第十二章 神坂真理

 第12章

[神坂真理]

 亡くなったという報せに、あどけない子供のような笑顔を思い出す。ルーシーの葬儀にはとても行けそうに無かった。年が明けてからずっと、筑波大学医学部付属遺伝子医学研究センターの、私の研究室はおおわらわだったのだ。『遺伝子優位種の発生プロセスにおける法則性について』の論文計画の下地をまとめて、三月末の学会で概要を発表しなければならない。

 私の研究はセンター長とのディスカッションの中で、本格的なカップル追跡調査に先立って、仮説の基盤固めのためのアンケート調査を実施することになり、三月の学会にはそれを持っていく。

 私は一月いっぱいを使って、無作為に選んだ各国のエスパー隔離施設に赴き、遺伝子優位種とその親族にアンケート冊子を配り、彼らのDNAサンプルを収集することに忙殺されていた。

 アンケートの質問項目では、主に受胎前後の生活環境を中心に訊ねている。つまり地域性と住居のサンプルデータ、財力、親族全員の状況、人間関係、健康状態や精神状態などの大まかなこと。そして優位種個体の名前の候補とそれをいつ決めたか、受胎前後のそれぞれの段階での気持ち、どんな子に育ってほしいと思っていたかなどの詳細な記録まで、etc、etc。これらのアンケート結果や過去ログを一般的な劣位種の生活環境と相対化したものの中に、優位種の特殊能力の種類別の、文化的共通項を見出していこうというのだ。これは、単純な統計だった。


 人類史から抹殺されつつあるナノテクノロジーほどではないが、現在遺伝子工学の分野は政府によって厳しい規制がかけられている。遺伝子工学において違法なのはDNA観察とDNA解析、そして遺伝子操作だ。それにはバイオハザードを予防する意味と、聖書の解釈による聖約教会の倫理的圧力の両面があり、世界政府軍部が取り締まりを兼ねて派遣する専門家、つまり螺旋監察官のみが、規制の枠を越えることができる。私の部屋にあるシラサギ草も螺旋監察官が手掛けたものだ。

 螺旋監察官、彼女の名はジェイン・チョーカーというのだけど、彼女の『雰囲気』は平坦で色がなく氷のようで、私の苦手なタイプだった。まず彼女が一月一日に突然やってきたことで、研究が大きく動き出した。

 私と二人の助手が各国から送られてくるアンケートの回答や過去ログを整理し、タグ付けをしている間、ジェインは私が収集してきたDNAサンプルの解析に取り組んでいた。


 私は現在の遺伝子優位種の爆発的な増加の説明の候補として、『中立説』も頭の片隅に入れていた。所謂いわゆるジャンクDNA、ヒトのDNAの中の97%もの意味をなさない塩基配列に、長い年月をかけて蓄積された変異が、ある日意味をなし、一気に全面に立ち現れる。五億四千二〇〇万年前の、カンブリア爆発を説明するとされる進化論だ。これなら今の急激な人の進化は説明できる気もする。ただ、私はテレパスである故に、これまでのDNAの焼き直しによる進化を超えた、超自然的な外的要因、言い換えるなら精神的な要因があると直感していた。現代の進化にはバイアスが掛かっているのだ。

 二月に入って直ぐ、ジェインが持ってきた解析データは『中立説』を否定するもので、私の直感と矛盾するものではなかった。しかし彼女が明かした新事実は少なくとも私にとっては初耳で、驚くべきものだった。



            ◇



「つまり、遺伝子優位種のDNAには、未知の寄生型塩基が存在した」

 結城翠センター長は私の目を真っ直ぐ見て、私の報告を繰り返した。

「はい。ジェインによるとこの事実は世界政府各研究機関が共有する、バイオインフォマティクスデータに、既に記載されている。そこでは新塩基は『Q(クァン)』と表現されている」

「本当に塩基なのね。じゃあ『Q』を加えた遺伝子優位種のコドン表も既に世界政府によって作成されているのかしら」

「はい、コドン表は現在アクセス権を申請中」

 センター長は深いため息をつき、どっかと自分の椅子に腰を下ろした。伸びるに任せた長い髪はぼさぼさで、実年齢の四九歳より老けて見える。茶色の瞳の下に、酷い隈ができており、唇も乾いていた。彼女は遺伝子工学研究の自由化を求めて、交渉や啓蒙活動、ロビー活動をする団体の最高顧問でもある。日々の激務は彼女の生命力を確実に蝕んでおり、彼女の『雰囲気』は、ここ最近狂気じみている。


 今私は研究施設内のセンター長室を訪れ、私の研究の進捗状況を報告している。色とりどりのラベルが貼られた、膨大な資料が納められた棚を除けば、殺風景な部屋と言えなくも無い。

「これなのよ。世界政府が遺伝子工学の研究分野を専有しているから、私たち大学の研究施設は常に政府のあとを追うことになる。世界政府は、一〇年、二〇年先を行っている。何を期待してうちのような研究機関に国の補助金が下りてくると思う? 」

「閉じた組織は硬質化する。発見を伴う研究にはイレギュラーが必要。政府はゆらぎを大学や民間の研究機関に求めている」

「そうよ。でもそれなら何故私たちを規制でがんじがらめにするの? 政府のやり方は矛盾しているわ」

「でも場の『雰囲気』に着目した私たちの視点は間違いなくイレギュラー。この新塩基だって……」

「続けて」

「……私の見立てでは塩基『Q』は場の『雰囲気』の結晶。メカニズムは未だ不明だが、塩基『Q』による遺伝子性質発現過程において個体外部の『雰囲気』に干渉して、超自然的な現象を起こしている。つまり受胎の瞬間から発現後まで、塩基『Q』は『雰囲気』と双方向的に深い繋がりがある」

「私たちがその繋がりのメカニズムを完全に解明できるかしら」

「できるかもしれないが時間が掛かる。私たちがもっと自由に遺伝子にアクセスできるようにならないと」

「ヒントだけ与えて、すべてを世界政府に丸投げするのはどう? 」

「それではあまりにも……」

 センター長は椅子に腰掛けたまま、佇まいを正す。

「神坂さん、あなたは私がアンチなのは知ってるわね」

「はい」

「私は世界政府と聖約教会が遺伝子工学の研究をほぼ独占しているのは、彼らが主張する以上の理由があると思っている。彼らは研究を独占して何かをやろうとしているのよ」

「何か別のことを」

「それも一般的な倫理に反する何か。彼らはヤハウェが近いうちに復活すると言っている。そしてヴァチカンには、ヤハウェの遺骸がある」

「ねぇ、待っ……それって」

「そうよ」



            ◇



「……手ごたえはある。客観的に見ても、全体的に受精前における両親や親族の、子に対する思い入れが強いほど、優位種の生まれる確率は上がっている。客観性は世界政府心理学研究機関が新暦三一年に更新した、心理統計マニュアルでふるいにかけて担保している」

 私はまだセンター長室にいて報告を続けている。センター長は私が急いでまとめた報告書を、端末上でさらさらとスライドさせながら聴いている。

「そして思い入れの強さは、正の感情からなるものと負のものと、大きく二極化していて、正の感情からは平和的、負の感情からは攻撃的なエスパー能力が発現する傾向にある」

「ふむ、予想通りね。うまい具合だわ」

「優位種の子供の親のどちらかが、過去に火災を経験した場合、パイロキネシスの能力を持った子供が生まれる確率が37%。先天的後天的問わず視力障害を持った親には、片親で57%、両親が全盲の場合に至っては100%の子供にクレアボヤンス能力が発現している」

「本当に? ますますいい具合だわ。恐ろしいくらい」

「それから顕著なバイアスが見られたのは、聖約教会の信者に優位種の子供が生まれる確率が物凄く低かった。おかしいと思って今助手に統計結果を詳しく調べさせている」

「それ、私がやるわ。統計データのアクセスコードを教えて頂戴」

「え……忙しいのでは」

「忙しいけど、ちょっと思い当たることがあるのよ。私が参加してなにか不都合なことでも? 」

「いえ、ではお願いします。今日の報告は以上」

「ありがとう、思ったより研究は順調に進んでいるわね。明日半日休暇をあげるから、お友達のお墓参り、行ってきたらどう? 」

「はい、そうする。ありがとうございます」



            ◇



 ルーシーの葬儀から三日後だった。私はつくば市からお茶の水まで列車を乗り継ぎ、はねゆり児童養護施設の裏庭にある墓地を訪れた。聖約十字を模った墓標群は、晴れて澄んだ冬の朝の空気に真っ白く映えて、黒い地面とのコントラストが目に痛いほどだった。ルーシーの墓標に花を添える。日本では火葬の習慣がまだ残っているから、この墓の下にルーシーの遺体はない。

 私と同じく喪服を着た美馬が背後で佇んでいる。私は短い祈りをささげると、美馬の隣に立ち、二人でルーシーの墓標を眺めた。

「研究はどう? 」

 心ここにあらずという感じで私にそう尋ねる美馬は、『雰囲気』を読むまでもなく、打ちひしがれていることが瞭然だった。隈に縁どられた目は酷く充血し、時折ちらりと狂気の光が宿る。頬はこけ、洗ってないのだろう、美しかった黒髪は今は脂ぎっていて、口は呆けたように開かれ白痴のように見える。無残な殺害現場に居合わせたということだから、PTSDを発症しているのかもしれない。

「凄く順調。私たちの仮説を裏付けるデータが揃ってきてる。アンケートをもっと厳密に行えば、追跡調査が蛇足になる可能性さえある」

「そう……」

 返事をしたものの、美馬は何も聞いていなかった。二人の間に居心地の悪い、長い沈黙があった。

 私は美馬の肩をそっと抱き寄せる。

「……私何もできなかったの」

 美馬は苦しそうな嗚咽とともに私の胸に頭をもたせ掛け、ようやく言葉を吐き出した。

「アイツがいきなり現れて倉庫にいる間、私は怯えて、おしっこを漏らして、震えているだけだった。怖くてしょうがなかったの。アイツはSPAWNを一瞬でバラバラにして、私を見て、にやりと笑った……ルーシーは私をかばったの。アイツの前に立ちはだかって、私を……」

 そこまで言って美馬はううと泣き崩れた。噎せて胃液を吐き出し、全身を震わせる。

「あんなに怖かったことはこれまでになかった。私の理解を超えてた。この世界にあんなものが、出来事が、欲望が、存在することが信じられなかった。ねぇね、この世界ってなんなの? アイツは何のために存在していたの? そして私たちはなんのために存在しているの? 私たちが此処に生きてるのは誰かの生贄になるためなの? 悪魔というものが存在するなら、アイツはまさしくそれだった。私は怖ろしい……。この世界には悪魔が存在するのよ。そいつはアイツがそうだったように大なり小なり人間の姿をして何食わぬ顔で通りを歩いている。暴力をふるい、子供に麻薬を売り捌き、自分より惨めな人を嘲笑い、善人づらをして人を騙し、よってたかってルーシーを犯し……私はこれまでそういうものと闘ってたつもりだった。肉体を磨き、精神を磨き、力にコミットしてヤツらを狩ってるつもりだった。でもそうじゃなかった。私は弱かった。脆弱な肉体、脆弱な精神、私は賞金稼ぎをしながら神になってるつもりだったけど、本物の悪魔が現れたとき、私は恐怖で動けなかった……」

「自分を責めているのね」

 美馬は私を見上げて「そうかもしれない」と消え入りそうな声で言う。

「あなたは、他人の欲望に晒されることに恐怖を感じている。でもこの世界は欲望のせめぎ合いによって構成されている。生きている限り逃れるすべは無い」

「死んでヘヴンに行けば救われるかな? 」

「死は、ただの死よ」

 再び長い沈黙。冷気を帯びた風がひゅうと吹いて、私たちの髪を乱し、美馬はぶるると躰を震わせ、目をこすった。



            ◇



 お茶の水駅前の喫茶店で美馬と二人でブランチを摂っていると、私の端末に着信があり、結城翠センター長からだった。私は店外に出て通話スイッチをタップする。回線が繋がった瞬間から、ただ事ではない『雰囲気』が伝わってきた。何かあったのだと直感した。

「はい、もしもし」

「神坂さん、時間が無いの、危険が迫っている。単刀直入に言うわ。そのあと私は消える」

「今研究所に? 」

「ええ、でも出ていく。よく聴いて。私は自分でDNAサンプルを解析したの。法を侵したわ。でも驚くべきことを発見した。母体洗礼を受けた子供に、優位種はほとんどいない。そして彼らのDNAには両親のDNAが全く受け継がれていなかった。これはジェインが挙げてきた解析データとも矛盾する。神坂さん、螺旋監察官を信じないで。教会は……この……」

 雑音が混じりセンター長の声が途切れ途切れになる。

「センター長? 」

「……ゲファレナー……ンゲル……イェーガー」

 その言葉を最後に通話が切れた。直ぐに掛け直したが繋がらない。私は店内に戻った。

「何かあったの? 」

 美馬が訊ねる。

「研究所。悪いけどもう帰る」

「そう、気をつけて。また会いに行くわ」

「ええ、美馬、自分を見失わないで。あなたは弱くないわ」

 そう、美馬は強い。すぐに美馬の瞳は、この世の真理は、光を取り戻すだろう。それは私の祈りでもあった。美馬はへっと笑って、店の出口まできて私を見送った。20mほど歩いて私が振り向くと美馬はもう店内に戻っていた。冷たい風は次第に強くなっていく。天気予報は冬の嵐の到来を告げていた。

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