第十四章 神坂美馬

 第14章

[神坂美馬]

 私は人の髪を触るのが好き。ママのショートボブの黒髪は、相変わらず指通りが良い。

「あなたが来ないうちにガブリエルの赤ちゃんの名前が決まったわよ」

 ママの言葉は音楽的な余韻が残る。生きてた頃もたしかこんな話し方だった。私は会えばいつもそうしているように、今もママの髪を梳いている。

「どんな名前になったの」

 私は二ヶ月近くママに会っていなかった。前回の面会予約をすっぽかしてスイスに行ってたから。正しく言うと私はママとの面会日を忘れてた。こんなことは初めてだった。ママとの約束を破るなんて! 

「名前はミスタラ。語感が気に入ったと言って、ガブリエルが選んだの」

「聖書にある名前じゃないわね」

「そうね。何処かにある神秘的な惑星の名前だそうよ。ある冒険譚の舞台になっているわ」

 ママはチョコレートブロックを一つ摘む。髪を梳き終えた私はママの隣、雲の上に腰を下ろした。


「美馬、ほら、ヘヴンが見える」

 ママの指差す上空、軌道上を通過する浮遊大陸が小さく見えた。何かが反射して眩しかったので、思わず目を閉じる。

 ヘヴン、私の目的の場所だわ。ママは私を見てにっこりと微笑む。優しいママ、感傷的な気分になっちゃった。

「ねえママ、ヘヴンには神様がいるの? 」

 私は気になっていたことを訊ねた。SPAWN。私は神の実在を疑い始めている。

「ヘヴンにヤハウェは不在よ。ただ意志だけがアストラル体としてすべてを包んでいる。ヘヴンも含めた、世界にあるアストラル体の総てがすなわち神の意志なの」

「神は復活するの? 」

「ヘヴンが浮遊大陸として顕現したように、ヤハウェもいずれ顕現なさることを、聖約教会は知っている。それは真理なのよ」

「顕現したヤハウェは、私たちを裁くの? 」

「裁くのではないわ、救済するの」

「……宗教的な……其処のところの違いがよく分からない……具体的にはどうなるの」

「私たちは気付くのよ、そして手を差し伸べられる」

「……抽象的ね」

 ママは驚いたように私の顔を覗き込む。

「美馬、あなたの信仰は揺らいでいるのね。神の意志を知りたいなら、モーセの十戒を守り自分を律しなさい。詩篇第一〇三篇、ダビデの歌を覚えているかしら」

 ママは私の手に自分の手をそっと重ね、聖書の一篇を唱え始めた。

「『主はすべて虐げられる者のために、正義と公正とを行なわれる。主はおのれの道をモーセに知らせ、おのれの仕業をイスラエルの人々に知らせられた。主は憐れみに富み、恵み深く、怒ること遅く、慈しみ豊かでいらせられる。主は常に責めることをせず、また、とこしえに怒りをいだかれない。主は我らの罪にしたがって……』」

「ママ、もういいわ、詩篇は私も全部覚えてる。私が訊きたいのはそういうことじゃないの」

 韻が残るママの声が今、私には不快だった。添えられているママの手に力がこもる。

「『……主は我らの罪にしたがって我らをあしらわず、我らの不義にしたがって報いられない。天が地よりも高いように、主がおのれを恐れる者に賜わる慈しみは大きい。東が西から遠いように、主は我らの咎を我らから遠ざけられる。父がその子供を憐れむように、主はおのれを恐れる者を憐れまれる。主は我らの造られたさまを知り、我らの塵であることを覚えていられるからである。人はそのよワワいは草のごとく……』」

 どこかで終了のベルが鳴ってる……と言うよりこれは、警報? ママが私の首筋に両手を這わせ、きつく締め上げてくる。

「ママ? 」

「『……よワワいは草のごとく、その栄えは野の花にひトトしい。風ガガガその上をズギると、失ゼで義ギヤ、そノノノ場ジヨもそれれを知らない。しガし主の慈し巍巍義か主ををををぅ恐れる者の上にあに及ぅよびびその契約を守りその命令を心にトトメて行ナウウ者にまで及ぶ主はそのギギギョくクくくく座を天堅くスエエエララレレレそマつリゴゴトはギギギギがガガガぐきじゅお喜寿bここgи#……∞きhgξギャギ……☆⊿$♪◎lyャ≪ηΦ…………』」

 く、くるしい……私はママの手を掴んで剥がそうとするが、信じられないほど強い力でギリギリと首に喰い込んでくる。ゆらりと私の意識が遠のく……。

 数秒ためらった後、スタンナイフをママのこめかみに叩き付けた。出力は抑えた。ママは全く動じない。真正面に見えるママの顔は髪を振り乱して鬼の形相だ。そして血の涙。その恐ろしい顔がだんだんぼやけてゆく。殺される……私はスタンナイフを最大出力で再びママの顔面に叩き込んだ。そして、そのまま痙攣し、口から泡を吹き、意識を失った。


 ベッドの天蓋は開いていた。目覚めるといつもは私のIDナンバーを読み上げるアナウンスが、今の状況を説明している。

「ヘヴンと地上との中継地点、『クラウドプレイス』が何者かの襲撃を受けました。安全を確保するため市民の皆さまを強制退去させて頂きました。現在は戦闘準備中、防御策を講じております」

 私は口元の泡を拭った。ママの両手の感触がまだ首筋に残っている。 

「ヘヴンの住人は全員無事です。ヘヴンは攻撃を受けておらず、軌道上に健在です。敵は悪魔崇拝者の武装集団と見られ、『クラウドプレイス』の一部を占拠しています。『クラウドプレイス』に居た市民の皆さまは全員退去を完了しました」

 しだいに意識がハッキリしてきた。『クラウドプレイス』が攻撃? 敵はアストラルフィールドにどこからどうやって侵入したの? 同じアナウンスが繰り返されている。私はベッドから降りたけれど、ふらふらと大理石の床に膝をついた。これは眩暈めまい

 初老のシスターが面会室に入ってきて、私が立ち上がるのを手伝ってくれる。

「ママは……」

「ヘヴンの住人は全員無事ですよ、心配ありません。テロリストもすぐに排除されるでしょう。教会は一時閉鎖されます。さぁ、外に行きましょう」

 シスターに支えられながら清算ゲートをくぐった。

「今、支払われたクレジットは後ほど返却されます。自分でお立ちになれますわね。少しショック状態なだけですよ。清涼炭酸水をどうぞ」


 教会の外には人だかりができていた。太陽が若干西に傾いていて来たときより風が冷たい。情報はメディアを通じて広まったようで、詳しい説明を求める人々が殺到して、状況は少し混乱している。

 私はシスターに貰ったコーラを一気に飲み干したあと、携帯端末に不在着信が一件あることに気付いた。ねぇねの大学の事務局からだわ……こちらから掛け直そう。ワンコールで繋がる。

「もしもしこんにちは、神坂美馬です。先ほどそちらからお電話頂いたようですが……」

「あっ美馬さん、お久しぶりですこんにちは、天使萌あまつかもえです。実は此処しばらく真理さんの消息が分からなくて連絡も取れないんです。美馬さん何かご存知ですか? 」

「私は何も知りません。最近連絡とってなかったし……でも私は、えーと、四日後。そちらには行く予定でしたよ。今電話を掛けてみましょうか? 後ほどこちらからまた掛けなおしますけど」

「はい、お願いします」

 ねぇねは電話に出なかった。もう一度事務局に掛ける。

「繋がりませんね。姉はいつから消息不明なんですか? 」

「丁度一週間くらいになりますね。研究センターにも顔を出していません。寮のほうはドアがロックされていてインターホンを鳴らしても反応が無いんです。それで捜索願を出す前に寮の部屋を開けてみたいんですけど、親族の方の立ち会いが必要なんです。お手数ですが美馬さんにこちらに来て頂きたいんですけど……」

「分かりました。いつにしましょうか、今からでもそちらに行けますよ」

「あっ、じゃあこのままお待ちしてます」

 ねぇねが行方不明……私はもう一度ねぇねに電話したが、やはり繋がらなかった。留守電にもならない。お墓参りのとき、慌てて帰っていったねぇねを思い出す。なにかあったのかな。嫌な予感。



            ◇



 つくば市に向かう列車の中で、携帯端末を展開した。ネット上は『クラウドプレイス』襲撃のニュースでいっぱいになってる。世界中の教会でヘヴンの住人との面会ができなくなっている。異端、悪魔崇拝、武装テロリスト、派手な文言が飛び交っているけれど、現状分かっていることはほとんどない。ママの狂気の顔、怖かった! ママの行動は襲撃と何か関係あるのかな。ママは無事なのかな。


 筑波大学に着いたとき、まだ日は沈んでいなかった。事務局に直行する。局では萌さんともう一人、紺の軍服の上に白衣を羽織った、背の高い、ブルネットの女性が私を待っていた。ねぇねの上司かしら。

「萌さん」

「あっ美馬さんお久しぶりです」

 陸上競技をやっていて、快活な天使萌さん、ブラウンのショートカットが似合っている。ねぇねとはたまに食事を一緒にする間柄だ。私も一度同席したことがある。

「えーと、早速この書類にサインをお願いします。私たちが真理さんの部屋に入ることを許可する書類です」

「こちらの方は? 」

「あっこちらは……」

「初めまして、私はお姉さまの部下、螺旋監察官のジェイン・チョーカーです。お姉さまの研究の性質上の必要性から、私もお部屋を一緒に拝見させていただくことになります」

 氷のような『気』をまとっている。私の苦手なタイプ。プレザンスと同じ。

「初めまして、神坂美馬です」

 書類にざっと目を通し、萌さんからペンを受け取ってサインする。

「じゃ、早速」


 凄く嫌な感じがする。萌さんがマスターキーカードを使ってねぇねの部屋のドアを開けた瞬間、鼻を衝く不快な臭気が漂ってきた。金木犀が腐ったような……そして何者かの『気』。ねぇねではない。ねぇねの『気』の代わりに、覚えのある醜悪な、澱んだ欲望の『気』が充満していた。私じゃなくても判る、全身のうぶ毛が逆立つような危険な気配。ワンルーム。玄関から続く、右手にキッチン、左手にユニットバスの短い廊下の突き当りの扉の向こう……。

「下がっていてください」

 ジェイン・チョーカーが腰のホルスターから銃を抜いた。彼女は土足のままゆっくり廊下を進み、浴室に誰もいないことを確認すると、突き当りのドアノブに手をかけた。私は萌さんをかばうように、少し前に出る。螺旋監察官はドアを素早く開けて正面、右、左と銃を構え、ほっと息をついた。

「誰もいません。でもこの臭いは何でしょうか」

 私が少し気を抜いた瞬間、私の頭上、つまり玄関の屋根裏からくぐもった声が響いた。

「タアゲト、ホカァク、オゥンナ、ウゥマイ」

 思わず天井を仰ぎ見た私の視界の隅、天使萌さんの背後にヤツが現れたと思った瞬間、萌さんの躰が四散して宙を舞い、私は大量の鮮血を浴びた。ぬめり気を帯びた白い肌、白い髪、灰色の瞳。萌さんの血に濡れたヤツの歪んだ顔が、にやりと、さらに醜く歪曲する。

「美馬さん、伏せてください! 」

 私は身を伏せる。ジェインが銃の照準をヤツに合わせて叫ぶ。

「動くなっ! 」

「だめ、撃って! 」

 ヤツはもうジェインの目の前にいた。彼女の両手を掴んで部屋の中に押し倒した。ジェインの銃はあさっての方向に発砲しながら床に落ちる。ヤツはジェインの躰に覆いかぶさった。ルーシーと同じだ。この位置だと走っても間に合わない! 

「ふっ……」

 私は息を吸い込んで精神を、視界の先、ヤツの背後に集中させた。瞬間ヤツの背後に立ち、そのまま思いっきり踏み込んでヤツに躰を預ける。『鉄山靠てつざんこう』。ジェインの腹を裂こうとしていたヤツは、部屋の対面に派手に吹っ飛ばされ、シラサギ草が置かれていた机を破壊する。

 私はヤツを視界にロックして、もう一度精神を集中させ、ヤツの目の前、死角に瞬間移動する。私は知っていた、興奮して赤く染まったヤツの左眼は視力を失うことを。食糧倉庫で振り返り、ファッツを見た時の、ヤツの首の角度。私があのとき、ただ怯えて震えていただけと思ったら、大間違いよ! 渾身のフックパンチで最高出力のスタンナイフをヤツの左側頭部に叩きつける。

「どうだっ! 」

 バキバキと火花が散り、手ごたえは十分。

「ギャガアァァァァ! 」

 ヤツは叫んで消える。慌てて周囲を見渡しても、もう、どこにも現れなかった。逃げたの……? 


 足がガクガク震えて意識が朦朧とし、私はその場にへたり込んだ。恐怖のせいじゃない、この能力を使うといつもこうなる。三つあるうちの私の最後の切り札。この能力故に、ラントヴァッサー橋下に落下しても無傷だった。

 ジェインが立ち上がり、まず玄関にある萌さんの遺体を見て、それから私を見た。

「美馬さん……今の、あなたのは、テレポーテーション……あなたは……」

 そう、エスパー。隔離施設にいるべき存在。

「……見逃して……くれないかな? 」

 肩で息をしながら私は懇願する。

「救ってくれたことには感謝します。でも、それとこれとは別です」

 彼女は手錠を取り出した。

「政府の権限で私はあなたを連行します。あなたの能力の性質上、手錠をかけさせてもらいます」

 なるほどそういうことね。私はふらふらと立ち上がり、ジェインの前まで行って両手を差し出した。

「安心してください、お姉さんの行方は私が責任を持って探します」

 手錠をかけられる寸前、私はスタンナイフを閃かせ、まともに喰らったジェインは意識を失った。

「ごめんなさい」

 ざっと見たところ、ねぇねの部屋に消息の手掛かりはなかった。ねぇねを捜さなければ。私は追われる身になってしまった? 此処に長居は無用かな。部屋の端末から警察に匿名の通報をし、横たわるジェインを残して、私は筑波大学を去った。



            ◇



 中目黒駅を降りて少し歩いたところで、私を尾行している黒い人影に気付いた。日はとっくに沈んでいたけれど、繁華街は明るくて人が多く、そいつは人ごみに紛れていた。街は混乱している。『クラウドプレイス』襲撃の話題でもちきりだった。

 そいつの尾行は尾けられている私から見てもあからさまだった。まるで尾行を宣伝しているみたいに、周囲から浮いて挙動不審。よほどのバカか、別の目的があってわざとそうしているのか。ファッツの店に行きたかったのだけど、私は横道にそれて、角に身を隠した。慌てて走ってくる足音が聞こえた。そいつが角を曲がってきた瞬間、私はそいつの胸倉を掴んで、壁に叩きつけ、スタンナイフの電気の刃をそいつの目の前にかざした。

「何の用? 」

「やあ……久しぶり……」

「? 」

 そいつのサングラスが、路肩を通り過ぎた電気自動車のライトに反射して、ギラリと私の眼を刺した。

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