第二部 白い悪魔
第七章 神坂美馬
第7章
[神坂美馬]
にゃん。氷河急行はツェルマットとサンモリッツ間のスイスアルプス山岳リゾートを、五時間半かけて運行している観光列車で、圧倒的な大自然の景勝を、窓が大きくとられたパノラマ車内から存分に楽しめる。昔は同駅間に八時間かけていたけれど、現代の観光客の多くはそれに付き合う程暇じゃない。線路や車体、ダイヤ、レギュレーションもリニューアルを繰り返し、歴史的背景を無視した利益追求型の今の形態に落ち着いた……んだったかな?
私とヨシムネはプレザンスと同じ一等車両の席を確保した。スキン、ノブナガは数両後ろの二等車両にいる。シーズン外で早い時間帯の列車だったからか、予約は簡単に取れた。私のいる車両の客はまばらね。
現地時刻零時過ぎにパリの入国ゲートをくぐった私たちは、そこからジュネーヴ経由でツェルマットまで列車を乗り継ぎ、七時四〇分発の氷河急行に、ギリギリ駆け込み乗車でプレザンスに追いついた。私たちが乗り込むと同時に列車は走り出した。
「やっぱり戦闘服じゃないとモチベーションが上がらにゃいよ」
私とヨシムネは若いカップルを装ってプレザンスの後方四列目の二席に並んで座っている。空調がしっかりしていて快適だけど、スキンに渡されたダサい拡張現実眼鏡と、慣れないリボン付きブラウスに私は辟易していた。ヨシムネのシャツの趣味も褒められたものじゃない。イケてないカップル、どこか不自然。
座席は通路を挟んで一席+二席の配置で、二列ごとにテーブルを挟んで向かい合わせになってる。プレザンスは一席側の四列先、つまり私たちの左斜め前四列先に背を向けて一人で座っている。車両内最後部に陣取ってる大学生らしき西洋人四人組が騒いでいて、私のイヤホンが彼らのフランス語を片っ端から日本語に同時翻訳する。
不自然といえば私たちの前方五列目二席側に並んで座っているスーツ姿のサングラス男二人組だわ。スーツを百歩譲って許容できても、観光列車でサングラスは明らかに異常よね。そして彼らからは不穏な『気』を感じる。
「ねぇヨシムネ、あのグラサン二人組、どう思う? 」
私は声を潜めてヨシムネに訊ねる。
「俺も気になる。プレザンスと通路挟んで向かいになってるけど、プレザンスを監視してるように見える」
「あんな露骨な監視の仕方ってある? スキン、私早いとこ片付けたいんだけど」
私は高機能マイクが仕込まれたピアスにむかって囁いた。イヤホンからスキンのかすれ声が返ってくる。
「列車内ではダメだ。戦闘になって内装を傷付けたり、運行を妨げたりしたら補償金をがっぽり持っていかれる」
「私なら上手くやれるわよ」
「美馬、リーダーは誰だ? 」
「……ふん」
この車両の客はあと、私たちの斜め後方の一席側に向かい合って座っている母子二人組だけ。
嫌な感じ……私はじりじりするような気持ちで、ひたすら待った。窓際のヨシムネはずっと外の景色を見ている。列車は山峡をぬい、数基の橋と数本のトンネルを抜け、滑らかに走っている。車外に展開する雪と氷に包まれた大自然の一大パノラマを流し見ながら、私は次第に落ち着かない気分になっていった。
私はこれから何処に行くのだろう。ねぇねとはもう会えないのか。彼女のあのときの、最期の痛みは、耐え難いものだった。ねぇねに会いたい。優しい肌のぬくもり、髪を撫でて私を見つめる青い瞳、心に響いて、鋭い衝動を呼び起こす美しい声、すべてを見通されているようなざわざわする感覚。ぜんぶ無くなっちゃった。もっとねぇねと一緒にいたかった。
知らぬ間に涙が頬をつたっていた。私は声を押し殺してむせび泣いた。ねぇねに。ただそれだけを祈っていた。私はもう一度ねぇねと一緒に生きていけるなら、他の世界中のすべての命を葬り去ってもいい。しかしもう、ねぇねは死んでしまった!
車内に鼻水を啜る音が連続してあがった。ヨシムネを見ると彼もだらだらと涙を流している。
「なんであんたが泣くのよ」
「それはこっちのセリフだよ」
カタルシスを得たことで浄化されたのか、一瞬気持ちがクリアになったけど、すぐに寂しさと、じりじりした感覚が蘇る。ほんの数歩歩いてプレザンスの頭にスタンナイフを叩きこめばそれで終わるのにどうしてねぇねは……。
「ねぇスキン、私……」
「ダメだ。ヤツが駅に降りた時にやると言ったはずだ」
プレザンスはツェルマットから一度も席を外さず、姿勢も変えず微動だにしない。ねぇ、待って。ほんとに生きてるの? 死んでんじゃないの? 私はヤツの『気』を探ろうと神経をプレザンスに集中させた。生きていることは確かだけど、彼の『気』は平坦で何の色も見いだせない。たまにこういう氷のような『気』を持った人間がいるのよね。私の苦手なタイプだ。私は悲しい気持ちと、はやる気持ちを同居させながら、自分を殺してひたすら待った。
途中数駅に停車したが私たちの車両に乗客の昇降は無かった。後ろの大学生たちは今は静かだ。子供は寝ていて、その母親はこちらに背を向けているので表情は見えないが、景色を楽しんでいるようだ。そしてスーツにグラサンの二人組も相変わらず。プレザンスはこのままサンモリッツまで行くのだろうか。
クール駅を出たところでプレザンスが立ち上がり、後方の車両に向かって歩き出した。私の横を通り過ぎるとき一瞬目が合う。サメのような瞳だ。するとグラサンの通路側の片割れも立ち上がり、プレザンスと同じ方向に車内を移動し始めた。なんかヤバい感じがする。
「追うわ」
グラサンが後方車両に消えたところで、私も席を立つ。
「ダメだ、そのまま待ってろ。走行中だしヤツに逃げ場はない」
「サングラスの男が気になるのよスキン、様子を見てくる」
私はなおも制止しようとするスキンを無視し、ヨシムネを席に残してプレザンスたちの後を追った。
プレザンスは食堂車にいた。カウンター席で丁度コーヒーとサンドイッチを注文しているところだ。私はプレザンスから少し距離を置いて、目を合わせないようにしつつ、彼を意識しながらカウンターについて水を注文した。グラサンはコーラを買って、こちらに背を向ける形でテーブル席だ。こいつは何処から何処まで、ひたすら怪しい。食堂車内には他にも数人の客がいる。
列車が二つトンネルを抜けたとき、プレザンスがこちらに歩いてくる気配を感じ、私はそのとき初めて彼を注視し、彼の外見をまともに観察した。
ブラウンでこめかみから幾らか後退した癖のある頭髪。中年相応で少しけれんみのある表情。痩せ型で紺のさっぱりしたシャツに黒いパンツ。コーヒーカップを手に私に会釈する。洗練されたファッションと所作で、物理的な肉体の醜さをカバーしているように見えた。私は眼鏡の位置を直し、会釈を返した。彼は私の隣に腰掛ける。
「コーヒー奢りますよ」
「ありがとうございます」
平静を装って私がお礼を言ったとき、彼のサメのような瞳がキラリと光ったような気がしてゾッとした。
「失礼ですが日本のかたですか? 」
「そうですよ。日本語お上手ですね」
「日本には住んでいたことがあります。あなたは凄く日本的で綺麗なかたですね。モデルか何かされてるんですか」
「……褒めても何も出ませんよ」
なんなのこの展開。
「お写真一緒に撮ってもかまいませんか? 」
「にゃっ? ああ……いいですよ」
動揺してしまった。プレザンスはポケットから携帯端末を取り出し、私に身を寄せて写真を撮った。ウェイターが私のコーヒーをカウンターに置く。
「うん、よく撮れてる。よかったら転送しますけど」
「いえ、おかまいなく」
内心ドキドキしながら無理につれなくした私の態度に彼は少しひるんだ様子を見せた。
「僕たち同じ車両ですよね。お連れの方は恋人ですか? 」
「まあ、そんなようなものです」
「それは残念ですね。あなたとお近づきになりたいが、先客がいらしたようだ。次に会うときお一人でしたらそのときはもう少し強引にあなたを攻めてみます」
彼は自分のコーヒーを飲み干すと肩をすくめて立ち上がり、食堂車を後に前方車両へ戻って行った。残された私は拍子抜けしてぽかんとしていた。
いったい何がしたかったのだろう。本気で私をナンパするつもりでもなかったようだし、話し相手がほしかったのなら、もっと違う会話もできただろうし……あっ、まさか、写真を……
私がそこまで思い至ったときイヤホンからスキンの責めるような声が聴こえた。
「しくじったな美馬、ヤツは端末を見てるぞ。今ノブナガがモニターしてる映像を送るから自分の失敗を胸に焼き付けろ」
間髪いれず私の眼鏡に映像が表示される。プレザンスの端末だ。さっき撮った私の写真で画像検索をかけている。賞金稼ぎギルドにある私たちの情報はブロックされていて容易には閲覧できないはずだが、この監視社会、私の情報なんてものは他に何処にでもある。案の定プレザンスの端末に左腕に赤い腕章を付けた私の姿がヒットした。こうなったらもうやるしかない。
「ヨシムネ、挟み撃ちにするわよ」
私が舌打ちしてプレザンスを追おうと立ち上がった瞬間、何者かに背後から右肩を掴まれ、無理矢理後ろに振り向かされた。同時に目の前いっぱいになにかの物体が迫る。とっさに上体を仰け反らせて物体の直撃は避けたが、ひゅうと耳元をかすめ、引っ掛けられたわたしの眼鏡が衝撃で割れた。
グラサン男は私が脊椎反射で拳をかわしたことに驚いた様子だった。そのショック状態に付け込んで私は一撃必殺のスタンナイフをグラサンの左胸に叩き込んだ。右手甲に移植された精神感応制御型の電気の刃。象でも失神させるほどの最高出力の電撃がバキバキとヤツの心臓を直撃する。
「ぐおっ」
普通ならこれでグラサンは戦闘不能に陥るはずだった。しかしスタンナイフを叩きこんだ拳の感触に違和を感じた私は、歯を食いしばってそこから最大戦速でさらに踏み込み、自分の全体重と加速を乗せた体当たりで彼奴を吹っ飛ばした。
三つあるうち、惜しみなく使った私の二つの切り札、スタンナイフと『
車内の客がざわざわと広がり、彼奴との間に空間ができた。その空間を貪るように私は間合いを詰め、まだふらついている彼奴にジャブを二発繰り出す。そしてストレートのあと顔面を狙ったバックナックル、腹部へのエルボーから膝蹴りへと繋げる。ガン、ガン、ガンと鉄塊を相手にしてるような手ごたえだけど彼奴は防戦一方だ。私の戦闘スピードについていけていない。いける!
私が勝利を意識した瞬間、カチリと何かが切り換わる音とモーターが回転する音がして、私はふわりと彼奴の右腕に引き寄せられた。
「……! 」
抗って身を捩じらせた瞬間、彼奴の右手首がガタンとはずれ、その開閉口から衝撃が走り私の全身を嘗めた。今度は私が吹っ飛ばされる。
「ぐぅっ……」
躰中の骨がビリビリと震える。直撃は避けた。しかしダメージは重篤。
『エアプレスバズーカ』、この兵器は既知のものだ。超圧縮した空気を、一点に叩きこんでダメージを与える近接戦闘用の大型兵器。基本的に破壊されるまで何発でも撃てるし、くらう部位によっては致命傷になる。彼奴はサングラスを外し、服を脱いで上半身裸になった。金属質の躰。彼奴の右腕全体がバズーカの機能を有している。モーターが回転し空気の流れが右腕に収束してゆく。二発目の圧縮空気の充填は済んだようだ。にゃろう……片膝をついて呼吸を整えようとする。躰が思うように動かない。あばらを何本かやったらしい。
そのとき、彼奴の私を見る視線が邪悪な感じに澱んだ。他の車両に逃げずにギャラリーを決め込んでいる一部の乗客からも澱んだ『気』を感じる。視線に晒された私は自分を顧みてその原因を理解した。私の着ていたブラウスがボロボロになって脱げ落ち、ブラジャーも千切れて胸が露わになっている。下半身のパンツもボロボロで、半裸と言っていい状態だ。
皆が私を見て欲情している……私は羞恥心に犯され動揺し、そこに隙が生まれた。後方車両からスキンが飛び込んでくるのが見えたと思った瞬間、一気に間合いを詰めてきた彼奴の左手に咽喉を掴まれ、車両右側の窓に躰を叩きつけられた。
「ぎゃんっ……! 」
ショックで一瞬意識が飛んだ。彼奴は私を窓に押し付け、そのまま咽喉をギリギリと締め付けながら、剥き出しになった私の左乳房を右手で弄る。
「殺すのは惜しい女だな」
「……や、やめて……」
乳房を乱暴に揉みしだかれる。息ができない。咽喉を握り潰されちゃう……スキンはなにをしてるの……彼奴の右手首がまたガタンとはずれた。
「あばよっ」
彼奴は私の鳩尾に右手をあてがい、にやりと笑って『エアプレスバズーカ』を作動させる。
「このっ」
私は渾身の力を振り絞って右手をどうにか動かし、最大出力のスタンナイフで彼奴のこめかみをカウンターで貫いた。
彼奴が仰向けにぶっ倒れるのが見えた。割れて吹き飛んだ窓ガラスとともに、『エアプレスバズーカ』をまともに喰らった私は車外に放り出された。車両は丁度高架を通過中で、私は落下しながら叫ぶ。
「げほげほ……にゃーん、ざまーみろ! 」
あれ? この橋やけに高いけど有名なラントヴァッサー橋じゃないの? そこまで考える余裕が私にはまだあった。
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