3

 何もかも投げ出して眠りに耽った翌日。脳というか、本能というか――聞いているだけで「この場から今すぐに逃げなければ」という意識の扉を、赤ランプを振りかざすけたたましいサイレンの音が叩いてきた。引き揚げられるような感覚へのかなりの苛つきと共に、重い瞼を開ける。萎縮したままの腕の筋肉を無理矢理動かして、枕元に置いた平らな板の画面を勢いで叩き割りそうになりながら、サイレン――アラーム音を止めた。

「……ねむ、」

 開口一番。ぼやける視界で平らな板もとい、スマホのボタンを押して時刻を確認する。液晶に横文字で表示されるは七時十五分。

「げっ……!」

 ぐっと腕に力を入れて起き上がる。思わず口をついて出た声は、すぐに溜息に変わった。


……最悪だ。一番最後に設定しているアラームで起きるとは。いや、この時間に起きたからといって遅刻確定――当然ながら余裕に余裕を重ねている――ではないが、なんとなく貴重な朝を無駄にしてしまった気がして、チュンチュンと軽快な鳴き声をあげる鳥どもに殺意が沸く。

僕はどちらかというと寝るのは好きじゃない。やることや、やりたいことがあるのもそうだが、根本的にどうしてかというと、十分な睡眠を取っていても眠い時は眠くなる、というのが嫌いなのだ。隙あらば寝たい、なんて言う奴もいるが、人間は最低でも六時間は睡眠を取らないといけないという。一日二十四時間で考えたら、その時点ですでに十八時間しか残っていない。そこからさらに日中の活動時間――仕事や学校だ――を八時間だと仮定して、さらに帰宅してからのあれこれを考えると僕が自由に使える時間なんて雀の涙ほどしかない。よって、必然的に睡眠時間が削られることになるのだが、そうなると翌日のコンディションに直撃する。僕は自覚している限りでも体は丈夫ではないから、健康で文化的な生活を謳歌するために多少の犠牲もやむを得ないと思って自由時間を睡眠に充てている。おかげさまで望ましいとされる七~八時間睡眠はきっちり取れている。


 パキッ、ポキッ、としなる骨に圧力をかけながら、僕はクローゼットの取っ手にかけたハンガーから制服一式を外す。藍色のパジャマを脱いで、真っ白な肌着の上からカッターシャツを羽織って、灰色の格子柄といえばいいのか、微妙な編み目を見せる生地のズボンを穿いて、最後に黒のベルトを締めたらとりあえず完成。昨日圧死したままのブレザーと、赤なのか朱色なのか微妙な色合いのネクタイはまだ着けない。飯を食うのに窮屈で邪魔だからな。

なんて、ダラダラと着替えていたらいつの間にか七時半になっていた。なんだって朝は無情にも時間が過ぎるのか。否、体感的に時が経つのが早すぎる。もっとのんびりとさせてくれてもいいだろう、とつい口に出そうになるのを抑えて、母が怒りのドアノックをしてくる前に、起床していることを知らしめるようにわざとらしく足音を立てて、階下のリビングへ向かった。



◇◆◇◆◇



 時刻は八時ジャスト。洗面所で歯磨きとうがいをした後、髪の上段を適当に結んでから、忘れないように使い捨てマスクをつける。あとはネクタイを締めてブレザーに袖を通せば、これ以上何もすることはない。

 玄関に放置していた通学カバンを肩に担いで、靴を履き、さあ出ようとしたところでリビングから母が顔を出してきた。

「いってきます」

「いってらしゃい」

 がちゃん、と音を立てて閉まった玄関扉を背に、僕は門扉を開けた。


「政樹さーん♡ おはようございます♡」

 瞬間、塀の陰からひょこりと顔を出した桃色の頭にぶつかりそうになった。思わずうっ、と詰まった息のせいで気道が痛んだ。

「……お前……本当どこにでも湧いて出てくるな……」

 やっとの思いで絞り出した言葉に、桃色の頭――桜花桃は、耳の少し上で結ばれた二房の髪を揺らして、にこりと微笑んだ。

「お褒めに預かり光栄ですぅ〜♡」

「褒めてない」

 後ろ手に両手を組み、そんなに身長差がないくせにわざとらしく腰を低くして顔を覗き込んできた桃に、僕は間髪入れずに返して、視線を逸らす。とろんと花の蜜のようになめらかな曲線を描く目尻と、そこにはめられたそいつの名前と同じ果実の淡い表皮の瞳が、僕は吐き気がするほど嫌いだからだ。

「恥ずかしからなくてもいいんですよ?」

「……」

 ふふっ、と口元に手を当てて笑んだ桃の横を通り抜ける。無視だ、無視。こいつに構っていたら、時間なんていくらあっても足りないからだ。生憎僕にはやることがあるから、お前に割く時間なんてない。

「あ、そういえばお体はもう大丈夫ですか?」

が、そんなのお構いなしとでもいうように、忙しない歩調にもなんなく対応して僕の右隣にぴったりとくっついてきた桃は、小首を傾げてまたにこりと笑った。


……なんで知ってるんだ、っていうのは、今更だ。いや涼がもしかしたらあの人――真冬さんに僕が早退したことを話して、真冬さん伝いにこいつが聞いたとか十分に考えられるし、むしろそっちのほうが自然な流れだ。そう、別に、僕がどこに住んでいるかなんて教えたことがなかったとしても、だ。


「お前には関係ないだろ」

 ぴしゃりと、そう強く言い切ると、桃は何か透明な壁にでもぶつかったように、ぴたりと歩を止めた。反射的に僕も立ち止まりそうになったが、停止信号を出しかけた脳に意志の力で「気にするな」と命令を出して、力強く一歩踏み出した。

 すぐに待ってくださいよぉ、なんてのんびりとした声が背後から聞こえた気がしたが、それも僕に対するものじゃないから無視だ。いいか、これはただの音だ。だから、立ち止まるな。

「むぅ~……そんな冷たい政樹さんも素敵ですけど、たまには優しくしてほしいですぅ」

 するりと僕の横をすり抜け、立ち塞がるように前方に躍り出た桃は、ぷくっと頬を膨らませて目を細める。

「……退け」

一言発してみたが、無言で僕を見据える桃色の瞳は、ぐじゅりと音を立てて潰された完熟された実のように、思わず身震いするほどに歪められた。

「私、とーっても心配したんですよ?」

 しん、と。朗らかな声に反して、桃の表情は壇上の玉座をより見下ろす女王の如く冷たく、その可愛らしくも端正な顔立ちは朝のひんやりとした空気と青い影に染められて、僕は背筋が凍るような恐怖を感じた。ぞわぞわと神経を這うなにかに、伝うように冷や汗が流れる。

 よく分からないモノに雁字搦めにされそうになったところで、僕は心を強く持ってそれを制した。お前なんかに屈するか、と。

「誰も心配してほしいなんて言ってないし、ましてやお前にされる筋合いはない。失せろ」

 はっきりと拒絶をすると、桃はぱちんと跳ねられたように瞬きをした。

「いつにも増して辛辣ですねぇ。珍しく寝不足ですか?」

「……」

 何を考えているのかまったく分からない笑みを浮かべる桃。もはや不気味としか思えないそいつとこれ以上会話を続けたら気が狂いそうになるような気がして、僕は足早に去るように、奴の存在を無視して歩き始めた。


 なんだって朝からこんな目に遭わなきゃいけないんだ? いや、なんでこいつと会わなきゃいけないんだ。僕とこいつは友達でもないし、ましてやクラスメイトですらない。何の関係もない、ただの他人同士だっていうのに。昔からそうだが、なんで付き纏ってくるんだ。僕が何をしたっていうんだ。

「ちっ……」

脳内に浮かぶ答えのない疑問にイラつくあまり舌打ちをしてしまう。道行く人が僕を避けるように歩いていくのが横目に見えたが、今はそれどころじゃなかった。

クソ……ただ分かっているのは、僕にとって桃は悩みの種なんて可愛らしいものではないことだ。ストレスの元、とでもいうのか。いや、実際はそれ以上の何かなのだが、自分の知る限りの単語では最適な表現が出てこない。何か、何か――。


――そこまで探ってみて、そんなこと考えてどうするんだ? という声がどこからともなく響く。確かにそうだ。学問的に分からないことを考えるのは善いとされるが、こんなどうしたって答えが出ない問題を解いたところで、僕にはメリットの一つもないおろか、むしろデメリットしかない。こいつに割く物理的な時間がないように、思考する精神的な時間も惜しい。いや、不必要だ。だって僕は、こいつと関わる理由がないからな。


「そういえば政樹さん、昨日は保健室に行かれたんですよね?」

 話しかけられ、気付いた時には隣を歩いていた桃を、僕は塵を見るように睨みつけてやったが、奴はくすりと笑うどころか、目線が交わったことでうっとりとした乙女の表情を見せてきた。瞬間、ぞくりと悪寒に交じって嫌悪感が胸中を埋め尽くして、僕は急いで目を前方にやった。

 が、存在に気付いていながら問いに応えないのはなぜかむず痒い気がして。結局僕は固く閉じていた口を開く羽目になった。

「……それがどうした」

「いえ。保健室といえば、『保健室の幽霊』の噂をご存知かな~と思いましてぇー」

「だから、それがどうした」

「あっ、ご存知なんですね!」

 桃の的を得ない発言に、イラッとした僕は無言で圧力をかける。

「やーん♡ そんな怒らないでくださーい♡」

「殺すぞ……」

 わざとらしく非難を浴びせておきながら、嬉々とした表情どころか、頬を紅く染める桃。それを見て処理を任された脳はわずかに逡巡した後、拒否反応を示して、僕は指示に従ってそれ以上の思考を放棄することにした。



◇◆◇◆◇



 昼休み。

 ちょうど『コ』の字を描くように建ち並ぶ三棟の校舎、そのうち一棟の第一校舎――書き順で例えたら三画目にあたる部分――の三階にある図書室。僕は一人、そこを目指して教室を後にした。


 どうしてまた急にかというと、単純に暇だから――というのは冗談で、うっかり昨夜から読んでいたミステリー小説を家に忘れてきたからだ。この長い昼休みを過ごすにはあまりにも手持無沙汰で、しかし特にやることのない僕にとって退屈というのは苦痛でしかなくて。

 だがここは学校だ。無いなら借りればいい。そう思ったが吉日、図書室へ向かうことにした。

 ちなみに、あのうるさい友人は中間テストの対策とかで、真冬さんに引き摺られるようにどこかへ消えていった。


 渡り廊下を抜けて校舎に入ると、なんとも言い難い木材の土臭さが鼻を深く突いた。内壁を塗り固めたコンクリートのひんやりとして、泥を想起させるざらっとした香りに包まれた階段をタン、タン、と少しスキップをするように軽やかな音を奏でながら駆け上がる。しかしそんな無駄な動作を繰り返したせいか、一階分を上ったところで僕の両足はこれ以上の負荷は危険だ、とでも訴えるように疲労を投げかけてきた。ぜぇはぁ、と上がる息に、普段から運動をしていないツケが来ている気がした。

 膝に手をついて呼吸を整えて、視線をあげると『開館中』と書かれたホワイトボードが目に入った。実のとこ図書室がどこにあるのか、正確な位置を知らなかったのだが、文字的にここだろうな、と思った。あとやけに開放的なガラス扉越しに見える本棚からして、そうだろう。

 扉を開けて図書室に足を踏み入れると、コォ、と空調が静かに空気を掻き回す音とともに、多量の埃が僕の過敏な鼻を襲った。マスク越しでも入りこんでくる敵にあっけなく負けた生体の防御機能は、せめてもの抵抗として鼻水を捻出しやがった。

「っくし……!」

 ついでくしゃみも止まらず、鼻水をすすったところでチクリ、と刺さるような視線を感じた。なんだと思って顔を上げれば、同じ制服に身を包んだ生徒が二人ほど。それとは別に、僕が立つ出入り口の横に設置されたカウンターの奥に座る老齢の男性教師が一人。僕が気付いたことに向こうも察したのか、すぐに顔を背けられた。いや、逃げられたの間違いか。今気付いたが、自分の眉間に皺が寄っていた。


 そんなことはいい。とりあえず何か読み物を――そう考えて、何も思いつかなかった。正直、読むとしたら家に忘れてきた小説くらいで、いやそれ以外……と考えても、僕の読書欲は「あの仕掛けの答えが考察通りか早く知りたい」と訴えていて、もうそれしか考えられなかった。

「…………、」

「……」

 立ち止まったままの僕を不審に思ったのだろう、カウンター側から突き刺さるような視線を感じて、気まずい空気を吸い込みながら僕は本棚に向かった。探していれば何か興味がそそられるようなものが見つかるだろう、と願って。

 が、適当に踏み入った世界は僕の趣味に反して――というか、いかにも学校図書に置かれていそうな教科関連のハードカバーが所狭しと並んでいて、瞬時に間違えたな、と思った。

 だとしたら、この裏側の棚は辞書かなにかだろうか。経験則だが、大体こういう表裏一体になるように並べられた本棚は、近しい種類のものでまとめられているからだ。


 ――……辞書、か。うん、ありだな。


 ぶっちゃけ背表紙とタイトルの雰囲気から興味という琴線に触れるようなものを探すのは普段なら楽しいのだが、今の僕の目的は「とりあえず読みたい」であって、家にいる小説(こいびと)のことを忘れるために必死だった。

 裏側に回ると、予想通り片手で持てるかどうか怪しい分厚い辞書がぎっしりと並んでいた。5段ある内の一番下の棚から国語、英和、和英、ことわざ・慣用句――一番上には中日や、韓日の辞書が詰められていた。

 誰が使うんだこんなの……。そう思いながら、本棚の上段に視線を上げたまま歩いていると、

「あ、わっ、あぶっ……!」

「……っ!?」

 ひゃあ、と短い悲鳴とともに、僕は何かにぶつかった。転倒しかけたが、本棚に手をついたおかげで僕の身体はなんとか体勢を保てた。が、

「うっ……」

 目の前には女子生徒が倒れていた。周りには彼女のものだろうか、ペンケースや数冊のノートが散乱していた。

「あ、大丈夫、ですか」

 倒れたまま起き上がらない女子生徒の元に歩み寄って、僕は手を差し伸べた。すると彼女はゆっくりと目を開け――かけて、それはがっと大きく見開かれた。それと同時くらいに勢いよく起き上がった彼女は、僕の顔を見るや否や顔色を真っ青に染め上げる。

「あ、や、ご、ごご、ごめんなさい! お怪我はありませんか!? あ、その、手とかー足とかー、うっ……」

「いや、僕は大丈夫……」

「は、はひっ、よ、よかった、ですっ」

 つらつらと言葉を並べ立てた女子生徒は、ひっ、ひっ、と半ば過呼吸になりながら小さな肩を揺らす。


 ……大丈夫か、この人。なんか、今にでも死にそうな――。


「あ、ばっ、ひっ、わ、私は大丈夫です、ので、どうかお気に、なさら、ずっ」

「……」

 どうやら顔に出ていたらしい。怯える女子生徒は青ざめた顔で下手くそな笑みを作ると、胸のあたりでぎゅっと手を握りながら「ねっ?」とでも言いたげに小首を傾げた。

 そのあまりにも対応に困る反応に、どうするのか最善なのか考えようとした時、僕の視界に散乱したノートが目に入った。

 そうだ、これは多分彼女の物だろう。当の本人は気付いていないのか、はたまた僕が立ち去るのを待っているのか、床にぺたりと座りこんだまま無言で震えている。


 ――埒が明かない。そう思った僕は彼女の周りに散らばったノートを拾い集める。


「あっ……ひゃっ、ご、ごめんなさ……」

 そんな僕にようやく気付いたのだろう、女子生徒は弾かれたように身体を揺らすと、謝罪を口にしながら、しかし僕の動きを制するようにノートを拾いだした。二人がかりだからか、数秒とかからず拾い集められたそれらの一部を、僕は「どうぞ」と言って彼女に手渡した。

「あ、その、ご、ごめん、なさい……あ、ありがとう、ござい、ます……」

「いえ……」

 眉尻を下げ、申し訳なさそうに頭を下げた女子生徒。釣られて僕も頭を下げると、彼女はぶんぶんと首を横に振って「あ、わ、悪いのは私なの、で!」と早口で言った。

「……いや、前を見ずにいた僕が悪いし、あなたが謝るようなことじゃ……」

「いいい、いえもうこんなとこにいた私が悪いのでええええ……」

「えぇ……」

 さらに首を横に振って次第に頭を抱えだした女子生徒は、背中を丸めて、もはや蹲るように頭を下げだした。

 そのあまりにも過剰反応、というか、異常な光景にさすがの僕もドン引きだった。もうここは彼女の言葉を受け入れて立ち去るべき、なのだろうが……それはそれでモヤっとする。

 どうしたものかと本棚に目を向けると、ある一つの疑問が頭に浮かびあがる。

「あの、」

「は、ひゃい……!?」

「何かお探し、ですか」

「……えっ?」

 僕がそう問うと、女子生徒は鳩が豆鉄砲を食ったように、黒い瞳を丸々とさせた。


 ――……ん?


 一瞬その瞳をどこかで見たような気がしたが、それよりも問いの意味を説明すべきだろう、僕は驚いたまま微動だにしない彼女の横に静置された踏み台を指さした。

「それ……」

「あっ……! そ、そうで、す……」

 察したらしい女子生徒は、今度はこくこくと何度も首を縦に振った。


 さっきからこの人何度も首振ってるけど、もげそうで怖――いや、痛くないのか。


 そんな思考が過って、そっちの心配をしそうになったが、話の流れ的にどう考えてもいまする話題じゃない。とりあえずそれは置いといて、僕は立ち上がると彼女に「どれですか?」と聞きながら踏み台に乗った。


 これくらいの謝礼は、させてほしかった。


「え、あ、あの、そんな、えっ?」

 驚いた表情のまま僕を見上げる女子生徒。状況が理解出来ていないのか、まさに思考停止といった状態で。

「…………」

 僕は彼女を見下ろしたまま見つめる。彼女は次第にはっとした表情で口をぱくぱくと動かしながら、震える手で僕を――否、その頭上を指差してきた。

 それを追うように顔を上げると、『感情 ことばの表現を広げよう』と書かれた背表紙が目に入った。

「これ、ですか」

「は、はい……」

 横目に聞くと、女子生徒はこくりと小さく頷いた。それを確認した僕は一度手を伸ばしてみた。そして微妙に届かないことに気付いて、己の背を呪いながら背伸びしてその本を手に取った。

 踏み台から降りて、いまだに座り込んでいる彼女と視線を合わせるために膝をつく。すると彼女はまた気付いたような表情をして、息を飲む音が聞こえた。

「どうぞ」

 余計な反応を示すとまた怯えさせるかと思って、僕はとりあえず目的の本をそっと差し出した。

「あっ、う……ありがとう、ございま、す……」

 それまで手に持っていたノートやペンケースを脇に置いて、わざわざ両手で本を受け取った彼女は、それを大事そうにぎゅっと抱えると深々と頭を下げた。

「……いえ、」

 そんな大袈裟な。思わず口をついて出そうになった言葉を、僕は寸でのところで飲みこんだ。なんとなく、彼女はこれを聞くとまたもげそうなくらい首を振る気がしたからだ。

「……」

 頭を下げたまま動かない女子生徒。よく見ると、肩が小刻みに震えていた。

その様子になんとなく既視感というか、懐かしさを感じた僕は、これ以上彼女に関わるべきではないなと判断して、「じゃあ」と一言発して立ち上がる。


 辞書を読もうとかいう気は、当の昔に消え失せていた。


「あ、あのっ……!」

「……はい?」

 背を向けて一歩踏み出した瞬間だった。ひう、と声でもない音ともに呼び止められ、現状認知する中から予想できるその声の主に振り返ると、いつの間にか立ち上がっていた女子生徒がノートやら先ほどの本を固く抱えたまま、潤む瞳で僕を見つめていた。

「あっ、えと……その……」

 が、すぐにはっとした表情をすると、彼女は「あわわ……」と言いながら視線をあちこちに泳がせる。

 挙動不審とはこういうこと、を指すのだろうな。焦った様子で、こう、どうしよう、という気持ちを表情に出す彼女が段々いたたまれなくなってきて、僕は「……あの、」と言って、次の言葉を促した。

 すると彼女は「ひゃい」ともはや音でしかない返事をしてきて、ああもうだめだな、これは、と思った。

けど、僕もどうしていいのか分からず、立ち止まったまま彼女の言葉を待つしかなかった。


 だって、ここで立ち去ったら感じの悪い人やしないか。……いや、多分普通の人なら苦笑いをして「急いでるんで……」とか言って逃げるんだろう。そんな気がする。だが僕は、なんとなく、彼女に対してそういうのはすべきじゃないというか、単純に出来なかった。涼相手なら容赦なくやるんだけどな。


「……」

「あ、う……その、頭……」

 視線を斜め下に向けたまま、蚊の鳴くような声でようやく言葉を口にした女子生徒。

「……頭?」

 その衝撃的な言葉の意図が分からず、僕はしまった、と思った時にはもう聞き返してしまった。彼女は大きく肩を揺らすと、顔を上げて「あ、や、その、ち、ちが……」を息を詰めそうになっていた。


 ああ、やってしまった。こういう、どう見ても喋り慣れてない相手の場合、聞き返さずに静かに待っているべきなのだ。下手なことを言ってしまったとか、言葉を間違えたとか、そういうネガティブな考えをしてしまうから。……そう、経験則、的に。


「っ……ほ、保健室に、来てました、よね……昨日……私、その、保健室にいて……あっ、それは今ちがくて……えっと……」

 さてどうしたものか、と僕のほうが言葉に詰まっていると、女子生徒はしどろもどろに喋りだした。じわじわと腕に込められる力に、彼女の胸元に収まるノートがわずかに折れているのが気になったが、今はそれを指摘しないほうがいいだろうな、と思い、僕は口を閉ざした。

「それで、うっ……ず、頭痛は、もう、大丈夫……ですか……?」

 ようやく言いたい事を言えたらしい、女子生徒は今にも泣きそうな顔で首を傾げた。

 僕はというと、皺くちゃになりかけている彼女のノートに意識を持っていかれて、失礼なことに半分以上彼女の話を聞いていなかったが、『頭痛』という単語が耳に入った瞬間、自分の中で思い当たる話題があることに気付く。


 そう、昨日僕は雨による低気圧のせいで起きた頭痛で早退しているのだ。その前、保健室で一時間ほど寝ていたのだが――しかしなぜ彼女が知っているのだろうか。桃ではあるまいし……だからそう、あの場にいたのは僕と、バカと、吉田先生と――。


 ――そういえば、カーテン越しというか、『何か』と隙間越しに会話をした気がする。そう、ちょうど目の前の不安げに揺れる黒い大きな瞳だけがこちらを覗いていて……。


「あっ、」

 そうか。あの瞳の持ち主は、彼女だったわけだ。それなら昨日の僕の有様を知っているのも納得がいく。あの時、カーテン越しに僕たちの会話を聞いていたのだろう、早退するほどよろしくない状態だったのを、彼女は心配しているわけだ。

 ようやく汲み取れた意図に僕はなぜだかほっとするような、ちゃんと伝わりましたよ、と言いかけて飲みこんだ。そうじゃない、言うべきは、

「大丈夫、です」

 短くそう返すと、女子生徒は艶やかな瞳を何度も瞬きさせた。その後安堵した様子で「よかった、です」と言うと、ふわりと微笑んだ。その時わずかに揺れた黒髪が顔にかかって、彼女は慌ててそれを耳に掛ける。

「……っ」

 不覚にもその一連の動作に、どきっとした。


 ――すごい、こう、女子だ。それこそ僕が関わることなんてこの先一生ないであろう、華の女子。いわゆる高嶺の華。というか、今まっすぐに見て気付いたが、これはいわゆる美少女というものではないだろうか。何分僕は人の顔なんてろくに見ないし、ましてや評価なんてしたことがないんだが、本能的にこれは「綺麗だ……」と言わざるを得ないというか。たまにテレビで見る作られた顔より、よっぽど綺麗だ。人工物は所詮人工物でしかないというのか、彼女の顔はそれほどに美しかった。


 まあ、それだけなんだけどな。


「あ、あの……」

「……ん?」

 思考の海に浸っていると、おずおずと女子生徒が声を掛けてきた。なんだ? という視線を送れば、彼女は苦笑いというか、困ったような笑みを浮かべて天井を指差した。

「チャイム……鳴ってます……」

「あっ」

 コーン……と図書室内に木霊する音に、僕は急いで腕時計を確認した。時刻は昼の一時四十分。ちょうど五限の始まりを予告するチャイムだったらしい。授業はその五分後に始まる。ひとまず安堵して、そしてすぐに僕は焦りだした。


 図書室のあるこの第一校舎から、対岸に位置する――教室がある、いわゆる『本校舎』――第三校舎は、足の遅い僕が戻るにはわりと時間がかかるの距離で。しかも二年になってから教室は三階になっているから、階段を昇ることも含めると体力が続くかどうかも怪しい。

 しかし、遅れるわけにもいかない。朝の授業ならならともかく、“朝からいる日”に昼の授業に遅刻なんてまずありえないからな。

 けど、時間内に戻れる気もしなくて、もう潔く諦めたほうが身の為な気もしてきた。息切れした状態で教室に入って、それをクラスメイトに見られる? なんて醜態だ。そんなの僕の美学に反する。いや、そんなもの存在しないが。言ってみたかっただけだ。


 なんてくだらない思考をしているうちに、考えている暇があったら足を動かしてみろよ、と大昔に友人に言われたことを思い出した。

 ああ、そうだな。足掻けるだけ、足掻いてみるか。


「じゃあ、僕は戻るので……」

 僕は女子生徒にそう言って踵を返した。

目指すは教室。二年B組。間に合わなかったとしても、多分三分くらいの遅刻だから教科担当も大目に見てくれるだろう。うん、そうしてくれ。

「あ、あのっ!」

「んっ?!」

 さあ図書室を出たら走るぞ、という気持ちで一歩を踏み出した時。背後からまたも呼び止められ、僕は思わず勢いを声に出してしまった。

 強張る身体をよそに、いや少し恨めしく思いながら振りむくと、女子生徒は「ご、ごごごめんなさ、」とまで口にして、首を横に振った。

「えっ、と、その、名前……だけ、お聞きしたくて、その、深い意味は……ないんです、けど……」

「……?」

 予想外の投げかけに、僕は全身から力が抜けるのが分かった。固まる思考に「なぜだ?」と問いかけそうになって、慌てて飲みこんだ。

いや、もういい。とりあえず聞かれているのだから答えたらそれでいい。とにかく今は、教室に戻ることが最優先だ。

「僕は、板原政樹。……あなたは?」

 一応社交辞令ということで僕も問いかけてみる。正直知ったところで、ここで終わる縁だと思うんだけどな。

「あ、わ、私、一年の時沢よね、です……えと、板原、先輩」

 そう言って恥ずかしそうに微笑んだ彼女は、もう何度目か分からない謝罪と、礼の言葉を述べた。きっちりと頭を下げて。


 そんなに何度も言うことか? と思ったが、まあ彼女にとってそれだけ大きな出来事だったんだろう。僕はとにかく教室に戻るのにどこを通れば効率的か考えながら、「こちらこそ」と口にした。



 これが僕と、のちに正体が判明する『保健室の幽霊』こと――よねさんとの、出会いだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る