第4話 来たる知
1
――何も、変わらなければいい。今が続くなら、ずっとそれでいい。変化なんていらない。そんなもの、あたしたちには必要ない。あたしたちはずっと、ずっとこのままでいられるんだから。それでいい。それがいい。
きっと、あんたたちもそれを望んでいるはずだから。
――だから、どうか。これ以上、あたしから何も奪わないで。
「ふぁぁ……眠い~……」
「あんた最近そればっかね……ちゃんと寝なさいよ」
「え~! だってキリのいいとこで終わろうと思ったらさ~」
「あーはいはい。わかったわかった」
「ひどい!」
「兄ちゃんうるさい~」
「しょぼーん……」
いつもの通学路。あたしと涼と真夏の三人は、いつも通り登校していた。相変わらず寝不足らしい幼馴染は、今日も口を大きく開けて外気を吸い込んでは、目に薄い涙を浮かべてそれを指先で擦る。真っ赤になってる。そう注意すれば、彼は「大丈夫だよぉ」とへらりと笑って受け流すだけで、あたしはなんの向上も見せないその面に溜息を吐く。
いつか風邪引いても知らないから。そう毒吐こうとしたけど、そういえば涼が体調崩したことあったっけ、とふと考えてしまう。
記憶が正しければ、こいつが寝込んだのって小学生の――いつだったかは忘れたけど、もう五年くらいはない気がする。
かくいうあたしも大概寝込むほどのことはないけど、それでも毎年寒くなると風邪をひいて、庄治さんに「暖かくして寝るんだよ!」って注意されたり、お母さんに「湿布買ってきた! あ、ちがうカイロ!」ってボケをかまされたり、真夏に「移ると姉ちゃんに悪いので……」とか言われて距離取られたりって、散々な目に合ってきたけど。涼は、そういうこと、あんまりなかったような。
――くそ、ムカつく。
健康体であることは良いんだけど、こうも元気一辺倒だと、一周まわってイラついてくる。少しは隙を見せたらどうなの。そう思ったけど、結局あたしは何も言わずじまいだった。
「ねぇ、姉ちゃん。今日は桃さん来ないの?」
くだらないことに思考を飛ばしていたら、つい、とセーターの裾を引っ張られる。目線を落とすと、眉を八の字にした弟がこちらを見上げていた。
「あー……今日はなんか用事あるから一緒に行けないってメール来てたわね」
「ふーん……そっかぁ……」
明らか落胆した様子を見せる真夏に、詳細なこと――『政樹さんをお迎えに行ってきます♡』と心底どうでもいい内容のメールが来ていた――を述べるのはかわいそうだと思って、黙っておくことにした。涼が「まぁ桃も忙しい子だからなぁ~」と言って真夏の頭を撫でて慰めていたけど、弟はぶすっとした顔で歩道に転がる小石を蹴っていた。
まー分かりやすいこと。薄々気付いてはいたけど、意外としっかり恋心を持っているというか、自覚しているらしい。そりゃあ日中ずっと同じ教室で過ごすあたしと違って、真夏が桃と会えるのなんて朝の通学時間くらいだし、あとはあたしが家に呼ばない限り放課後に会うなんてまず無いから、落ち込むのも無理はないだろうけど。
「仕方ないわねぇ……桃には真夏が寂しがってたから、明日は一緒に行ってあげてって言っといてあげる」
見かねてあたしがそう言うと、真夏は一瞬ぱっと顔を明るくして、すぐに焦った様子に変わる。
「! ち、違うもん! 別にそーゆーのじゃないもん! 姉ちゃんなんかゴカイしてる!」
「へぇ、じゃあいいのね?」
「うう~……明日は一緒に行けたら行こうねって、それだけだからぁ!」
「はいはい。ごめんごめん」
うわーん! と喚く弟の頭を撫でて宥めていると、不思議そうな顔をした涼がこてん、と首を傾げる。
「……え? 真夏、お前、えっ、桃のことすっ、」
「わあああああ! 違う! 違うもん! 兄ちゃんのばかばかー!」
糾弾する相手が変わったのか、真夏は涼の鳩尾めがけてパンチを入れる。綺麗に決まったらしい、涼は「うっ……」と呻き声とともに音もなくその場に崩れ落ちた。それを見届けた真夏はふん、と鼻息を荒くすると、もう目と鼻の先まで迫っていたいつもの分かれ道に走っていった。
「――さっきのこと! 桃さんに言ったら、ぼく怒るからね!」
「分かったから、前見て走りなさーい!」
「はーい! ――あっ! リーくーん!」
腕を大きく振って駆け出した真夏は、誰か見つけたのか、向こう側から来た同じ背格好の男の子に突進していった。そのまま飛びついたみたいで、遠くから甲高い悲鳴が響いた。
「……友達、出来たのかしら」
――あの、真夏に。
今まで見たことのない弟の、なんというか、年相応な様子に、少し戸惑う自分がいた。
いや、正確にはあたしや涼の身内以外に、あんな無邪気な姿を見せたことに驚いている。多分あの子は知らないだろうけど、家庭訪問や連絡帳とかでちょくちょく担任の先生から学校の様子を聞かされている庄治さんは、「本人は気にしてないみたいだけど……」と言って、家事の合間に心労を漏らすことが多い。
学校から直接聞く機会がないあたしにとっては、庄治さんの話や、涼とばっか遊んでいる様子から、なんとなく察することしか出来ないんだけども。それでも真夏のあの妙に背伸びした性格を考えれば、周りと距離が出来ている可能性はまあ、否定は出来なくて。だからといって、あたしが干渉したところで今すぐに友達が出来るわけでもないし、なにより真夏が何も言わないなら、放っておくのが一番だと思って。
だから余計に、いつの間にか解決していたことに、戸惑ってしまう。
「……」
「……なんか、最近仲良くなった子がいるって言ってたよ」
いつの間にか復帰していた涼が、ひどく優しい声でそんなことを言った。あたしはそれに対して「……そう」と、素っ気なく返すことしか出来なくて、少し寂しいような、嬉しいような――そんな、姉として、家族として、複雑な気持ちを押し殺すことしか出来なかった。
「――行こうぜ、真冬」
「……うん」
◇◆◇◆◇
校門を通り過ぎたあたりで、早足で校舎に向かう黄土色のボブカットを揺らす男子――政樹と、その後を「待ってくださいよぉ~!」と声高に叫びながら、必死に追いかける桃色のツインテール――桃の後ろ姿が見えた。
相変わらずねぇ、なんて思ってスルーを決めようとしたら、隣にいた涼が「おーい!」と言いながら駆け出して、仕方なくあたしもそれに続くことにした。
「政樹ー! 桃ー! おはーす!」
「あら~涼さん――と真冬じゃないですか~! おはようございます♡」
こっちに気付いた桃がにこりと笑う。先を行ってた政樹もぴたりと歩みを止めると、げっそりとした顔で「……ああ」と言いながら振り返った。
あたしは、にこにこ笑う桃を放置して、政樹に声を掛ける。
「おはよ。……政樹、生きてる?」
「…………見ての通りです」
生存確認をすると、ぼそぼそと返事をした政樹。それにあたしは、大丈夫そうね、と判断した。
「あら、そう。朝からご愁傷様」
「知ってたなら止めてくださいよ……」
政樹は心なしか半笑いで――実際はマスクで表情の半分以上は見えないから、そう感じるだけ――地面に視線を落として、溜息を吐く。
「あたしが言って聞く子じゃないくらい分かるでしょ」
「……まあ、はい……」
取りつく島もないと思ったのか、がっくりと肩を落とす政樹。そのやつれっぷりから、今朝は一段と絞られ――いや、追い掛け回されたんだろう。可哀想に。
けど、あたしがどうにか出来る問題なら、たぶん桃はもっとこう、物わかりの良い子だと思う。そうじゃないから、政樹がどれだけ疲れてようが、あの子は朝から幸せそうに笑顔を振りまいてるんだろうし。気の毒だけど、あたしにはどうしようも出来ない。
まあそれ以上に、本気で嫌がってるように見えないからってのもあるけど。なんか、楽しそうだし。知らないけど。本当に嫌なら、助けを求めるでしょ。
「政樹、大丈夫か?」
「……疲れた」
涼が肩を持つと、政樹は頭を抱えて深い溜息を吐く。
それを見逃さなかったらしい。桃はきらりと瞳を輝かせて、少し身を乗り出すような体勢で腰を揺らす。
「それはいけませんねぇ~♡ 政樹さん、よければ膝枕いたしましょうか?」
「うるさい黙れ今すぐ消えろ」
「やーん! そんなぁ~ひどいですぅ~♡」
矢継ぎ早に繰り出された暴言に、桃は台詞では悲しそうにしながらも、嬉々とした態度を隠さない。
ああ、もうだめだ、こいつ。――キリがない。
「はぁ……桃、その辺にしときなさい」
「え~……だめですか?」
止めに入ろうとすると、桃は瞳を潤ませて「だめですか?」と念押しするように訴えかけてきた。
いや、なにがだめとかではないけど。このままあんたたちの茶番に付き合ってたら、ホームルームに遅れるじゃない。
――って、全部説明するのは面倒で、あたしは「遅れるから」とだけ言って、校舎に向かった。
「あ~! 待ってくださいよぉ、真冬~!」
まるで母親に置いて行かれて待ったをかける子供みたいな声をあげる桃。すぐに追いつかれて、ぴったりと隣に並んできたものだから、あたしは反射的に半歩距離を取った。
桃は気付いてるのか気付いてないのか、横目であたしの顔を見て「ふふっ♡」とわざとらしく笑う。それに一瞬ぞくりと背筋が凍った気がして、あたしは「やめてよ……」と思わず言ってしまった。けど桃は、変わらずにこりと笑って、何も言わなかった。
「ほーら政樹、もうひと踏ん張りだぞぉ~」
「いつまでそうするんだ……」
「お前が疲れてるって言うからだろ」
「うるさい……」
「えー勝手だなぁ」
昇降口の下駄箱で上靴に履きかえていると、涼と政樹がなにか言い合いしながら後から入ってきた。あたしと桃は二人が履き替えるのを少し待って、それから階段を昇る。がやがやと、いつも通り騒がしい踊り場で「じゃ、」と短い言葉を交わして、涼と政樹と別れた。
自教室に入ると、クラスメイトは各々談笑したり、自習をしたり、机に突っ伏して寝てたり、今来たばかりの子は教科書やノートを片付けたりして、特に変わった様子はなかった。
「おはようございます~」
机の島の間を通って、教室後方にある座席に向かう。その間に、桃は特に普段話してるわけでもない男子や女子に挨拶を交わす。ほとんど誰も返事してないけど。
「……、」
「…………」
席に着いて、机に鞄を置こうとしたけど、どう見たって誰かが座っているのが見えた。あたしが無言で近づくと、その誰か――まあ、『いかにも』な女子と目が合った。
「……悪いけど、どいてくれる?」
「…………あぁ、ごめーん。気付かなかった。はい」
すとんと床に足を下ろしたクラスメイトは、そのまま取り巻きと一緒に自分の席に戻っていった。そのとき、去り際というか、まあそんな感じの時に「感じワルーイ」なんて言われた気がしたけど、気にしない。
自分たちのこと言っちゃって、馬鹿ね。――なんて鈍感を装って思ってみたけど、実際のところあたしに対する嫌味もとい、嫌がらせなことくらいちゃんと分かってる。それがどういう経緯で放たれているのかも、分かってる。
「……」
なんとなく殺気めいた――は冗談で、やけに静かな右隣の席が気になって、横目で見ると、すっと目を細めた桃がさっきのクラスメイトのほうをじっと見ていた。
「……桃、せっかくのかわいい顔が台無しよ」
「……あらぁ、急に口説かれると困ります~」
「はいはい……」
スカートを押さえて席に着いた桃は、さっきまでの態度とは一転して、柔和な表情を浮かべて荷物を片付け始めた。
誤魔化しているつもりなんだろうか。鼻歌まで歌っちゃって。桃は一通り片付け終えると、あたしのほうに身体を向ける。
「時沢さん、まだいらっしゃってないみたいですね」
「……そういえば、」
桃の声に誘導されるように教室中央にある、時沢の席に視線を向けると、ぽっかりと、一つだけ空いてる席が目についた。
「……まだ寝てんじゃないの?」
「それだと大遅刻ですよぉ~」
適当なことを言うと、桃も適当に返してきた。スマホの電源ボタンを押して、画面に表示された時刻を見ると、八時二十分と書かれていた。
――確かに、今日は少し、遅い気がする。いや、今日は無駄話が多くてあたしが遅かったっていうのもあるから、体感的にそう思うだけかもしれないんだけど、でも大体この時間には来ている時沢にしては、少し珍しい気がした。
けど、気にしたところであいつが飛んで来るわけでもないし。別に遅刻するくらい、まああるにはあるでしょ。いくらあのしっかり者のよねちゃんがいるからって、そこまで面倒を見るほどあの子も優しくない。
そういうことにしておいて、あたしはとりあえず席を立つ。
さっきから少し気になってたんだけど、今朝履き方をミスったのか、どうにもタイツの捩じれとそれに伴う生地の突っ張りが気になる。さすがに男子もいる教室の往来でいそいそと直すわけにもいかなくて、お手洗いにでも引きこもって直すことにしよう。今日は三限から体育あるから、どうせそのときには脱ぐんだけども。だからといって、この収まりがあまりよくない状態で二時間そこそこ過ごすのは気持ち悪い。慣れたらいいんだけど、まだホームルームまで時間があるんだし、さっさと直して戻ってくれればいいだろう。
「あら~真冬、どちらに、」
「お手洗い」
立ち上がったあたしに、桃が何か言う前に目的地を告げた。すると桃は、察したような顔をしてから、にこりと笑う。
「分かりましたぁ~遅れるようでしたら先生に言っておきますから~ごゆっくり~」
うふふ、と笑う桃に、あたしは少しイラつく。
「そういうのんじゃないんだけど……」
「ふふっ……」
「……」
下品よ、あんた。
そう口から出かけたけど、直接的にいうと、なんかあたしまでそういう風になっちゃいそうで、「……最低」と一言残して教室を後にした。
◇◆◇◆◇
「ふう……」
よし、完璧。きっちり繊維をまっすぐに伸ばして、ぴったり肌にフィットしてる。ベストな状態だ。
――女子トイレの個室でそんなことを思って、一人ガッツポーズを決める。タイツだなんて誰も見てないとこだと分かっていても、スカートを折って太腿を出している以上、やっぱり誰か、特に女子が見ているかもしれないと思ったら、綺麗にしておこうと思う。それに今日のはちょっといいヤツ――なんの糸を使ってるかまでは知らないけど、オシャレ用に履く光沢のあるタイツ――を履いてるから、なおさらだ。
一応手を洗って、ハンカチで拭きながら便所スリッパから上靴に履き替える。ふと目線を上げると、廊下はまだ少し騒がしさが残っていた。ハンカチをポケットにしまうついでにスマホを取り出して時計を見ると、ちょうど五分前だった。そんなに格闘してたのか、と少しびっくりしたけど、まあそういうこともある。
とにかくさっさと教室に戻ろうとしたところで、今朝昇ってきた階段とは違う階段――昇降口とは反対側にある階段だ――から、見慣れた淡い金髪が上がってくるのが見えた。
「――時沢?」
思わず声を掛けると、金髪――時沢が、これまた今朝見た誰かさんと同じような疲れきった表情で「よぉ……」と言った。
「……なにやってんの」
「いや……まぁ、ちょっと……な」
「はぁ……?」
「はは……」
力なく笑う時沢に、あたしはとりあえず手を貸して最後の一段を上がらせた。ありがとう、と言った時沢の髪は少し乱れていて、なんていうかこう、突風に吹かれた後みたいな感じだった。
「あぁ……わりぃ」
「……別に」
じっと見ていたら時沢も惨状に気付いたのか、さっさと手櫛で適当に直して、それから耳に髪を掛ける。全体的にまだ少し絡まってるように見えるけど、それはあとで教室に戻ったときに隙を見て直してあげようかしら。
「何があったかは知らないけど、授業始まるわよ」
「え、マジか……うわー……最悪……」
「……」
あたしが踵を返すと、時沢は頭を抱えながら、それについてきた。
「ねぇ、あんたほんとに、」
――さすがに様子がおかしい。そう思って、振り返ったとき、
「――見つけた! 時沢くーん!」
えっ、と誰のものかは分からない声がした瞬間、廊下中には情けない声が響いていた。
「ぎゃあああ!!!!」
漫画よろしく、顔面から綺麗に地面を滑っていった時沢は、そのまま力なく倒れ伏す。その上には新緑の少しクセの強いショートヘアを揺らす女の子が、馬乗りになっていた。
「…………は?」
――授業までたぶんあと三分弱。あたしはただ、茫然とすることしか出来なかった。
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