4

「真冬ー! 帰ろうぜー!」

 授業が終わって十数秒、馬鹿明るい声とともに教室後方の扉が勢いよく開かれた。声の主は我が物顔で入ってくると、こっちに一直線で歩み寄ってきた。

「ちょっと待ってよ……」

「ん~? ゆっくりでいいぜ?」

「…………はっ倒すわよ?」

「ひえっ……」

 矛盾した行動をとる幼馴染を睨みつけて、それから手早く荷物をまとめ始める。

 ……なんだか今日は面倒くさいから、教科書置いて帰るか。朝から疲れたし。それくらい許されるでしょ。どうせ家で勉強することなんてないし。

「……あ、そうだ。時沢は、」

「ん、ハルがどうかしたのか?」

「いや、たまには一緒に帰ろうかな……って、いないし……」

 時沢の席があるほうへ視線を移すと同時に、すでにもぬけの殻になっていて、どうみたって帰ったであろうことが分かった。

「おお~、相変わらず俊足だなぁ」

 なんて暢気なことをのたまげた涼は、特にその後の行動を気にする素振りもなく、「帰ろうぜ!」と言って明るく笑う。

 ――真夏と早く遊びたいからって急かすんじゃないわよ……。

 そう思ったけど、どうせ言ったところで聞く奴じゃないし、それに学校で一人で待たせてるのも可哀想……ああ、いや、今は友達が出来たみたいだから、それはないと思うけど。まあとにかく、さっさと帰って夕飯の準備を手伝いたいし、サクッと帰ろう。

「待ってください真冬ぅ~! 私もご一緒に~!」

 荷物を持って席を立つと、桃が慌てた様子で立ち上がって、がたん、と音をたてて椅子が倒れそうになった。

「ちょっと、」

 危ない、と思った瞬間、涼が「っとっと、」と言いながらすんでの所で止めた。

「あ、あらぁ……すみません……」

「いいってことよ~!」

 申し訳なさそうにする桃の背中をバシバシと力強く叩く涼の手をチョップで止めて、あたしは二人と一緒に教室を後にした。

 そのとき、無意識に時沢の席を見て、心が暗くなるのを感じた。どうと言うことはない。いないことのほうが多い気もする時沢が、肝心なときにいないのは、仕方のないことなんだから。話したいことがあるなら、明日話せばいい。言いたいことがあるなら、今すぐ電話でもすればいい。時沢のことだから、無反応のままなんてことは絶対ない。

「…………時沢、」

 呼んだってどうにもならないのに、呼べば、「なんだ?」っていつもの調子で言って出てくるような気がして。他の子には見せない、あの優しい微笑みを見せてくれる気がして。

 ――そんなの、ありえないのに。

「真冬?」

「…………あ、」

 立ち止まっていると、かなり先まで歩いていってたであろう涼が戻ってくるのが見えた。

「なんか忘れ物でもしたか?」

「……ううん、大丈夫。ちょっと、ぼうっとしてただけ」

 はっ、と少しだけ息を弾ませる涼に心配させたくなくて、あたしは久しく使ってなかったような気がする筋肉を使って、少し笑ってみた。

「…………そっか。あんまり無理するなよ」

「ん。ありがと」

 眉尻を下げて笑う涼が、何か言いたげな様子を見せているのは、分かっていた。でも、きっと、それを聞いてしまうのは、いけないことのような気がして。だからあたしは、何も言わなかった。


 じわじわ。冷房で冷えすぎて寒いくらいだった教室と違って、廊下は少し嘔吐くような空気と熱気を帯びていた。伸ばした背筋をたらり、とゆっくり流れる汗が気持ち悪い。汗はインナーに着ているキャミソールにゆっくりと染みこんで、生地が肌にまとわりつく。ああ、嫌だ。教室が寒すぎていまだにセーターを着てるけど、その役割を終えてしまったらただの厚着でしかない。とにかく早く帰って着替えたい。

「そういえば加藤先生、またフラれたそうですよぉ」

「小枝ちゃんにだろ~? かっちんも懲りないよなぁ」

「不屈の精神、というやつですかねぇ……すごいですよねぇ」

「しつこいの間違いじゃね…?」

 廊下に差し込む陽を横目で見て疎ましく思いながら、談笑する涼と桃の一歩後を歩く。

 ……何を話しているんだろう。耳に入ってはきているけれど、それを「会話」として脳が処理しなくて、何を言っているのかさっぱり分からなかった。

 それもそうだ。だって、さっきから、あたしの目は二人と同じ方向じゃなくて、窓のほうにあったから。


 でも、そこには誰もいない。いや、正確には誰かはいるけども。


 ……けど、どいつもこいつも、あんたじゃない。


「んお?」

「? どうかしました?」

「んにゃ、アレ」

「…………あの方は、」

 急に立ち止まった涼と桃にぶつかりそうになった。

「ちょっと、どうしたの、二人とも、」

 記憶の奥底にいるお父さんのものに比べたら、そんなに広くない涼の背中に隠れて見えなかった前方から、人が飛び出てきた。

 ――あ、と思ったときには、あの愛くるしさだけでは済まされない毒のような声が廊下に響いた。

「こんにちはっ! 志野さん!」

「っ……!」

 じんわり湿った空気を切り裂いた切れ味の良い声の主は、涼と桃を押しのけて、あたしの前に立った。

「な、に……?」

 やっとのことで絞り出した問いに、佐生さんはにこりと笑う。

「お話したいことがあるの!」

 何を言うのかと思えば、なんともないことを口にした佐生さん。それに一瞬、毒気を抜かれて思わず腰が抜けかけた。けど、すぐに態勢を戻す。いけない、気を抜いては、いけない。

「……話すことなんて、ないでしょ」

 拒絶を示すと、佐生さんは不思議そうに何度も瞬きをした。ぱちぱちと閉じ、開かれるたびに、彼女の瞳に吸い込まれていく。

「――それは、志野さんの事情だよね?」

「!」

 固まるあたしを余所に、佐生さんは、矢継ぎ早に言葉を続ける。

「志野さんは話すことなくても、わたしにはあるんだよ?」

「……」

「自分が話すことなかったら断っていいなんて、ジブンカッテすぎない? わたし、そういうのよくないと思うなあ」

「…………」


「ねえ、そうやってなんでもかんでも自分基準で決めちゃうの、やめたほうがいいよ?」


 その一言に、頭に血が昇っていくのが分かった。

「っ……だったら……!」


 ――落ち着け。飲まれるな。敵のペースに乗せられるな。


「……、」

 落ち着いて。取り戻して。ここで乱されてしまえば、相手の思うツボだ。

「……だったら、なに?」

 黙るあたしに痺れを切らしたのか、佐生さんは早く、とでも言いたげに急かしてきた。けどあたしは、構わず深呼吸をして、何拍かあけて言葉を続けた。

「――……いいわよ。そこまで言うなら、話、聞いてあげる。……これでいいんでしょ?」

 これは、負け惜しみなんかじゃない。ここまでしてあたしと話したいことがあるらしい佐生さんに、合わせてあげただけだ。現に、涼と桃がいるのを分かっていて、人と一緒にいるのを分かっていて、その上で頼みこんできたんだ。そこまでされたら、人の好意を無碍にするのはさすがのあたしも心苦しい。どうせ帰ったところで暇なんだ。付き合ってあげない理由は無いだろう。

「ふーん……ずいぶん上から目線なんだね。……まあいいや。ここじゃなんだし、ついてきて。案内するから」

 そう言って佐生さんは歩き出した。あたしも続こうと、一歩踏み出したところで、立ち止まった。

「……そういうことだから。二人は先、帰ってて」

 あたしがそう言うと、涼と桃は困惑した表情を浮かべる。

「真冬、」

 桃が、何か言おうとして、手を伸ばしてきた。けどあたしはそれを、傷つけないように、そっと振り払った。

「……ちょっと、話してくるだけよ」

 大袈裟なんだから。そう付け加えると、桃は言葉に詰まった様子を見せた。

「志野さ~ん!」

 遠くの方で、甲高い声があたしの名前を呼ぶ。早く、行ってあげないと。

「――じゃあ、また、明日。……涼も」

「……う、うん」

 涼がこくりと頷いたのを確認してから、あたしは佐生さんのもとへと向かった。去り際、どうしてか、後ろ髪を引かれる思いがあったけど、それは無理矢理押し込んだ。


 ――だって、二人には関係ないことだから。



◇◆◇◆◇



「ここだよ」

「……」

 連れてこられたのは、二年の教室がある棟とは別――主に一年の教室が集められた棟の中にある一室だった。

 なんだってこんなところに。そんなことを考えていたら、佐生さんは「新聞部の部室がここなんだー」と笑って言った。

 発言から察するに、佐生さんは新聞部の人ってことになるんだろうけど。その部室には今、あたしと佐生さんしかいない。一瞬、嘘なんじゃないかとも思ったけど、そんなことをするメリットはないだろうし、なにより、校内で落ち着いて話せる場所なんて思いつかない身としては、どこでもよかったし、どうでもよかった。

「それで……話って、」

 窓際の机に腰掛けた佐生さんから、少し距離を取った場所にあたしは立った。夕日を背にした佐生さんの表情が眩んで見えなくて、位置取りを間違えた、と思ったときにはもう会話は始まっていた。


「――うん、そうだね。始めよっか」


 噎せるような熱風が、頬を掠める。チリ、と切り傷が痛む、ような気がした。


「ねえ、志野さんはさ、ホントは時沢くんのこと好きなんじゃないの?」


 ――来た。

 どうせ、そのことだろうと思った。あたしと佐生さんが話すことなんて、それくらいしかないんだから。


「……何度も言ってるけど、あたしと時沢はただの友達よ。それ以上でも、それ以下でもない」

 

 ――諭すように。

 ――理解させるために。


 何度言っても解ろうとしない彼女に、今度こそ解らせるために。

 あたしはゆっくりと、刻み込むように言った。


「本当に、そう思ってるの?」


 けれど佐生さんは、解ろうとしない。嘘だと、真実を吐き出せ、と。何度もそう疑って、せっついて。あたしの言葉を、ちっとも信じようとしない。

 

 ――これじゃあ、堂々巡りだ。きっといつまで経っても、この攻防は終わらない。

 どこかで区切りをつけなければ。そうしなければ、きっとこの子は何度だって追ってくる。

 逃げようとしたって、隠れていたって、何度でも見つけて、責めてくる。


 ――……逃げてる?


 ――どうして、そう思うの?


「っ……?!」

 身体が、固まる。


 ――どうして、あたしが? 逃げてる?

……いいや、そんなわけない。あたしは、何からも逃げてない。誰からも、時沢からも、自分からも――涼からも。何からも、逃げてなんかない。ずっと、ずっとここで、この場所で、いつも通りにしてきた。いつもと変わらない日常を、日々を、過ごしてきた。


「ねえ、」

 凍ったように動かないあたしの身体に反して、佐生さんは、彼女の声は、実に軽やかに駆け抜けていく。

「いらないなら、ちょうだい。全部、わたしに、ちょうだい」

  それはまるで、子が親にねだるような言い方だった。一緒に出掛けた先で見た、目新しい玩具を前にして、ほしいほしい、と駄々をこねるコドモのような、そんな言い方だった。

 ――けど、親という生き物は、こんなとき大抵、こう返すのだ。


「――……だめ。時沢は、あげない」

 

 呟くように、けれどはっきりとそう言うと、佐生さんは瞠目する。

「どうして? 志野さんと時沢くんは、ただの友達なんでしょ? だったら、いいよね? ね?」

 いつの間にか目の前に移動してきていた佐生さんは、わざとらしくあたしの顔をのぞき込むように腰を低くした。 

「…………時沢は、モノじゃない。人間よ」

「? うん、そうだね?」

「……だから、あげるも、あげないも、あたしが決めることじゃない。ましてや、佐生さんがねだってどうにかなることでもないでしょ」

 決めるのは、時沢なんだから。あたしがそう言うと、佐生さんは不思議そうに何度も瞬きをした。それから、考える素振りを見せて、あたしから一歩、二歩と離れた。

「……うーん。さっきから志野さんの言ってること、ムチャクチャすぎない?」

 ビシッとあたしを指差して、そう指摘した佐生さんは首を傾げる。

「ダメって言ったかと思えば、決めるのは自分じゃないとか……ムチャクチャすぎるよ。結局、どうしたいの?」

「…………そんなの、」

 

 ――決まってるじゃない。そんなに好きなら、


「…………ぁ、」

 言葉が、詰まる。何か、言おうとして。

「……志野さん?」

「っ、ぅ……」


 ……ああ、そうか。


「うっ……」


 ――だめ、なんだ。


「ぁ、……!」


 ただの、友達だとしても。……ううん、ただの友達、だからこそ。


 ――誰にも、取られたくないんだ。


「……ありゃりゃ。泣いちゃった」

 真正面に投げつけられた、心ない乾いた言葉は、頬を伝う涙によって湿っていく。


 こんなはずじゃなかった。ましてや、泣くなんて。

 あたしはただ、佐生さんにこれ以上関わらないでって言いたいだけだったのに。時沢のことは、好きにすればいいって、そう言いたいだけだったのに。

 なのに、どうして。いつも余計なことばかり、考えてしまうんだろう。


 涙は頬から顎、首筋を通って、カッターシャツの襟を濡らす。一部はたぶん、マフラーも濡らしている気がした。やだ、だめ、生地が傷んじゃう。これがなきゃ、あたしは。


「――何を、しているのですか」

 閉め忘れていた扉から、聞き慣れた声がした。

「…………も、も?」

 振り返れば、そこには桃がいた。

「桃……、」

 桃だ。そう脳がはっきりと認識した瞬間、張り詰めた心はドッと崩れ、あたしはその場にへたりこんでしまった。

「っ、真冬!」

 悲鳴のような声を上げて駆け寄ってきた桃に、あたしは縋りつきたくなった。けど、それはダメな気がして。

 だって、大丈夫って、言ったから。あたしが、そう言ったから。だから、今ここで縋ってしまえば、嘘をついたことになる。

 友達に、嘘をついたことに、なる。

「真冬……、…………帰りましょう。涼さんも、待っています」

「……涼、が……?」

 なんで。そう口にすれば、桃は穏やかに笑って「ほっとけない、だそうですよ」と言った。

「そう……」

 涼が、待っている。その一言に、ひどく安心してしまった。先に帰って、って言ったのに。待っててくれる、その優しさに、安堵してしまった。

「さあ、真冬、」

 差し伸べられた手を取ろうとして――それは、阻まれる。

「すとーっぷ。お話はまだ終わってないよ?」

「……!」

 扉のほうへ視線を向けると、両腕を広げて、先には行かせないと意思表示する佐生さんが立っていた。

「…………貴女は、」

 桃が、あたしと佐生さんの間に立ちはだかる。

「えーと……オウカさん、だっけ? ごめんね、まだ志野さんとお話してる最中だから、出て行ってくれると、」

「…………なさい」

「……桃?」

 不安になって、桃を見上げた。でも、座り込んだままのあたしからじゃ、その顔は見えない。

「んー? なぁに?」

 首を曲げる佐生さんの顔は、何も変わっていない。むしろ、何か楽しんでいるようにも見えた。

「――聞こえませんでしたか? お退きなさいと言ったんですよ」

 瞬間、空気が凍てつくのが分かった。背筋が凍るような感覚。そんな空間を、桃は一瞬で作り出したのだ。

「……あはっ! あははっ! なにそれっ! 騎士(ナイト)気取り?」

 けれど佐生さんは、そんなのお構いなしに腹を抱えて笑った。それはもう、嘲笑うかのように。

「……」

 それに対して桃は、ぎゅっと拳を作るのが見えた。嫌な予感がする。

「……騎士でもなんでも、お好きに呼びなさい。私は、貴女から真冬を守るだけですから」

 整然とした態度で言い切った桃に、佐生さんはきゃはは、と笑いながら拍手を送る。

「へえ、すごいね! 絵本に出てくる王子様みたいだ」

「……」

「あはは、……ああ、でも、そっか。納得したよ。こんなに守られてちゃ、どうしようもないね」

 涙目を拭いながら、半笑いでそう言った佐生さんに、桃が一歩踏み出すのが分かった。

「……もう、よろしいでしょうか? これ以上話すことなんてないでしょう」

「…………。そうだねぇ……うん、知りたかったことも知れたし。いいよ」

 顎に指を当てて考える素振りを見せた佐生さんは、結論を出すと、素直に道を開けた。

「……行きましょう、真冬」

「え、あ……」

 呆然としていたら、桃に腕を引かれて、あたしは半分転げそうになりながら立ち上がった。

 そのままぐいぐいと引っ張られて、あたしたちは教室を後にした。

 

 

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