第三章 【斥候】《偵察》①
第三章【斥候】《偵察》①
炎。 血。 凶暴な黒い二つの影。 意識を取り戻し最初に聞いた音は、姉さんのすすり泣く声で、最初に見たものは、男の背中越しに見える姉さんの白い足だった。父の屍の下、床一面に叩きつけられた、粘度の高い墨汁のようにどす黒い血溜まりの中から、僕はそれを聞き、そして見た。祭壇のマリア様は炎に包まれていて、パチパチと時折弾ける音がする。
僕を抱きしめたまま絶命している父の、屍の下から這い出して目を凝らす。姉さんは二人の黒人に押えつけられ、そのうちの下半身を露出した一人が、姉さんに覆いかぶさって、獣のような唸り声をあげながら、繰り返し乱暴に腰を突き上げていた。姉さんの白い足は湿気を帯び、ヌラリと光りながら、びくんびくんと解剖されるカエルのように痙攣している。すすり泣きながら時々姉さんは、「あっ、あっ」と苦しそうに声を上げた。その光景は美しく神秘的な絵画のように僕の胸に焼き付いて、僕は半ば圧倒されるように、炎の中立ち尽くして、姉さんたちを見ていた。僕が十五歳、姉さんは十六歳になったばかりの夏、クリスマスイヴの夜だった。
「お姉ちゃんが、ラヴィニス、ぼくがベネディクトだね」
僕たちはリンポポからヨハネスブルクに車で向かう途中、お世話になるケレ牧師から、彼の教会兼、孤児院の沿革を教えてもらった。父は母の病死後に牧師になり、隣人愛を実践すると言って、僕たち姉弟を連れ、帰化までして南アフリカに移り住んだ。僕たちリデルク家には、母国イギリスに身寄りもなく、父のリンポポでの布教に連携してくれたよしみで、ケレ牧師は孤児となった僕たちを引き取ってくれたのだった。
ケレ牧師の小さな教会は、ヨハネスブルク北部の高級住宅街の郊外にあった。後で分かった事だが、教会の孤児の、十三人の女の子のうち約半数が、モザンビークやジンバブエなどから、売春婦にするための人身売買で、南アフリカに連れてこられ、警察に保護されるという経緯で、この教会に落ち着いたのだということだ。イヴという十五歳の少女には、生後四ヶ月の赤ちゃんがいた。姉さんは教会の誰とも、ケレ牧師にさえ一言も口を利かなかった。
犯人逮捕の手がかりが無いまま、事件から三週間程たった頃、姉さんが高熱に見舞われ、数週間、予断を許さない状態になった。状態が回復した後、ケレ牧師の勧めで姉は,HIV感染症の診断を受けることになり、感染の検出が可能になる事後三ヶ月後の検査には、僕も同席したが、陽性結果となった。
「ふっ」
姉さんはまるで自分自身を嘲笑うかのように、検査結果を鼻で笑い飛ばした。発熱はHIVの急性感染症状だった。
教会にいると、心が落ち着く。それがどんなにみすぼらしい教会であっても、十字架の前に跪けば、洗濯したシーツみたいにまっさらになる・・・気がする。でも、その感覚はまやかしに過ぎず、そんなときでも頭を離れないのは、姉さんを助けなかった、自分にたいする嫌悪感だ。あの日、僕は見ていることしかできなかった。恐怖じゃない、美しい光景に圧倒されていた。姉さんは明らかに苦しんでいたのに、僕はそのとき、もっと見ていたいとさえ思っていた。その時に姉さんは僕にとって神に等しい存在になって、信仰の対象となり、十字架に祈ることは姉さんに祈ることと同義となった。僕は姉さんに祈ることによって、まっさらになった気になっているのだった。
長い祈りを終えて立ち上がると、いつのまにか姉さんが、祭壇の横に立っていた。現代の抗HIV薬は副作用も少なく、状態は安定していて血色も良さそうに見える。あくまで一見した限りでは。
「姉さん、僕は牧師になることを決めたよ」
「そう」
「父さんがやりたかったことを僕が引き継ぎたいんだよ」
「そう、物好きね」
「・・・姉さんはどうしたいの」
「自分のことは自分で始末をつけるわ」
それは僕には物凄く不吉な言葉に聞こえた。
「姉さん、もっとみんなと自然に接することは出来ないかな。心配している子供たちもたくさんいるよ」
「私はあいつらに心配や同情なんてして欲しくないわ。あいつらは恩を仇で返すようなやつらだから」
「あいつらって、誰のことを言ってるんだよ、みんな子どもだよ。誰が恩を仇でかえすのさ」
「父さんが善意でやったことを仇で返したじゃないの。父さんが生きてた頃でさえ、天上のパンより地上のパンを欲しがったじゃないの。父さんを殺して私を犯したじゃないの。あいつらには何を説いたって通用しない、昔のアパルトヘイトは良策だったわよ。あいつらの本質は厳しく規制弾圧すべきものよ」
「それは間違っているよ。あの強盗は特別な例で、黒人がみんな一緒なわけではないよ。姉さんのはただの人種差別じゃないか、この教会の子たちはみんな善良で、ケレ牧師は僕たちを助けてくれたじゃないか」
「牧師だって私を性的な目で見ているし、孤児院の男の子たちは私の着替えを覗いて、自慰をしてるわよ」
「まっ・・・・・・」
「私が憎むのは黒人だけじゃない、男という生き物すべてよ、あんた以外のね。あいつらをどうするか見ていれば良いわ、あんたがあいつらと仲良くするのはいいけど、私を巻き込むのは止めてよね」
僕は絶句したまま、長い間その場に立ち尽くしていた。
姉さんは夜になっても帰ってこないことが多くなった。どこで何をしているのか訊ねると、「あんたには関係ない」と、冷たくあしらわれた。孤児院の男の子たちが、何か知っているようだったが、訊ねるとみんな含み笑いをするばかりで埒があかない。業を煮やして彼らに厳しく問いただした。姉さんは、お菓子や小銭と引き換えに、胸や陰部を触らせ、手淫をしてくれると彼らは言った。さらには、口で咥えたり、性交までした子さえいるという。そして夜帰ってこないのは、売春をしているからに違いないと彼らは口を揃えた。彼らの含み笑いは消えなかった。にわかには信じがたい話だ。しかしその夜、なかなか姉さんは帰ってこず、じっとしていられなくなった僕は、教会を飛び出して、当ても無く夜の町を捜しまわった。
明け方近く、すっかり正気を失った僕は、憔悴しきって一人で教会に帰ってきた。祭壇の前に跪き、十字架に祈る。姉さんの無事を祈り、姉さんの罪が許されることを祈った。「ああ神様、僕の大切なラヴィニスを許し、お救いください」
ふと懺悔室にただならぬ気配を感じ、姉さんの声を聞いた気もして、懺悔室に向かい、扉を開ける。その瞬間、僕は既視の光景の強烈な平手打ちを喰らい、戦慄した。
炎。 血。 凶暴な黒い二つの影。 懺悔室には、蝋燭に赤々と照らされた、妖艶な獣がいた。裸の姉さんと二人の黒人が絡み合い、一つの魔物の姿を形成していた。淫獣。姉さんは、一人の黒人に陰部を貫かれながら、もう一人の陰茎を口で咥え、乱暴に髪を掴まれて、涎をたらし、喘いでいる。その姿はもはや人間ではなく、ただの雌の獣だった。そしてその、ただの白い獣は、そこはかとなく美しかった。
「うおおおおおおお!」
叫びながら、二人の黒人に突進していく。二人を突き飛ばし、一方に馬乗りになって顔面を殴りつけた。もう一方は悪態を吐いて逃げていく。僕は相手を殺すつもりで殴り続けた。左の太腿に激痛がはしり、見ると男の手にナイフが握られている。危険を感じ、飛びのいた僕を威嚇しながら、男は走り去った。
「姉さんは何をやっているの」
姉さんは自分の衣服を拾い、身に着け始めている。僕は白い肌から目を逸らした。太腿の傷がじくじくと痛む。
「何って、復讐しているのよ。ウイルスをばら撒いてね」
「復讐のために男に躰を売って、セックスをするのかい」
「何が悪いのよ、男と女はそういう風に作られているのよ、そういうシステムなのよ、くそったれの神に作られて、リンゴを食べてからは、私たちは男であること、女であること、その前に人間であることのためにまつわる、あれやこれやで苦しみ抜くようなシステムに、なっているのよ。これは呪いよ、くそったれの神の呪いなのよ、私は男に復讐しているの、そして神に復讐するために、呪いをばら撒いているのよ、男はみんな私と同じ苦しみを味わえばいいんだわ、神もね!」
僕はまたしても絶句した。まさか姉さんから神を冒涜する言葉が出るとは思っていなかった。
「姉さんは・・・神を呪っているのか?」
「神が私を呪っているのよ! だから私は呪いそのものなのよ、私だけじゃない、あんたもよ! あんたは大ばかだわよ、自分を呪う相手に祈っているんだから。あんたに私の気持ちなんて、逆立ちしたって解らないわよね。じゃあさよなら、せいぜい神と仲良くすることね」
衣服を着終えた姉さんは真っ直ぐ教会から出て行き、そのまま帰ってこなかった。
十字架に祈りながら考えていると、姉さんの言葉が頭をよぎる。「・・・そういうシステムなのよ・・・」これは案外根本的な問題だ。男がいて女がいる、何故か。神様がそういう風に作ったからだ。男と女はセックスをして子孫を繋いでいく。その際、時に意見の相違から回りくどい摩擦が生じ、そこに呪いが生まれる。セックスに関することだけじゃない、「・・・人間であることのためにまつわる、あれやこれや・・・」暴力、戦争、差別、飢え、病、老化、自然災害、その他数々の呪いが、神の作ったこの世界に満ち溢れている。人間だけじゃない、生きとし生けるもの全てが、飢え、殺し、食べ、奪い、老い、死んでゆく。理由も知らされず、狂った日常をただ繰り返す。それがいったい今まで何年続けられてきたのか。これはひょっとすると、大変なことが起こっているのではないだろうか。これだけ累積してきたあらゆる存在の苦しみや痛みや呪い、いわば累々たる死体の山を、いったい誰が清算できるというのか。
腿が痛み、男を殴ったときのことを思い出す。あのときの殺意は間違いなく呪いを生む類のものだ。僕も呪いをばら撒く可能性のある、人間という一つの被造物なのだ。
「僕とラヴィニスの罪は赦されるでしょうか」
僕は懺悔室でケレ牧師に告白し、尋ねた。
「神は全ての人の、あらゆる罪をお赦しになられる」
「・・・全ての人ですか」
「全てだ」
決定的だった。全ての人のあらゆる罪というなら、父を殺し、姉さんを犯したヤツらだって神は赦すのか。篤かった僕の神に対する信仰は、このとき初めて揺らぎ、不確かなものになった。
姉さんをできるだけ早く連れ戻さなきゃいけない、今姉さんは抗HIV薬を服用していないのだ。HIV感染からエイズ発症には、数年かかるとはいえ、服薬しない期間が長くなれば当然リスクは高くなる。姉さんの場合、再感染の恐れもある。事は予断を許さず、警察はあてにならなかった。二ヶ月、僕は教会周辺から町をくまなく捜しまわって、ようやく姉さんらしき白人の少女が、南に向かうバスに乗るのを見たという情報を得た。
「男にHIVウイルスをばら撒くと言っていたから、繁華街にいるかもしれない。ヒルブローに捜しに行く」
僕が出発の準備をしていると、イヴが、あそこはよく知っているし、白人の、まして子どもが一人で行くのは危険だから、同行すると申し出た。
「私もラヴィニスが心配だから」
僕たちは二人でヨハネスブルク中心部にあるヒルブロー地区に向かった。
ヒルブローは高層ビル街の一角にある、バーやナイトクラブがひしめく繁華街で、治安がことさら悪く、多数の犯罪組織が、売春宿、麻薬の密売等の犯罪行為を取り仕切り、強盗、殺人が日常的に発生し、黒人率はほぼ百パーセントで、白人一人では昼間でも外を出歩くことは、事実上できないと言ってもいい。僕たちが到着したのは昼過ぎだったが、実際にここに来てみると、こんなところに姉さんが一人でいるとは思えなくなった。他を当たったほうが良いのではないか。怯える僕の先を、イヴは、目的地があらかじめ分かっているかのように、スタスタと迷い無く歩いていく。やがてひときわ危険そうで、煩雑な区画にあるビルの裏手に回り、小さなドアを開け、イヴは、ついて来いというジェスチャーをした。
中に入るとそこは食堂だった。営業外の時間帯のようで、従業員らしき男がモップがけをしている。イヴが挨拶すると驚いたような顔をして、どこかに電話を掛け、僕たちを奥に通してくれた。
「上階はデリヘルの事務所なのよ」
通された奥の部屋には、肩幅が異常に広い中年の黒人の男が一人、ソファに座っていて、腰掛けたままイヴに手を上げて挨拶した。僕たちは向かいのソファを勧められる。入り口の反対側には、さらにドアがあって、中から数人の男の話し声がしていた。
煙草を勧められたが断った。男とイヴはお互い神妙な面持ちでしばらく見つめあっていたが、男が沈黙を破った。
「子どもは元気か」
「凄く元気よ」
イヴが答えると男の表情は少し緩んだ。男は何か言いたそうなそぶりを見せたが、結局なにも言わず、僕たちは本題に入った。ラヴィニスの写真を見せると、男はそれを持って奥の賑やかなドアの向こうに行き、しばらくすると帰って来た。
「この女かどうか判らないが、プリビリッジの店に恐ろしく上玉の白人がいるという噂だ」
イヴと顔を見合わせる。僕たちは彼に店の住所を聞き、紹介状をもらって、プリビリッジの売春宿に向かった。
僕は、マグマのように沸々と煮えたぎり、どろどろと湧き出る怒りを、なんとか爆発させずに押さえ込んでいた。プリビリッジは、面倒くさそうに言う。
「この女は貧乏くじだったよ。店に出してすぐとんでもない売れっ子になって、一日二十人の客をとることもざらだったが、あとでHIVのキャリアーだってことが分かった。おかげで俺の信用はがた落ちだ。賠償として身ぐるみ引っぺがして放り出したのが、一昨日のことだ。今どこで何をしているかは知らんね」
プリビリッジは僕に買春を勧めさえした。イヴになだめられて、僕はかろうじて彼を殴りつけずに済んだ。僕たちはその後も一週間ヒルブローに滞在して、周辺で聞き込み調査をした。それらしき情報もあり、姉さんが此処にいたことは間違いなかったが、結局本人には辿り着けず、疲れきって教会に引き返した。僕は無力感に打ちひしがれていた。ラヴィニスは僕には想像もできない、どこか別のところへ行ってしまったのだ。打つ手はもう無い。彼女が自分で帰って来るのを待つしかなかった。
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