第四章 神坂真理
第4章
[神坂真理]
私はこの世界の
それは私の名前が
それは父と母がまだ生きていた頃の初夏、父の友人が所有する山中湖の別荘に泊まり、清流のほとりで遊んでいたときのことだ。一緒にいたのは友だち姉妹のよしみ、たえ子、そして私と私の妹美馬の四人だった。空は快晴で、宝石が散りばめられたようにキラキラ光る清流と澄んだ空気に魅せられて、四人は夢中で駆け回っていた。
突然美馬が頭から小川に突っ込む恰好で、バシャンと音を立てて転んだ。私は彼女の名前を呼んで駆け寄る。起き上がった美馬の右手には、小さなサワガニが掴まれていた。
「見て、ねぇね、つかまえた! 」
びしょ濡れのまま、そのささやか且つ重大な獲物を掲げて、私の目を真っ直ぐ見つめる美馬の瞳を見返したとき、私は私たち人類が持ち得、到達し得る最も美しいものを知った。それ以来ずっと、私はその美しさのためだけに生きている。
それが真理だ。この世界はそれ以上でも以下でもない。美馬の黒目勝ちの瞳。それだけが世界に必要なすべて。
私たちの父は交通事故で死んだ。美馬の九歳の誕生日プレゼントを買って、それを持って家路を急ぎ、横断歩道を渡っているとき、信号無視のタクシーに轢かれた。
父は文化人類学の研究者で、晩年最後の五年間は、あらゆる武術の完璧なデジタルアーカイブデータを作成するため、美馬を連れて世界中を転々と旅し、各地の格闘戦技術のデータを収集していた。
美馬の天才的な格闘技術は父の影響だ。世界中の様々な武術を父との旅の中で習得していった。父がデータとして収集したものを美馬が体得する。なかばお遊びで始まったこの試みは、今では美馬の実存を支えている。
美馬は未だに父との旅を続けているつもりでいて、父との思い出に依存している。
母は美馬が一一歳、私が一七歳のときに死んだ。当時保育所の職員だった母は、所に乱入してきた精神錯乱者の牛刀から、子供たちを守るため自ら盾となって亡くなった。その自己犠牲的な英雄行為によって良民ポイントを満了し、今はヘヴンにいる。母は他人の子供の命を救ったが、その結果自分の子供の生活を守れなくなったことを気に病んでいる。私はめったに面会しないが、たまに会う彼女の『雰囲気』は他のヘヴン住人と同じくいつも希薄だ。
美馬は最低でも月二回は母に会いに教会に行っていて、ヘヴンの母に依存している。
久しぶりに見る美馬は『雰囲気』が少し変わっていた。夢を見ているような、恋をしているような感じ。本当に恋をしているのならそれは彼女にとって初恋になる。でも相変わらず自身を持て余しているよう。
師走も終わりに近づいているというのに薄着で、今日は黒いパーカーにデニムショートパンツの生足、コートも羽織らず此処にやって来た。彼女の私服はスポーティなものが多い。対する私はパステルピンクのニットに黒のミニスカートと黒タイツ。
今私たちは筑波大学女子寮の、ささやかな私の部屋でチョコレートブロックをつまみながらコーヒーを飲んでくつろいでいる。
「この花綺麗ね、ねぇねのイメージにぴったり。なんていう花なの? 」
美馬と私は並んでみると一目で姉妹と分かる。『はねゆり』では美人姉妹と評判だった。私の方が背が高く、胸が随分小さく、若干肌の色が白い。違うのはそれと瞳だけ。美馬の瞳は私より黒目勝ちで、それが美馬を私よりミステリアスで魅力的にしている。顔のつくりとスレンダーなモデル体型、別々に見ると基本的に見分けがつかないくらい、私たちは似ている。今は髪型も髪の色も同じ、黒髪ロングストレート。
「この花はシラサギ草。主に湿地に生息している。オリジナルの花期は夏だが、これは遺伝子組み換えで一年中咲いている。昔は絶滅危惧種だった。今はオリジナルも含め数は回復」
私の話し方は変だけれど、これは心を閉ざしていた頃の名残で、昔と比べるとこれでも随分社交的になった。心を閉ざしたのは両親の死とは関係なく、私の能力が原因だ。私は人のことが『解り』過ぎる。
「卒論のテーマはにゃんだっけ? 結局どうなったの? 」
美馬は一瞬でシラサギ草から興味を失ったようだ。
「テーマは『遺伝子優位種の発生プロセスにおける法則性について』。完全に暗礁に乗り上げた。螺旋監察官を派遣してくれるように政府に最初に打診したのが四月末だったのにまだ来ていない。でも卒論を書く必要は多分無くなった」
「多分って、どういうこと? 」
「本学医学部付属の遺伝子医学研究センターの研究室長のポストに就くことになった。そこのセンター長がSNS経由で私の論文の草案を見て誘ってくれた」
「そう! 凄いじゃない、これでねぇねも独り立ちね」
美馬は無邪気に笑う。
「ほんとに今までありがとう。私、美馬には……」
肝心なところで言葉を飲み込んでしまう。私と美馬の学費は聖約教会傘下の『はねゆり基金』が全額負担してくれていたが、私の生活費はこれまで美馬の収入に依存していた。
「もっと凄いことがある。そこのセンター長、女の人だが、初めて会ったときお互い解ったの……」
「……つまり……? 」
「彼女もテレパスなの」
美馬の『雰囲気』が一瞬澱んだ。これで彼女も共犯者だ。
「にゃん。それは凄いわね。絶対誰にも言わないから安心して」
美馬はショックを受けたようだった。私には軽いテレパシー能力があり、人の心の動きを感覚的に捉えることに長けている。
聖約教会の影響下にある世界政府は基本的に遺伝子優位種、つまりエスパーを隔離する政策を採っている。エスパーに関する社会的弊害は、遺伝子優位種自身というより、相対的な劣位種の恐怖や嫉妬によるものが大きい。
エスパーに恐怖や劣等感を抱く遺伝子劣位種が、サイボーグ化や生体改造によって能力補填を図り、『アキハバラ・テックスラム』に代表されるような、闇マーケットでの無理な施術が原因で、周りを巻き込んで自滅する事案が増加している。政府の認可を得た正式な能力補填でさえ、倫理的、技術的な問題を多数抱えている。
また、差別意識に裏付けされた優位種、劣位種間の対立も社会問題化していて、二二年前韓国でおこった『金舞生ちゃん殺害事件』、遺伝子優位種の少女がリンチを受け殺害された事件による世論の高まりを受けて、世界政府は仕方なく両者を区分けするという名目で、エスパーを隔離施設に収容する政策を打ち出した。
私の能力を知っているのは美馬とセンター長だけ。私のようにエスパーが自分の能力を秘密にして難を逃れているケースはかなり多い。
「センターではどんな研究をするの? 」
美馬の澱みは一瞬で霧散して、今は黒目勝ちの真っ直ぐな視線を私に向けている。彼女の意志は動的だがその一点一点を抽出すればほとんど迷いがなく、たまに揺らいでもすぐにリセットされる。
「私の卒論と同じ。ただアプローチが違うだけ。私のは直接遺伝子を観察することに重点が置かれていたが、研究所では場の『雰囲気』解析に重点を置いて、被検体を追跡調査することによって、統計学的なアプローチをする」
「ねぇ、待って。ねぇねの仮説は前に聴いたけど、『雰囲気』ってねぇねだけが解る感覚なのよね、それをどうやって他の人が納得する形で解析して証明できるの? 」
尤もな疑問だ。私の『遺伝子優位種の発生プロセスの法則性について』の仮説は『雰囲気』の実在に依存している。
現在の優位種の発生はこれまでのダーウィニズム的な説明を超越している。ダーウィニズム的な自然淘汰ではまず一体の突然変異体が生まれ、その変異体が他の個体より生存に有利な場合、子孫を残す確率が高く、その結果優位種の家系が代を重ねるごとに数を増やしていく。
現在の優位種の増加には家系はあまり関係ない。エスパーの親からエスパーが生まれる確率は当然高いが、優位種の多くは普通の親、そして親類でもない別々の家系から同時並行的に、ランダムに生まれるように見える。さらに増加スピードが爆発的で、これまでの進化論で説明がつく範疇をはるかに超えている。其処に原因と法則性を見つけようというのが私の研究で、私の仮説とはこうだ。
人間の進化の中でかなり以前に、自分の意志を無意識的に放出して周囲の環境や他人の精神に影響(主に共感)を与える能力を持った突然変異体が生まれ、その個体が生殖に成功する確率が「能力ゆえに」高かったので、ダーウィニズム的な淘汰の中、遺伝子プールにその遺伝子が数を増やしていった。
そしてその放出された意志は地球上に広がり、現在の世界のあらゆるものに影響を与える『雰囲気』を作るまで人々と共に進化し、その意志が受精時の突然変異の発生の仕方にも影響を与えている、つまり人々がこうありたいと願う意志が生み出す『雰囲気』に影響された受精卵内の変異DNAが、エスパーを生んでいるのだ。言わば意志の介在する進化。美馬が言うようにこの仮説はまず場に存在する『雰囲気』を証明しないことには、成り立たない。
「そうね……『雰囲気』はその場の文化的性質にも共依存しているから、場を取り巻く『ミーム』を文化人類学的アプローチで分類していくという方法で代替する」
「……にゃるほど、『雰囲気』という言葉は使わないのね」
美馬は納得したようにうんうんと頷いた。彼女の洞察力と理解力には私も一目置いている。
「でも私、場の『雰囲気』ってあまりピンとこないのよね。個人の持ってる『気』のようなものは感じるけど……」
「個人という概念はそもそもどこまでも
「……私たちは永遠に一つで、全て……かな」
「私のやろうとしていることは、大勢のカップルを追跡調査して優位種の発生前後に彼らを取り巻く共通の文化的環境、つまり『ミーム』の共通パターンを見出すこと。それが明らかになれば人類は『ミーム』コントロールによって、人為的且つ自然な形で進化をコントロールできるようになるかもしれない」
そしてそれはこの世から優劣位種間差別を無くすことに繋がる。
「そっか、そして『ミーム』コントロールは『雰囲気』コントロールと同義ってわけね」
「でも論文を完成させるためには、最終的に遺伝子解析がどうしても必要になるから、政府の許可を取りつけないといけない」
「で、螺旋監察官が来ない。それが最大の壁なのね」
世間話をしているうちに、いつの間にかチョコレートブロックは無くなり、二人のコーヒーカップも空になっていた。美馬がお暇の『雰囲気』を匂わせる。
「美馬、あまり危険なことはしないでね。それにあなたは繊細だから『雰囲気』にのまれないように……」
「にゃん。私は大丈夫よ、ねぇね、研究、上手くいくといいわね」
大学の正門まで美馬を見送りにいった。美馬は一度振り返って小さく手を振り、去って行った
私は美馬が死を希求していることを知っている。
私は美馬に依存していて、美馬は私から自立している。
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