9.鳥の羽

「こんにちは、清輝くん」

「…………」

「ほらキヨくん、ご挨拶は?」

 第二の目撃者である香川清輝くんは私の挨拶を無視してあらぬ方向を向いていた。母親である香川祥子に促されるとようやく頭を下げるが、視線はやはり私ではない方を向いたままだ。

 香川親子の家はよく整理されていて、配置された家具のつくりからそれなりに裕福な家庭なのだろうと想像することができた。西寺が連続して窃盗をはたらいたとされる現場もこの付近だったはずであり、このあたりにある家が香川邸のようなものばかりなら窃盗犯にとってはいい仕事場になるだろう。

 私と紫木は祥子に促され居間の椅子に腰かけた。こうして証人の家に二人で並んで座っていると前回の事件のことを思い出してしまう。つまり悪い予感がするということだった。

「さて、では早速……」

 紫木は清輝くんのことをじっと見つめて息を吐く。彼は腕を伸ばすと私たちの目の前にある、机に置かれたカップを指さしてそれを見つめた。

「清輝さん。これを見てください」

「…………」

 紫木の言葉に彼は反応しなかった。視線は左右へゆれ動くが紫木の指を追うことはない。

「なるほど」

「何がなるほどなの?」

「おっと。質問の意図は明確に、でしたね」

 私が紫木をせっつくと彼は思い出したように言う。やっぱり忘れてやがった。

「いまのはごく簡単なテストですよ。自閉症スペクトラムの人は共同注意、つまりさっきやったようにほかの人に注意を向けるように促されてそれを見つめるといったようなことができません。実際に彼は出来なかったので、大阪府警の言うように彼は自閉症なのでしょう」

 紫木の怒涛の説明に私と母親の祥子はそれぞれ中途半端な返事を返した。平然としているのはおそらく説明を全く意に介していない清輝くんだけだ。

「ちなみに、自閉症という診断はどこでもらいましたか? あぁ、これも彼の自閉症という認定を確認する質問ですけれど」

「えっと、学校に紹介していただいた心療内科ですけど」

「そこでは自閉症がどういう精神疾患なのか説明してもらいましたか?」

「あんまり……簡単には説明してもらったと思うんですけど詳しくは」

「そうですか。自閉症というのは主に対人関係の困難さで特徴づけられる疾患です。共同注意が出来ないというのもその一部ですね。平たく言えば、彼には人に対する興味関心が社会生活に支障が出るレベルで欠けていて……」

「あの、ですね。彼が十一日に見たという人に関する証言についてなのですが」

 紫木の話が自閉症そのものの話題へズレていってしまったので、私は無理やり彼の会話を遮って主導権を自分の手に取り戻した。いまやるべきなのは心理学の講義ではないのだ。紫木はちょっと不満そうな顔をするが口を閉ざして私に会話の順番を譲ってくれる。

「そもそもですけど、どういうきっかけで清輝くんが西寺……強盗事件の容疑者を目撃したということが分かったんですか? 大阪府警の捜査員がこちらを尋ねたとか?」

「えぇ、そうですね」

 私の問いかけに祥子は視線を上のほうで泳がせた。こうして目が動くのを見ていると彼女も息子とよく似た要素を持っているなという印象がする。目線を動かす意図は違えどその仕草や速さがそっくりだ。

「確か……三日前くらいでしたでしょうか。大阪府警の方がこちらに訪ねてこられて、こういう時間にこういう男を見ていないかと聞かれたんです。空き巣の噂は知っていましたけど、強盗と聞いたときには心底驚きました」

「それで、なぜ清輝くんが見たと?」

「警察の方に教えられた、犯人が通ったらしい場所がちょうどキヨくんの通学路に重なっていたんです。何事もなくてよかったわぁ……」

「ですが、通学路が犯人の逃走経路と重なっているだけでは見たかどうかはわかりませんよね?」

 私と母親の会話へ紫木が割り込んでくる。彼女は彼の質問を予想しいていたように、手際よく机のそばにある棚から一枚の紙を取り出した。

「えぇ、ですけどキヨくんが事件のあった時間通学路にいたことははっきりしてるんです。GPSで追跡していましたので」

「GPSで?」

 小学生の下校の話で出てくるとは思ってもみなかった物々しい言葉の登場に私は声をあげてしまう。なんでそんな仰々しい装置を?

 しかし対照的に紫木は合点がいったように黙って頷くだけだった。

「清輝さんがちゃんと帰ってくるように、どこかへ行ってしまわないように気を付けて見ていたわけですね」

「えぇ、ランドセルに子供用の携帯電話をつけておいて、それを使ってリアルタイムで追跡できるサービスがあるんです。その記録によると確かにキヨくんは三時ごろここにいますし、私も毎日下校する時間には見ているので覚えていました」

 祥子が手渡してきた紙にはここらあたり一帯の簡単な地図が描かれていた。その上に赤い線が走っている。おそらく始点と終点がそれぞれ学校と家になっているのだろう。赤線には十分おきにどの地点にいたかわかるようにするマーカーが記されていて、それによると清輝くんは学校から帰ってきた午後二時四十分から四時までの間ずっと一か所に立ち止まっていたことになっている。

「一時間以上もこんなところに? ただの路上に見えますけど……」

「キヨくんはたまにそこにじっとしているんです。理由は私にもわからないんですけど」

 清輝くんが留まっている場所は住宅街にある道の一か所であり、そばには家が建っているだけだ。ほかの路上と何の違いもない場所。公園とかならランドセルを放置し遊びに夢中になって時間が過ぎると理解できるけど……。

「清輝さん、ここには何があるんですか?」

「……トリ」

「トリ?」

 紫木の質問に清輝くんは目線を合わせずに小声で答える。普段人と目を合わせたがらない紫木が彼をまっすぐ見ているにもかかわらず芳しい反応が得られないというのは皮肉めいた状況だった。

「トリ……鳥類の鳥のことでしょうか?」

「川にはよく川鵜や鴨がいるらしいですけど……ここは川ではないですし」

 紫木と清輝くんの問答に私と祥子が一緒になって首を傾げる。紫木はいつもの無表情のまま清輝くんから視線を外した。この件に関しては考えても仕方なさそうなので私は話題を変えることにする。

「……それはさておき、大阪府警の事情聴取の際にはお母さんは同席されましたか? どういう風に聴取をされたか覚えていますか?」

「えぇ。確か写真を見せられましたわ。何枚か……それを指差すように言われて」

「それで、清輝くんは容疑者の写真を指したと?」

「はい。指したというよりは手を伸ばしましたけど、でも素早く自信もあったようでして」

「言葉による確認はありましたか? つまり、この人を見たのかということを写真を指差すことではなく、問答として確かめるようなことはありましたか?」

 私たちの会話にまた紫木が割り込んでくる。彼の眼はもう清輝くんを見ておらず、彼と同じ自閉症であるかのように部屋中のあちこちへやたら滅多に注がれていた。

「いえ、警察の方も本当にこの人を見たのかって確認していましたけどキヨくんは反応しなくて。元々人見知りで口数も少なくて……特に大人の人相手だと」

「その質問に頷いたりもしませんでしたか」

「確かそうだったような。あまりはっきりと覚えていませんが」

「そうですか」

 紫木はそれだけ言って椅子から立ち上がる。いつもなら「もう十分」の合図みたいなものだけど、今回はそうではないように思えた。彼の顔はまだ不満げだ。答えに繋がる手掛かりを全て揃えていないのだろう。

「すいませんが、清輝さんの部屋を見せてもらえませんか? ちょっと確かめたいことがあるので」

「えぇ……いいですけど?」

 紫木は杖を掴むと突然そんなことを言い出す。思い出したように理由を付け加えるが全く説明になっていない。祥子は戸惑いながらも彼の要求を受け入れてくれて、立ち上がると私たちを二階の一室へ案内した。

 義足を重たそうに持ち上げ懸命に階段を上る紫木に続いて私は二階に上がり、清輝くんの部屋だという場所を彼の頭越しに覗く。部屋には学習机とベッドが置いてあってどこにでもあるありきたりな子供部屋だった。床には何度もめくったせいかボロボロになった鳥の図鑑が放置されていて、崩壊しかかったページを無残に晒している。

「また散らかしたままにして……」

 祥子が私たちに対応するよそいきの声色から母親のそれに戻りため息をつく。彼女が習慣になっているのであろう動きで床の図鑑を拾おうとするが、それよりも先に紫木がそれをすくい上げた。

「これは、清輝くんが欲しがったんでしょう?」

「ええっと、そうですけど、なんで……」

 紫木に断定口調でそう言われ祥子は眼を泳がせる。その人が知るはずのない家庭の事情を言い当てられるのはあまりいい気分ではないだろう。私がいつ止めに入るべきか窺っていると、紫木は学習机に歩み寄って何の躊躇いもなくその引き出しを思いきり引いて全開にした。

 中からふわりと白や黒のものが舞い出て部屋中へ広がる。

 ひらひらと床へ落ちるそれは鳥の羽だった。

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