第10話 暗躍のヴァンパイア.2

 翌朝。

 メアリーが持ち込んできた本は、徹夜の末にほぼ全て読み尽くされていた。


「ついに、完成してしまった」


 そしてかつて横濱を恐怖に震え上がらせたという悪の吸血鬼は、雑誌巻末の投稿コーナーまで細かく目を通し、要点を赤や青のペンでしっかりとまとめた一冊の手帳を作りあげた。

 ただし『悦楽天』はのぞいて。


「読むべきか最後まで悩んだけど、玲が来た時に慌てて隠したものでもギリギリって感じだったもの。私にはまだムリだわ」


 実際アリーシャは、途中で恥ずかしくなって本を伏せ、落ち着いてから続きを読んではまた伏せるみたいなことを何度も繰り返したのだった。


「フフフ、フフフフフ」


 しかし、それでもアリーシャは笑い始める。


「でも、これで私の圧勝だわ。この台本は……完璧だもの」


 翔馬をオトすための戦略。

 重要視したのは『自然に声をかけて好感度を上げる』という点だ。


「まさか『ギャップ』なんていう、今の私にうってつけの戦法を見つけてしまうなんて」


 そう。自己紹介でそっけない態度を取ってしまったことが、むしろこのギャップを生むという、まさに形勢逆転の展開だ。

 アリーシャは目を閉じ、イメージを始める。

 ――時間は放課後、舞台は昇降口。

 まずはしれっと現れて自然に声をかける。


『九条くん、ちょっといいかな?』


 突然親しい感じで呼ばれて驚く九条に、次は穏やかな視線を送りつつたずねる。


『オーブントースターを探しているんだけど、どこに行けば買えるのかしら』


 そして戸惑いながらも答える九条を真っ直ぐ見つめて、印象に残る『ふわっと』笑顔でキメる!


『うん、わかった。ありがとう』


「これで勝負あり。九条との距離は一気に縮まる!」


 まず大事なのは、あの冷たい感じだった転校生がいきなり自分に声をかけてきたという驚きの事態。

 そして次に、最初に見た印象とのギャップを感じさせること!

 初めての自己紹介では緊張していたことにすれば、意外と可愛いんだなと思われるはず。

 参考にしたいくつかのマンガでは、これだけで男子は皆そろって頬を赤らめていた。

 それに買い物を家電製品にしているのだって理由がある。

 そう、これもマンガで見た「荷物重そうだし、手伝おうか?」の展開が期待できるからだ。そうなったらもう一気に隠れ家に連れ込むことだって不可能じゃない。


「……間違いない。これなら絶対にイケるわ!」


 意気込んだアリーシャは変身の杖を手に取ると、手慣れた仕草で振りかざす。

 吸血鬼は、完璧な美少女学院生へと変身した。


「さあ待ってなさい九条翔馬っ!! すぐにでも決着を付けてあげるわ!!」


 自身の姿を鏡で確認して大きく一度うなずくと、絶対の自信と共にアリーシャは隠れ家を後にした。


   ◆


 放課後がやってくると、アリーシャは誰よりも早く教室を出た。

 そして昇降口の物陰にそっと身を潜めると、翔馬がやってくるのを待つ。


「いよいよこの時が来たわね」


 一人になると、途端にドキドキと鼓動が大きく聞こえ始める。


「大丈夫。授業中も頭の中であれだけ練習したんだから、上手くいくに決まっているわ」


 何故か息まで潜めるアリーシャ。するとそこに標的がやって来た。

 来た! 九条が来た!

 よし、ちゃんと一人きりね。まずは先に行かせて……。

 翔馬が通りすぎたのを確認してから、大きく一つ深呼吸。

 さあ、行くわよ。

 グッと腹に力を込めると、アリーシャは思い切って足を踏み出した。

 最後にもう一度流れを確認しつつ、翔馬との距離を近づけていく。


「最初の一言は親しい感じで入って、穏やかに」


 まずは何より「あれ、この前と違う」って思わせることが大事なんだから。

 親しい感じ、そう親しい感じでギャップを感じさせるの。

 ここで言うべきことは『九条くん、ちょっといいかな?』よ。

 はい、せーのっ!



「おい、九条」



「……え?」


 突然刺々しい声で呼びかけられた翔馬は、驚きと共に振り返る。

 あ、あれ、何言ってんの? 私。

 アリーシャは一瞬で頭が真っ白に。

 つ、次、ええと次は……そうよ! 驚く九条に穏やかな感じで聞くの!

 内容は『トースターを探しているんだけど、どこに行けば買えるのかしら』よ。

 いいわね、あくまで穏やかに、余裕を持って聞くのよ。

 はい、せーのっ!


「トースターがいるのだが、どこに行けばいい」


 だからどうしてこんなキツい感じになるのよッ!?


「あ、ええと家電なら……横濱駅まで出た方が確実……かな」


 ほら! 完全に良くない意味で驚いてるじゃない!

 そ、それならせめて、『うん、わかった。ありがとう』くらいは上手に言わないと。

 終わり良ければ全て良し。印象に残るふわっと笑顔でキメるのよ!

 いいわね! 笑顔だけは、笑うところだけ絶対には死守するんだから!

 はい笑って! せええええのっ!!


「フッ、邪魔したな」


「フッ」ってなによおおおおおおおお――――ッ!?

 しかしそんな心の叫びとは裏腹に、アリーシャの足はすでに逃走を開始していた。

 なんで、なんで私はもう背を向けて歩き出しちゃってるの!?

 当然、歩数が増えていくほど翔馬との距離も離れていく。


「どうしてこんなことに……」


 思わず声がもれる。

 その青緑色の宝石のような目には、早くも涙がたまり始めていた。


「あー、あのさ」


 しかしそんなアリーシャの背にかけられた、翔馬の声。


「荷物が重くなるようなら言ってくれよな。手伝うから」

「ッ!!」


 アリーシャに衝撃走る。

 え、こ、これって!? ちょ、ちょっと待って!

 これって予定とは少し違うけど、台本の最後の展開とまったく同じだわ!

 荷物を隠れ家まで運んでもらったなら、あとはもうカプッとしてちゅーっとやるだけ。

 これは……これは奇跡的なチャンスだわ!!

 そうよ、ここで『おねがいしてもいいかしら?』って言うだけで台本に戻れるんだから!

 予想外の展開だけど、この好機をつかめば大逆転よ!

 突然の光明に意気込んだアリーシャは大きく息を吸い、覚悟を決める。

 さあ振り返るのよ! 振り返って今度こそ、今度こそ笑顔で言うの!

 はいっ! せええええのっ!!


「――――おう」


 なんとアリーシャは振り返るどころか、渋く背中越しに片手を上げてみせた。

 な、なによ、なによそれは……っ!?

 その「気持ちだけ受け取っておく。サンキュー」みたいな動きはなんなのよおおおおッ!!

 しかし動き出してしまった足は止まらない。

 アリーシャはそのまま早足で突き進むと次の角を曲がり、その場に崩れ落ちた。


「一体……なにがどうしたって言うの?」


 アリーシャは困惑する。


「どうしてこんなことになるのよ……ちょっと会話をするだけじゃない」


 なにも難しいことなんてないはずだ。それなのに、『翔馬にアピールするんだ』って意識した瞬間になにかがおかしくなった。

 そして歩き出してしまったらもう、振り返ることもできなかった。


「あんなに頭の中で練習したのに、どうしてこんな簡単な事もできないの?」


 つぶやくアリーシャはもう、完璧に狼狽してしまっていた。

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