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目を覚ますと、目の前に広がる『底』には、誰もいなかった。カン、と音をたてて着地すると、身体にかかる重力がいつもより重い気がし――いや、のしかかるような圧力に、違和感があったのだ。その場でなんとなしに腕を振って空を切ってみたら、『なにか』を切っているのか、腕にやわらかい感触があった。腕を振るうたびに、ぽこぽこと、気泡が発生して衣服にまとわりつく。さらに、試しにその場でジャンプをしてみると、やはり『なにか』に包み込まれるような感覚と共に、緩やかに、見えない底に優しく着地したのだ。この『なにか』は――水、だろうか?
「……っ、」
『なにか』の正体を知覚した途端、本能的にごぼごぼ、と口から多量の空気を吐き出してしまう。空気はそのまま逃げるように上へ、上へと泳いでいって、やがて溶けるように消えてしまった。
「――……さん」
ちりん。
ぼんやりと上を見つめていると、ふいに鈴の音が、僕を呼んだ気がした。ゆっくりと振り返ると、そこには蛇のような見た目をしていながら、しかし鱗が一切なく、つるっとした体表を持った桃色生物が、ふよふよと尾を揺らして浮いていた。口内から入退室を繰り返す細長く黒い舌は、宙で何度となく揺れて、正直気持ち悪い。
僕はただ一点、目の前の謎の生物の眼を見た。光を灯さない鴇色の瞳が不気味で、だが、どこか慈愛を感じさせる――そんな生ぬるい優しさがあった。
「苦しいですか?」
桃色生物は静かに小さな口を開けると、言葉を発した。声帯なんて、そんな身体のどこにあるのだと思ったが、些細な疑問はすぐに桃色生物の質問に対する自身の答えでかき消されてしまう。
「……いや、いつも通りだ。水の中だっていうのに、息が出来る」
「そう……なら、よかった」
安堵した様子で目を閉じて、その場でくるんと一回転した桃色生物を無視して、僕は「ん……?」と首を傾げる。
一体何が『よかった』? そもそも、いつも通りって、なんだ?
そんな疑問が頭の中に沸いてきて、僕はにこりと笑う――そうだと思う――桃色生物を見た。さっきはつい、いつも通りのノリで返してしまったが、僕がこいつと会うのは初めてのはずだ。
「――覚えて、いないのですね」
「は……?」
思考を、読まれた?
そんな驚きが過った途端、脳から背筋にかけて勢いよく電気信号が駆け抜ける。足の付け根で二手に分かれた停止命令はつま先まで届き、それは僕から一切の行動権利を奪い去った。すなわち硬直。あまりの衝撃に、脳が完全に言葉の意味を理解するまで、脳そのものが余計な行動を慎めと言う、ある種の防衛反応だ。
「なん、なんだ……お前っ……!」
次第に襲ってきた恐怖に、僕は一歩後ずさる。それと同時だったか、
「はっ……?!」
突然足元が抜け、僕は抗う間もなく『底』の先に放り出された。子供の頃、庭に置いたバケツの中の薄氷を割るように、ぱきん、とみずみずしい軽音を立てた破片たちが、重力に従って落ちる僕を見捨てていくのがすれ違いざまに見えた。
――誰か。
本能的に腕を伸ばしてみても、広げた手の隙間から僅かな光が差し込むだけで、気分は空しいだけだ。
諦めろよ。――なんて、ずいぶんと聞き慣れた鋭利な声が、僕の心の中にしつこいくらいに木霊する。『そいつ』に身を託してしまえば、どれだけ楽になれるだろうか。その通りに出来たら、こんな目に遭わなくて済むのだろうか。そんなことをふと、考えていた。
けれど今の僕には、それは出来そうにない。いや、もう出来ないんだ。二度目はないと分かっていても、一度掴まれた腕は、或いは、と書かれた期待という重石をつけたまま、何度だって伸ばしてしまう。
もしかしたら、『お前』なら、僕を――。
「――さん」
ちりん。
期待という名の諦観に塗れていた心に、高くも低くもない、心地よい音程の鈴が耳に響いた。
「私が、いますよ」
そいつは、音と漂う破片に紛れるようにしてこちらへ向かってきていた。なんとなく嫌な気がして、こっちへ来るな、と口を開けてみたが、それはごぽっ、と大きな音を立てて意味を為さない塊となり、やがて細かな形になって散り散りになっていった。
やめろ、僕に触れるな……!
「――あなたが私を見てくれないのなら、私があなたを見ています」
そう言うと、そいつ――桃色生物は、ゆっくりと僕の身体に巻きついてきた。思っていたより体長があったのか、ぐるぐると、這うように全身を支配していく。気付けば奴の顔が目の前にあって、はっと気付いた時には僕の顔はその舌で舐められた。
◇◆◇◆◇
視界には、白い……というよりは、どこか薄く黄味がかった、なにか。なんという色だったか。そう考えながら、ごろんと身体を転がすと、次に目に入ったのは薄緑の布。ぱち、と一度瞬きをして、いまだ覚醒しない意識の中で、政樹はなんとか上体を起こした。ぼんやりとモノを捉えない視界で辺りを見回して、徐々にここがどこであるのか判断するための材料を、脳にインプットする。
脱ぎ捨てられたブレザー(当然僕のものだろう)。皺だらけのシーツ。薄緑の布もといカーテン。白い――オフホワイトの天井、なにより快適な温度と湿度。教室の喧騒からは切り離されたような、穏やかな空間。心地良い静けさのここは――。
――保健室、だ。確か、もはや持病の域を超えている頭痛が正気の限界を超えてしまい、見兼ねた涼のやつに運び込まれたんだった。
そしてそのまま泥に沈むように仮眠をとって、今に至るのだろう。中途半端に寝たせいで頭と身体は圧し掛かるように重くて、ひたすらに怠い。身体の下にあったせいか、ブレザーはなんというか、ただの布に成り果てていた。帰ったらハンガーに掛けて形を整えないといけない。あとは……マスクか。手元を探ってみたが、どうにも見当たらない。まずい。マスクが無いと埃やら花粉やらで、僕の鼻は過剰に免疫反応を起こして、くしゃみが止まらなくなるんだ。それに、吸い慣れた温かな息が無いと、それはそれでなんだか不安になる。
「はあ……」
もはや癖のようになっている溜息をつくと、政樹はすっかり平べったくなったブレザーを羽織り、一度大きく伸びをしてベッドから脚を降ろす。靴下越しの床は存外固く、少しだけひやっとしていた。そのまま立ち上がると、床が軋んだのかミシッと音がして、普段なら特に気にも留めないが、この時ばかりは「まあ、古い学校だしな……」なんて無駄な思考が脳を横切る。
ひとまず今が何時なのかを確認しようと、カーテンを開けて出る。周囲を見渡して壁時計に気が付いた時、政樹はここでようやく腕時計があったことを思い出す。一瞬視線を腕時計に動かして見ると、時刻は二限の終わりを差していた。そんなに寝ていたのか、と一人ごちてみたが、当然返事があるわけでもないし、それよりも授業をサボってしまった罪悪感のほうが大きい。こればかりは仕方ないと割り切っても、切れ端や細々としたものがチクチクと心に刺さるのだ。
「っ……!」
ふいに、ギッと何かが軋む音がして、なんだと思い音の方向へ振り向けば、クーラーの静かな音がするだけで特に何もない。強いていうなら、三つあるベッドのうち出入り口に近いほうのカーテンが閉じられていることが気になる。
「……なんだ?」
が、どうにもそのカーテンの先から人気がするのは確かで、しばらく無言で空間を見つめていると、閉じられた布がゆらりと揺れた。
「っ、わ、だ、大丈夫……ですか……?」
カーテンを少し開いて、出来た僅かな隙間から申し訳なさそうな顔を出した人が、一人。不安げに揺れる黒い大きな瞳と、何に震えているのか、発音が安定しない高い声からして女だろうか。
「え、っと……紗枝ちゃん先生、なら、もうすぐ……戻ってくる、ので、だから、その、無理はしないほうが……」
ひどく頼りなさげに、ぎゅっと握り締められた女の手はカーテンに深い皺を作る。なんとなくというか、この様子からして相当の人見知りか、それに近い類いの人間なのはよく分かった。きっと、これまでに相当嫌な思いをしてきたのだろう。自分から話しかけておいて、少しばかりーーいや、かなり失礼じゃないのかとは思ったが、それを口にしたところで無用なトラウマを植え付けかねないし、いらぬ世話もとい、悪循環へとご招待する羽目になってしまう。
「あ、うっ……」
眉間に皺を形成し、険しい顔をして立ちはだかる政樹に女は口籠ると、ますます拳に力を入れ、その強さにカーテンとレールを繋ぐ器具がギチッと悲鳴を上げた。
「……ありがとうございます」
上辺の優しさでも出さないよりはマシだろうと考え、努めて柔らかな声色を意識してみたが、どうだろうか。
「あ、は、はい……」
女はそれだけ言い残すとカーテンを閉じてしまった。一人残された政樹は一体なんだったんだ、と言いかけて言葉を飲み込む。ただ「担当の保健医がいないから、もう少し寝ててもいいぞ」そう言いたいことくらい、さすがの政樹も理解出来る。
――とにかく、このままここにいたところで、時間が無駄に過ぎていくだけだ。目覚めてしまった以上、理由を失ってしまったのだから教室に戻るか、或いは――。
「ん……?」
思案していると、それまで静かだった保健室の――外からか、チャイムの音とともにがやがやとした騒がしさが戻ってきた。おそらく二限目の授業が終わったのだろう。今から教室に戻れば三限目には参加できる――が、ここに来て思い出したように徐々に頭が痛みだした。今朝に比べればマシになったとはいえ、ズキズキと痛む頭を休めるには、寝ることが一番だ。
……大人しく、もう一度寝るか。
そうしようと、体の向きを変えた時だ。バタバタ、と忙しない足音が遠くから聞こえたかと思うと、ぴたっとそれは止まった。そう、ちょうどこの扉の前で――
「政樹ぃーーーー!!!!」
ガタン!
大きな音とともに開かれた扉から、あの聞き慣れたバカ元気な声が保健室と、廊下中に響いた。ジィ……ンと共鳴する保健室内に政樹の鼓膜も一緒に震え、脳はそれに耐えきれず、ガンガンとまるで内側から出たがるように痛みを叩きつけてくる。
「あ、政樹! 起きてたのか!」
政樹の姿を目に射止めた瞬間、声の主――涼はぱぁ、と夏場の照りつける太陽のように満点の笑顔を浮かべた。
「……ほんっとうにお前は……! うるさいなぁ!!」
痛みに苛ついたあまり、考える間も無く怒鳴り声を上げた政樹に、涼はびっくりした顔で目を大きく見開く。
「開口一番それ?!」
「知らん!」
「ひでぇ~! 人が心配して来てやったってのにさぁ!」
「お前に頼んだ覚えはない!」
ピシャリと言い切ると、涼はぐっと口を噤んで震えだす。よく見れば垂れ下がった目尻には涙が滲んでおり、今にも泣きそうな顔をしていた。
「……おい、」
これくらいで泣く――
「もぉ、保健室で大声出してるの誰~?」
と、その時。突然、若い女性の声が割って入ってきた。
「あー君たちね! 寝てる人いるんだから、静かにしなきゃだめでしょ! 元気なのはいいことだけど、保健室は遊ぶ場所じゃないんだから」
声――膝丈の白衣に身を包んだ妙齢の女性・吉田紗枝は捲し立てるようにそう言うと、腰に手を当てて扉の前で険しい顔をしながら仁王立ちをしていた。
「紗枝ちゃん!」
気付いた涼が吉田を呼んだ。彼女は一瞬表情を和らげたと思うと、目を細めて、
「戸部くーん。先生をつけなさい、先・生・を」
と言った。そのままスリッパに履き替え、保健室へ入ると静かに扉を閉めた。
「それで、元気な君が一体何の用なわけ?」
吉田は窓際に設置された机に荷物を置き、椅子に腰掛けると足を組んで涼と政樹の二人に問う。
「あ、いや、友達の様子を見に来て」
「友達? ……あ、もしかして隣の男の子?」
「うん」
吉田はこくりと頷いた涼から視線を政樹に向けると、「んー?」と唸りながら手元のファイルと見比べる。首を傾げると「名前は?」と聞いてきた。
「……二年の、板原政樹です」
「板原くんねー。いつ来たの?」
「一限の終わり……十分休憩に……」
「はいはい。それで、病状は?」
「……頭痛です」
トントン、とボールペンのノック部分で机を叩きながら淡々と質問を繰り出す吉田に、政樹は深く考えずに同じように受け答えしていく。
「あー今日雨ひどいもんねぇ~。どう? もう授業には戻れそう?」
「いえ、まだ……」
「そっか。どうする? 帰る?」
「えっ」
戸惑う政樹に、あっけらかんとした表情で吉田は、もう一度「どうする?」と聞いてきた。
……正直言うと、寝たい。が、冷静に考えて、頭の中にドコドコ太鼓を叩いて暴れる寅柄パンツを履いた鬼を飼っているような状況で、もう一度寝たところで回復するかどうかと言われると、期待半分、諦め半分といったところだ。それならば大人しく家に帰って寝ているほうが幾分かマシかもしれないし、このまま足掻いて保健室の住民と化す道もありえる。
――そこまで考えて、急に面倒くさくなってきた。授業に出なければ、という義務感はあれど、芳しくない体調のまま授業に戻って、机に突っ伏している姿を見た教師がどう思うか。まあ事情を話せば成績に反映されるような真似は無いと思うが、そうまでして参加して、ろくに聞けもしない授業をどうしろというのだ。
別に寝ているだけなら邪魔にはならないし、好きにすればいい。だが、僕なら真面目も行き過ぎると面倒くさいというか、可哀想だとすら思う。自分を追い込むのも結構だが、身体が休息を求めているときにそれを拒否するのは、どうだろうか。もし今日が何か特別な日だとか、大切な日なら話は違ってくるだろうが、あいにくいつも通り……むしろ雨だなんていう、最悪な日だ。何もかもがいつも以上に重たい日に、重ねるようなことをするのは愚かじゃないだろうか。
どうせ明日になったら治るものだ。そう考えると、今日はもう大人しく帰ろうと思えてきた。
「政樹、大丈夫か? おーい」
何も喋らない友人に、涼は頬を手の甲でぺちぺちと叩いた。はっと気づいた政樹が「……僕に触るな」と言って腕を掴むと、涼は「ごめんって」と返して手を振り払う。
「吉田先生」
「ん? 決まった?」
「はい。痛みが引きそうにないので帰ります」
「うん。分かりました。あんまり顔色良くないし、雨もひどいから気を付けて帰ってね」
「……ありがとうございます」
眉尻を下げて微笑んだ吉田に政樹は一礼すると、保健室を出ようと踵を返す。涼は「じゃあ、紗枝ちゃんまたね!」と言ってそれに続いた。
相変わらずの涼に、吉田は呆れた表情で「先生をつけなさいってば……」と言うと、ボールペンをカチっとノックして、ファイルを広げて政樹の名前と『頭痛』と記した。
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