5
――大丈夫って、そう、言ったから。
何でもないよ。僕は平気だよ。だから心配することなんて、何もないんだよ、って。あの人は笑って、そう言ったから。
あたしなんかより、ずっとずっといたかったはずなのに。それでも毎日、そんなもの誤魔化すように、きらきらと笑っていたから。
……だから。だから、あの人よりいたくないあたしも、笑っていようと思った。あの人みたいに、大丈夫よ、平気よって、そう思えるように。そう、思うように。
――辛い人より辛いことなんて、無いんだから。
そうしてあたしは、笑い続けて――。
◇◆◇◆◇
夕日がきつく差し込み、オレンジ色に染まる廊下を踏み荒らすように、あたしは桃に手を引かれて歩いていた。
「桃……もも、ねえ、ねえってば、」
前を行く桃の顔は見えない。佐生さんといた教室を出てから、一言も発さない桃の後ろ姿は正直、怖かった。一歩進む毎にゆらりと揺れる髪が、なんだか怒りを表してるようにも見えてくる。
「桃、痛い、から」
だから、止まってよ。二人しかいない廊下に、あたしの声がよく響いた。聞こえてないなんて言わせない。抵抗するように立ち止まると、桃の歩みも自然と止まった。
「…………、」
「……」
二人分の静かな息遣いが、廊下に融けていく。
背中を向けたまま立ち止まる桃に、どう声を掛けたらいいのか、分からない。……いや、どうしたらいいのかが、分からない。
だって、こんなこと、初めてだから。あの桃が怒るなんて。いつも柔和な笑顔を浮かべて、優しい言葉を並べて、時折よく分からないことを言ったり、行動をすることがあった子だけど、でも、こんなことをするような子ではなかったはずだ。あたしを追いかけてきて、そして佐生さんとの間に割って入って、勝手に連れ出して……そんな乱暴なこと、するような子じゃ、ないはずなのに。
「…………私、あの人、嫌いです」
「桃、」
ぎゅっとスカートの裾を掴んで、肩を震わせながら、桃はぽつりぽつりと言葉を続ける。
「だって……だって、私の……真冬を、泣かせたんですよ?」
桃はそう言うと、耐えきれなくなったようにこちらに振り向いた。
「私はっ……!」
やっと見えた彼女の表情は、ひどく歪んでいた。艶やかな桃色の瞳には確かに強い怒りの感情が籠もっているのに、表情そのものは悲しみとも、苦しみとも言い切れない、あるいは、どちらもない交ぜになったようなものを浮かべていて。そのくせ、今にも泣きそうな雰囲気もあって。一目見ただけで、桃の中には今、たくさんの感情が溢れ出ているのだと分かった。そしてそれが、あたしと、ここにはいない人に向けられたものなのだということも。
「……桃、ありがとう。助けてくれて」
「っ……!」
あたしが笑いながらお礼を口にすると、桃は弾かれたように目を見開いた。名前と同じように大きな瞳を丸くする桃は、唇を噛みしめて、次第に表情を曇らせる。
「……どうして、」
「桃……?」
顔を俯けて、肩を震わせる桃。どうしたの。そう問いかけるように名前を呼ぶと、桃は勢いよく顔を上げた。その時、一瞬、涙のようなものが飛び散った気がした。
「っ、どうして言ってくれなかったんですか! こんなになるまでっ……こんな……、泣くくらい……どうしてっ……!」
そう言いながら、桃は押し倒さんという勢いであたしの両肩を掴んで、力強く揺さぶってきた。
「……大丈夫、だから」
その一言を発した瞬間、肩に込められる力が増したのが分かった。ぎりっと、痛みが走る。痛い。
「貴女は……この期に及んで……!」
「……」
それはきっと、怒りだった。桃は、真っ直ぐにあたしの目を見つめて、感情をぶつける。大丈夫なんて、嘘でしょう。そう言いたげに。
――分かっている。桃があたしのことを心配して、怒って、泣いて、辛い気持ちをはんぶんこしようとしてくれてることを。一人で抱えないで、話してほしい。そう、伝えようとしてくれていることを。そう
言葉にされなくても、あたしと桃は友達だから、分かるんだ。
……でも、だからこそ、駄目なんだ。あたしは桃に、大丈夫って、言ったから。友達に嘘をつくなんて、言語道断だ。友達は、大切なもので、かけがえのないものだから。
だからあたしは、大丈夫なんだ。
「……桃、ほんとに、大丈夫だから」
だから、手を離して。喉でつっかえながらも吐き出すと、桃は唇を噛み締めて、言葉を選ぶような素振りを見せた。
「……私では、役不足ですか? ねえ真冬、答えて……」
今にも泣きそうな声と顔で、桃は縋りつくように、あたしの胸に頭を預けてきた。ぐっとかかる人の重さに、少し苦しくなる。
「そんなこと……ないわよ」
動かない桃の頭をそっと撫でると、びくりと肩が跳ねた。
「桃は、友達だから」
それ以上は、続けなかった。桃ならきっと、分かってくれると思って。
壊さないよう、包み込むように抱きしめると、あたしの腕の中で桃は肩を震わせた。
「……そんなの、いらない」
「桃……?」
思ってもいなかった返答に、反射的に聞き返してしまった。突き飛ばすように身体を離されて、腕と胸に残った熱が急速に冷やされていく。
「友達だからっ! 話してくれないと言うのなら、私はそんなものいらない!」
桃は悲鳴混じりの声を張り上げて、さらに続ける。
「私は……私は、真冬に、幸せになってほしいのです! 貴女が悲しい想いをしないで、涙を流さなくてすむように……貴女が笑っていられる世界を! 私はっ……!」
見ているこっちが痛くなるような辛い表情で訴えかけられたことに、全身が強張るのが分かった。
「っ……」
心が、強く揺れ動く。
桃が、あたしのことをそんなに大事に思っていた驚きと、思い返せば分からないでもないような不思議さと――そしてここまでお膳立てされても、この子に話したいと思えない自分自身に、心が張り裂けそうだった。
……いや、話したくないのだ。ここまで来て、今更、話せるわけがない。
だって、そうでしょう? 「大丈夫」って言って、やっぱりそれは嘘でした、なんて。それならはじめから素直に頼っていれば良いだけのことで。そうすれば、桃にこんなことを言わせずに済んでいたし、あいつのことで悩んだりすることも、無かったはずで。あいつがどこの誰と仲良くしていようが、あたしは――あたし達は、友達のままでいられたはずで。
――だから今更、後戻りなんて、出来るわけないのに。
「桃……ごめん……」
あたしが呟くように言うと、桃は目を見開いて、途方もない絶望感に突き落とされたような顔で見つめてきた。あたしはそれを直視できなくて、すぐに目を逸らした。自分がどれだけ酷いことを言ったのか、分かっているから。分かっていても、それでも桃の望む行動が出来ないから。
あたしは結局、いつまでもあたしのままなんだってことを、思い知らされる。
悔しい、寂しい、悲しい。あたしは馬鹿だ、大馬鹿者だ。呆れられても仕方ない。怒られても仕方ない。友達じゃないって言われても、否定することは出来ない。――けど、そのことに、安心する自分もいるのだ。あたしはずっとあたしのままで、いられる。そんな馬鹿で、どうしようもない事実に、ひどく安堵するのだ。いいわけないのに、まだ、このままで。
あたしは、変わらずに、いる。
「真冬…………」
その呼びかけに込められた感情のすべてを、あたしは掬えない。桃も、分かっていて込めたんだと思う。その中から少しでも、あたしに届けばと願って、吐き出したんだろう。でもあたしは、分かっていて、そのすべてを取りこぼした。残ったのは濡れた自分の手だけ。目の前にあるのは、勢いよく流れる水だけ。
「…………いえ、謝るのは、私のほうです。ごめんなさい、真冬。取り乱して、しまいました」
桃は後ろ手を組んで、わざとらしく髪を揺らして申し訳なさそうに笑った。目尻には、涙の跡がある。
「真冬にだって、話したくないことの一つや二つ、ありますよね。私も……そうですし」
「桃……」
諦観にまみれた顔で、ほう、と息を吐いた桃に、思わず手を伸ばしかけて――すぐに引っ込めた。傍にいようとしてくれた桃を突き放したのは、あたしじゃない。引き留める権利なんて、どこにあるというのか。
「……真冬、」
引っ込めた手を力いっぱい握り締めていると、桃の優しい声がそっと包んだ、ような気がした。
「涼さんが、靴箱の前で待っています。私は……その、少し用事を思い出したので、先に帰ってくださって大丈夫です」
涼さん。聞き飽きた人物の名前に顔を上げると、桃の困ったような、それでいて慈愛に満ちた表情が目に入った。
「あ……」
――傷つけたんだ。今更、そんなことを悟った。
「それでは真冬、また明日」
柔らかく笑った桃は、それだけ言い残して、あたしの横をすり抜けるように走り去ってしまった。
「桃っ……!」
待って!
柄にもなく叫んでしまった、と思った。けれど、ヒュ、と飛び出た二酸化炭素の塊に、未遂で終わったことを知った。
「……っ!」
後悔したって、遅い。追いかけたって、桃はもう、きっと聞いてくれない。聞いて欲しくない、話したくない、そう言ったのはあたしなんだ。だから桃は、あたしの望んだことをしてまでで……。
なのに、どうして、こんなに胸が痛いんだろう。
「あたしは……」
◇◆◇◆◇
さっきよりも日が墜ちてきて、徐々に夜の色に変わっていく廊下。ふらふら、ふらふらと、覚束ない足取りで、下駄箱を目指していた。
一人でいる夕暮れは、怖い。いつも誰かと――涼や真夏と……家族と一緒だったから、殊更そう感じる。
……いや、怖いというよりも、寂しい、の間違いだろうか。一人で玄関に蹲って、あの人の帰りを待っていた日々を思い出す。
どんどん昏く、暗くなる玄関に、いつまで経っても増えない靴。耳を澄ませば聞こえる生活音は、温かい談笑に変わっていく。まだかな、そう思って扉を開けば、どこからか風に乗って流れて鼻を掠めるカレーの匂い。
ああ、いやだ。そう思ったことがある。それまでは好きだったもののはずなのに、いざそうじゃなくなると、嫌いだ、と思うようになった。でもそんな風に思う自分はもっといやで、嫌いで、悲しくなった。好きだったものが嫌いになって、嫌いだったものはもっと嫌いになって。なんにも好きになれなくなった自分が、一番大嫌いだった。
「それでも僕は、好きだなって思うよ」
眉尻を下げて、少し困り顔ではにかむあの人が、そんなことを言う。
――すごいなあ。あたしも、もっと色んなもの好きになりたい。
幼心に、そんな大層なことを思った記憶がある。なんでも好きになれたら、きっと、もっと楽しいんだろうなって。毎日面白いんだろうなって、そう思っていた。何でもないものでもきらきら、特別なように思えて、大事に出来るんだろうなって。守ることが出来るんだろうなって。
だからあたしは、あの人みたいに、なりたかった。
「真冬?」
もう何千回と聞いた気がする呼び声が、ありもしない音に浸かる耳を突いた。
「…………涼、」
ぼんやりと夕日に眩んでいた視界が、急速にクリアになっていく。
その切り替わる一瞬に、居もしない人の姿が見えた気がした。口だけじゃなく、目まで馬鹿になったのかしら。そう思って、目を擦ると、見慣れた幼馴染の誰かを心配するような表情が映った。
「真冬……!」
涼を目に入れた瞬間、張り詰めていた心が解かれていくのが分かった。それに釣られるように、全身から脱力してへたり込みそうになったのを、涼が慌てて支えてくれた。
「ごめん」
何度目かの気がする謝罪を口にすると、涼は緩やかに口を開いた。
「……なにか、あったんだよな?」
気を遣うような優しい口調に、心がちくりと痛む。桃には、直接聞かれる前に、拒んだけれど。涼には、ごく自然な流れで聞かれてしまった。そりゃそっか。きっとぐちゃぐちゃな顔面に、中には何にも入ってないみたいに、今すぐ飛ばされそうな身体を見たら、聞いちゃうか。
……まあ、あたし自身に、何か深く考えるような余裕がないことも、あるのだろうけど。
「……何でも、ないわよ」
支えになっていた涼の腕に手をついて、ゆっくりと身体を起こす。なんとか一人で立つと、涼は所在なさげな腕を引いた。
「…………嘘、吐くなよ」
ぽつり。誰にも……桃ですら言わなかった言葉を、涼はいとも簡単に口にした。
……いいや、涼はいつだって、分かりやすい奴だ。どんなに込み入った事情だろうが、ややこしい感情でも、誰にでも分かる表現で、言葉にした。
だから今だって、そう。あたしに――。
「……嘘じゃない。あたしは、」
大丈夫だから。そう静かに返すと、涼が息を呑んだ。
「っ、それのどこが大丈夫なんだよ!」
涼の責めるような声が、下駄箱が並ぶ昇降口で反響する。身体に染みこむように、耳に何度も入ってきた音に、心がチリつくのを感じた。
「――あたしが大丈夫って言ったら、大丈夫なのよ!」
自分でも思っていなかった声が、腹の底から出てきて、はっとしたときには、涼が耐えるような表情で「……ごめん」と口にしていた。
――違う、そうじゃない! あたしが本当に言いたいのは……!
「……涼っ、」
――続けようとした言葉は、何かにせき止められた。言葉はそのまま身体の中心を通って、腹の中で溶けて消えていった。
「…………」
また、だ。またあたしは、大事な人を、傷つけてしまった。
ただ、心配しないでって、言いたいだけなのに。
たったその一言が、言えない。
「……真冬、帰ろう。真夏とおじさんが待ってる」
居心地の悪さを隠した幼馴染の優しい声が、そっと促してきた。涼の大きな手が、あたしの手を包み込んで、緩く外へ続く扉に引いていく。
「待って、」
あたしはその手を、離した。
だめ、このままじゃ帰れない。そう、意味を込めて。
「真冬……?」
どうして、と言いたげな顔で、涼が立ち止まる――前に、その背中に頭を預けた。ぽすっ、と軽くぶつかる音がして、涼は察したのか、振り向く動作をやめた。
「…………ごめん」
蚊の鳴くような声だった、と思う。涼は、それを聞いてどう思ったのだろうか。少しだけ身体を揺らして、それから静かに「いいよ」と言ってくれた。
「っ、ごめん、なさい……!」
引き攣る声に、自然と目頭が熱くなるのを感じた。ああ、泣きそうだ。そう思ったけど、今のあたしに涙を流す権利なんてない。だから、歯を噛みしめて、耐えた。泣いちゃ、だめだ。今一番泣きたいのはきっと、あたしじゃない。たぶん、桃と、涼だ。
「真冬、」
温かい、声だった。
「……オレは、見てないからさ。だから――泣いても、いいんだよ」
その瞬間、それまで溜めていた涙が、一気に溢れてきた。ぼろぼろと、みっともないくらい、大粒の塩水が頬を流れていく。
「ぁ……う……りょ、う……あたし……!」
「……うん」
「あたしはっ……!」
「分かってるよ、真冬」
嘘だ。なんにも、分かってないくせに。そう、いつもみたいに悪態を突きたくなったけど、出来なかった。
出来るわけ、なかった。
「ぅ……っ……!」
ああ、情けない。分かっていても、涙は止まらない。それどころか、涼が見てないのをいいことに、どんどん溢れてくる。
――涙だけじゃない、言えなかった、言う必要のなかったものまで、溢れてきて。
「……涼、は……かわら、ないで……!」
言ってしまった。絶対に、誰にも言わないって、決めていたのに。
これは、あたしの我儘だから。馬鹿で、どうしようもないあたしの、身勝手な願いだから。
「うん、オレは変わらないよ」
けれど涼は、そんなことをいともたやすく肯定してしまう。
これがどれだけ酷い願いなのか、本当は分かってるくせに。否定したって、いいのに。あたしとあんたは、恋人でも、家族でもない、ただの幼馴染なんだから。何にだって、なっていいのに。
どこにだって、行っていいのに。
――なのに、涼は、
「オレは、どこにもいかないよ。ずっと、真冬の傍にいる」
あたしの傍に、いてくれる。
その願いはきっと、世界からしたらちっぽけなものかもしれない。でも、あたしにとっては、命の次か、その次の次くらいには重いもので。涼にとっても、きっと、そう。『ずっと』なんて、そんな途方もない時間を、あたしに費やして。
――あんたは、それでいいの?
「っ……」
そんなこと、聞けるわけがなかった。だって、涼のことだから、あたしの欲しい言葉しか返してくれないはずだ。
あたしは、あんたが本当はどう考えているのか、どう思っているのか、知りたいのに。言ってくれて、いいのに。
嫌なら、重いなら、そう、言って欲しいのに。
なのに、まるで全部があたしのために在るみたいに、涼はいつだって、言葉にする。
「………………ばか、」
涼の、馬鹿。
こんな、友達を裏切ったり、嘘のために嘘を吐くようなあたしのために、なにもかも、捧げちゃって。
いっそ、離れてくれたほうが、良かったとさえ思う、あたしに。
「ばかよ…………あんたは…………」
いいや、違う――馬鹿は、あたしのほうだ。
「え~……ひどいなぁ、真冬は」
ぐちゃぐちゃな心で縋りついた幼馴染の背中は、記憶の奥底にあるものにとても似ていて。
あたしは、馬鹿だから、それを涼に重ねていた。
最低なことだと分かっていても、口にしなければいいと思って。
だから、そっと重ねて、甘えた。
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