第二章 【司令官】《作戦立案と敵の目視》
第二章【司令官】《作戦立案と敵の目視》
《F様
拝啓
お久しぶり、ルネ・ヘライデです。そう、あのヘライデよ! 外はあらしだわ。学長曰く、我が愛すべき学徒の高潔さの象徴であるこの学生寮の、窓という窓に狂犬の如く雨が叩きつけて、ささやかな私の胸の芯が高揚してなりません。私は寮に帰ってきたわ。今はあらゆる視線から解放されて、部屋の中に一人います。あらしの夜は、症状(お医者様はあくまでそう言い切りました)もあまり気にしないで済・・・
誰か来たかしら。失礼。
隣の部屋でしたわ。早く勝手を思い出さなきゃ。とにかく私は復学をはたし、急いであなたにお手紙申し上げているの。
突然姿を消したので困惑されたでしょうね。私は入院していたのよ。否応無しの措置入院ですわ。禁止されていたので、電話も手紙もできなかったの。そればかりか暗黒の静謐さを体現するような、寂しい独房の中で凍えていたのよ。重大犯罪者のように。せっかく施術の段取りをつけてくださったのにねぇ。
なぜ入院していたのか? 実のところ私も全く納得できないの。視線はそこらじゅうにあるし、世間は私を嘲笑っているわ。嘲笑い! この世で最も醜い行為は嘲笑いに違いないわ。私は絶対他人を嘲笑ったりはしない。あらゆる醜さは私の敵だもの、自分自身さえもね。私は完全なものを永遠に求め続ける、それはあなたも分かっているわよね。
入院の原因はお医者様を信じるなら、私の初恋にまで遡らなくちゃならないそうよ。お医者様には色々聞かれたし、見られたわ。私の全てを。あなたにも全てを話さなきゃね。ノアを知ったときの私に、本当の誠実さを教えてくれたあなたには、誰よりも誠実でありたいもの。
あらしは凄まじくなる一方で、ちっぽけな胸の高鳴りが抑えられませんわ。愛を感じるとき人はこういう大胆な気持ちになるものかしら。もしそうなら私は恋愛らしい恋愛をした事は無いみたいね。
初めて男性を好きになる前の私は、少女として生きることに必死だった。いくら躰と心が彼岸と此岸にズタズタに引き裂かれようが、親に何て言われようが、私が女の子である事は一種の誇りで、その神聖さに私は生かされていたわ。ただ周囲は私のありのままを受け入れてくれない事はわかってた。だから私の躰が男だって事は、一握りの女友達以外には言わなかった。あなたには一瞬で見抜かれたけれど。
「いいなぁ」と思える人に出会ったとき、それまで保たれていた私の神聖さは後ろめたさに代わったわ。こんな躰じゃ恋愛なんてできないと思ったの。私は十六歳で彼は五歳年上だった。親しくなって何度か会ううちに私は本当に彼が好きなんだと確信した。でも告白したのは彼からで、そのときキスもしたの。正真正銘のファーストキスだったわ・・・その瞬間の私の気持ちをあなたは想像できるかしら、運命の女神は残酷よ。胸の高揚なんて無い、私はただ恥ずかしいと、そして申し訳ないとしか思えなかった。粗相をして叱られた雌の仔猫みたいだったわ。そして私たちにはこの先がないと分かっていたの。
彼の家に泊まりに行き、彼と同じベッドにいた。彼の手が私の躰に伸びるたびに「恥ずかしいから」と言って逃れたわ。涙が止まらなかった。「嬉しいから泣いてるの」と誤魔化したわ。そして彼のもとから去った。早朝、路地を歩く惨めな私をみんなが嘲笑ったわ。あの屈辱は今でも忘れない。そのときよ、『アイツ』が初めて現れたのは。そして『アイツ』こそが今回の入院の原因なのよ。
『アイツ』のことを話すのはこれが初めてね。それは言わば視線そのもので、それ以来ずっと私は見られているという意識が消えないの。こんなあらしの夜でもないかぎりは。むこうは姿を見せないけれど、『アイツ』は常に私を見て世間と一緒に私を嘲笑うの。入浴しているとき、用を足すときさえ、『アイツ』と世間は私の躰を見て嘲笑ったわ。『アイツ』たちが笑うのはあなたもご存知の、私の不完全で醜い男の躰に入っている女の本質に違いなく、私は私の不完全さを嫌というほど自覚しているからこそ、その行為が我慢できないんだわ。ああ不完全さ! あなたは私の躰を見たとき言ったわね。一字一句正確に覚えているわよ。
「君は自分の不完全さに敏感である故に、逆に完全なもののすぐ傍にいるんだよ。何故なら完全なものを知らなければ、不完全という概念は生まれないからね。君が自分の不完全さを思い知るたびに、完全なものはより鮮明に、君に近付いて来るんだ」
この言葉は荘厳なバロックのカテドラルで浴びる、美しい啓示のように心の支えになって、それによって私はかろうじて持ちこたえている・・・私は自殺を計って病院に運び込まれたの、『アイツ』の視線に耐え切れなくなって。だからあなたに会えなかったのよ。だけど今なお生きて耐えているのは、あなたの言葉をもらったが故なのよ。私の未来には希望がある。美しく完全な私という希望がね。
お医者様は、世間の嘲笑いも『アイツ』も、私の病気の症状だとおっしゃるわ。そればかりかお医者様は、あなたやあなたのした事までも全て症状、いわゆる精神分裂病の創りだす典型的な妄想だというのよ! 信じられるかしら? 信じられるわけないわよね。あなたの施したホルモン注射を否定して、どうやって私の躰、胸のふくらみを説明しようと言うのかしら。お医者様はあなたの存在は幻覚だと言うし、ホルモン注射の概念も知らないのよ? あなたに教えていただいた、性同一性障害という言葉もよく分からないし、【XXY】という、私の染色体の構造及び染色体そのものや、DNAにいたっては、「タンパク質か核酸について君は言っているようだが、そんなものの存在は聞いたことがない」と言ったわ。
病院では色々調べられたし、わけのわからない治療や、薬も飲んだ。でも『アイツ』も世間も消えないわ。一応、心が落ち着いてきたのは確かで、「緊急性が緩和された」という理由で、退院にこぎ着けたのだけれどね。
ああ、夜も深くなってきたけれど、ずっと窓がギシギシ軋んでいる。もうすぐルームメイトが帰って来るはずだわ。こんな獰猛な雨風の中、門限もとっくに過ぎた寮を抜け出して、愛しい人に会っているのよ。大胆で明るく、アフロディーテのような、器量の良い魅力的な子で、気も合いそうだし、良いお友達になれそうよ。彼女は今とっても幸せなの。彼女は帰ってきたらすぐ寝るだろうし、早めに本題に入って、お手紙を終わらせたほうが良さそうだわ。
そんなわけで本題ですわ。予想していたことだけど、ノアと再会したの。学生総務受付で復学の手続きをしているときにばったり・・・あらためてあなたに施術をお願いするわ。お金はもう払っているんですものね。なるべく早く返信してくださいな、だってもう彼と会う約束をしてるんだもの。私、彼に全てを打ち明けるわ。私が男の躰であることも、手術する事も全て。そしてもちろん私が彼をどれほど想っているのかも。それが誠実さというものであると、あなたが教えてくださったから・・・・・・いよいよ実行するのよ、私の誠実さを祝福してね。そしてあなたのお力で、私を女性という完全な美に到達させてね。お返事お待ちしていますわ。
それにしても、なぜこの世には男と女がいるのでしょうね。私たちの愛はなんのためにあるのかしら。どうか私の恋愛が成就しますように・・・・・・
ルネ・ヘライデ
敬白》
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《 指定の住所に宛名の方は存在しません 》
ずっと続いていたあらしがおさまり、雨が雪に変わった頃、返送されてきたF様宛の封書には、そう判が捺されてあった。封書が石になるくらいの真摯な眼差しで、宛先に間違いがないことを確かめた私は、汽車を乗り継いで、F様に直接会いに行った。果たしてF様のメゾンには、パリにいるはずの、私の両親が住んでいた。
「引越しも何も私たちはもう、十数年も此処に住んでいるじゃないの」
私の入院以来、いっそうやつれた感のある母は、心配そうな口ぶりでそう言った。父は常に私とは口を利かないが、そのときは不在だった。
私はここ数年の自分の行動範囲の全てに足を運んでF様を探したが、痕跡さえ見つからず半狂乱の態で寮に這い戻って、二日間昏睡状態に陥った。かろうじて意識を取り戻したのは、ノアとの約束の日だった。
『 ああ、どうしたらいいだろうか 』
F様にこのまま会えなければ、性転換手術は受けられない。私はアンドロギュノスのままだ。ノアとの恋愛に先はなく、そもそも私の目指す心と躰が調和した完全な存在にもなれない。気が狂いそうだった。『アイツ』の視線が容赦なく突き刺さる。もうすぐ時間だわ。ほんとうにどうしたらいいの?初恋のときのように、身を引くべきだろうか。絶望的な気持ちでノアの下宿先に向かう途中、すれ違う人々は皆私を嘲笑っていた。雪の積もった無垢な道のりを丸裸で歩いている気分だ。そんな私の躰は醜い! 視線と嘲笑いの中、私は何度も引き返したくなった。ノアの元に辿り着いたとき、私はふらふらだった。
「顔色が悪いよ、大丈夫?」
「ノア・・・」
私はノアの胸に倒れ込みたい衝動に駆られたが、かろうじてこらえた。彼が愛おしくて、切なくて、どうにかなってしまいそうだった。
彼のささやかな下宿部屋に通され、水を一杯もらって飲み、彼のベッドに腰掛けた。ノアがやってきて私の左隣に腰掛ける。彼に私の心臓の音が聞こえないだろうか。私の恐れと戸惑いを見透かされているような気がする。
「会いたかったよ」
彼が私の頬にそっと触れた。私は激しい肉欲を感じ、一瞬でそれを持て余した。自分が抑えきれない。
「ノア・・・わたしもよ。お願い、わたしに・・・」
ノアのくちびるが私のくちびるに重なる。服の上から胸を揉みしだかれた。
「待って、わたしは、実は・・・・・・」
『 しーっ 』
ノアの指先が私の口に当てられ、私は言葉を呑み込んだ。ああノアは全てを分かっているのだ。全てを承知した上で私を愛してくれているのだ。この先私の躰が、ずっと男のままであったとしても、私たちは上手くやっていけるのだ。
ノアが私の躰を弄り、私たちはくちづけしながらベッドに倒れこんだ。舌と舌を絡めあい、とろける熱い粘液の奔流に脳が麻痺してゆく。しかし、ノアの右手が私の陰茎に触れた瞬間、彼の躰が、びくとこわばったのを私は見逃さなかった。ノアが驚愕の表情で私を見つめる。
「きっ・・・君は・・・・」
私の躰も極度の緊張にこわばり、二人の表情は互いに凍りついた。時間が止まっているように感じる。
「君はいったい・・・・・・何なんだ・・・」
粗相を叱られた雌の仔猫。初恋のときと同じだ。私は弁解する。
「わ・・・わたし、躰は男なの・・・でも手術するのよ、女になるの。すぐにはなれないけど、いつか必ず完全な女の子になるんだから・・・・・・」
私は震える両の手を、意識的にせわしなく握ったり開いたりしていた。その手がじわじわと汗ばんでくるのを感じる。ノアはしばらく凍り付いていたけれど、やがて私から視線をそむけ、一言、「・・・ごめん」と言った。その言葉は私にとって、いわば断頭台のギロチンの一撃だった。
「 躰を洗ってくるから、その間に帰ってくれ 」
そう言って、ノアは浴室に行った。私はベッドに横たわったまま、胸の高鳴りを感じていた。高揚はあらしの夜のように次第に高まっていき、これこそが本当の恋愛なのだと、私は確信した。私にも真の恋愛がとうとう訪れた!
「ははははははははっ!」
私は雄叫びのように声を出して笑い、ベッドから飛び出すと、台所で待ち構えていたようにギラリと光る肉切り包丁を掴み、浴室に向かった。
「なっ・・・・・・」
私の突然の闖入に驚くノアの裸体に、私は渾身の力で肉切り包丁を、何度も何度も叩きつけた。
絶叫とともに、肉片と化していくノアを、さらに細かく刻みながら、私は恍惚としていた。オルガスムスさえ感じる。私は何度も絶頂を迎えた。これが愛するってことなんだ、私は今男の人を心の底から愛している! この瞬間こそが真の愛! あとからあとから涙がこぼれた。
原型を失ったノアを見下ろしながら、私は自分の陰茎と睾丸を切り落とし、痛みで立っていられなくなって、血溜まりと肉片の上にひざを着いた。浴室の壁に設置された鏡を見た瞬間、それと目が合い、躰中のうぶ毛が逆立ち、恐怖に慄いた。
鏡にはそれが映っていた。それは私ではなかった。それは無機質がより無機質になるために、腹いっぱいに虚無をつめ込んだ限界のどんづまりのように無機質なヤツで、人間のようだがそれには性器がなく、胸のふくらみもなく、今の私のように出血もしていない。それは鏡の中で、たった今起き上がったように、猫背気味に立ち、じっと私を見ていた。
私には一瞬でそれが『アイツ』であると解っていた。私を監視し、世間とともに私を嘲笑った『アイツ』だ。私は躰の震えが止まらなかった。それは私を罰するために、私の前に姿を現したのだ、ということも、私は知っていた。それは不気味な燐光に包まれたまま、私を見ていたが、やがて右手を挙げ、私を指差し、無表情なまま、やはり無機質の、どんづまりのような声で、ゆっくり言った。
「事は成就した。わたしはアルファでありオメ・・・」
「来い!」
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