第2話 保健室の幽霊

1

 ――例えば、だ。

 朝目が覚めたら、見知らぬ美少女が目の前にいたとして。その美少女に介抱されていたとして。

 

 さて、どうする?

 きっと物語の人物ならここで一目惚れしたり、これが運命的出会いのきっかけとなって、美少女のために人生を賭して何かを成し遂げたりするのだろう。僕はそういう物語を何冊と、飽きるほどに読んできた。だから、疑問に思うのだ。


 なら”普通の人”は、どうするだろうか。


 答えは多分、この先の僕の行動にある。ちなみに、現時点での解答を先に言うなら「お礼をして終わり」だ。例に挙げるなら、何かに困ってるNPCの婆さんだか爺さんを主人公とヒロインが必死になって助け、その日の晩に村の総力を挙げて、旅人である二人を手厚く歓迎するみたいな。

 ……現代のスケールに言いかえれば、駅の階段で荷物が多くてなかなか登れない婆さんに代わって荷物を持ち、階段を昇るのを手伝う。そのお礼に飴玉をもらうかもらわないかくらいの。その『する』側ではなく、『される』側のことをするのが、普通の人だろう。


 そして普通ならば、そこでその助けた人との縁は切れる。三日かそこらもすれば、お互い顔も声も忘れるくらいだ。


 だが、それでいい。人生とはそういうものだ。そういうものだから、自分は自分のままでいられる。過干渉なんてもってのほか。


 ――……本当に、そのはずだったんだがな。


 ああ、最初と話が逸れてるのは僕の悪癖だ。気にするな。



◇◆◇◆◇



「なあ、政樹~保健室の幽霊って知ってるか?」

「……あ?」

 気怠い午後の休憩時間。弁当を食べ終え、五限目の予習にでも勤しもうとしていた政樹に、友人である戸部涼が話しかける。椅子の背もたれを抱き込むような形で目の前の座席に座る友人が聞いてくれ、と言わんばかりに体を揺らすたび、ぎっ、と木の軋む音がうるさくて、政樹が不機嫌な様子を隠さず、手で「あっちいけ」と示すも、当の本人はにこにこしていた。

「なんでも、誰もいないはずの保健室から悲鳴が聞こえたり、隣のベットから赤子のような泣き声が聞こえたりするんだってよ~!」

「…………」

 身振り手振り、全身を使って至極楽しそうに話す涼を無視し、教科書とノートを広げる政樹。小さく欠伸をしながら頬杖をつき、先週の授業内容を思い出しながら指でなぞる。次第に鮮明になる記憶に、唯一曖昧な部分が出てきて、ああ……と政樹は一人ごちた。


 ――そういえば先週はこの部分が理解しきれなかったから、あとで教師に聞こうと思っていたんだった。


 何か忘れていると思えば、これだったか。先週はなんやかんやとしているうちに結局教師を捕まえ損ねて、聞きそびれてそのままにしていたのだった。また忘れてはいけない、そう思い筆箱から付箋を取り出しメモ書きしようとペンを走らせたとき、急に机がガタガタと大きな音を立てながら前後左右に無茶苦茶に揺れた。一筆目が大きくぶれて、まるで蛇がにょろにょろとのったり動く姿のように線を引いてしまう。

「まーさーきー! まーーさーーきーー!!」

「っ、うるさいな!!」

 顔を上げれば、泣き喚きながらガタガタと机を揺らす涼がいた。右手にぐっと力を込めて握り締め、全力で頭を殴って怒鳴りつけると、涼は「いってぇ!」と悲痛な叫び声を上げて椅子から転げ落ちる。教室に残っていたクラスメイトが遠巻きにこちらを見ていたが、政樹が無言で睨みつけると「ひっ……」と小さく息を詰めて視線を逸らしてしまった。

「ちっ……!」

 いつの間にか立ち上がっていたらしい。政樹は舌打ちをして、ガタン、と大きな音を立てながら椅子に座り直すと、無駄にしてしまった付箋を床に転がる――ちょうど顔が自分の座る椅子の真横にあった――涼の額に張り付ける。邪魔をするな。そう意志を込めてガンをつけて見下ろすと、涼の顔はみるみるうちに青くなり、「はわわわ……」と焦った声を出した。

「もういい……」

 急に怒鳴ったせいか、全身の力が下方に奪われていく。意識していなかったが、このバカの頭を殴った右手の関節がじんじんと腫れるように痛む。よく見れば真っ赤になっていて、次第に熱を持つ感覚が襲ってきた。冷やしに行こうかと思ったが、途端に面倒になりやめた。

 涼は「どっこいしょ!」と勢いをつけて起き上がると、殴られた箇所をさすりながら椅子に座り直した。蚊の鳴くような声で「ごめん……」と謝ってきたので、政樹は「別に」と言い切ると、付箋を新たに書きなおしてノートにぺたりと張り付ける。

「でさ、さっきの続きなんだけどさ!」

 先ほどまでのしょげた表情と打って変わり、からっと乾いた暑い夏の日差しのような笑顔を浮かべる涼。そのあまりの眩しさに政樹は思わず顔を歪め、こみ上げる吐き気に思わずおえっ、と声に出してえづいてしまう。


 あれだけ邪魔をするな、と釘を刺したのに、数秒後にはこれだ。こいつの精神構造は基本『めげない、挫けない、諦めない』の三拍子で出来ているが、それにしたってこの復活スピードは異常すぎる。まあ、とうの昔に慣れたと言えば慣れたのだが。尻が裂けても、絶対本人に言わないが。


「でさでさ、さっき保健室の前通った時にまさかなって思って見たら、誰もいない保健室の灯りがついててよ!」

「オチは」

「へ?」

 政樹の冷徹な一言に、早口でぺらぺらと言葉を並び立てていた涼の顔が、一気に腑抜けたものに変わる。きょとんとした顔で、何度も目をぱちぱちと瞬きさせる涼に、政樹はもう一度「オチは」と催促した。

「小枝ちゃんが……ちょっと席外してただけだったってオチ……です……」

 いじけた様子で口を尖らせる涼。「なんだよぉ……」と愚痴を漏らす彼に、政樹は「くだらないな」と吐き捨てる様に言って追い打ちる。涼は今にも泣きそうな顔で「ひでぇ……」と呟くと、力なく肩を落とした。

 まったく何をしたいのか知らないが、構ってほしければ放課後にしろというものを。


 袖を少し手前に引っ張り、腕時計を確認すると予鈴が鳴るまでもうあと5分となかった。いつもそうだが、あいつは勉強しようとした時に限って邪魔をしてくる。午前授業の合間の十分休憩もうんざりするほど騒ぎ立てるし、二年に進級してから毎日こんな調子なものだから、いい加減頭にくる。

 ……まあ、さすがに原因に心当たりがあるといえばあるのだが、それを指摘したところであと一年我慢するしかないし、なにより僕からすれば「こっちに『八つ当たり』するな」としか言えないから、本当にどうしようもないのだ。……そう、だから、巻き込まれるこっちの身になってほしい。痴情のもつれだなんて、今時笑えない。夫婦喧嘩は犬も食わないというが、涼の場合は痴話喧嘩か、それに近いものだ。どちらにしろ近くにいる僕は食べようと思わないな。――何を言っているんだ、僕は。


「はあ…………本当、面倒だ……」

「政樹?」

 どこまでも深い溜息をついて、頭を抱えるようにして机に突っ伏すと、頭上から呼び声が聞こえた。のろりとした動きで顔を上げた政樹がぎろり、とこれほどまでにないくらいに目を細めて睨みつけると、涼は「ひょえ……!」と変な声を出して、肩を大きく跳ねさせた。

「……ったく、お前に付き合ってたら体がいくつあっても足りないな」

「はあ?! なんだよそれぇ!」

 小さく舌打ちをして悪態をつくと、涼がぷくっと頬を膨らませて突っかかってきたところで、ようやくチャイムが鳴った。

「ほら、自分の席に戻れ。そして二度と来るな」

「んなっ~~……!!」

 ハウスハウス、と言いながら手で追いやる仕草をすると、涼はますます頬を膨らませる。それが面白くて、限界までそれが大きくなったところを狙って両手で挟み込むようにして涼の頬を叩くと、まるで風船の空気が勢いよく抜けるみたいに「ぷぅぅぅ!!」ととてもいい音とともに奴は噴きだした。

「いっってぇ~~!!」

「無様だな!」

 声を上げて頬を抑えながら、涙目で痛みを訴える涼に、政樹はくつくつと喉を鳴らし口角をくっと上げて満足げに笑う。誰が見ても悪魔じみたその笑みは、残念ながらマスクの奥に隠されて見えないのだが。

「お……鬼! 悪魔! この鬼畜ぅ!」

 椅子をガタガタ揺らしながら泣き叫ぶ涼。頑張って単語を絞り出したかと思えば、すぐに「バーカ! バーカ!」と繰り出して、小学生でももう少しマシな罵倒を繰り出すだろうに、さながらボギャブラリーの貧困だ。縮めてボギャ貧とかいう。

 まあお前、この間の現代文の小テスト、十点だったもんな。一応の名誉のために満点はいくつなのかは触れないでおくが。

「お前が僕にしたことに比べたら可愛いもんだろう。なんだ、文句でもあるのか?」

「うぐっ……」

 張りっぱなしの付箋ごしに額を指でつつきながら言ってやると、涼は唇をへの字に歪ませ、それはもう今から泣くぞと言わんばかりに目尻に涙を浮かべていた。涼は返す言葉がなくなり追いつめられると、いつもこうだ。赤子みたいに顔をぐしゃぐしゃに歪めて、感情に訴えてくる。いうならば母性に。自分は男であるが。

 ――僕にそんなものが通用すると思っているのか。残念だな、世の中そんなに甘くない。


「おーい、お前ら授業始まってんぞー」

「……!!」

 どこからともなくした声に、政樹がはっとした顔で教卓を見ると、渋い顔をしてこちらを見る加藤先生がいた。やっと終わったか、そう口パクをすると、先生は気怠そうに出席簿を開いて出欠の確認を始めた。

「……政樹ぃ」

「…………お前のせいだ」

 しゃがみこみ、小声で話しかけてきた涼に、政樹は吐き捨てるように言うと、静かに席に座った。涼は眉をハの字にし、歯を見せながら唇を尖らせ、その言葉にしづらい表情からはよほど理不尽だと感じていることが察せた。まあ知らんが。僕は悪くない。

「あとで覚えてろよ……」

 拳をプルプルと震わせ、いかにも怒ってますアピールをする涼。やれるもんならやってみろ。そんな風に鼻で笑ってやると、涼は立ち上がって「なんだとぉ!」と大声を上げた。が、それを見た先生が、

「戸部ぇ!!!!」

 と、教室中に響くほどに涼の苗字を叫ぶと、涼は「はいぃぃぃ!!??」 と言いながらその場で跳ねてみせた。

 おそるおそる振り返ると、出席簿で唯一の空席を指す先生がいた。

「はよ席つけ」

「えっ、あ、ウィッス……」

 へこへこと頭を何度も下げながら、自身の席に戻っていった涼。ようやく全員が席に着いたところで、先生は出席簿をパーン! と大きな音を立てながら教卓に置くと、仁王立ちをした。その一連の流れに、教室中の生徒全員が息を飲む。

 何か怒られるのだろうか。いや、怒られるとしたらさっきの――。

「授業、始めるぞい」

 両手の薬指と小指を折り、親指から中指をピンと伸ばして顔の横でポーズを……いわゆるスリーピースだなんてモノをキメた先生。しかし表情は真顔そのものであり、そのあまりにものギャップに生徒全員一瞬固まってしまう。


「なんかツッコめよ。――ほい、教科書開いた開いたぁ」

「んな理不尽な……」


 思わず一部の生徒が落胆の声を出すほど、その一発芸には誰もついてこれなかった。



◇◆◇◆◇



 時は少し進み、あくる日の十分休憩。

 今朝は前日の夜から降り続いた雨のせいで、とにかく『気』が重かった。


「っ…………」


 頭が、痛い。ただこの一言に尽きる。金たらいを高所から頭のてっぺんに向かって何個も、それも連続で叩き落とされる感覚。ズキズキを通り越したそれはあまりにも暴力的すぎて、頭痛薬だなんていう現代医学の生み出した神なる盾(ただし量産型)が跡形もなく消え去るレベルだ。ただの一般人でしかない自分はこれ以上どうしようもなくて、降り続ける金たらいの雨を直撃で耐えるほかなかった。

「クソが……」

「大丈夫か、政樹」

 一限が終わり、ノートがぐしゃぐしゃになるのも気にせず机に突っ伏す政樹に、不安げに眉尻を下げた涼が声をかける。ぴくっと肩を小さく跳ねさせて反応を示すも、「うるさい……話しかけるな……」とくぐもった声で返事が返ってくる。しかし涼は気にも留めず「薬は飲んだのか?」と問うと、政樹の頭を軽く撫でた。クソ、触るな。そう思っても払いのける気力なんてどこにもない。

「……タイミング……」

 掠れ気味の声でなんとか単語を絞り出す。正直答える気力もない。

「ん? あーなんかああいうのって痛くなる前に飲むとかなんとか言うもんなぁ~」

 ポリポリと頬を掻いて心底困った様子の涼に、政樹は腕を伸ばし、これ以上話しかけるなと意味も込めて手で追い払うように「あっちいけ」の仕草をする。が、力がまったく入っていない動きのそれに、呆れた様子で溜息を吐いた涼が政樹の頭を手の甲で軽くたたくと、手は腕ごとだらりと下げられた。

「とりあえずさー保健室、行くか?」

「…………ん、」

 優しく政樹の肩を叩き、むくりと顔だけ上げ、鈍い反応を示す彼の視線の高さを合わせる様にしゃがみこむと、涼は首を傾げて「どっちだぁ~」ともう一度問う。痛みで半分意識が飛びかけていた政樹は、ぐっと腕と肩に力を入れなんとか上体を起こすと、首を横に振って「いらん……」とぼそっと呟いた。余計な手出しは無用。ノーセンキュー。僕に構うな。そう意味を込めて指を揃え手のひらを涼の眼前に突き出す。

 すると、涼の顔はまるで怒りに狂う猫の如くひどく歪み、はあ、と深く溜息をつくと膝を抱えて立ち上がった。

「はーい、お客さん急患ですね~ピーポーピーポー!」

「……おい、」

 いきなりわけのわからないことを言い出した涼は、訝しげな顔をする政樹の腕を自分の肩にまわし、支える様にして無理矢理立ち上がらせる。離せ、と政樹がどこから出せるのか、ドスの利いた声で反抗しても涼はお構いなしで、そのまま歩き出そうとする。やめろ。言葉で分からないなら態度でと、ぐっと足に力を込めて抵抗すると、涼はそんな政樹を一瞥すると、容赦なく頭突きをかました。

「いっ…………!」

「うっせー! 病人は大人しく寝てやがれ!」

 口を尖らせながらそう言った涼の顔は真剣で、ぼんやりする視界と内と外からの痛みで朦朧とする意識でそれを見ていた政樹はぷいっと顔を逸らすと、小さく舌打ちをしてようやく足を踏み出した。


 ――ああ、もう。最悪だ。


 とりあえず突っ伏してでも授業に参加して、あとは時がなんとかしてくれるのを期待してやり過ごそうとしていたのに、このバカはどうにもそれを許さないらしい。精いっぱい抵抗したってお構いなしで……いや、そんなこと友人となった日から散々思い知らされているから、本当に今更なことだ。だから、そう、今更そんなことに怒っても時間の無駄でしかない。


 だが、”されっぱなし”にされるほど、僕は図々しくない。……いや、甘えちゃいない。甘えちゃ、いけないんだ。


 他人の力を借りるくらいなら僕は、死にたいんだ。こんな、こんな――。


 ぐちゃぐちゃな思考に任せて、感情を叩きつけることにした。もういい、早く、早く、解放してくれ。


「ひとつ……借り、だ」

「ん? なんだ?」

 痛む頭を片手で抱えながら、ぼそぼそと、耳をじっくり傾けなければ聞こえない声で言葉を紡ぐ政樹。言葉を選ぶ余裕はなく、ただ喉から出てくる音に任せて語る。

「僕は……お前に、ひとつ、借りを……」

 ぱちくりと目を開いた涼はゆっくりと歩を緩めながら、ふむふむといった様子で何度か頷く。ぴたっと動きを止めすぅ、と音が聞こえるほどに深呼吸をすると、


「ばっかじゃねえの!?」


 と、廊下に響くことなど気にせず大声で言った。

 間近で大声を出された政樹は、キンキン痛む(はず)耳も気にせず「あ……?」と地の底が震えるような低音の声で、ひどく顔を歪めながら睨みつける。対した涼は、一瞬ぎょっとしたような顔をして怯んでみせたが、すぐに胸を張ってベッ、と舌を出した。

「こんくらいで借りなんて作ってたら、お前死ぬぞ~」

「……おい、僕は、」


 真剣に。

 そう言おうとして、それは涼のさらなる大声に遮られた。


「だっー! だから、いいって言ってんだろ!」

「はっ……!?」

 肩からするりと腕を下ろされ、状況を理解する間もなくいきなり壁に押し付けられ、政樹は背中を強く打った。ひゅっ、と詰まる息に、思わず視界が揺らぐ。ああもう、この馬鹿力め!――というか、さっきから暴力的すぎないか! 病人だぞ、僕は!

「あんま余計なこと言ってっと、さすがのオレも怒っからな!」

 ぐっと顔を近付けられ、涼の荒い鼻息が頬を掠める。政樹は詰まった息をはっ、と荒く吐き出すと、大きく目を見開いて自分の置かれている状況を把握する。


 ……俗にいう、壁ドン。う、嬉しくない。


 涼の両腕の間に閉じこめられている今。近い、そう意志表示を込めて無言で肩を押す。すると涼も瞬時に理解したのか「わりぃ!」と慌てて体を離し、すぐに拘束から解放された。

「あー……とりあえず、さっさと保健室行くか!」

 手持ち無沙汰な腕をわちゃわちゃと動かし、閃いた様子で拳で手をポンッと叩くと、涼はもう一度政樹の腕を自身の肩にまわした。これ、微妙な身長差で地味にきついんだがな……。

「……ああ」

 とりあえず今はもう、文句は言わない。あとで言えばいいんだ。もう、それでいい。そう考えて、ここは素直に甘えることにしよう。


 ――そういえば、もう次の授業が始まっているはずだ。涼は当然……考えていないだろうな。


「ちっ……」

 聞こえない程度を意識して舌打ちをする。しかし、こうも顔と顔が近いと聞こえるらしい。涼はぴくっと肩を跳ねさせると、口を尖らせて視線だけこちらに向けた。

「お? なんだ、まだやんのか?」

「違う……今のは……」 


 ――僕自身に向けたものだ。



◇◆◇◆◇



「小枝ちゃーん! いるー!?」

「お前、な……」

 保健室に着き、涼がガラッ、と勢いよく大きな音をたてて引き戸を開けると、部屋の電気はついているが誰もいないようだった。「急患でーす!」とバカが騒いでも、フォォォ、とクーラーの音が静かに響くだけで、なんの返事もなかった。

「うーん、こりゃ仕方ねぇよなぁ。オレが代わりに職員室行って、先生に言っとくからさ。政樹は寝とけよな」

「…………ああ」

 3つあるうちのベットで、カーテンに覆われていない、出入り口から見て一番奥のベット――一番手前のベットのカーテンは閉じられている――に政樹は俯せに寝かされる。涼は「ほいほい~」と言いながらご丁寧に政樹の上履きを脱がすと、慌ただしくカーテンを閉めて、保健室を出ていってしまった。


「…………、」

 ああ、そうだ。皺になるといけないし、なにより寝るには窮屈なブレザーも脱がなければ。その為に投げ出された腕にぐっと力を込めてみたが、やけにふかふかな布団にそれは吸収されてしまった。

 ……もうどうにでもなれ。そう思って、布団に反して固い枕に頭を預ける。そばがら枕じゃない――なんだったか、このじゃらじゃら音がする枕は。よく安いホテルとかにありそうなやつだ。柔軟剤の柔らかい花のほのかな香りが、鼻をくすぐる。

「―――――、」

 次第に重たくなる瞼に、狭まる視界。さすがに顔面の半分を覆うマスクだけは外そうと、もはや感覚のない指先に力を込めたつもりになって、ぐっと顎のあたりまで引き下げる。それが、精一杯だった。


 ――そうだ。あとで、涼にお礼を。文句を言うより、借りを作らせなかったお前に、せめてそれくらいは……。


 遠のく思考にしがみつくのをやめた瞬間、僕の意識はブラウン管テレビの電源が切れるようにぶつりと途切れた。




 嵐が去った後の保健室に、朝露に濡れたような艶やかな黒髪を肩に流す少女と、薄い檸檬色の髪の毛先をゆるく巻いた女性がいた。

 少女はカーテンから覗き込むような形で、どこからか戻ってきたばかりらしい女性に話しかける。

「せ、先生ぇ……あの、さっき……」

「んー? どうしたの、時沢さん」

「えと、多分……先輩が、その、男の人……奥のベットに……」

 少女の自信なさげに揺れる瞳が、閉じられたカーテンを見つめる。頼りなさげに指さすと、女性は首を傾げて逡巡したのち、「ああ!」と甲高い声をあげた。

「今日気圧だいぶ低いもんねぇ~。頭痛勢かな~?」

「うっ……それは、分からないけど……」

 びくっ、と肩を揺らした少女はそれだけ言うと、カーテンをしゃっと音を立てて閉め、引きこもってしまった。

「うーん……そっちも頭痛勢、と」

 女性は机上に置いた記録用の用紙に、少女の名前――『時沢よね』と記すと、隣の空欄に”頭痛”と付け加える。


 三人の空間に、クーラーの音が静かに響いた。


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