第5話


なぜこんな父娘が同居しているのか、親戚には不思議がられている。鎌倉の叔母は「葉奈も親孝行を考える年齢になったんだねえ。」と、勝手に決めつけて賞賛してくるが、実際のところは利害が一致しただけだ。そう、ここは強調したいので2回言わせていただく。利害が一致しただけなのだ。



働き始めてすぐ、給料を貰うようになった私に父は時おりお金を工面して欲しいと連絡してくるようになる。こんな酷い親でものたれ死んだら一生「自分のせいで、、」の念につきまとわれるだろう。貸すか貸すまいか散々迷い、いやいや一度貸したら金ヅル一直線という結論に毎回至り、心を鬼にして「お父さん、私には無理だよ。私1人暮らすのが精一杯。」と断る。これを10年間で25回繰り返した。



こんな父でも一刀両断できずに悶々と悩んでいたのは、唯一の「記憶」が鯉の鋭い骨のように喉に刺さっていたからだ。食用の鯉に馴染みのある方はご存知だと思うが、鯉の骨は竹串のような太さがあり、とても鋭利だ。鯉の骨が刺さるのも一大事だが、病院で処置してくれるだけ幾分かマシだ。私の架空の骨は、耳鼻咽喉科に行っても取り除いてもらえない。



一度、「はっちゃんが借金してお金をこっち回してくれないか。」と言われた時は、この人のために悩むなんでバカバカしいことだと心底思ったし、国民的アニメに出てくるお父さん像と自分の現実との隔たりに悲しくなった。親という存在は、無条件に子どもを慈しむものだと、こんな父を持ちながらも無意識に洗脳されていて、心の端のはしあたりで期待している自分にも嫌気がさした。私にとって「親」と自然に心から思えるのは母ひとりだ。この自分の身に起きた現象を「精神的母子家庭」と名付けた。なんだかモヤモヤしてネガティヴループに入ってしまうもの対して一度名前をつけてしまうと、その後グルグル考えなくて済むことにある時気づき、いつしか自分を苦しめる思考のサイクルから避難する1つの手段になっていた。



私が「人生を自分で終わらせてしまいたい」だとか思わずに過ごせているのは、母の存在が大きい。父と結婚しただけあって、母もだいぶ変わり者だったが、母の異質さが私をたびたび救った。例えば母には「謙遜」という概念がない。同級生のお母さんに「葉奈ちゃんは明るくてかわいいわね。」などとお世辞かもしれない褒め言葉をもらうと、母は開口一番「そうなのよ〜。はなちゃんは、明るいんです!」と言葉をそのまま有り難くいただく。友人のお母さん達はそんな時「そんなことないのよ〜。この前もね、、」と嬉しそうに、でも否定してさらには子どもの欠点と思っているらしいことまで付け加えるのが常だ。母は世間知らずというか、ずれているところがあったが、日本の謙遜文化は子どもの前では毒にしかならないと私は思う。母の対応もあながち間違ってはいないと。母の褒め言葉への対応は、日本全国のお母様方に推奨したい。



母はとにかく私が特別に素敵な子どもと本気で思っていたようだ。ミスユニバースに申し込みたいだとか、神さまから預かった子どもだとか、現実の私の立ち位置との乖離が凄まじかったが、家の外で「あの父親の子」と冷遇を受け続けながらも自尊感情が地に落ちなかったのは、母がバランスをとってくれたからに他ならない。

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