3
――あれから、どれくらい経ったのだろう。
数日、あるいは数週間、いや数か月か。もっとそれ以上かもしれない。ううん、やっぱりそれ以下かも。
そんなどうでもいい思考を、あたしはガラス越しに広がる景色を見ながら、何度も繰り返していた――。
昨日も、今日も、特に何も変わらず、いつも通りの日々が続いていた。朝起きて、庄治さんが作った朝ご飯を食べて、涼と真夏と、時折桃とも一緒に学校に行く日々。
「――おはよう、志野」
「……おはよう」
いつも通りの時間に学校に来て席に着くと、珍しくあたしより先に来てた時沢が挨拶をしてきた。
「……今日は、早いのね」
「ん、あー……そう、だな」
黒板の中央上部に掛けられた丸時計を見ながら言うと、時沢も同じように見て、何故かバツが悪そうな顔で首を搔いた。その明らか何か気まずそうな表情に、一瞬「なに?」って声が出かけたけど、寸でのところで引っ込めた。なんか、イラッとしたから。
「……、」
見てる、気がする。でも、そんなの知らない。言いたいことがあるなら、はっきり言えばいいじゃない。そんな気付いてほしそうな顔をされたって、あたしには何のメリットもないでしょ。第一、あたしはそんな空気出されるようなことをした覚えはない。ただいつも通りに授業を受けて、いつも通りにあんたたちと休み時間を過ごしてるじゃない。それになんの不満があるっていうのよ。
「…………志野、あのさ、」
身体の内側にじわじわと広がるような重い圧を破った時沢。たっぷりの時間と空気を使って「あのさ、」ともう一度口にした彼の言葉の続きを待っていると、ふいに教室の喧騒が鳴り止んだ。
「時沢くーーーーん!!」
バァン! と大きな音ともに、あたしの席のすぐ傍にある、教室後方の扉が開かれた。
「げっ、」
「……っ」
音の元へ顔を向けると、満面の笑みを浮かべる女の子――佐生さんが立っていた。またか。そう思ったときには、彼女は実に軽やかな足取りで教室に侵入(はい)ってきた。
「おはよう時沢くん!」
そう言いながら佐生さんは、大きな新緑の瞳をきらきらと輝かせて、時沢の腕を手に取った。今にも飛び跳ねそうなくらい腕を上下させて喜びを示す佐生さんに、時沢は困惑したような表情を浮かべる。
「は……離せ、よ……」
時沢がそういうと、佐生さんはどうして、とでも言いたげな顔で彼を見つめた。
「……――あぁ、なんだ。いたんだ」
佐生さんがこっちに顔を向けたと思うと、すっと目を細めて、冷たい声でそう言い放った。
「……自分のクラスなんだから、当たり前でしょ」
ばかなんじゃないの。そう、当たり前のことが分からないらしい佐生さんを馬鹿にするような意味を含んで返した。すると佐生さんはきょとんとした顔で、大きく見開いた瞳を何度か瞬かせて、にこりと笑った。
「そうだね」
軽く受け流された嘲りは、行き場を失ってあたしの中でなにかの種火となった。カッと熱くなる頬に、あたしは見られないよう、マフラーを引っ掴んで隠して、それから席を立つ。
「し、志野……?」
どこ行くんだ、と困惑と焦りを含んだ声で呼び止めてきた時沢。どこでもいいでしょ。そんな目で睨みつけたら、時沢は「待てよ、」と言って手を伸ばしてきた。
「――触らないでっ!」
しまった、と思ったときには、あたしは大声で時沢を拒絶していた。彼の手を弾くように振り払うと、同時に教室中の視線を一手に引き受けてしまう。
「…………っ、」
「あ、志野!」
気付いた時には、時沢の静止を振りきって教室を飛び出していた。
走り際、クラスメイトが「なにあれ」「痴話喧嘩……?」「時沢くんかわいそう」「……最低」なんて口々に声に出していたのが聞こえたけど、今はそんなこと気にしているヒマはなかった。
「――はあ、っ……はっ……!」
無我夢中で走って、逃げ込んだ先は同じ階にある女子トイレだった。大した距離じゃない。それでも荒れる呼吸がしんどくて、あたしはずり落ちるようにその場に蹲った。
「は、っ……」
――痛い。なぜだか分からないけど、心が無性に痛くて、辛くて、凍えそうな気分だった。
「っ…………」
なんで、あたしが――あたしが、こんな目に遭わないといけないの。あたしが何したっていうのよ。
そもそも、なんであたしはこんなとこにいるわけ? 何もしてないなら、堂々と教室にいれば良かったじゃない。逃げる必要なんて、隠れる必要なんて、何もないじゃない。
「……い……、だ……」
――それとも、何か見たくないものでもあるの?
『あの子』の皮を被ったもう一人のあたしみたいな奴の声が、脳内で反芻する。嫌になるくらい何度も繰り返されて、気持ち悪かった。
「…………いや、だ…………っ!」
――そう、嫌、だった。あの子――佐生さんに、時沢を取られたような気分になって、嫌だったんだ。
「――時沢さん、大変ですねぇ」
数日前だったか。お昼休み、涼と政樹、桃の三人と他愛のない会話をしていた時だ。ふいに窓際に寄って、眼下に広がる光景に目をやった桃がそんなことを言った。
「んー? ハルがどうかしたのか?」
「……いえ、なにも」
不思議そうな顔で窓に近寄ろうとした涼を、桃がごく自然な流れで遮って――あたしはというと、窓からその大変な時沢さんを眺めていた。
「……」
窓の先では、どこからか出てきた佐生さんに絡まれている時沢がいた。この前みたいに、腕を絡みとって、抱き着いて。端から見たら、ちょっとアピールが熱烈な彼女に手を焼く彼氏みたいに見えなくもない光景に、心が焼けそうになるのを感じていた。
――はっきりとは覚えていないけれど、いつからか、時沢が佐生さんと一緒にいるのが目につくようになって、そのころからあたしはずっと苛立っていた。ううん、佐生さんだけじゃない。顔だけは知ってる子とか、名前もクラスも知らない子、先輩っぽい人とか、後輩か、はては見慣れない制服を着た子まで。いつの間にか、時沢の周りにいる同性が目につくようになって、ずっと、苛立っていた。
――今までなら、いつもなら、こんなことなかったのに。
そんな思いが胸中を去来する。
――今まで見てなかった、……ううん、見ようとしてなかっただけじゃない?
『あの子』の顔をしたあたしが、軽い調子で戯ける。
そんなの、そんなわけ、ない。時沢はずっと時沢のままだったはずなのに、急に、そう、本当に急に、変わり始めて――。
――本当に、そう思うの?
「……っ、」
内傷する声に、じわり、じわりと肌を抉られる。抉られた箇所はじくりと疼いて、見たくもない膿が、溶けかけのチーズみたいにどろりと垂れて、気持ち悪かった。
なによ、あたしが見ないようにしてたって言いたいの? そんなわけない。時沢はいつもと変わらず、あたしと桃と教室で喋ったり、涼とくだらない話で盛り上がったり、たまによねちゃんのことで荒れたりするくらいで、誰か、あたしの知らない子と一緒にいるところなんて、なかったはずで……。
――いや、そんなことない。目を離した隙に時沢がいないことなんて、よくあることだったじゃない。いつの日かも、公開処刑みたいな告白の現場を眺めたじゃない。その前も裏庭に呼び出されたからちょっと行ってくるとか、そんなこと言ってたでしょ。でもそれ全部、はいはいいってらっしゃいって態度で受け流してたのは、誰?
――そんなの、あたしじゃない。
カチリと組み合ったパズルのピースのように、頭に浮かんだ一つの揺るぎない答えに、全身が脱力していくのを感じた。
ああ、そうだ。なによりもあたし自身が、見ないように、意識しないように、外へ外へと、追いやっていたんだ。あたしの思う『いつもの時沢』に縋って、それが当たり前で、周りがおかしいんだって思い込んで。本当の時沢を、見ないようにして。
――でも、それの何が悪いっていうの?
だって、そう、あたしと時沢は、ただの友達なのよ。
確かに、距離が近いところはあるかもしれない。普通男女でカラオケに行ったり、放課後に駅前でパフェ食べるのに付き合わせたりなんて、付き合ってる子同士がすることかもしれないけど、でも、友達同士でやっても、男女の友達がやってたって、おかしくないでしょ。
普通は、そうかもしれないけど。けど、普通じゃない関係だって、世の中にはあって。あたしと時沢の関係は、その普通じゃない、普通からは少し離れた男女の、友達関係ってだけで。
……友達。そう、それだけなのよ。それ以上でも、それ以下でもない。ただ相手のことを赤の他人より少し好ましく思ってるだけで。一緒にいて気が楽とか、そういう、精神的な部分での居心地の良さが強い人みたいな。間違っても、『そういうこと』には及ばない、そんな曖昧だけど、信頼があるからこそ成り立つ関係。あたしと時沢は、そういう関係の上に成り立ってるんだ。
それでいい、それでいいんだ。時沢が、本当のあいつがどうだなんて、そんなのどうでもいいことなんだ。あたしにとって、時沢はただの友達。時沢がどう感じて、考えていようが、あたしと友達を続けている限り、時沢にとってのあたしも、友達でしかないんだ。
そうやって、自分に言い聞かせるように。ゆっくり、ゆっくりと、自分を肯定して。いつの間にか腕の中に埋めていた顔を上げると、何故だろう、視界が透明な膜に覆われて、頬には冷たくて、それでいて温い液体が溢れていた。
「……なん、で……」
欠伸の間違いじゃない?
そう思って、わざとらしく大口を開けてみたけど、いつもみたいな身体の奥から迫り上げてくるような何かがあるわけでもなく、ただ息が無駄に出る空砲で終わってしまった。
――変なの。
そう思いながら、目尻に溜まった水分をカーディガンの袖で拭って、いつの間にか付けていた尻餅を上げた。
最悪。トイレの床なんて、何があるのか分からないとこにお尻をつけるなんて。
スカートを手で払って、ついでに乱れた前髪を直して、トイレを出ようと扉の鍵に手を掛けたときだった。
「――真冬、」
おそらく、今この場で、一番似合わない声が、反響した。
「ここに、いるのですか」
コンコン、と控えめなノックがされて、身が縮まるのを感じた。
「……」
一瞬の静寂が流れる。あたしは、予想外の人物の来訪に対する驚きと、なんとも言い難い、安心感のようなものに苛んで、コツン、と扉に額を預けた。
「……桃、なんで、」
扉越しでも、桃が息を呑むのがわかった。返答に困っているのだろうか、数秒ほど間を空けてから、桃は静かに答えた。
「…………大丈夫、ですか」
それは、ひどく頼りない声だった。心配や気遣いといった優しさではなく、不安や焦り、困惑のような、そんなか細い声だ。
なんであんだがそんな声出してんのよ。そんなことを思ったけど、桃があたしを心配して来てくれたことくらい、言われなくても分かってる。多分、教室でのこと、誰かに聞いたんだろう。クラスメイトか、時沢か、誰かに。
「――大丈夫よ」
そう言ってギィ、と木が軋む音とともに扉を開ける。目の前には、当然桃が立っていた。
「真冬、」
出てきたあたしを見るなり、桃は掴みかかる勢いで迫ってきた。
「……な、なに、よ」
「…………あ、いえ……」
あたしが一歩後ずさると、桃ははっとした表情で「すみません……つい……」と詫びを入れた。
「別に……謝ることじゃ……」
「……その様子だと、本当に大丈夫……みたいですね」
よかったです、と言って笑った桃に、ずきん、と心が痛んだ気がした。
ああ、そうか。多分今、桃はあたしに気を遣ったんだ。いや、気を遣ってくれたの間違いかしら。多分、あたしに何があったかなんて聞いたところで答えるわけないって思ったんだと思う。もっと言えば、何がっていうよりかは、心というか、気持ちのほうというか――何か、辛いことがあるなら、みたいな。桃は、そういうのを心配してくる子だから。だからきっと、素直に「大丈夫」って答えたあたしが、素直に言うわけないって思ったんだろう。
――あたしとしては、そもそもそんなひねくれたこと考えてないんだけど。だって、何もなかったんだし。桃が心配するようなことなんて、何もなかった。
そうなると、桃には無駄な心配をさせてしまったかもしれない。それは申し訳ないことをしたと思う。
「……ごめん」
「…………えっ?」
謝罪を口にすると、桃は心底驚いたような様子を見せた。目尻にかけて緩やかに垂れる瞼を極限まで押し上げて、何度も瞬きする桃に、あたしはだんだんとモヤモヤとしてきた。
「だから……って、はあ……いいわ。悪かったわね、余計な手間かけさせて」
そう言って笑いかけると、桃は不思議そうな顔で首を傾げた。
「……えっ、と……。……いえ、私が、勝手にしたことですから。真冬は何も悪くありませんよ」
桃はどこか釈然としない様子を見せながら、眉尻を下げてはにかんだ。それから腕時計を見る素振りをして、「一限目、どうしましょうか」と言った。つられてあたしもスカートのポケットに入れていたスマホで時間を確認すると、気持ちとしては一限目が始まって少し経ったくらいの頃合いだった。ああ、なるほど。これは確かに戻りづらい。体調不良(おなかがいたい)と言うにしては、長すぎるというか。かといって、一限目をサボるわけにもいかないっていうか、仮にサボるにしてもどこで時間潰すんだっていう。
「……まあ、戻るしかないわよね」
「そう、ですよね……」
こう、一人だったら「死ぬほどお腹が痛かった」とか言って誤魔化せたけど、二人ってなるとそういうわけにもいかず。というか、桃の様子から見るに、先生に何も言ってないんだろうな。そうなると、ますます説明しづらい。これは困ったものだ。
「いっそ時計ズレてたとか言ってみる?」
「イマドキの携帯機器はインターネットで時間調整してますし、苦しいと思いますよ」
「ちぇ……」
間髪入れずに返ってきたツッコミに口を尖らせると、桃は困ったように笑った。
「何食わぬ顔で戻れば大丈夫ですよ。お腹が痛かったって言ってやりましょう!」
ぐっと拳を作って、ガッツポーズ、みたいなものをキメた桃。
「ふふっ」
「……? 私、なにかおかしいこと言いましたか?」
「いや、なんか、……ふふっ」
「?」
妙にかっこつけた桃が可笑しくて、思わず笑ってしまった。桃はそんなあたしに戸惑いを隠せないのかオロオロとして、それから次第に馬鹿にされてるとでも思ったのか、「もう~!」と言って頬を膨らませた。
「――まあ、なんとかなるでしょ」
「そうですね――」
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