8.香川清輝の証言

「本当に大丈夫なの先生? 希望ちゃんが知的障害じゃないって……そんなに言い切っちゃって」

「むろん、僕は臨床心理士ではないので明確な診断は下せませんけどね。でもあの感じだと知的障害の可能性は低いと思いますよ」

 左京小学校を逃げるように(だったのは私だけだったかもしれないが)早々に辞した私と紫木は、今度は大阪にいるという目撃者のもとに向かっていた。

 ちなみにバイクは紫木が固辞したので警察署へ置いてきて、いまは彼の運転する自動車に乗っている。紫木は義足ではない左の足で巧みにペダルを踏み道路を快走していった。運転は上手、というよりちょっと荒いくらいだ。

「じゃあ、希望ちゃんが知的障害じゃなければ何なの? どんな理由があればあの教科書の読み飛ばしを説明できるのよ」

「それはもう一人の目撃者の話とまとめてしましょう。そっちの方が分かりやすいですし、何度も説明する手間が省けます。あぁそうだ。この事件の全容を説明するときに希望さんの保護者の方を呼んでもらっていいですか? 塚本先生に伝言してもらおうかとも思ったのですが、やはりこういう大事なことは口で直接伝えるべきでしょう」

「はいはい……」

 彼が最後まで説明を渋るのは前回同様なので私は諦めて返事をした。まぁ彼のことだし最終的にきちんと説明してくれるだろうと思うしかない。

「それで、大阪府警の見つけたという目撃者はどのような人なのですか?」

「ええっと……目撃者の名前は香川清輝。希望ちゃんと同じ七歳の小学一年生ね」

 私は助手席で大阪から送られてきたばかりの捜査資料をめくる。資料はあまり厚いものではなく、簡単に聴取された目撃証言の内容が書かれているだけだ。

「証人は今月の十一日、枚方市の路上で容疑者を目撃。捜査段階の面通しでも確信をもって容疑者の写真を指したと。……えぇ? なにこれ?」

「どうしました?」

 資料を読んでいる途中で出てきた文字に引っかかって私は思わず調子の外れた声を上げてしまう。紫木がそれに気づいて怪訝な顔をこちらへ向けてきた。

「証人には軽度から中度の自閉症ありって……あいつら、私たちの証人は知的障害だなんだって文句つけてきたくせに自分のところの証人の障害はスルー!?」

「それは興味深いですね」

「あぁちょっと先生、信号変わるわよ」

「おっと」

 堪えかねて声を荒げる私の持つ資料を覗き込みながら紫木が口を挟む。明らかに危険運転なので私は彼を制してちゃんと前を向かせた。

「しかしこうなると、大阪府警は自閉症についてよくわかっていない可能性が出てきましたね。知的障害であることを理由にある子供の証言を疑いながら、一方で自閉症児の証言は無条件に採用するというのは論理的に破綻しています」

「そうなの? おかしいなっていうのは何となくわかるけど」

「えぇ、そうなんですよ」

 紫木はアクセルを踏み込んで車を発進させる。車はもうすでに京田辺市を通り過ぎて枚方市に入っていた。

「自閉症スペクトラムというのは診断の定義上知的障害を含みますからね。昔は高機能自閉症といって知的障害のない自閉症もあったのですが、診断が乱発されたようでいまは使われていません」

「その、スペクトラムっていうのは?」

「スペクトラムというのはグラデーションのようなイメージで理解していただければいいでしょう。自閉症というのは障害と健常を一本のラインで区切って区別することの難しい症状なのだそうです」

 そんなことを言ったら全ての精神障害はスペクトラムだと思いますけどね、と紫木は言って肩をすくめた。

「要するに、大阪府警の言う通りその目撃者たる香川清輝さんが自閉症スペクトラムであるならば、希望さんの証言を疑ったのと同じ理由で彼の証言も疑わなければいけないはずです。もっとも、希望さんの事例を考えるに大阪府警の精神障害に関する理解は甚だ不正確なようなので、今回もまず清輝さんが本当に自閉症スペクトラムか確かめる必要はあるでしょうね」

 私は前方を見つめる紫木の顔を一瞥する。彼の表情はいつも平坦だけど、こうしてしばらく付き合っているとその微妙な変化もわかるようになってきた気がする。目の見開きからが少し大きいのでいまはこの捜査の状況を楽しんでいるはずだ。

「この目撃者が自閉症スペクトラム? ってやつだと、証言は信頼できなくなるの?」

「いえ、必ずしもそうとは言えないでしょう。僕はどちらかというと大阪府警の聴取方法に問題があったのではないかと疑っていますが……自閉症スペクトラムの人は世界の見方が独特なので、それが目撃証言に影響する可能性はありますね」

「ふぅん……」

 紫木の運転する車は住宅街に入っていく。左京小学校の周りとは違って込み入った感じはなく、家が一軒一軒大きい印象を受けた。おそらく比較的裕福な世帯の集まる住宅街なのだろう。

 車が目的地の近くにまでたどり着いたせいでカーナビが案内を勝手に終えてしまった。紫木はあたりを盛んに見渡しながら首を傾げる。

「どこでしたっけ。証人の家は。えっと……」

「三番地でしょう? もうちょっとまっすぐ行って右よ」

「番地で言われてもさっぱりですね……ここですか?」

「そう、たぶんその白い家」

 車を右折させた私たちの目の前に眩しいくらいに外壁が真っ白な家が現れる。住所からいっておそらくそこが香川清輝の家なのだろうと思われた。紫木は路上に車を止めてドアを開いた。

「ここって路駐禁止でしたっけ?」

「うーん? どうだったかしら?」

 そんなことを言いつつ私も車から降りて家の前に立つ。玄関前に備えられた門には「香川」という表札が掲げられている。

「ここで良さそうですね。よっと」

「ちょっと先生?」

 紫木は表札をちらりと見ると何の躊躇いもなく門につけられている呼び鈴を鳴らした。今日の彼はモードに入っているとはいえマイペースが過ぎると思う。子供のころ注意する大人が周りにいなかったのだろうか。

「先生、くどいようだけど質問はゆっくりと、意図を明確にしてね?」

「意図を明確にするとその意図を果たせない場合はどうすれば?」

「そういうときは、あー、後から言いなさい。とにかく、質問の投げっぱなしはなし」

「はいはい」

 私は紫木に一応釘を刺しておくけれど、彼の気のない返事からはどうも効果は見込めなかった。

 そうこうしているうちに玄関の扉が開き、中から中年の女性が現れる。紫木はその姿を認めるとさっさと門を開いてその女性へ近づいていった。

 今度は大丈夫だといいけれど。

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