心させた。そんな彼を独占したい気持ちで、ゴルはじりじりするような気持ちになることもあるのだが。
手紙には本当のことを書いた。自分の仕事、これまで彼を欺いていたことへの謝罪、私を許してくれるなら、仕事を辞めて、結婚する心の準備はできていること。そこにはもう主導権を握って、ロイを誘導しようとする自分はおらず、誠実に向き合おうとする努力の痕跡だけがある。
「今日は抱いて欲しい。手紙はそのあと読んで」
手紙を渡しながらロイの耳元で囁いた。
全てが終わって別れ、自宅に帰ってきてから、携帯端末にメール着信があった。
{手紙は読んだ。来週結婚式場の下見に行こう}
たくさんのハートマークが踊っている。ゴルは浴室に行き、シャワーを浴びながら、さめざめと泣いた。
結婚式場の下見はおじゃんになった。九・一一の衝撃度をはるかに超えるテロ事件が勃発したとき、ロイは当然のように現地中国へ飛んだ。上海の中心部が、核爆発で焦土と化し、汚染されていた。最大爆心は浦東新区のど真ん中で、上海経済の中心である同区は、文字通り完全に消し飛んでクレーターとなった。死者、行方不明者はあわせて三百万人に及び、上海全土の直接的な被爆者は一千万人を超える。
この人類史上最悪の事件は、大量の中性子爆弾を使用したという点を除いても、異常さが際立っている、今までに無い全く新しいタイプのテロだった。上海を核攻撃するという匿名の犯行声明動画(画面に映ったテロリストは覆面をしていた)が、爆発の一時間前に、コンピューターウイルスに感染した日本のサーバーを経由して、ネット上にアップされていた。ウイルスの元をたどれば世界中を転々としており、発信源を特定するのはほぼ不可能に思えた。声明の主旨は恐ろしくも簡潔なもので、『地球環境を汚染する人類の営みをすべて破壊する』『我々は毒を以って毒を制す』の二言が加工された流暢な英語で述べられているだけだった。
爆弾をどこから手に入れ、誰がどうやって持ち込み、爆発させたのか、全てが分からなかった。そして環境汚染を標的にする、新しい考え方に基づくこのテロの異常性に、世界中が恐怖した。使われた兵器、犯行のそつの無さ、匿名性、主張、全てが世界への挑戦であり、全人類の度肝を抜く、恐るべき事件だった。
空港で見送ったのが最後になった。ロイは中国に渡ってまもなく、行方不明になり、連絡も途絶えた。ロイが消息を絶って一週間後、今度は北京が核爆発で消失した。それは上海より大規模な爆破だった。
三ヶ月が過ぎた。世界中が戦々恐々としていた。ある日の晩、ロイを紹介してくれた友人が電話を掛けてきた。切羽詰った様子で、今すぐネットを見ろと言う。彼女が見ろと言っているのは、匿名で、国や企業、宗教団体などの機密情報を公開しているサイト、『ウィキリークス』にアップされた動画だった。動画には『中国当局が、テロリストのスパイ容疑者を、どう扱うか』とラベルされている。ゴルは恐る恐る再生ボタンをクリックした。
薄暗いコンクリートの部屋で両手を後ろ手に縛られ、全裸で椅子に座らせられているロイが、白衣の男に注射を打たれている場面から動画がスタートする。彼は目隠しをされていたが、ゴルは一目でロイと判別できた。画像は鮮明だった。どうやら自白剤を打たれているようだ。二人は四人の軍服を着た男に囲まれている。その中の一人が白衣の男と入れ替ってロイの髪をつかみ、まるで家畜でも扱うかのように、部屋の隅にある浴槽まで引きずって行ったかと思うと、浴槽に張られた氷水に、ロイの頭を乱暴に押し込んだ。ロイは激しくもがく。動きが鈍くなるまで待って軍服男はロイを引き上げ、頬に平手打ちをしながら何事か罵った。ロイは咳き込んで口と鼻から水を吐き首を振りながら、中国語で何かを否定するようなことを言ったが、すぐにまた氷水に頭を突っ込まれた。同じことが何度も繰り返されたが、ロイは何も吐かなかった。生まれたての小兎のようにぶるぶると震え、首を横に振り、中国語でひたすら否定の言葉を繰り返す。そもそも何も知らないのだ! ゴルはどういう経緯でロイが、テロリストの仲間に仕立て上げられたのか、全く想像が付かなかった。衝撃と怒りのなか、画面から全く目が離せなかった。
ロイは椅子に縛り付けられ、鞭で打たれた。ねじ切りのようなもので、手足の爪を全部、一本ずつ剥がされ、一本ずつ指の骨を折られ、苦悶の声をあげた。顔と股間に何かスプレーのようなものを浴びせられ、悶絶した。軍服男たちは容赦なかった。あの手この手で拷問は続いたが、執行者が万力を手にしたとき、ロイに異変が起こった。てんかんの発作のように躰を反らせ、痙攣し、硬直したかと思うと、ぐったりと椅子ごと倒れこみ、動かなくなってしまった。男たちはあわてて駆け寄る。まもなくロイの口の中から銀歯の破片を取り出し、カメラにかざして何か相談し始めた。ロイは息絶えていた。
部屋にキャスター付きのベッドが運び込まれ、白衣の集団が入ってきて、ロイの遺体をベッドに寝かせる。彼らはクーラーボックスを数個ベッドの傍らに置いて、手術道具のようなものを取り出した。最初、彼らが何をしているのか分からなかった。ロイの目から何かを切り取り、殺菌し、パックしてボックスに入れるのを見て、ゴルはロイの遺体が今直面している事態を理解した。中国政府が死刑囚の臓器を、日常的に売っていると聞いたことがある。刑務所と病院が連携し、移植の必要にあわせて、死刑執行のタイミングを決めることさえあるらしい。今切り取ったのは視力回復手術に使える、ロイの角膜だった。拷問の途中、計らずも死んでしまったロイはこれから、臓器売買のためバラされるのだった。
角膜の次は全身の皮膚を剥がされていった。皮膚は火傷の一時的被膜に使えるのだ。白衣の執行者たちは、滑らかに、そつなく両手を動かし、恐ろしいくらい速やかに作業は進められていった。じん帯、長腕骨、大腿骨、股関節、あご骨、内耳。次々とロイを構成する大切な部品が、殺菌され、パックされ、箱詰めにされていく。そこには人間の尊厳などは、一片のかけらも無かった。ただ機械論的な物体として、スーパーマーケットで陳列されるような類の商品として、存在しているだけだ。これはまさにロイが生前言っていた、神の意に反する罪に違いないと、ゴルは確信した。ロイに対する暴力的な搾取は内臓にも及んだ。真っ赤な心臓、黒い二つの肺、肝臓・・・・・・いよいよ腎臓に執行者の手が伸び、ゴルはそこで動画を見るのを止めた。「これ以上は見ちゃダメ」姉の声が聞こえた気がした。
中国政府は動画をねつ造されたものとして関与を否定したが、画面に映りこんだ様々な情報と、『ウィキリークス』にあげられた、それらを裏付けるあらゆるソース(たとえば執行官の顔写真と、彼の所属を証明する名簿)は、当局の関与を様々な角度から示唆しており、ロイが当局に拷問され、遺体をバラされたことはほぼ間違いなかった。テロの被害者であったはずの中国は、自らの不適切な行為によって、国際的な非難のあらしに晒されることになったのだった。遺体不在の葬儀で、ゴルは初めてロイの両親に会い、挨拶をした。二人とも白髪が目立つ、真面目で善良そうな夫婦だった。彼らと抱き合い、人間の引き起こした不条理を共に呪い、声をあげて泣いた。
自宅でロイの遺品を整理している最中、思い出の写真データを収録したディスクを開き、感傷的になっていたとき、見慣れないテキストファイルが、一緒に保存されていることに気づいた。『血の十字群衆・リスト』とラベルされたそのファイルを、ゴルは導かれるようにクリックした。
今、ゴルの右手には裏サイトで入手した、致死量の青酸カリが入った小瓶が握られている。今に至るまでにやるべきことは全てやった。『血の十字群衆』。あのリストを見て全てが変わったのだ。誰かが美しい世界を見せてくれるなら、そのためにこの命を捧げもしよう。しかし今の私には美しい世界がどうしても見えない。ゴルは一つ長い息を吐くと、目をつぶり、右手の小瓶の液体を一気に飲み・・・
「来い!」
・・・干した。
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