第一部 賞金稼ぎ
第一章 un・known
第1章
[un・known]
夜の凍りついたアスファルトを掴む爪と、規則的な呼吸が紡ぐ一歩一歩。俺は海をゆく青魚のように街の中をただ黙々と前進する。
止まることは死を意味する。何から逃げているかは分からないが、とにかく逃げなければいけない。吐き出される白い息が俺の躰を舐めて後方へ流れていく。裏通りに人影はない。俺が今ここに存在することは、すれ違った黒猫の緑色に光る両眼が証明してくれる。俺は生きていて、ここにいる。
大通りを飛ばす電気自動車のハイパードライヴモーターの駆動音、幸せなクリスマスを思わせる街のざわめきと音楽。サンタクロース・イズ・カミング・トゥ・タウン。俺はクリスマスとサンタクロースを覚えている? いったい何を忘れて何を覚えているんだ……俺は誰だ?……俺は自分が何者か憶えていない。逃げねば!
数時間前、俺はカビた臭いがする殺風景な暗い部屋のベッドの上で目覚めた。何処かから、ぴちゃ、ぴちゃと水滴が滴る音が聞こえていた。
俺はうつ伏せに拘束されていた。右前足、左前足、右後ろ足、左後ろ足。ベッドの端四方向にのびる拘束ベルトを引きちぎって俺は逃げ出した。部屋に鍵は掛かっていなかった。ここから逃げなければ死んでしまう。冷え切った外気が怖気づいた俺を奮い立たせた。
何か目的があったような気がするが思い出せない。判っていることは唯一つ、自分の中にある根源的な何かが、ただ逃げろと言っている。
俺はひたすら前に進み続けた。街の雰囲気が変わり、地下に続く通気口からは蒸気が立ち昇っている。「地下鉄新宿駅東口」の表示。地下鉄は一晩中走っているのだろうか。
卑猥なこの街の様相はさながらソドムかゴモラ、硫黄の海に沈むことを運命づけられているかの如く、溢れる光が闇を駆逐する。
正面に見える街頭ディスプレイには異国の情景が映し出されている。電光掲示板には「ヴァチカン・サンピエトロ広場・現地時刻一六時一〇分・LIVE」とラベルされている。夕日に照らされ、断頭台に引きずられてゆく女。女の顔にカメラがズームアップする。アジア系だ、日本人だろうか。
一瞬、俺はその女と目が合ったような気がした。見られている? ぐずぐずしてはいられない、逃げなければ。ディスプレイに背を向け、半狂乱の光を避けるようにして俺は裏通りを選んで進んでゆく。
四本の高架を潜り抜け再び秩序立った区画に入ると、通りがひらけて大きな公園に突き当たった。門柱には「代々木東公園」とある。四つ足のロボットがこちらにやってきた。
「私たちの街の浄化を」
「美しい街は美しい心を育む」
電光メッセージボードを背負った清掃ロボットは、ぴょん、ぴょんと飛び跳ねながら移動し、伸ばした三本のアームを器用に動かして、煙草の吸殻を一つ拾う。そして門柱の脇を抜け、街の光に溶け込んで消えて行った。奴らが他者のテリトリーを侵すことなく黙々と仕事をし、夜が明ける頃には基地に帰ることを俺は知っていた。しかし俺が何者で、何処に行けばいいのかは分からない。
公園の中央に差し掛かったとき、鋭い叫び声が聞こえた。見ると街灯の下、サンタクロースの集団が女に群がっていた。サンタクロースは全部で七人、女は一人、金髪の幼い顔立ちの美人だ。
サンタクロースのうち一人はナイフを右手に、左手で女の躰を抱いて腰を擦り付けている。別のサンタクロースが女の長く美しい髪を掴み、唇を乱暴に貪った。他の五人が周囲を取り囲んで逃げ道を塞いでいる。
女がくぐもった悲鳴をあげ、唇を貪っていた男が女の顔面を殴った。腰を擦り付けていた男はナイフを器用に使って、女のブラウスの胸元を引き裂いた。街灯の光に青白く照らされ映える豊かな双丘に、銀の十字に金色の輪がたすき掛けされたネックレスが光った。このネックレスは見覚えがある。『聖約十字』だ。関わらない方が良いと俺の中の何かが忠告する。あの類のクズどもは、何処にでもいるものだ。あの女は運が悪かっただけのこと……しかし……
俺は揉みあっている集団を横目に通り過ぎようとした。その時、犯されている女と目が合ってしまった。再び悲鳴を上げる女。
「誰か……助けて! 」
……くそっ。俺は……。
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