第四章 【諜報員】《諜報》①

 第四章【諜報員】《諜報》①

 ゴルディロックスは、初めての自慰のあとの、恍惚とした少女みたいに、舞い上がっている自分を自覚していた。その興奮には、自慰特有の後ろめたさも確かに存在した。

「ゴル、愛しているよ。結婚しよう」

 その簡潔で完璧な言葉はゴルディロックスが誘導した言葉だ。自慰に似た後ろめたさは、自分が誘導したにもかかわらず、態度を保留して、一人ラボに帰って来たことに由来する。ゴルの誘導は自慰と同じく、自己満足のための行為に過ぎなかった。ゴルはロイに肝心なことを明かしていない。ゆえに態度を保留するしかない。それなのに彼を追い詰め、自分が望んでいる言葉を、彼に吐かせたのだ。シリアから帰国したばかりの、誓いの指輪もまだ用意していなかった彼に。ただ、ゴルには逃げ道もある。このまま何も言わず仕事を辞め、ロイと結婚するのだ。そうすれば、自分のしてきたことを、彼に明かさずに済む。でもそれは卑怯者のすることに違いなかった。

『そろそろ限界かしら』

 夜のラボの一角の台座に置かれた、プラスチック製の檻の中のマウスはこの一週間、次々と自動的に与えられるスポンジを塵芥にすべく、狂ったように攻撃しつづけている。マウスはそのあいだ、ほんの一睡もしていなかった。別の檻には、縮こまって震えつづけているマウスもいる。彼は捕食者の幻影に怯えつづけていた。ヒトの免疫機構が移植されたこれら実験用の、いわゆる人間化マウスには、遺伝子組み換えの、パイロネクストと呼ばれる、被験体に対して、極端な感情を誘発するベクターウイルス群が投入されている。今回の彼らのテーマは怒りと恐怖であり、これらのマウスは、来週おこなわれるプレゼンテーションの、リハーサルに過ぎなかった。研究はほぼ完成しているのだ、人間適用の段階においても。

 被験体をある種の感情に支配された状態にしたいとき、マウスと違って人間の脳の場合は、皮質線条回路の線条体と、特に前頭前皮質が、大きな障害として立ちふさがる。合理的な選択をおこなうのに必須の、この機構が人間の脳に占める割合は、あらゆる生物と比べて最も大きい。強靭な理性を持ったヒトを特定の感情に支配させるためには、より強力な刺激でもって理性を振り切らせる必要があるが、ゴルたちのパイロネクストは人体実験もクリアーしており、一部は既に実用化されてさえいる。

 ゴルは〈LOVE〉とラベルが貼られた、パイロネクスト・ウイルスのサンプルを手に取り、微笑んだ。もしこれをロイに使えばどうなるだろう。パイロネクストを投入すると、被験体の感情は誘導され変化し、その状態が恒常となる。これは特定の任意の身体感覚的刺激に似せた情報が、それぞれのパイロネクストのベクターDNAによって、恒常的に誘発されることに対する反応としておこる。ベクターDNAが被験体の遺伝子を改変する事で、恒常性は保たれる。偽の情報は、実際の身体感覚的な刺激とは、直接的には関係なく、それらを被験体が実際に感じることは無い。怯えているマウスは、捕食者の匂いを感じること無く、捕食者の匂いに怯えているのだ。

 一段落したこの研究の次のステージでは、ウイルスによる遺伝子改変を生殖細胞にまで敷衍させ、恒久的な新しい性質を、つまり世代を超えて感情を定着させる技術を確立することが、目標とならなければならない。それがゴルの希望でもあり、実現すれば一連の研究は、世界に有益な新境地を拓くことになると信じていた。しかし・・・

『それにしても、あのいまいましい、ミラー所長!』

 ゴルと彼女の所属する研究所の方針には大きなズレがあり、中でもミラーはゴルの、最大の悩みの種だった。ミラーの掲げる今後の研究方針は、単純に感情のレパートリーを増やすことと、軍用化だ。研究所は元々DARPA(米国防総省高等研究計画局)の依頼と資金援助を得て運営されているので、ミラーの方針はそれに沿ったものなのだが、ゴルは不満だった。またゴルは彼の行動に時々現れる人間的素養の不適切さを案じている。およそ一ヶ月前にニューヨークで起きた事件から、初めて世界に認識された、『レミング病』と呼ばれる現象についての彼の反応も、ゴルを不安にさせた。

 一ヶ月前、グリニッジ・ヴィレッジにあるバルハラ・ステップと呼ばれる二千人収容の会場で、国際的に人気を博している、四人の少女からなるインダストリアル・ダンス・ボーカルユニット、『リヴァイアサン』のコンサートが行われた。このライブ中に、『リヴァイアサン』のメンバー、それぞれユリ、マリ、アイシャ、クレシダの四人全員が、突然意味不明なことを喋り始め、あらかじめ飲料水用のボトルに入れていたと思われる、油を浴びて火を点け、焼身自殺し、大混乱の中コンサートは中止されたのだった。そしてその後三十時間以内に、その会場に居合わせた観客、コンサートスタッフ、及び関係者全員が、それぞれ何らかの方法で自殺を試みた。この不可解かつ恐ろしい出来事で明らかになったのは、これほど大規模ではないが、以前から似たような現象が、個人レベルから集団自殺という形で、世界中に起こっていたということだ。自殺するものには皆、直前に統合失調症のような症状が現れる。今のところ自殺が集団で起こる場合に限って『レミング病』と呼ぶことにされ、原因究明も含め調査がおこなわれている。ちなみに『リヴァイアサン』事件の唯一の生き残りである少年は、「頭の中で何者かの『来い!』と呼ぶ声が聴こえた。彼は英語で、『私は一番目だ』と言った」と証言しているらしい。

『レミング病』、とりわけ『リヴァイアサン』事件に関して、ミラー所長はそれを人為的なものと捉え、このままでは出し抜かれると所員に檄をとばした。彼に言わせればこの事件は、パイロネクストに類似した、生物化学兵器の人体実験だった。ゴルの研究所は、感情をコントロールするパイロネクスト・ウイルスと、恒常性の無いパイロネクスト・神経ガスを、互いに連携させながら研究開発している。中には殺戮衝動やタナトスを励起させ、敵を同士討ちさせたり、自死させるという、軍用化されれば生物兵器禁止条約に抵触するであろうものも含まれている。それらの恐ろしい研究は、軍管理という条件付きで、暗黙の了解として是認されている。知らないものには対処できないという、危機管理の論理があるのだ。『レミング病』、『リヴァイアサン』事件は、確かに不可解な事件だったが、現場に神経ガスや、ウイルスなどの痕跡は発見されていない。所長は自分の強迫観念を部下に押し付けているだけなのだ。

『なんとか彼を説得しなければ』

 自分の研究は自分で守るのだ。いっそパイロネクストを一服盛ってやろうか。

 携帯端末に着信があった。ロイからのおやすみメールだった。ハートマークの絵文字がたくさん踊っている。今からプレゼンテーション用の資料をまとめなければいけない。檻に目をやると、スポンジを攻撃していたマウスが、干からびた植物のように仰向けになり、泡を吹いて狂死していた。


 両親はゴルが生まれて間も無く事故死した。ゴルはスラムで歳の離れた姉に育てられ、姉が亡くなったあとは天涯孤独の身の上だ。姉はゴルの学費捻出のため、自分の卵子を売り続け、その結果不妊になり、最後には臓器闇市で腎臓摘出手術をうけ、おざなりな手術のせいで命を落とした。ゴルの才能を伸ばすため、自ら犠牲になったのだった。ゴルは当時、姉がどうやって資金繰りをしているのか知らなかった。ゴルはコロンビア大学に進学し、そこで遺伝子工学の博士号を取得した。彼女の『ベクターウイルスにおける、発ガン遺伝子のリスク削除』の論文が元で、今の研究所に召喚された。ゴルには姉の人生を背負って生きているという認識が常にある。姉を心の底から愛していた。

 ゴルは自分の博士号や仕事に関して、本当のことをロイに話していない。彼は彼女が製薬会社で事務をしていると信じている。知人の仲立ちでロイに会い、一目で恋に落ちたゴルは、関係を深めていく中で、彼に自分の研究を知られることが、二人の関係に悪影響を及ぼすに違いないことを知り、嘘をついた。ロイはゴルの三歳年下で、戦場ジャーナリストをしているが、科学懐疑主義者だった。今、彼はほとんど科学を嫌悪しているのだった。

 ロイは戦場で取材を重ねるごとに、戦争に関与する人々の意思や、社会的問題よりも、人々を地獄に落としていく兵器そのものに、憎悪を募らせていった。そしてそれらを生み出す想像力と創造力、つまり科学そのものを憎むようになった。ゴルは彼が戦時下のイラクで撮った写真を見せてもらった。そこには破壊され尽した建物、血糊、両手両足を失った民間人の子どもたち、死体の山があった。夥しい死体の写真を見てゴルも吐き気を感じた。ロイにとって中東の民主化革命で独裁政府軍が使用した、生物兵器は極めつけだった。これを機会にフリーとなった彼は、科学全般を猛毒と表現し、ペンと写真の力でもって徹底的に糾弾しはじめた。

 現在目下、彼が攻撃しているのは、『シンギュラリティ(特異点)』というポストヒューマン時代の概念で、それは物凄く流行っており、科学の未来について主流の考え方になりつつある。コスト低下も含むコンピューター技術の指数関数的発展と、人間の脳のリバースエンジニアリングによって、想像を絶する処理速度、記憶力を有するコンピューターに、人間の脳のような超並列処理を取り入れ、人間を超える知能、『強いAI』の創造が可能になる。同時に人間の知能も機械化が進み向上する。人間自体を取り込んだ『強いAI』はやがて常に自らを改善、向上していく正のフィードバックループに入り、進化し続けるその圧倒的な知力のもと、遺伝学、ナノテクノロジー、ロボット工学の三本柱を中心に、人類の古いモデルは捨てられ、加速度的に発展する新たな現実が支配するようになるという概念だ。

「ヤツらは人間が人間でなくなることまで肯定するんだ」

 ロイは言った。ポストヒューマン、人間の次の段階を論じる『シンギュラリティ』は、ロイにとって、悪夢以外の何物でもなかった。この考え方が広まること自体が、人類の未来をそのように導いていく原因になっていくことを、彼は懸念していた。確かに『シンギュラリティ』は流行っており、SF小説などは今や、猫も杓子も『シンギュラリティ』だった。

 彼は最近、神という言葉をよく使うようにもなった。行き過ぎた人間の科学は、神の意に反する、あれは罪だと。全米カトリック生命倫理センターの、タデウシュ・パホルチック神父の金言の一部、「できるからというだけで、やるべきなのだろうか」、これをロイはよく引用した。『レミング病』に関しての彼の意見は、「あれは神の意志だ。僕たちは自死によってしか罪を償えない。それは自死こそが最大の罪だから」。

『レミング病』が神の意志ならば、恐ろしいことだが、彼はそれを本当に信じているようだった。彼の信じている神がどんな類の神か、ゴルは知らない。特に『レミング病』に関する彼の言葉は意味がよく解らなかった。彼自身自分の神のことを知らないのでは、と思うことさえある。だが黙示録的な何かが、今にも起こると信じている彼の信仰は、敬意を持って扱うべきものだとゴルは思っていた。何より彼の信仰の純粋さを知っているからこそ、ゴルは彼に惹かれてもいたのだった。

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