第3話 感情テスト
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『ぼくの家族 二年二組 十三番 志野真夏
ぼくには、大切で、大好きな、自まんの家族がいます。お父さんは、とてもやさしくて、何でもできるすごい人です。とくに家事がとくいで、ぼくはお父さんの作る、ふわふわオムライスが大好きです。お母さんは、毎日家族のために一生けん命はたらく、かっこいい人です。ぼくは、そんなお母さんをそんけいしています。お姉ちゃんは、とても頭が良くて、いつもぼくの宿題を手伝ってくれます。分からないところは分かるまでおしえてくれて、おかげでぼくはいつもテストで満点をとることができます。
休日はいつも、お姉ちゃんと、近所にすむお兄ちゃんといっしょに――』
「――……ぼくは大きくなったら、お父さんみたいに料理ができて、お母さんみたいに一生けんめいはたらいて、お姉ちゃんみたいにだれかの宿題をてつだってあげられるような人になりたいです」
四百字詰の原稿用紙にぴったりと収めた作文を読み終えたぼくは、まっすぐに伸ばしていた腕を下ろして、教壇に立つ先生と、教室の後ろに立つたくさんの大人にぺこり、と頭を下げた。
今日は土曜参観。保護者をお招きして、ぼくたちこどもの授業態度を見てもらう日だ。
ぼくのお辞儀に合わせて周りからぱちぱちと温かい拍手が贈られて、それに紛れるように聞こえるカメラのシャッター音に少し下品さを感じながら、ぼくは席に着いた。
次いで、後ろの席のクラスメイトの女の子ががたん、と大きな音を立てて立ち上がる。作文を読み始めたクラスメイトの小さな声を聞きとるために、先生や周りの子、そして大人たちは一気に静かになった。
緊張してるんだろうなぁ。上ずる声にしゃくりが混ざって、きっとこの作文で一番伝えたい部分が何を言っているのか、まったく分からなかった。
「――わたしは、そんなお姉さんになりたいです……」
適当に聞き流していると、ぼくのとき以上の拍手が教室を埋め尽くした。がたがた、と椅子を机の脚にぶつけながら座ったクラスメイトを置き去りにして、今度は隣の列の子が「じゃあ次オレー!」とかいらない主張をして作文を読み始める。少しだけ笑いが渦巻いた後、しんと静かになる教室に、隣の列の子のばかでかい声が響いた。
「ひっ……く……えう……」
「……?」
背筋をぴんと伸ばして、聞いているフリをしていると、後ろから小さな、本当によく耳を澄まさないと聞こえないくらい小さな泣き声がした。
振り向いてどうしたの、って聞こうと思ったけど、いつものゆるい空気と違って、大人に“見られている”、“静かにしていなくちゃ”という重圧に包まれた空気ではそれすら許されないように思ったら、ぼくは何も出来なかった。
なにより、ぼくが話しかけた事によって先生が授業を中断して、そこからクラスメイトが泣いてることに気付いて、慰めたりなんだりして。その時、きっとクラスメイトは「泣き虫でやんのー!」とか「だっせー!」とか心無いことを言って、それに対して先生が「なんてこと言うの!」って怒るんだろうな。当の本人は外野でそんなやり取りをされたら、きっと授業を中断させてしまった申し訳なさとか、それ以上に「良いところを見せたい」お父さんやお母さんに泣いてるところを見られたっていう事実に、きっとすごく恥ずかしい思いをすると思う。授業参観っていう、せっかくの晴れ舞台でそんな目にあうなんて、可哀想だ。
ぼく、知ってるよ。こういうのは『余計なお世話』っていうんだ。ただの親切心も、時と場合によってはいらないことがあるんだ。いらないっていうか、邪魔? 火に油を注ぐ? みたいな。そう、今みたいな状況だよね。
結局ぼくはそのまま放置することにして、「良い子」のまま、後の子たちの作文を聞きつづけた。そのうちチャイムが鳴って、先生がなんかいい感じのことを言って、授業は終わった。
机の中に仕舞った青いお道具箱から教科書と連絡帳、ノートとか全部取り出して、机の上に置いた。ランドセルは教室の後ろに建てつけられた棚に入ってるんだけど、大人――みんなの保護者さんが邪魔で容易には取りに行けそうになかった。けどそこはもうなんとか身体をねじ込んで引っ掴む。
席に戻って、荷物を全部詰めて僕はそのまま先生に「さようなら!」と言って教室を出た。階段を一段飛ばしで駆け下りて、昇降口に設置された靴箱で外靴に履き替えた。
昇降口から続く渡り廊下を直角に曲がって、正門――の傍に植えられたくすのきを目指して、ぼくは精いっぱい走った。
早く! 早く――!!
「お父さーーーーん!!!!」
くすのきの下には薄いしましま模様が入ったグレーのスーツを着たお父さんに、深緑の七分丈ロングカーティガンを着た姉ちゃんと、薄いピンクのパーカーを涼兄ちゃんが立ってた。
ぼくは全力疾走した勢いを殺さず、「どーん!」って言いながらお父さんに飛びつくと、お父さんは「わっー!」とわざとらしい悲鳴を上げながら受け止めてくれた。
「お父さん! ちゃんと聞いてくれた? ぼくね、今日のためにいーっぱい! がんばったんだよ!」
「うんうん! ちゃんと聞いたよ~。よく頑張ったね、真夏」
「えへへ~!」
ぼくが笑うと、お父さんはにこにこしながら優しく頭を撫でてくれた。ぼくはそれが嬉しくて、「あのね、」って話を続けようとすると、
「まぁ~かぁ~! 来いっっっっ!!!!」
「涼兄ちゃん…………」
横で見てた涼兄ちゃんが両腕を広げて、多分、ぼくが飛びつくのを待ってた。一瞬びっくり――いうか、どうしたらいいのか涼兄ちゃんのほうを見ながら一瞬迷っていると、頭上からお父さんの声がした。
「いっておいで」
「……うん!」
利き足にぐっと力を込めて、ぼくは涼兄ちゃんの胸に飛び込む。涼兄ちゃんは狼狽えた様子を見せたけど、なんとか踏ん張って「わははー!」って大声で笑いながら抱きしめてくれた。
「真夏~! オレのことも書いてくれてありがとな~!」
「当たり前だよ。だって涼兄ちゃんはぼくの兄ちゃんだもん」
ぼくがそう言うと、ぐしゃぐしゃと乱雑に頭を撫でる涼兄ちゃんの動きがぴたっと止まる。あ、嫌な予感って思ったときには、涼兄ちゃんに力いっぱい抱きしめられてた。
「ま、まかぁ……! お前ってやつはぁ~……! 兄ちゃんは嬉しいぞぉ~!」
ぎゅう、と腕に力を込められて、身体中の骨がばきばきになりそうな気がして、ぼくは涼兄ちゃんの拘束から抜け出そうと身を捩る。けど、兄ちゃんは放すどころか、ますます力を込めてきた。
た、たすけて。しんじゃう。
「に……兄ちゃん、痛――」
「――いつまでやってんのよ! こっの、バカっ!」
「いっっっっ~~てぇっっ!!!!」
ゴツン! 床にじゃがいもを落とした時みたいな音が響いたと同時に、ぼくは涼兄ちゃんの拘束から解放された。急に消えた力によろめくと、両肩に手を置かれて、ぼくは事なきを得た。
「真夏、大丈夫?」
「ね、姉ちゃん……!」
見上げると、真っ赤な髪が目に入って、ぼくはすぐに姉ちゃんだって分かった。姉ちゃんは安心したように少し笑うと、ぼくから離れて、地面に蹲る涼兄ちゃんの元に向かった。
「ったく……、あんたはいちいち過剰反応しすぎなのよ。加減を知りなさい、加減を」
「ご、ごめんってぇ、真冬ぅ……」
頭をさすりながら立ち上がった涼兄ちゃんを、姉ちゃんは目をグッと細めて睨みつける。気のせいだと思うけど、涼兄ちゃんを睨みつける姉ちゃんの周りの空気が体感的に二度くらい下がった気がして、ぼくは思わず身震いをした。でもお父さんは「真冬ちゃん、どうどう……」と苦笑いしながら怒る姉ちゃんを諌めようとしてて、やっぱり気のせいだと思った。
「お父さん、お腹すいた」
「ん? そっか、もうお昼だもんねぇ。そろそろ帰ろうか」
埒が明かない。そう思ってぼくは鶴の一声っていうのをすると、お父さんが「ほら、涼くん、真冬ちゃん」って言って、いがみ合う(といっても姉ちゃんが一方的に怒ってる)二人を呼ぶ。
「中間テスト、どうなっても知らないから」
「ま、真冬様~! そこはご慈悲を! どうか、どうか~!」
「……じゃあ駅前のパフェ奢って。三日分」
「おっけー! 任せろ~! ……って、オレの小遣いが……」
「あっそ。嫌なら政樹を頼りなさい」
「あいつ三倍返し要求してくるからやだっー!」
もうぼくの話じゃないらしい。いつも通りな会話をする姉ちゃんと涼兄ちゃんを、お父さんは微笑ましげに見守りながら、ぼくたちは帰路についた。
帰り道。お父さんがスーパーで食材の買いだしをしたいって言うから、ぼくたちもついていくことにした。
カートを引きながら、生鮮コーナーを通り抜けて、精肉コーナーの前を歩いていたら、お父さんがおもむろに牛肉のミンチを手に取った。
「そうだ。せっかくだし、今日のお昼ご飯は、真夏の大好きなふわふわオムライスにしよっか」
「ほんと!?」
お父さんはそう言うと牛肉を買い物かごに入れて、「卵いっぱい使おうね」って言った。
「やったー!」
作文でも書いたけど、ぼくはお父さんの作るふわふわオムライスが、一番大好きなんだ!それはもう、どれだけ有名なホテルやレストランのシェフが作ったものでも、到底敵わない――究極のオムライス。
牛肉やグリーンピース、甘くなるまでしっかり炒めた玉ねぎをふんだんに混ぜたケチャップライスの上に、半熟状態で仕上げられたつやつやのオムレツ。オムレツは、フォークを入れると中からとろっとした卵液が出てきて、それが温かいケチャップライスの熱に充てられて、お米を優しく包みこむんだ。卵に包まれたケチャップライスは、鮮やかなオレンジからマイルドなオレンジに変わって、オムレツとは違った輝きを発して、ぴかぴかしてるように見えるの。掻き立てられる食欲にしたがって口に入れると、そこはもう至高としか言いようがない、美味の世界。ケチャップのほどよい酸味に、熱で優しく溶かされた玉ねぎからじゅわっと滲み出る甘味と、牛肉のカリッとした食感。それらが全部濃厚な卵に包まれて――たまらなく、おいしいんだ。
「えへへ……」
「真夏、よだれ出てるわよ」
「――はっ、ね、姉ちゃん……!」
オム妄想に浸って精肉コーナーの前から微動だにしないぼくを心配したのか、姉ちゃんが走って戻ってきた。ぼくの口角を伝うよだれを見て、姉ちゃんはなんだか怪しいものを見る目つきでハンカチを差し出してきた。「ち、ちがうよ、姉ちゃん」って言い訳しようとした時には、姉ちゃんはぼくの手をひいてお父さんと涼兄ちゃんのところまで歩きはじめて、ぼくはハンカチを握りしめるしかなかった。
お昼時だからか、レジは結構混んでいた。あーあ、退屈だなぁ。そう思いながら長蛇の列をぼんやり眺めていると、お父さんが「そうだ、この時間なら章子(あきこ)さん帰ってきてるんだった……」とぼそりと呟いて、涼兄ちゃんのほうを見る。
「せっかくだし、涼くんもオムライス食べにおいで。波乃花(はのか)さんも呼んで、さ。久しぶりにみんなで食べようよ。――どうかな?」
にこにこしながらそう言ったお父さんの言葉に、涼兄ちゃんは一瞬きょとんとした顔で首を傾げる。次第に理解したのか、目をきらきらと輝かせて、嬉々とした表情に変えた。
「うおー! おじさんマジですか! じゃあ遠慮なくお邪魔しま~す!」
大声でそう言った涼兄ちゃんは本当に嬉しそうで、見てるぼくも嬉しくなってきた。波乃花おばさん――涼兄ちゃんのお母さん――も来るとなると、にぎやかになるなぁ。
けど、一人だけ。あんまり嬉しくなさそうな人が。――姉ちゃんだ。
「あんたさぁ、たまには遠慮ってもんを……」
はあ、と溜息をつきながらそう言った姉ちゃんの手には、いつの間にか、追加分らしい卵が一パック握られていた。なーんだ。姉ちゃんも乗り気じゃんか。
「えっ~……じゃあ明日オレんち来る?」
「別にいいけど。テス勉するなら」
「それはイヤッー!」
◇◆◇◆◇
「ただいまー!」
「おっかえり~」
買い物を終えて、家に帰ってきたぼくたち――涼兄ちゃんは、波乃花おばさんを呼びに家に戻った――を出迎えてくれたのは、右側に流した前髪をピンで止めた、短い赤髪の女の人――ぼくのお母さんだった。
「も~庄治くんおっそーい! お腹ペコペコなんですけどー」
「あはは~ごめんねぇ、章子さん」
ぽかぽか、とまったく力のこもってない拳でお父さんの背中を叩くお母さんは、お父さんの手に握られた買い物袋を盗み見て、一瞬で表情を変えた。
「しょ、庄治くん……これは、もしや……」
「真夏の熱烈なリクエストでね~奮発しちゃいました」
「oh,NO! なんてこった! 私もそのつもりで……」
「……ま、まさか、章子さんも、オムライスを……?!」
深刻そうな顔をするお母さんに、ごくり、と固唾を飲むお父さんに、ぼくの心臓もドキドキと、鼓動が早くなる。
「――っていうのはウッソー! 庄治くんのことだから、多分オムライスにするだろうな~って思って、ジュースと酒しか買ってきてないよ。あとで涼くんと波乃花も来るんでしょ?」
「あ、章子さぁ~ん……」
「あっはは! 庄治くんもいい加減慣れなさいよ~!」
そう言うとお母さんは、がくりと肩を落とすお父さんの背中をばしばしと力強く叩いて、その手から買い物袋を奪い取った。お父さんは「えっ、いいのに」って言ったけど、お母さんはぱちん、とウィンクだけ返してリビングのほうに消えていった。
「はあ……章子さんには敵わないなぁ……」
お父さんは苦笑しながらそう言うと革靴を脱いで、二階に行ってしまった。
「……」
まざまざと夫婦漫才を見せつけられたぼくと姉ちゃんは、玄関で立ち尽くしたまま、
「アホくさ……」
「だね……」
と言って、靴を脱いで家に上がった。
◇◆◇◆◇
七時四十分。
ニュース番組が時事ネタから芸能ネタ、ちょっとした事件や事故のニュースを流し始めたところで、ぼくは朝ご飯を食べ終えた。隣に座る姉ちゃんはゆっくりと食べていて、珍しいなぁ、なんて思いながらぼくは席を立つ。
「お父さん! ごちそーさまでした!」
「いえいえ、お粗末様です」
キッチンで姉ちゃんのお弁当を作ってるお父さんは、くしゃりと表情を崩すと「ちゃんと歯磨きはするんだよ~」と言って手元に目線を落とした。
「はーい」
洗面所に移動して、備え付けの小棚に仕舞ってある歯ブラシを手に取って、にゅるんと歯磨き粉を塗り付ける。ぱくりと咥えてじゅわっと広がる苺味に、口の中に残る朝ご飯の味を上書きされながら、僕はリビングに戻った。
「続いては星占いでーす!」
それまで真面目にニュースを伝えていたアナウンサーの声が一転して、陽気で、明るいものに変わる。
それに合わせて画面はCGで合成されたかわいい動物のキャラクターがたくさん出てきて、十一位から順番に勝手に今日の運勢をランク付けしていく。
八月七日生まれのぼくは、しし座だ。
歯磨きをしながらぼんやりとテレビを眺めていると、残すところ一位と十二位の発表だけになっていた。ヤな予感がして、ぼくはさっさと歯磨きを終えてしまおうと洗面所に戻ろうとした時だ。
「十二位は――しし座! 今日は何をしてもうまくいかなくて、ブルーな気持ちになりそう~……。ラッキーアイテムは、ピンクのハンカチです! 憂鬱な気持ちも、ハンカチで拭っちゃいましょう! 以上星占いでした!」
デデン! とコーナーを締める短い音楽に合わせて、テレビの中のスタジオには続いて終わりを告げるエンディングが流れだす。色んな人が今日の番組の感想を言い合ってる中、ぼくは憂鬱とした気持ちで洗面所で立ち尽くす。
……あーあ、聞いちゃった。いつもは起きるのが遅いから、ゆっくり星占いを見ることなんてないんだけど。なんだって今日みたいな、せっかく気持ちよく起きれた日に、こんなヤなこと聞かされなくちゃいけないんだ。
まあ、ぼくは占いなんてメイシンみたいなの信じてないし、だから関係ないんだけど。そうだとしても、赤の他人にこうやって運勢だとか、今日一日の行動の結末を決められるのも気分が悪い。それにラッキーアイテムはピンクのハンカチってなに? ラッキーって言うなら、ここはイエローじゃないの、とぼくは思う。しかも拭っちゃいましょうって、もうそれラッキーじゃなくてただの誤魔化しだよね。
「なに一人でぶつくさ言ってんの」
「わっ、姉ちゃん」
背後からの声で我に返り、そのまま振り向くと訝しげな顔をした姉ちゃんが立っていた。そのまま固まっていると、姉ちゃんは遅れるわよ、と一言残してリビングのほうに戻っていった。時計を見たら、確かに八時を過ぎている。
歯ブラシを綺麗に洗って元の場所に戻して、リビングのソファに放り出していたランドセルを背負って、玄関へと向かう。先に準備を終えた姉ちゃんは、壁に凭れ掛かって携帯をいじってて、ぼくに気がつくとすぐに鞄のポケットに仕舞った。
「庄治さん、いってきます」
「まーす!」
「いってらっしゃーい」
姉ちゃんの語尾に合わせて、ぼくは玄関扉を開けた。目の前が開けると、住宅街ゆえか陰りのほうが強い朝の空気がぼくらを出迎える。
門扉を開けると、見慣れた茶色の髪が見えて、ぼくは一瞬ぶつかりそうになった。
「うわっ」
「お~おは~……」
目線の高さにいたのは、大きな欠伸をして涙目になっている涼兄ちゃんだった。涼兄ちゃんは目を擦りながら立ち上がると、もう一度欠伸をした。
「なにやってんのよ……」
「んあ……? あー……いや、部屋の掃除してたらさぁ~……」
「あーうんうん。大体分かったからいい」
ふわわ、と何度目かの欠伸をしながら言い訳を展開しようとした涼兄ちゃんの言葉を、姉ちゃんは速攻で断ち切ると歩き出す。そんな姉ちゃんの後ろ姿を見て、両兄ちゃんがひでぇ、なんて声にしてたけど、そりゃあオチが分かりきってる話ほどつまらないものはないから,
ぼくも姉ちゃんの判断は正しいと思う。
そんないつもと変わらないやり取りをしながら通学路を進んでいると、これまた見慣れたテレビで見るような真っ黒でかっこいい車が止まっているのが見えた。
車の傍ではスーツを着た男の人と、柔らかな姿勢で穏やかに微笑む桃色の髪の人――桃さんが立っていた。
「あ、」
「――あら、真冬~! おはようございますぅ~!」
姉ちゃんより早く、遠くのほうから呼びかけてきた桃さん。涼兄ちゃんもその声で気付いたのか、大声で挨拶を返すと、桃さんは一瞬困ったような表情を浮かべた。
ぼくはというと、桃さんを見た瞬間、とっさに姉ちゃんの後ろに隠れてしまった。
今日こそは自分から挨拶するぞ! って思ってたんだけどなぁ……。桃さんのきらきら輝く笑顔を見たら、どうしてもまぶしくって、恥ずかしくて、直視できないんだ。
「あんたも毎日飽きないわねぇ……ったく、桃のどこがいいんだか……」
姉ちゃんの影に隠れて様子を見ていると、姉ちゃんが呆れた声でそんなことを言う。でも、最後のほうがうまく聞き取れなくて「どうしたの?」ってぼくが首を傾げていると、姉ちゃんはなんでもない、と言って離れていってしまった。
「あ、ま、待ってよ、姉ちゃん!」
どんどん先に行く姉ちゃんを追いかけていたら、すぐに分かれ道が来てしまって、ぼくは桃さんとロクにお話出来ないまま、学校の正門に続く道を走った。
◇◆◇◆◇
その日のお昼休み。
給食を食べ終えて、給食当番じゃない僕は残りの時間をどう過ごそうか悩んでいた。クラスの子はみんなボール遊びでもしにいったのか、号令をしてからまだ三分も経ってないのに、すでに運動場の取り合いが始まっていた。そんな流れに乗らず、教室に残ってる子たちといえば、いわゆる大人しい子たち。何人かの女の子は教室の真ん中に集まって、お道具箱を使って、なにかおままごとみたいなことをしてるのが見えたけど、ぼくはそういうの興味ないからよく分からなかった。
男の子は――静かに本を読んでいる。ぼくも暇だし、見習って何か読もうと思って、教室の隅っこに置かれた本棚に目をやる。『まんがで解説!織田信長』とか同じシリーズで『平清盛と源頼朝』が並んでいた。でも、ずいぶん古いのか、はては読み込まれすぎたのか、ページはおひさまに焼けたり埃を吸って茶色くなってるし、よくわかんない加工をされてつるつるなはずの表紙は、あちこちめくれていて、背表紙は縦に半分くらい割れている。
うん。読む気がしない。前々から思ってたけど、歴史って日々変わるものなのに、こんな古いのを置いてていいのって思う。やっぱり学校って新しいこと、面白いこと、なにより正しいことを正しく教えるのが当たり前だと思うから。だから、こういう本って定期的に入れ替えなきゃいかないと思うんだけど、お母さんに聞いたら「学校もお金がね、足りないのよ」って言ってた。
世の中ってキビシイんだなぁ。
結局ぼくは席を立つ前に諦めて、国語の時間で出された宿題をすることにした。今日習った漢字の書き取りだ。
ドリルとノート、筆箱を取り出して、さあ書くぞ、と机の上に広げた時だった。ぼくの頭越しに影がかかって、誰か来たのかなって思って顔を上げたら、すぐ目の前にむすっとした表情で仁王立ちをする男の子が立っていた。ゆるくうなりを描く黒髪に、鼻先に少しかかるくらい伸ばされた前髪から覗く、鋭い金色の目がぼくを射抜く。
「……なに?」
「偉ぶってんじゃねぇよ」
「わっ」
ガン、と大きな音を立てた机は、縦横狂いなく、きっちりと並べられた其処からはみ出てる。そのとき、衝撃に耐えられなかった筆箱が落ちて、中身が辺りに散らばった。
「なっ……なんだよ!」
かっと湧きあがった怒りに身を任せて立ち上がると、さっきほどじゃないけど、椅子もがたん、と音を立てた。
「……」
ふんと荒い鼻息を吹き出した男の子は、何も言わずにしゃがみこむと、散らばった鉛筆や消しゴムを拾い始める。
「やりすぎた」
そう言って、ぱちんと磁石をくっつけると、筆箱は元あった位置に置かれた。
「――へ?」
「うん、だから、やりすぎた」
「え、うん」
ぽかんとしていると、男の子は空いている席から椅子を引っ張ってきて、勢いよく座った。とんとん、とぼくの机を指先で叩くと、またむすっとした顔でぼくを見てきた。
……座ったら、ってことかな。
ぼくはやり場のない瞬間的な怒りと驚きを胸に抱えたまま、椅子を引いて、ついでに机も元に戻して座った。
「ふん……」
男の子は満足げにすると、また鼻息を吹きだした。バッファローかな。
――この男の子は、リーン・弘成(ひろしげ)・アンブローズくん。名前から分かる通り、日本とイギリスのハーフだ。この……“いきなり”やってくるのは、そういう性格らしいんだけど。
ぼくとこの子は、四月から一緒のクラスになった、いわば新しいクラスメイトで。今のクラスになってから、もう一か月は経つからそういう感じはもう、薄れてるんだけど。
それにしたって、この子の考えてることというか、性格がよく分からない。急にボーリョクを振ってきたかと思えば、すぐに「ごめん」って謝ってきたりして、こういうとき――そう、読めないっていうやつだ。
だからみんな、よくわからないから関わらないようにするんだ。さっきみたいに急に話しかけられたら避けたり、そもそも話しかけられないようにしたり、最悪――ケンカになる。
ぼくもなるべく関わりを持たないようにしてたんだけど、今日は失敗しちゃったみたいだ。
「なぁ」
「……なんだよ」
「お前、あの赤いねーちゃんとなんなの?」
「赤い……?」
ぼくの周りにいる赤いねーちゃんは、お母さんと――……いや、姉ちゃん、のことかな。
「……ぼくの、姉ちゃんだよ。それがどうしたの?」
なんできみがそんなこと聞くの? そう込めてみる。というか、なんでぼくの家族のこと知って――あ、授業参観で、かな。そりゃそうか。もう五月になるのに、姉ちゃんはマフラーをずっと巻いてるから。ぼくはもう慣れたけど、知らない人からしたら目立つよね。
「……?」
ぼくの問いに、リーンくんは真横に首を傾げて、金の目をまんまるお月様みたいにした。
「――嘘だろ?」
どくん。
リーンくんが怪しむようにぐっと目を細めた瞬間、体の中が一気に熱くなった気がした。
「な、なんで?」
震えるぼくの声をよそに、リーンくんはさらに続ける。
「だって、お前と全然似てねーじゃん」
どくん、どくん。
「えー……よく似てるって言われるけどなぁ」
ヤな汗が、ぼくのほっぺたをじわじわと濡らす。
「顔とか頭と、全然ちげーじゃん。つか、年離れすぎだろ」
ただ一点、エモノを狙う猫みたいに、リーンくんの目はもっと細く、鋭くなって、ぼくの目を離さない。ぼくの体は、だんだん息をするのも痛いくらいに固まってきて、そのくせ、指先は小刻みに震える。
「そんなの……十歳くらい離れてる人なんて、いくらでもいるよ」
高校二年生の姉ちゃんと、小学二年生のぼく。つまり、八歳差だ。
「普通そんくらい離れてたら、なんかあるだろ」
――口の中が、すごく乾く。お茶、飲みたいな。お父さんが入れてくれた麦茶。そろそろ暑くなってくるからね、って言って足してくれた氷はもう、溶けきってると思う。
頭のすみっこでそんなことを考えるから、ぼくはもう、ただ否定する言葉を発することしか出来なかった。
「ないよ」
「あるって」
「ないってば」
「あっやしぃ~」
「……っ、」
リーンくんはいたずらっ子みたいな顔をしてそう言った瞬間、ぼくの中で何かがはじけた気がした。コンロの熱で大きくなって、フライパンの中で実を開く、ふかふかのポップコーンみたいに。ぱぁん、って。
「――ないよ!」
そのとき、それまで少し騒がしいくらいだった教室が静かになったな、ってなんとなく思った。同時に、大声で立ちあがったぼくに集まる視線と、恥ずかしさと、怒りで、頬がこれ以上に無いくらい熱くなるのを感じた。
「なんでそういうこと言うの?! 姉ちゃんは……ぼくの姉ちゃんだよっ!」
本気で怒ったときの姉ちゃんが涼兄ちゃんにするみたいに、ぼくはリーンくんの胸倉を掴む勢いで身を乗り出す。するとリーンくんは、間一髪みたいなところで立ちあがって、ぼくの手は空しくも空気を掴むだけだった。
「なっ、いきなりなにすんだよ!」
「いきなりって……それはこっちのセリフだろ! こんな、こんなの――プライバシーの侵害だ!」
机なんて気にせずに体で押しのけて、ぼくはリーンくんに掴みかかった。周りの子たちがびっくりしたのか、悲鳴をあげていたけど、そんなのどうでもよかった。
「は、離せよ、ばかっ、おいっ!」
「うるさい! そういう君だって、お母さんと――」
そう、言い返してやろうとした瞬間。
「なにしてるの!!」
「!」
いつの間にか出来ていた人だかりを割って入ってきたのは、担任の先生だった。
「せんせい……」
先生の姿を見た瞬間、それまで頭で沸騰していた血が全部、急激に温度を失って、ぼくの手はだらんと落ちたのだった。
「せ、先生……! 真夏のやつが……!」
「リーンくん、話は職員室で聞くからね。――二人とも、痛いところはない?」
「……ん」
「はい……」
先生はそう言いながらぼくとリーンくんの体をくまなくチェックすると、ぐるりと首を後ろに向けて、周りで色んな反応を見せるクラスメイトや、他クラスの子たちに「教室に戻りなさい!」と叱りつけた。
近くで見ていたなんて自称する男の子が「わるいのは弘成だぜー! 俺見てたもん!」なんて言ってたらしいけど、あいにくそのときのぼくの耳には一切合切、届いていなかった。
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