かなしい僕

 眠れない僕は、何度目かのトイレに立つ。

 用を済まして冷蔵庫を開け、牛乳をパックのまま口を付けて飲む。

 その時にふと、ある事が脳裏をよぎった。それは過去にもあった事。

 その事を確かめるために、僕は電話へと近づく。

 電話線は、引き抜かれていた。

 脳が高速で回転し、止まった。


 朝になるまで眠れなかった僕は布団から体を起こして、顔を洗い、歯を磨き、制服に着替えて、荷物を持った。

 今日の朝食は無し。食欲が沸かない。

 僕は同居人の部屋の前に立ち「行ってきます」と呟く。そしてそのまま玄関のほうへと一歩踏み出したのだが、僕はそのまま固まり、同居人の居る部屋の扉へと視線を移す。

「……卑怯者。何に怯えてるの。借金の催促でもあるの? それとも父さんや親戚から連絡が来るのが怖いの?」

 僕がそう声をかけるも、返事は無い。

 完全に引きこもっている。もはや彼女は、僕の言葉に耳を貸す事は無い。

「……僕は、お前みたいにならない」

 僕は同居人が居る部屋の扉をガンと叩き、玄関へ向かって歩き始めた。


 サエちゃんの家の前へと視線を向けると、そこには俯きながら両手でスクールバッグを持っているサエちゃんの姿が見えた。

「サエちゃん」

 僕の存在に気付いたサエちゃんは一瞬にして華やかな笑顔を作り、僕のほうへと駆け足で近寄ってくる。

 本来なら、この上無いほどの喜びを感じている筈の瞬間。しかし僕は、サエちゃんの顔が、薄気味悪く、見えてしまった。

 何故、笑っているのだ……笑えているのだ……。

「エイコちゃぁーんっ! エイコちゃんっ!」

 サエちゃんは僕の手を握り、僕の顔へと自分の顔を近づけた。

「来てくれたんだねぇ! 良かったぁーっ」

「ははっ。そりゃ来るよー。来たかったんだもん」

 来たかったのは、本当。

 しかし、来てみたら、なんだろう、この感覚。

 なんだろう。なんだろう。

 嬉しくない。

「うんっ。そうだねっ……うんっ……嬉しいなぁっ……私ね、沢山考えたよ、エイコちゃんの事。エイコちゃん、寂しいんだろうなって、思ったっ……ごめんね、寂しい思いさせて。私がエイコちゃんを支えなきゃって思ってたのに」

「大丈夫。僕こそごめんね」

 僕はそっと、サエちゃんの手を離し、歩き始めた。

 サエちゃんは「いいんだよぉーっ……私がエイコちゃんに酷い事言ったから悪いんだよ」と言いながら、僕の横を付いて歩く。

 表面的な言葉だとは、思わない。サエちゃんはきっと、本心でそう思っている。

 しかし、僕の心に響かない。昨日はあんなに、感情的になったと言うのに。

 サエちゃんが、くすんだ鈍い光を放っているかのように見えて、仕方がない。

 きっとこの先、どんどん、くすんでいくんだろうな……そう思うと、サエちゃんの顔は見れなかった。


 僕は、僕の世界の時間が動き出して、他の世界の変化に置いて行かれているという事に、ようやく気付いたのだろう。

 もっと早く、そして柔軟に、僕が対応出来ていれば、良かったのだろう。


 学校に到着し、僕はサエちゃんの教室の前で「じゃあね」と別れを告げると、サエちゃんは「え? うん……」という煮え切らない返事をしつつも、自分の教室へと入っていった。

 僕は自分の教室へと入り、昨日セイヤに殴られた男子の姿を即座に探す。

 やはりどこにも、見当たらない。いつもならどこかにタムロしており、僕を見かけたら近寄ってくるというのに、見当たらない。

「宮田さん、おはよー」

 探している最中、クラスメイトの女子から話しかけられた。

 僕は微笑みは浮かべずに「……おはよう」と返事をし「ねぇ」と、声をかける。

 その事に驚いたのか、クラスメイトの女子は「えっ? ななっ何っ?」という上ずった声と共に、驚愕の表情を浮かべていた。

「いつも僕に絡んでくる男子三人組居るでしょ? アイツラって、今日来てた?」

「え? えー……み、見てないよ」

「そうなんだ、そっか。ありがとう」

 僕はニコッと微笑み、軽く頭を下げてから、自分の席へと向かう。

「話しちゃったーっ!」「いいなーっ」という、僕に対する陰口が聞こえてくるが、それに構っている場合では無い。

 僕は今内心、かなり焦っている。


 ホームルームの時間になっても、担任の先生は現れない。そして当然、男子三人組も現れない。その事について、クラス中がザワザワと騒ぎ始めた。

 息苦しさを感じながら、窓の外の風景を見つめ、その時を待った。

 数分後、教室の扉が開かれる音が聞こえ、担任の先生による「宮田、来てるか?」という声と共に僕は立ち上がる。

「……居ます」

「悪いがちょっと来てくれ。他の連中は静かに待っているように」

 僕はクラス中の視線に耐えながら、先生の元へと歩をすすめる。

 長い長い、道のりのように、感じた。


 生活指導教室へと連れてこられた僕は先生に促されるまま、ソファへと腰をかけた。その場には、見た事の無い年増の女性と、セイヤのお母さんが既に居り、パイプ椅子に座りながら、暗い表情で俯いていた。

 二人共、僕の事を、見もしない。

 ……もう二度と会いたくないと思っていたし、会うことも無いと、思っていたんだけどな……かなり、嫌な気分だ。

「昨日起きた事、知っているよな?」

 担任の先生は僕に気を使ったかのように、穏やかな口調で、話し始めた。僕は先生の言葉にただただ頷く。

「セイヤ君なんだが、昨日学校に呼び出して、話し合いをした後……家出をしてしまってな」

「え」


 家出。家出、したんだ。

 家出してたから、公衆電話から電話してきたんだ。

 アイツ僕に、気を使って、嘘、ついたって事?

 僕の声の感じで、僕の元には学校から連絡が来てないという事を察して、僕に心配かけないように、咄嗟に嘘をついた? そんな、カヨネェみたいな事を、したのか?

 じゃあ、じゃあ。イジメられたら僕に言えって言った時、アイツは、もう、僕とは一切関わらないって、決めてたって事?

 だから、だから。アイツは、僕の言葉にいたたまれなくなって、電話を切ったっていう事?

 瞼を真っ黒に染めるほどの隈を作りながら悩んで苦しんでたアイツは。今もまだ、どこかで、苦しんでいるという事?

 僕を助けておきながら、僕に迷惑、かけたくないから。一人で。


「何か、知っている事は無いか? 宮田も無関係っていう訳じゃ」

「お前だろ。お前が、セイヤを」

 僕は立ち上がり、セイヤの母親を見下ろした。

「お前がセイヤを責めたんだろ。お前はそういうヤツだ。親なら何故、セイヤを受け入れてあげないっ……何故分かってやろうとしないっ! 貴様らのような親が居るからっ! 僕達みたいな子供は行き場を失うんだぁっ! 僕達はっ! 息苦しさを感じながらも、大切な誰かのために生きていたいだけなのにっ!」

 僕は進路相談室を飛び出し、走り出した。

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