後日談:ばすたー
「――で、あるからして、」
その日最後の授業を、僕は右の聴覚から左の聴覚へと、まるで軽作業の如く聞き流していた。
今日は朝から認知どころか、その存在を知覚することすら苦痛な奴の顔を見る羽目になるわ、学校に着けばついたで、涼のバカ騒ぎに巻き込まれて、そして昼休みの『彼女』との再会――本当に、気の落ち着けない日だった。いや、それは二年生に進級してからずっとなのだが、昨日と今日は特にひどかったように思う。
いつになったら、僕は静かに読書(デート)が出来るのだろう。ただ僕は、学校にいる中で許された僅かな自由時間を小説(こいびと)に充てたいだけだというのに。そんなささやかな願いすら、世界は、もとい周辺環境は許してくれない。
そもそも僕が何をしたっていうんだ。ただ毎日学校に来て、真面目に授業を受けて、実力を正当に評価してもらい、さらに研鑽を積み精進していくだけの、人相は最悪だが、それ以外はいたって普通の男子高校生なこの僕が、だ。
まあ、客観的に見れば世間が描く普通とかけ離れた部分はある。例えば、気圧の変化に異様に弱いこの身体だ。多分、普通の高校生は言うほど保健室を利用していないと思うが――せいぜい年に数回あるかないか程度だろう――僕は、昨日のも含めると両手で数えれるくらいには、あそこにお世話になっている。といっても利用頻度は月に一回、多くて二回だから総合的に見て、だが。あと付け加えると、欠席日数も何気に積み重なっている。気付いたら月に二回も休んでいたとかはザラだ。多分今年の三者面談では何か言われるだろう。「休みが何気に多いですね」とか。
「はあ……」
散開しがちな己の思考に辟易していると、授業の終了を告げるチャイムが鳴った。静かだった教室は一気に騒がしくなり、号令と共にそれはさらに増す。これ以上留まる理由のない僕は、素早く荷物をまとめて教室を後にした。
「あ、置いてくなよ政樹ー!」
「……っ、」
廊下中に響き渡る轟音に、僕の足はぴたりと歩みを止める。足早に去ったつもりだったが、今日の僕はどうにも見つかる運命にあるらしい。
「何の用だ……」
「一緒に帰ろうぜ~!」
溜息を飲みこんで振り返ると、快活な笑顔を浮かべてこちらに走ってくる涼が見えた。
「……真冬さんは、」
「真冬? ああ、なんか買い物あるから今日は先に帰れ~って。学校から直接行くほうが近いんだってさ」
「……そうか」
隣に並んだ涼の顔を盗み見れば、不貞腐れているというよりは、拗ねているのが手に取るように分かった。
大方、「オレも一緒に行く!」とか言って断られたんだろう。よくは知らないが、真冬さんは時々こうして涼を置いて帰ることがある。しかしそれも今更珍しいことではない。いくら二人がいつも一緒にいるからと言って、そう四六時中行動していたら、それはそれでどうかと思う。
――とはいっても、涼と帰るのは久しぶりだった。元々頻繁に一緒に帰っていたわけでもなければ、毎度“そう”感じるほどに期間が空くわけでもないのだが。
◇◆◇◆◇
校門を出て、帰路につく。
会話の内容は、昨日見たテレビの話や、真冬さんの弟がテストで満点を取った話、そのお祝いで食べたケーキの話――と、特に考えていないんだろう、とりとめのない話を聞いているうちに、分かれ道まで来てしまった。
「んじゃ、また明日な〜!」
「ああ……」
手を大きく横に振る涼に、僕は特に返しもせず歩みを進めた。腕時計で時間を確認すれば、いつもならもう家に着いているはずの時間だった。思っていたよりも経っていた時の流れに、僕は特に何も感じずに、少しだけ歩を早める。
「ふう……」
何かから解放された心に合わせて、肩にずっしりとした重みがかかったように思う。まるで心が抱えていたモノを肩代わりしたようで、晴れやかな気分とは反比例する身体に、眠気を感じていた。
――端的に言うと、『疲れ』だ。
思い返すと昨日は一日中寝ていたようなもので、具体的に何をしていたかなんて覚えていない。夕飯をちゃんと食べたかすら記憶にないのだから、相当持病がひどかったんだろう。
しかしそんなことも、今の僕からすれば昔の事のようなものだった。
徐々に沈みつつある陽を見ながら、僕は今日の出来事を順番に思い返していた。
そういえば桃とは朝に一度会ったきりだった。道理でいつも以上に涼をうるさく感じたわけだ。
けど、昼休みは静かだった。クラスが替わっても、結局涼は真冬さんと一緒にいることが多いし、僕は僕で好きなように出来ている。だから、特にそのことに不満も――それどころか、何か思うようなこともなかった。
……だが、それで良いように思う。始業式の日、真冬さんと時沢のことでやたらと不安がっていた涼を鼻で笑った記憶は新しいが、なんだかんだといって何も変わっていないのだから。
それから後は彼女……のことだろうか。といっても、なにか特別思い返すようなこともないのだが――強いて言うなら、美しい女性だったと思う。涙に濡れた黒い瞳は、図書室の薄暗い蛍光灯によって直線的な光を発していて、あのやけに怯えた様子、というよりは挙動不審さはなかなかに見ないもので、何もないと思っていても、意外と感想は出てくるものだった。
しかし『時沢よね』さん――どこかで聞いたことのある名前だ。それ自体は今日初めて聞いた音だが、例えて言うなら一節毎、それぞれは耳に馴染みのある音で――。
「……ん?」
『時沢』といえば、僕の狭い交友関係の中に一人、その音と合致する男がいる。
言うまでもない、涼の友人兼、あいつのある種の恋敵(だと僕は見ている)の時沢治弥だ。確かあいつには妹がいるとか、前に涼が言っていた気がする。生憎と僕は時沢本人とろくに話したことがないからまったく知らないが、『時沢』なんてそう珍しくも、かといってありふれたものでもない苗字を名乗る子が、果たしているだろうか。
――普通に考えれば、血縁者だと予想できる。一年だと言っていたから、妹だというならば、それも合致する。顔が似ていたかどうかは、僕が時沢の顔をよく覚えていないから割愛する。
それにしても、変なところで繋がったな、と思う。たまたま出会った女の子が友人の友人――もとい知人の妹、かもしれないというのは、いくらなんでも世間が狭すぎやしないか。
……いや、学校という広いようで狭いコミュニティの中で、意外なところで繋がりがあるのは、正直分からなくもない。現に僕がそうだったのだし、いつも読む小説なんかでもよく見かけなくもない光景だ。
――それから僕は、少しだけ彼女について考えていた。たまたま知り合った、にも満たない出会いだというのに。
思えば、瞳を見ただけで保健室での出来事を思い出したり、図書室での会話の最中、何度か感じた懐かしさや既視感。それらが引っかかるのか、やけに彼女のことが気になってしまう。
決してこの気持ちは恋愛の類いではないし、そもそも僕はそういうのに興味が無ければ、むしろ嫌悪感があるくらいだ。
……それはさておき、彼女に対しての『これ』は好奇心に近いように思うのだ。あんな、普通ならしない出会いを経て、色々と僕の中で自己完結してみて出した答えだが、この非日常な出来事に酔っているのではないだろうか。涼やあいつのおかげで、多少のことでは動じない性格のつもりだったが、実はそうでもなかったらしい。
――だが僕は、彼女のことをもっと知りたいと思っているわけじゃない。なぜならもう、関わることはないはずだからだ。
ただ、知りたいと思う気持ちがあるのも嘘ではなくて、こうして記憶の中の彼女を掘り下げることで、僕はこの騒つく心を消化したいのだ。
そうして思考しているうちに、気付けば自宅の門扉が近付いていた。
玄関扉の鍵を開け、靴を脱いでリビングに入るとキッチンで夕飯の準備をする母の後ろ姿が目に入った。
「……ただいま」
「おかえりー」
母の片手間の返事に、なんとなく腕時計を見れば四時すぎを指していて、もうそんな時間か、と僕は一人ごちた。
その後少ししてから夕飯を食べて、風呂に入って、自室に戻る。ベッドでくつろきながら読みかけだった小説を読んでいるうちに、自然と瞼が重くなってきた。
僕はそれに抗わず、枕元に小説を置いて眠りにつく。
――そういえば、なぜ“彼女”は保健室にいたのだろう?
そんな疑問が、本日の営業は終了しましたと告げる脳に思い浮かんだ。
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