3

 暑い日だった。

玄関に差し込む夕陽特有のオレンジ色が、ぼんやりとして、輪郭がはっきりしない顔をまっすぐに照らす。

「――この子は、――って言うんだよ」

 頭上からしたあたたかい声に、ぼんやり顔さんが笑った――そんな気がした。

「――、今日から――」

 ちょっとした浮遊感のあと、フチが溶けた小さな視界には多量の赤が広がった。たぶん、誰かが覗きこんでいるのかな。動く赤いなにかに気を取られていると、ほっぺたを優しくつねられた。

「……やわら、かい」

 音なんてほとんど分からない中で、その『声』だけは確かに、はっきりと聞こえた。

「まだ、――だからね」

「ふぅん……」

 赤い――声の人に、ぼくは興味本位で手を伸ばした。すると、棒みたいなものが差しだされて、ぼくはたまらずそれを握った。

「……っ」

 握る手に力を込めると、声の人はびっくりした様子で、ぼくを見ていた。

「あぅ」


 ――どうしたの?


 そう問いかけようとして、ぼくは口を開けてみたけど、ちゃんと届いたか分からない。言葉が、意味ある音になって溶け、消えていく。そんな不思議だけど、どこか懐かしい――そんな感覚があった。


「……あっ……」

 声の人は、言葉に詰まっているのか、それ以上は何も言わなかった。ぼくはなんだかそれが寂しくて、もっと構ってほしくて、めいっぱい腕を伸ばした。

「あーうぅ」

 けど目の前の声の人には全然届かなくて、それなのに、なぜか届いてしまうような気もして、ぼくはとにかく手を伸ばし続けた。


 大丈夫、大丈夫だよ。怖がらなくていいんだよ――……ちゃん。



◇◆◇◆◇



 自然に開こうとするまぶたに任せて、ぼくは目を覚ました。

「……あ、れ、」

 ふわふわとする頭の中、ぼくは目に涙が溜まっていることに気付いた。まばたきをするたびに、生ぬるい涙が、つぅ、と頬を流れる。


 ――なにか、すごくあったかい夢を見た気がするけど……なんだっけ?


 なんとなく目を閉じて思いだそうとしたけど、あるのは真っ暗な視界と『夢を見た』というもやもやとした何かだけで、それ以上は何も出てこなかった。

「うーん……まぁ、いっか。考えてもしかたない」

 思いだせない若干の気持ち悪さを感じながら、おなかにグッと力を入れて起き上がると、ぼくはパジャマの袖を掴んで涙を拭いた。拭いた部分の布が手首あたりにあたって、すっかり冷えてしまったせいか、天然の熱さまシートみたいにその部分の体温だけ奪われてるような気がした。

「よしっ!」

 とりあえず、早く着替えてしまおうと思って――その瞬間、ぼくはきのうのことを思いだした。

 そう、昨日、ぼくは兄ちゃんにひどいことを言って、そのまま寝たんだ。いつも通りに学校に行く準備しようとしていたけど、そう思って――一気に体が重くなる。ただ、嫌だなぁっていうより、どうしようって、そう思って、なんだけど。

「……兄ちゃん、怒ってるかな……」

 あのときの兄ちゃんの顔がよみがえる。今起きたことが信じられないような、そんな顔だったと思う。そりゃあそうだ。だってぼくは、今まで兄ちゃんとケンカすらしたことないんだ。それにぼくも、あんなにいっぱい怒ったことはない。

「うー……」

 ずしんと重くなる気持ちと一緒に、ぼくは布団に沈んだ。


 どうしよう。どんな顔をして、兄ちゃんに会えばいいんだろう。もし、兄ちゃんが怒っていたら。もし、ぼくのことを嫌いになっていたら――。

 ――優しい兄ちゃんならきっと、怒るよりも心配しているかもしれないと分かっていても、こんなこと初めてで、もしもの可能性が否定できない。

兄ちゃんはいつだってお父さんみたいに優しくて、お母さんみたいにいっぱい笑っていた。

 ぼくは、兄ちゃんの大きな手で撫でられるのが好きだ。お父さんもいっぱい撫でてくれるけど、それとはもっと違って兄ちゃんの手は、なんだろう――すごく安心するんだ。嬉しいとき、嫌なことがあったとき。どんなときでも兄ちゃんの手は不思議と、ぼくをぼくに連れ戻してくれる。そんな魔法の手なんだ。でも、もし兄ちゃんに嫌われていたら――もう二度と撫でてもらえないかもしれない。

 それだけじゃない。もしかしたら、姉ちゃんと兄ちゃんのあいだに距離が出来てしまうかもしれない。それは嫌だ。ぼくのせいで、姉ちゃんと兄ちゃんが一緒にいられなくなるのは嫌だ。ふたりが一緒にいて、お父さんとお母さんがいて、そしてぼくがいる。ぼくは、それがいい――『それ』がいいんだ。


 だからぼくは、兄ちゃんと――仲直りがしたい。


 今のぼくに出来ることはなんだろう。ううん、しなくちゃいけないことは、

「……」

 ――そこまで考えて、ぼくはとてつもない空腹感に襲われた。ぐぅぅぅ、とお腹の底から響く音に、ぼくは一気に頬が熱くなるのを感じた。

 そういえば、昨日は何も食べずに寝ちゃったから。どうりでお腹ペコペコなわけだ。……そうなると、ぼくの分のご飯はどうなったんだろう。姉ちゃんとお父さんのことだし、捨てたとかはないと思うけど……。

 とにかく、着替えてリビングに行かないことにはどうすることも出来ない。もし昨日のまま置いてあるのだったら食べるしかないし、残っていなかったとしても朝ご飯はきっと作ってくれていると思う。


 着替えて自分の部屋を出た後、廊下の途中にあるお母さんの部屋の扉が開いていた。起きてるかな、と思って覗いてみたらベッドはもぬけの殻で、相変わらず遅くに帰ってきて、朝早くからお仕事に行ったんだなぁと思った。

「……あ、」

 階段を降りる途中、階下のリビングからジュッ、と何かを焼く音がした。それからテレビの音と、お父さんと姉ちゃんの会話が聞こえてきた。何を話しているかまでは分からなけど、今日の姉ちゃんは早起きをしたらしいことだけは分かる。

兄ちゃんのことがあって、リビングに入るのを少しためらったけど、空腹感に勝てなかったぼくは結局扉を開けることにした。

 扉を開けると、炊きたてのご飯のほのかに甘くてあたたかい香りが、ふわりと鼻をついた。

「――あ、真夏。おはよう」

「お父さん……うん、おはよう」

 菜箸片手にキッチンから顔を出したお父さん。いつもと変わらない様子に、まるで昨日のことなんて何もなかったように思える。

「ご飯、もう出来てるよ」

「うん……」

 定位置に座ると、じゃがいもとたまねぎのみそ汁、ベーコンとほうれん草の炒め物、それにラップされたお茶碗が置いてあった。ラップを取ろうとしたら、お父さんが「あ、温めるから、貸して」と言ってきた。ぼくがお茶碗をキッチンのカウンターに置くと、お父さんはそのまま電子レンジに入れる。加熱が終わるのを待っていると、お父さんが「熱いからそっちに持っていくよ」と言って、ラップが外されたお茶碗が戻ってきた。

「いただきます」

 手を合わせて、それからお箸を手に取る。まずはみそ汁から。ほどよく汁に溶けこんだじゃがいもが舌をざらつかせて、たまねぎの裏側についた薄皮が絡みつく。けど、じゃがいものほくほくとした食感、そしてたまねぎの繊維から滲み出すような甘味がみその塩味で引き立って、みそ汁なんだけど、そうじゃない何かを飲んでいる気分になった。

「涼のことなら、気にしなくていいから」

「……え?!」

 いつの間にか傍にいた姉ちゃんはそう言うと、制服のスカートがくしゃくしゃにならないよう、手で押さえながら座った。ぼくはびっくりしたあまりに、一瞬汁椀を落としそうになったけど、なんとか受け止めて一命を取り留めていた。

「え、う……き、聞いたの……?」

 おそるおそる聞いてみると、姉ちゃんはちらりと視線だけぼくに向けた。と思ったら、「いただきます」と言ってご飯に手を付け始めた。

「ね、姉ちゃん……?」

 おろおろしていると、姉ちゃんは重い溜息と一緒に手を止めて、お茶碗と箸を置いた。

「…………別に。ただあいつ、全然怒ってないから」

「……!」

 姉ちゃんはそれだけ言うと、また箸を手に持って、今度はみそ汁を口にした。汁を啜る音が、これ以上何も言うなと言ってるみたいだった。


 「別に」っていうのは、ぼくが兄ちゃんに話したこと――リーンくんとケンカした『内容」――は知らない、何も聞いてないってことなのかな。ううん、そんなわけない。だって、兄ちゃんが怒ってるかどうかなんてそんな、そんな知ってたら、それは全部知ってることになるはずだ。


「……」

 気になって、姉ちゃんの表情を伺ってみたけど、いつもと変わらない、澄ました顔をしていた。

 やっぱり、知らないのかな。でももし知っていたとしても、姉ちゃんはぼくの姉ちゃんだから、気にしていないのかもしれない。それならそれでいい。姉ちゃんは、ぼくの姉ちゃんなんだから。



◇◆◇◆◇



 朝ご飯を食べ終えて、まだ時間に余裕があるかなって思ったら、そうでもなかった。姉ちゃんとお父さんに急かされるまま、いつものように歯みがきをして、垂らしたままだったサスペンダーに腕を通して、ランドセルを背負えば登校準備は完了だ。

「じゃあ庄治さん、いってきます」

「ます!」

「うん、いってらっしゃい」

 心なしか、いつもより優しく笑った気がするお父さんに見送られて、ぼくと姉ちゃんは家を出た。門戸の前には見慣れた茶髪の大きな背中が見えて、ぼくは一目で兄ちゃんだと分かった。

「おはよう、涼」

 姉ちゃんが声を掛けると、兄ちゃんはゆったりとした動作で振り向いた。

「……ん? ああ、おはよ、真冬」

 へにゃりとした顔で笑った兄ちゃんは、誰がどうみても落ちこんでいるように見えた。

 ぼくは、それに少しだけ安心してしまった。もしすごく怒っていたらって、不安だったから。だから、姉ちゃんの言った通り全然怒ってなくて良かったんだけど――そのかわりというか、ものすごく凹んでいるように見える。

まるで、そう、動物特集の番組で出てくるような赤ちゃん犬の困り顔、みたいな。しゅんとした顔、という表現がテキセツであろう兄ちゃんの顔は、それくらい悲しみに染まっていた。

 ――謝らなくちゃ。こんな元気のない兄ちゃんなんて、兄ちゃんじゃない。


 ぼくは、勇気を振り絞って一歩踏み出した。

「兄ちゃん!」

「真夏……?」

 きょとんとした顔をする兄ちゃんに、ぼくはもう一歩踏み出して、

「昨日は! ごめんなさい!」

 勢いよく頭を下げた瞬間、背中から頭を伝っていくカンショクがあった。

「あっ……――あーーーー!!」

 気付いたときには、バササッ! と音ともに、地面に教科書やノートが散らばっていた。おかしい、ちゃんとランドセルのあの、金具の部分は閉めたはずなのに……!

「な、なんでぇ……!」

 教科書ならまだしも、筆箱の中身まで散乱していて、ぼくはとにかく必死に全部かき集めた。姉ちゃんが後ろで「あらら……」と、可哀想なもの見るような声というか、あわれむような声を出していたのが聞こえたけど、今はそれどころじゃない。こんな恥ずかしい状況でなりふりかまってられないよ!

「……ぶはっ!」

「!」

 急いでかき集めていると、頭上から聞き慣れた笑い声がした。

「あっはは! はぁ~……大丈夫か? 真夏」

 目の前に教科書やノートが差しだされて、その先を辿ると、涙目になりながら笑顔を浮かべる兄ちゃんの顔があった。

「……うん」

 差し出されたのものを受け取って、ぼくは一度ランドセルを下ろして中に積める。その間、兄ちゃんはまたふきだしていたから、ぼくが「笑わないで!」とクギを刺すと、兄ちゃんは「ごめんごめん」と言って笑った。

「もう! 人のフコウは笑っちゃだめなんだよ!」

「わ、悪かったって! いや、でもあれは、くっ……ぶふっ……!」

「もぉ~! 兄ちゃ~ん!」

 笑いに耐えかねたのか、お腹を抱えてうずくまる兄ちゃんの背中を、ぼくは「ばかばかー!」と言いながらぽかぽか叩いて、遺憾の意を示す。よっぽどツボに入ったのか、なかなか笑い止まない兄ちゃんに、ぼくもだんだんおかしくなってきて、いつの間にか声を出して笑っていた。

「はぁ……やってらんない。置いてくから」

 兄ちゃんと揃ってケラケラ笑っていると、姉ちゃんが呆れた顔で通り抜けていった。

「あ、待ってよ! 姉ちゃーん!」

「ごめんって! 真冬~!」

 ぼくと兄ちゃんは荷物を持つと、スタスタと歩いていく姉ちゃんの背中を急いで追いかけた。

「ったく……なんなのよ、あんたたち……」

 姉ちゃんはそう言いながら、少し安心したような、そんな表情で笑っていた。

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