第九章 スキン
第9章
[スキン]
新宿某クラブハウス個室。部屋は防音仕様だがフロアで鳴ってる激しいテクノのベース音がドン、ドンと肚に響く。俺の目の前で長い間恍惚としていたマックスは、跪いて神を讃えるように両腕を広げ、ついにぐるりと白目を剥いた。おいおい大丈夫かよ。天国にいるマックスに呼びかけるとヤツは我に返り、涎にまみれた口元を拭った。移植された猛獣の牙がチラリと覗く。
「すげえ、こんなの見たことねえ。最っっ高の気分だ。リーボック、お前もヤってみろよ」
リーボックというのは俺の偽名だ。もっともスキンという名も本名じゃない。俺の本名は今や俺自身しか知らない、できることなら忘れたい、もう捨てた名前だ。
「俺はヤらない。だからお前を呼んだんだ」
「これ、どれくらい確保してるんだ。沢山あるのか」
「簡単に養殖できるから長期的にはほぼ無限だ。詳しいノウハウは秘密だが、ありふれた細菌を、遺伝子操作後培養して生成抽出してる」
「水産バイオ系か。無認可の遺伝子操作は重罪だぞ……ああやべえ、まだ波がやってくる……」
だらしなく呆けたマックス。産毛を逆立てながら躰中の筋肉が弛緩と緊張を繰り返し、その精神は地上の楽園を彷徨っている。俺はそんなマックスを見下すように眺める。バカで向こう見ずな野郎ども、利用するだけ利用して、骨の髄まで搾り取ったらポイと捨ててやるぜ。
◇
夜の横浜新華僑街、毒々しいネオン群を背に俺は埠頭公園に足を踏み入れた。華僑街は、仕切っていた中国ヤクザが、年末の一斉検挙にともなう大闘争で根こそぎいなくなり、違法クラブ、違法デリヘルや売春人形宿、儒教パブ、脱法ドラッグ店などが、軒並み健全な飲食店や地下イベント会場、カラオケハウス、ラブホテルなどに姿を変えた。一見街の清浄化は成功したように見える。
現在のこの街は俺のような目ざとい切れ者には、夢の街に見える。ヤクザの上層部が消え、居場所を失い、街に放たれた下っ端の狂犬どもが、まだ辺りをウロウロしてるからだ。ヤツらをまとめ上げることができれば、この街を再びカオス状態に戻し、支配できるかもしれない。
ゴウンゴウンと音を立て、赤レンガ倉庫方面から、巨大な飛行船がやってくる。公園の暗がりを歩いていた俺をその光の塊が照らす。
日々の善き行いを心掛けましょう。
あらゆるものの故郷である天国で、
神に抱かれる悦びを知りましょう。
日々の糧を与えてくださる神に感謝しましょう。
私たちは皆、業深き罪人であることを知りましょう。
罪人である私たちもまた、神の前では、
その行いによっては救われることを知りましょう。
神は慈愛の光で私たち罪人を照らしてくれるのです。
まもなく神は復活し、この世に顕現なさるでしょう。
そのとき私たちは神の真意を知るのです。
審判の日に神の慈愛を受けるため、
聖約教会のミサに参加しましょう。
夜の横浜の街よりも一層眩しい光を放ち、聖約教会の広告飛行船が控えめな音量で教義を流しながら、上空を航行している。ツェッペリン型飛行船の腹に取り付けられている巨大ディスプレイには、歴代の偉大な芸術家たちが手掛けたキリスト教及び聖遺骸発見以後、つまりヤハウェ神教の、数々の宗教画のスライドショーが展開されている。
俺は街を威圧するように航行する飛行船を仰ぎ見ながら、埠頭の寂れた一角へと歩を進めた。
「コイツが例の新型バイオアンフェタミンだ。安定供給できて、効果は折り紙つき。呼び名はどうとでも呼ぶがいい。この量なら俺への支払いは前金で一二〇万クレジット。これでも安いぞ。市場に出す量はコントロールするが、たぶん流通しだしたら値段はもっと跳ね上がる。今回はテストを兼ねた初回サービスだ。とりあえず現状でどれだけの金で捌けるかは、お前らの人脈と手際次第だ」
俺は前金を現金で受け取り、代わりに小さなピルケースを五個ヤツらに渡した。マッド、ミナヨシ、太郎丸、雪風、シン。一人一個ずつだ。此処にはケチなチンピラしかいない。俺はヤツらが嫌いだがこれはビジネスだ。金の供給源として表面上は尊重してやってるし、向こうがこっちをどう思っているかなんてどうでもいい。
「なあリーボック、兄貴が行方不明なんだが、あんた何か知らないか。あんたのヤクが上物だって連絡が、たぶん最後なんだ」
「マックスとは新宿で確かに会ったが、知らないなマッド」
「連絡が全く付かないんだ。もし何か兄貴の情報を仕入れたら教えてくれ」
「分かった。まあ今ごろハイになって女とヤってるさ。いいか、今後はこのヤクが世界を席巻するだろう。慎重に捌けよ。足元を見られるな。上手く立ち回れば俺たちは王になれる。世界を征服できるぞ。しっかりやれ」
陳腐な煽り文句だが、ヤツらは恍惚としている。単純な野郎たちだ。こういうヤツらが一番扱いやすい。そしていざと言うときは、トカゲの尻尾になってくれる。
「ヘマをしても仲間に迷惑をかけるんじゃないぞ」
俺に迷惑をかけるなって意味だ。チンピラどもは頷くと、各担当販路の相談を始めた。俺はじゃあなと言って、埠頭の廃倉庫を後に、華僑街へと戻っていった。
関帝廟横の屋台で飲茶してると、先ほどの広告飛行船がまた上空を通過した。今は真約聖書の黙示録の部分を詠唱していて、ディスプレイの中では、ヴァチカンのサンピエトロ広場で行なわれている公開処刑のライヴ映像が流れている。
事は成就した。
私はアルファにしてオメガ。
初めであり終わりである。
渇く人には命の水の泉から無償で飲ませる。
勝利者はこれらのものを受け継ぐ。
私はその人の神となり、その人は私の子となる。
しかし、臆病者、不信仰者、忌むべき者、
殺人者、淫らな者、魔術師、偶像崇拝者、
また、あらゆる偽りを言う者どもの分け前は、
火と硫黄との燃える池にある。
今、ディスプレイの夕日が映える中で断頭台の刃が艶かしく光り、受刑者の男の首がゴロリと落ちた。街の中、悲鳴と歓声が入り混じる。
ふん、ゾっとしないね。ああはなりたくない。俺は陰で上手く立ち回って、王になってやるさ。
麻薬取引は二年近く前に始めた俺の副業だ。賞金稼ぎの収入だけでは、贅沢な暮らしはできない。俺は夜の歌舞伎町が好きなんだ。
ただのジャンキーより捌いてるヤツのほうが罪は重いが、リスクはできる限り排除してある。偽名と偽造IDを使い、変装して正体は見せず、アナログな人脈を使って、派手に立ち回らず、ブツを持っている時間を最低限に絞る。そして自分ではブツを試さない。仲介専門なのでパクられても軽い刑罰と軽い良民ポイント失効で済む。販売目的の大量所持さえ抑えられなければ執行猶予だって付く。リスクと報酬を天秤にかけて、俺はこの仕事をやることに決めたんだ。
賞金稼ぎのメンバーは麻薬密売のことを全く知らないし、麻薬密売の関係者たちは、使い分けてる俺の端末のコールナンバー以外、俺については何も知らない。俺の副業を知ったら、賞金稼ぎメンバーたちは幻滅するだろう。あいつらは基本的に善良だから。特にファッツは凄く怒るだろうな。でも、世の中綺麗ごとだけでは済まないもんだぜ。俺はクズかもしれないが、世の中のことは一番よく知っている。特に醜いものや、汚いものは親父が全部教えてくれた。親父は憎んでも憎みきれないヤツだったが、今では感謝している。この世の悪しきものは皆、親父から教わったんだ。
今、俺の副業が新たな段階に入ろうとしている。『テックスラム』の知人が開発した、新型のバイオアンフェタミン。小遣い稼ぎのケチな仕事で知り合い、女の話で意気投合したそいつから、パラダイムシフトが起こるくらいの、未曾有の快楽を体験できる覚醒剤を独占入手できる目処が付いたのだ。利益は折半。俺とそいつに莫大な金が入ってくる。今の時代、金さえあれば永遠の命だって手に入る。ヘヴンに行く必要がなくなるくらい、この地上が俺にとって楽園になるかもしれない。
◇
「だからどれくらい経ったと思ってるのって訊いてるのよ! 分かってるの? ヨシムネが今どんな思いで逃げ回ってるか! 」
年が明けてもう一ヶ月が経とうとしているが、ミーナキャンベラ・プレザンスとクウェール・ガヴローシェの行方は手がかりさえ掴めていない。
ミーナの元住居はロスの研究施設内にあって、セキュリティが頑丈で手が出せない。証拠物が手に入らないとノブナガの念写が使えない。子供のほうは情報が制限されてて、出自さえ分からなかった。
ハッキングによれば二人のID記録はロスの転移ゲートステーション、現地時刻で去年の一二月二七日二〇時頃、出国ゲートを一緒にくぐったあと途絶えている。時間もシチュエーションも、イェールサマエル・プレザンスが姿をくらました際の足取りと同じだ。その後偽造IDを使ったらしいが、どうやって氷河鉄道まで行ったのか詳しくは分からない。そして当時の各国転移ゲートステーションの監視カメラ映像はまだ警察が持っていて公開されていない。
画像検索は基本的にフリー画像しか拾ってこないが、個別に検索してもヒットするのは過去のミーナの画像ばかりで、そこに手がかりは無かった。
腰の重い俺たちの制止を無視して、美馬は単独でスイス氷河鉄道の事件現場周辺を探りに行った。一人で氷と雪の中を探し回ったんだ。無謀だ。正気の沙汰じゃない。俺は不合理極まりない美馬の行動に失望した。こいつは狂いはじめてるんじゃないかとさえ思う。
「この件には慎重になる必要がある。俺たちはヨシムネが無実だってことを知っている。あの手配書は偽造されたんだ。誰がそんな偽造をしたか? 司法監察局だ。つまり世界を牛耳ってる聖約教会がやってるんだ。下手を打てば俺たちが敵にまわすのは誰だ? これがどれだけヤバイことかお前には分からないのか」
この言葉はごまかしだ。俺がビビってるのは聖約教会じゃない。平日の朝っぱらから俺はファッツの店のカウンターに座ってビールを飲んでいるが、これは俺にとってやむを得ないことだった。俺も身を隠しているんだ。ヨシムネと同じだ。
「聖約教会が何なのよ。本気でやろうと思えば方法は幾らでもあるでしょうよ。分かった、あんたが許可してもしなくても私、ノブナガを連れてもう一度スイスに行ってくるから」
「何をしようとしてるか想像はつくが許可はできないな」
「許可してもしなくてもよ! 」
「おい、いい加減にしろよ。ファッツも慎重になるべきだと言ってただろう。今ノブナガがミーナの過去を中心に、色々手を尽くしてネット上を探っているんだ。そのうち結果を出すだろうさ。お前もこんなところで喚いたりしてないで学校に行ったらどうだ」
「クソがっ」
美馬は吐き捨てて店から出て行った。アイツはもっと自分をコントロールする術を学ばなきゃな。いつか大きなとばっちりがこちらにくるような気がする。
行方不明だったマックスが死体で発見されたのは一週間前で、死因は覚醒剤のオーバードーズによる狂死。その後マッドたちが捌いたブツの客も次々と狂死して、マッドたちは客の身内にボコボコにされたあと警察に売られた。次は俺の番だ。マッドたちは怒り狂って身内に俺を捜させている。切るはずだった尻尾が俺を狙っているんだ。俺はリーボックのIDと人格を捨て、トラブルが起こったとだけ頼み込んで、ファッツの店に引き篭もった。
『テックスラム』のヤツは俺が前払いした六〇万を持ってとうに姿をくらましていた。俺はヤツに一杯食わされたんだ。気付いたら周りは敵だらけ、ほとぼりが冷めるのかどうかさえ判らないが、当面は身を隠して、派手な行動は起こしたくない。それが本音だ。聖約教会は怖くないし、ヨシムネなんてどうでもいい。自分の安全を確保するのが最優先だった。
一番の問題は金だ。今回の六〇万で近々は凌げるが、仕事をしなければいつか金は尽きる。俺は自分のこれまでの色街での放蕩を後悔し始めていた。コントロールが必要なのは俺も同じかもしれない。憎らしい、親父の血が俺を呪っているんだ。唯一の救いは親父と違って俺自身が、自分がクズだってことを自覚してるってことだ。
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