第二十二章 神坂美馬

 第22章

[神坂美馬]

 レイプ犯、猟奇殺人、闇、死の幻視。それらのイメージに随分うなされていたような気がして、目覚めても気分が悪く、胃の中のものをあらかた吐いた。トイレットペーパーで口を拭うと不快な臭いが残った。ペーパーを放り込んで便器の水を流す。胸の傷が、焼けた膣内がジクジクと痛む。気持ち悪い。


 生きている感触。


 私はなぜ生きているんだろう? 形而上学的な疑問がここ最近私に纏わりついている。なぜまだ生に縋りついているんだろう? 死が恐いからか? なぜ死は恐いのか? 遺伝子にそういう風に感じるようプログラムされているからか? サバンナのハイエナどもも、死に恐怖して震えるときがあるのだろうか。死の回避、そこに遺伝子のしたたかな意志の力が働いているのだろうか。私たちは利用されているのか? 自然の風景を美しいと感じる心は何処から来るのだろう。嫉妬のメカニズムとは? 

 私は死を望んでいたはずだ。それもすごぉく。なぜまだ生きている? 地べたに這いつくばって、汚され、生きることに何の意味がある? なぜあのとき私は誇り高い死を選ばなかった? 


 生きているという不快。


 あの猟奇的な、屈辱の夜から、いったいどれくらい経ったのだろうか、時間の感覚が麻痺している。スキンは私を一晩中凌辱したあと、地元の警察に引き渡し、賞金を受け取った。私は一旦病院で治療を受け、裁判を受けるため東京の拘置所に移監された。スキンの私への虐待は不問にされた。警察は司法監察局に支配されているんだ。つまり聖約教会の飼い犬ってわけね。

 寒い。再びベッドに横たわって目を閉じる。瞼の裏にスキンの歪んだ表情が焼き付いている。私をメス豚と何回も罵ったスキン。さぞ満足でしょうよ。ちっぽけな自尊心、取るに足らない劣情、笑っちゃうわよね……ふん。

 独房の狭さ、圧迫感は私をこの上なく不安にさせる。気が狂いそう。もしかしたら既に狂っているのかもしれない。正気と狂気の線引きとは何だろう? 私は昔、もっとまともな人間だったはずだ。子供のころ私は世界中の美しさの中に生きていた。私の見つめる世界はかつて美しかった。いつから世界は光を失った? それとも私自身の心が濁ったのか。単に世界を知らなかっただけなのか。



 私は幼い子供であったとき、


 幼い子供のように語り、


 幼い子供のように考え、


 幼い子供のように思いを巡らせた。


 だが、一人前のものになったとき、


 幼い子供のことはやめにした。


 我々が今、見ているのは、


 ぼんやりと鏡に映ってのもの。



 独房の前、格子越しに男が立っていることに気付いた。

「誰? 」

 男は独房の鍵を開錠し中に入ってくる。私は身構える。

「此処から出してやる。俺を攻撃するなよ」

 男は私の右手をとって、施錠されていた絶縁グローブを外した。

「スタンナイフを俺に使うなよ」

「あなたは……? 」

「俺はハーディ・クーンツ、ファッツの友人だ。彼の依頼で君を逃がす。着替えを持ってきた。今此処で着替えろ」

 ハーディが放り出した紙袋には、新品の、聖マリア渋谷女子高の制服とダッフルコートが入っていた。私は急いで囚人服を脱ぐ。新しい服のサイズはピッタリだ。

「俺についてこい。外まで連れてってやる」



            ◇



 冷えた夜明け前の新宿の街、裏通りを選んで一人駆ける。目的地などない、ただ、逃げるだけ。はっはと吐く白い息が後方に流れる。すれ違う黒猫の緑の瞳が私を不安にさせる。拘置所から追手が出たはずだ。気分が悪い。頭がガンガンする。馴染みの場所には行くことができない。全て警察に抑えられている。IDカードが無いので公共交通機関も合法的には使えない。制服を着てはいるが、既に私は聖マリア渋谷女子高の生徒ではない。私の社会的なアイデンティティは失われた。私が私であることを社会的に証明することは今や出来ない。それでも私は此処に存在している。


 自同律の不快。


 なぜ私は私であることに執着する? 私とは何だ。私の存在を証明するものとはなんだ? 私が考えていること自体が私の存在証明になるのか? 本当にそうか? 私の定義とはなんだ? 私と世界の境界線、その線引きをどうやってする? 警察の包囲は狭まっている? 逃げねば! 


 角を曲がろうとしたとき、男にぶつかった。三人組のチンピラだ。私は謝ったが腕を掴まれた。

「痛ぇんだよ、この女、骨が折れただろうが。慰謝料をよこせ」

 怒りに歪んだ男の顔を見た瞬間、吐き気に襲われた。

「うわっ汚ねぇ、コイツ吐きやがった。酔ってやがるのかこの野郎! 」

 醜い顔、醜い躰、醜い精神! なぜ世界にはこんな醜さが存在する? 誰か私を助けて! 

「おいガキ、ちょっと来い」

 ひと際暗い裏通りに連れていかれた。下衆なチンピラども。三人は私を取り囲む。リーダー格の男は私の腕を掴んだままだ。

「おい、IDカードを出せ、慰謝料を払ってもらう」

 怒りが沸々と煮えたぎる。クズどもは下卑た笑みを浮かべ、私を嘗めまわすように視姦する。


 汚い、汚い、存在の不快。


 衝動が走り私の躰は勝手に動いていた。スタンナイフは使わなかった。徹底的に痛めつけたかったからだ。私はひたすら殴り、蹴り、骨を砕いた。気が付くと三人の男は小便を垂らして横たわり、ピクリとも動かなかった。このまま死ねばいい。私は思った。路肩に吐いた。胃の中にはもう何も残っていなかった。そして自己嫌悪の波が押し寄せてきた。

 このクズみたいな奴らと私は何処が違うんだろう! 私は汚れた口元を拭いながら、空を見上げた。狭いビルの谷間から行方を切り取られた星々は、ネオンと対決するように微かに、それでも精一杯瞬いている。宇宙の本当の広さを、私は想像力を働かせ、全身で感じ取る。私の思考は地球を飛び出し、太陽系を飛び出し、銀河を飛び出し、宇宙の果てへ……。

 この世界の中での私の存在はなんてちっぽけなんだろう。それでも私は宇宙の一部で、同時に宇宙全体なんだ。


『私たちの本質である個々の情報パターンは、周囲を取り巻く世界と直結している。すべての情報は繋がって全体としてまた情報パターンを形成している一個の生き物なの』


 ねぇねの言葉が脳内に甦る。今此処に横たわっているチンピラどもだって、足元に転がっている石ころだって、一つの全てなんだ。きっとこれらは私も含めて、何処でもない、あらゆるところに存在している全てなんだ。

「あああああああああああぁ! 」

 私は空に向かって吠えた。大好きなSPAWNが、私とルーシーを助けようとしたとき、やったように。汚い、汚い、美しい世界。それが、私。


 わたしは、わたしとして、此処に、存在する。


 そうなの、そうだったの、きっと私は……世界を、自分自身の実存を……何を恐れる必要があるのだろう! 世界が私と同義ならば、私の裁量でコントロールできるはずだ! 


『そこでは私たちは永遠に一つで、全てなのよ』


 ママの声が聴こえた気がしたけど、すぐに消えてしまった。生きている人々の『気』の流れ、それらと混じりあって世界を満たしている、全体としての場の『雰囲気』。私はその中にママの存在を探したが、場は喧々囂々けんけんごうごうとして、優しいママの『気』は感じられない。ママは閉じ込められているんだ。ヘヴン、浮遊大陸に! ママを助けないと! 

 私は裏通りを飛び出した。地下鉄新宿駅東口。その瞬間、街頭ディスプレイの映像に私は釘づけにされた。金髪碧眼の少年、クウェール・ガヴローシェの姿が其処にあった。



            ◇



 凄い人込みだった。皆、街頭ディスプレイや自分の端末を食い入るように見つめている。観客は今もどんどん増え続けていて道に溢れ、交通が麻痺していた。

 場の『雰囲気』は異常だった。街頭ディスプレイや端末から発せられる『気』が伝染するように観客の『気』に混じりあい、『雰囲気』のベクトルが一方向に収束していく。私は直感した。ねぇねの仮説。自分の意志を放出して周囲の環境や他人の精神に影響を与える能力。エスパーとしての人類の、最初の突然変異能力だ。遺伝子優位種の爆発的増加の一因。私は氷河鉄道で感じた違和感を思い出した。クウェール・ガヴローシェがあの場を支配していたのだ。彼はテレパスだ。しかも超強力な! 

「……姉弟はロサンゼルスの、バイオテック本社研究施設内でエスパー人体実験のサンプルとして監禁されていた」

 ディスプレイ内、椅子に座ってこちらを見つめる幼いガヴローシェの表情が苦痛に歪む。彼の隣にアジア系の赤い辮髪の男が座っていて喋っている。背景は白い。

「クウェール、アリスの最期を憶えているかい? 」

「はい、僕と姉さんはテレパスで繋がってた。離れていても心が通じ合ってた」

「バイオテック、聖約教会の研究員が姉さんにしたことを思い出してくれないか」

 ガヴローシェは涙を流した。彼の痛みと悲しみがディスプレイから観客へ押し寄せ、皆が共鳴している。私の頬を涙が伝った。これはヤバい。この放送はどれだけの範囲で行われているんだろう? 東京だけか? それとも日本中か? それとも……。

 皆がこの放送を見て涙し、怒っている。場の『雰囲気』が喧々囂々としたまま、同じベクトルに向かっているのを感じ、私は『堕天使の猟兵』がやろうとしていることを理解した。これは強制力を持ったプロパガンダだ。それも世界規模の。恐ろしいことが起こっている。『堕天使の猟兵』は世界中を洗脳しようとしている! 

 ディスプレイから目を逸らそうとしたができなかった。ガヴローシェの激情は凄まじい求心力を持っていた。

「姉さんは生きたまま解剖された。そのとき姉さんの感じていることが僕にも伝わってきた」

 ガヴローシェの恐怖の記憶が伝染して観客がどよめく。助けて! 助けて! お願いだから止めて! 

「聖約教会は姉弟間の共感能力の限界を観測するため、アリスを解剖した。彼らは苦しみそのものを、姉弟に体験させるため解剖を行ったんだ。今、あなた方が感じている痛みは、アリスとクウェールが体験した痛みだ。教会の仕業を許してはならない」

 辮髪の男はクウェールの肩を抱く。クウェールは男に抱きつき、わっと泣いた。場は凍りついた。皆が戦慄している。

「僕は……聖約教会、バイオテックを許さない」

 あちこちですすり泣く声が聞こえた。

「聖約教会の欺瞞、ヘヴンの真のからくりは、先程述べたとおりだ。全ては三十三年前、転移ゲートが南極から掘り出されたときに始まった。ミクロン転移制御装置と人工受精卵の製造ラボはヴァチカンにあり、私たちは今それを証明するためヴァチカンを攻めている」

 画面が嵐のヴァチカンを映し出した。武装した男たちが立ちはだかる巨大なゴーレム兵器のレーザー攻撃を凌ぎながら、サンピエトロ寺院に突入するところだった。豪雨の中雷鳴が轟く。私の周りで次々と悲鳴があがった。男の声は続く。

「我々は信仰の自由、精神の自由のために、今、まさにヴァチカンで戦っている。ヤハウェの真偽を暴き、聖約教会を私たちは潰す」

 男はいったん間を置いた。

「ここで今再び、君たちに問いかける。君たちは今のままで良いのか? 偽善者どもに世界を支配されて良いのか? ガヴローシェ姉弟のような数々の生贄たちの苦しみを傍観することができるのか? 今決断を下すのは誰だ? この期に及んで君たちは傍観者でいられるのか? 」

「僕たち姉弟の、姉さんの苦しみを繰り返させないで! 」

 ガヴローシェの絶叫がきっかけだった。街に満ちた人々の悲しみや苦しみ、どうしようもないやるせなさのすべてが、たった今創造された音楽のように私の胎内で花開いた。


 痛いよぅ、痛いよぅ。


 私の精神を漂白するようなこの音楽は、どこかで聴いた曲のような、奇妙な既視感を伴う、ある種なじみ深いものだった。

『私は初期化されている? というより再構築? 』

 その音楽は同じフレーズをリフレインする。


 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い……


 そして私は悟った。『これは生命の本質なのだ』。突然視界が開ける。

『痛み』。

 それが私たちの臨界点クリティカルポイント

 そしてその先に存在するのは……

『怒り』。


 私たちの頭上を物凄い勢いで何かが唸りをあげ東へ通り過ぎた。ビルを掠めて超低空を飛ぶそれが、聖約教会の広告飛行船だと気付いたその直後、ちょうど教会があるあたりに消えていった。爆音と炎。それが合図だった。

「聖約教会を潰せ! 」

 皆が怒号と共に一方向に走り出した。その先にあるのはたった今落ちた広告飛行船。そして燃える聖約教会新宿カテドラル。


 ママを助けないと。でもその前に……私は上空を見据えて意識を集中させ、高度2000mまでテレポートした。瞬間、空気が冷たく、薄く、呼吸が困難になったが、視界はクリアだった。遠く東南の海上、東京湾のメガフロートを目視した。力が漲っている。あらゆることが可能な気がした。ねぇねはヴァチカンに囚われているはずだ。私はメガフロート東京ベイに意識を集中した。

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