第3話 こまったさんと離婚届
十数年連れ添った家族が分裂する気持ちがわかる人間は、この世界にどれだけ存在するのだろうか。例えば両親の離婚だ。
父親と母親、二人揃って家にいることが当然だった生活が、突然終わると告げられた子供はどんな気持ちになるのだろう。
そんなの、普通の人にはわからないよね。
「明日からママとパパは別々のところで住みます。あなたは好きな方を選びなさい」
こう告げられた子供の気持ちは、そんな現実に直面し、実際にそう告げられた子供にしかわからない。
無論、私のような人間には到底理解できないと思う。できるはずがない。だって、そんなこと告げられたことがないんだもの。
選べと言われて、選べる問題でもないと思う。
ずっと家族を支えるために働き続けてくれたパパを選ぶ?
それとも、ずっと自分の面倒を見てくれていたママを選ぶ?
どちらかに致命的なまでの人格的な欠点がなければ、即答できる人間なんてそうはいない。
ママは経済力にかけて貧しい思いをするが、母性という安心感は保証されるかもしれない。
パパは経済力は安定するが、家事ができなくて生活感にかけるかもしれない。
どっちを取っても不自由はするかもしれないし、しないかもしれなかった。
しかし、二人いるから安定するかと言われればそうではない。二人いるからこそ家庭調和が乱れるのかもしれない。
離婚することが最善なのか、二人一緒にいることが最善なのか、状況によって変わってくるのだけれど、夫婦間のトラブルだけで離婚されては子供にしてはたまったものではなかった。
今日は、そんなお話。
『エピソード1』
「おはよう二グモ、さあ起きて」
私は自分に言い聞かせるように呟き、まだ布団で横になりたいと駄々をこねる体を起こした。
さてと、さてさて。
私は全体今どこにいるのですか?
目を瞑って
ああ、そうだ。
相談屋の事務所の二階、従業員の寄宿舎だ。六部屋ある部屋の一つを私の部屋として提供してくれたのだ。
そりゃあ、見慣れないわけだ。
いつもの公園のベンチにダンボールを敷いて寝てるわけじゃないもんね。
まともな布団で寝るのは久しぶりで熟睡出来た。人類の生み出した文明の中で一番人を幸福にするのはやはり布団ではないだろうか。このふかふかとした柔らかさと、シーツの肌触りの良さ。程よい重みで包み込み安心させてくれる包容力。そして何より私の心を掴んで離さない憎らしさ。
ナイス人類、ビバ文明。
こんな素敵な代物を生み出してくれてありがとう。
名残惜しい。
離れたくない。
けれど起きなければならない。
起きなければいけないけど、布団から離れたくないというジレンマが私をジリジリと苦しめる。
結局、十分間格闘した末下半身を布団から出し、ベッドとお別れをした。
時刻はただいま、午前七時きっかし。
ドレッサーの前に座り、ヘアブラシで髪を梳かす。髪にリボンを着け終えるとクローゼットの中から「仕事着に使いなさい」と書かれたダンボールを引っ張り出した。中からブラウスと傘型のスカート取り出し着替えた。寒いので黒タイツも履いておこう。
着替えを済ますと三階へ上がった。
リビングへ行くともう既にみんなは朝ごはんの準備をしていた。よく見るとエマさんだけだった。
「よう、二グモ。昨日はよく眠れたか? パーティーで興奮して寝付けなかったとかよくある話だからな。なははははは」
朝からうるさいカンシャクさんは、私を見るなり機嫌よく挨拶してくれた。
「おはよう。カンシャクさん、ぐっすり眠れたよ」
カンシャクさんは、いつになったらダンボールを脱ぐのだろう。朝一番からダンボールを被っている。
そういえば、昨日は食事中も被っていた。礼儀のない人なのだろうか。
「そいつはよかった。昨日は楽しかったな。悟と俺の全裸ダンス! あの皿で華麗に陰部を隠す芸当、笑えただろ!」
トラウマだよ。
しかも隠せてないよ何も。
「あはは……」
私は苦笑いをしてその場をやり過ごした。
「パーティーがある時には必ずやるんだ。また見せてやるからな!」
黙れゴミ
幼気な少女になんてもの見せつけて来るんだ。
「二グモちゃん。そんなゴミ虫に構ってないで早く顔洗ってらっしゃい」
カンシャクさんに絡まれる私に、エマさんが救いの手を差し伸べてくれた。この人は性癖以外はまともなのだ。
「誰がゴミ虫だ! この変態女!」
「あら、変態で何が悪いのかしら? ゴミよりマシよね」
はあ……顔洗いに行こう。
朝から騒がしい二人をリビングに残し、私は洗面台所へ向かった。
扉を開き、洗面台の前に立つ。
鏡に映る自分を見て、私はため息をついた。
騒がしい朝は慣れない。
ここ最近はずっと一人だったから。
布団で寝るのも、朝起きて誰かがいるのも。朝食が用意されるのも。
慣れない。
ああ、これはきっと幸せなことなんだ。
住む場所があって、今日こなす仕事があって、着る服があって、食事がある。
感謝をしなければいけないけど、なんだか複雑。
私は鏡に映る自分を見るのをやめて、もう一度ため息をついた。
洗面台の蛇口を捻り水を出す。
その水を手で掬い上げ、見つめる。
さあ、ニグモ……起きて。
パシャリという音を立て、手で掬った水を顔にこすりつけた。三回ほど水を顔に擦り付け洗顔をやめた。
歯を磨き終えると洗面所を出てリビングへと向かう。テーブルには朝ごはんが並べられている。
「ニグモちゃん座って、早く食べてちゃお。カンシャク、悟を起こしに行って」
「おいおい、これでも俺は年長だぜ? サンタさん除いたら俺が一番年上だ」
私はエマさんに言われるがまま、一番小さなお茶碗のある席に着いた。カンシャクさんのぼやく声を聞きながら私は食べてよしの合図を待った。
結局、エマさんに「私が起こすと大変なことになるわよ」と言われたカンシャクさんは、「はいはい、もうわかったっての」とグチグチ言いながら悟くんを起こしに行った。
毎朝賑やかなんだろうな。
慣れたらそうでもないのかも。
「じゃあ、先にいただきますしちゃおっか」
両の掌を合わせて微笑むエマさん。
私はそれに続いて合掌する。
エマさんのいただきますを合図に、私も目を瞑って静かに唱えた。
「いただきます」
「はい、どうぞー」
私は目を開き皿を見つめた時に驚愕した。テーブルに並べられている朝食はいたって普通だ。ベーコンと目玉焼き、トマトとレタスのサラダ、白米と味噌汁というシンプルなメニューだ。
しかし、私が驚いたのはメニューではない。卵の数だ。全員二つずつ焼かれている。
「た、卵が……二つ……」
そんなことあっていいのだろうか?
「ん? どうしたの? ニグモちゃん」
私の異変に気付いたエマさんが声をかけてきた。私は答えるように言う。
「……ない」
「ん?」
「卵二つなんて勿体無いよ!」
「え?」
「卵って、値段が高くてデリケートで栄養価が高くて、とても贅沢な食べ物なんだよ⁉︎ それを二つも食べるなんて勿体無いよ! 」
エマさんはきょとんとした顔をした。
何を言っているんだこの娘は、なんて顔をしているようにも言える。
「え、え……勿体無くないの……?」
私が心配そうな顔をすると、エマさんはぷっと吹き出した。
「っははははは、そんなこと? ああ、おかしい。いいのよ食べたって、その代わりこれからビシバシお手伝いしてもらうからね?」
私の報酬は卵で十分ですサンタさん。
お手伝い頑張ります。
「は、はいっ!」
返事をする私に「じゃあ、食べてしまって」と頭を撫でてくれた。
味噌汁で水分を取り、サラダをムシャムシャと食べた。私は野菜は生で食べる派なのだ。ドレッシングなんて勿体無い。
サラダを半分ほど食べ終えると、悟くんとカンシャクさんが上がってきた。
「おはよ……」
寝起きの悟くんは気だるげに席に着き、味噌汁をすする。
「ったく、こいつ本当に朝弱いな」
やっと飯が食えると言わんばかりに、カンシャクさんは席に着くなり味噌汁をすすった(隙間から手を突っ込んでるのですすっているのかはわからない。しかし、すする音だけは聞こえる)。
あれ?
カンシャクさんだけ一品多い。
ベーコン、目玉焼き、サラダ、味噌汁、白米。そこにもう一品、納豆がある。
一応年長ということで気を使っているのかもしれない。口ではカンシャクさんを悪く言うエマさんだけど、本当はしっかり立ててるんだ。
「悟、早くご飯食べちゃって」
エマさんは悟くんにドレッシングを手渡しながら言う。
「うん……にしても眠いね」
「味噌汁でも飲んだら?」
こうして二人を見てみると、悟くんとエマさんは姉弟にも見える。エマさんは面倒見がいいんだね。
味噌汁を飲むように言われズルズルと音を立てて飲む悟くん。
「ニグモ、そこの醤油とってくれ」
黙々と箸を進めているとカンシャクさんに頼まれた。私は目の前にあった醤油を手に取りカンシャクさんに渡す。
「ありがとよ」って言って、カンシャクさんは目玉焼きに醤油をかけて食べ始めた。
「それ美味しいの?」
目玉焼きには塩胡椒だと言う固定概念がある私には、醤油をかけて食すその姿は異様に見えた。
「うますぎて笑えて来るぜ? かけて見るか?」
「じゃあ、お願い」
百聞は一見にしかずだね。
カンシャクさんは「よしきた」と言えば、私の目玉焼きに醤油をかけた。
「失礼して」
私はそう言うが早いか、箸で白身を摘んでパクリと一口。
「どうだ?」
「悪くないね」
今日の朝はなかなか楽しかった。
『エピソード2』
「じゃあ、ニグモのデスクはここを使ってくれ」
「はい、サンタさん」
一階の事務所で自分のデスクを指定してもらい。今朝、エマさんからもらった筆記用具とカンシャクさんからもらった日記帳を机に置いた。
私は椅子に座り、ほっと一息ついた。これから私のお手伝い生活が始まるのだと考えるとドキドキした。
事務所の中は、五人には少し広い空間だった。デスクが空きも含め六つあり、一番奥には所長用のデスクと贅沢で大きな椅子がある。観葉植物が適当に配置されており、本棚や休憩用のソファーなども配置されていた。給湯室へ繋がる扉は取り外されて常にオープンになっている。資料室は固く鍵で閉ざされていた。
雰囲気だけはオフィスっぽいね。
エマさんは、ノートパソコンのキーボードをカタカタと叩いている。何やらサンタさんに頼まれた資料を作っているらしい。
カンシャクさんはというと、食事を済ませると外回りに出かけてしまったそうだ。
よし、私はお茶汲みの仕事を全うしよう!
「ニグモ」
「ひゃいっ!」
一人でガッツポーズしているところを見られてしまった。私に声をかけてきたのは悟くん。お茶でもくんで欲しいのだろうか。
「サンタさんが、俺と一緒に仕事しろって」
見習いは、先輩と共に行動しろと言うことだろうか。
「今回の依頼はニグモが活躍するから、力を貸してもらえって」
なるほど、私の魔法の方が役に立つのかな。サンタさんの方へ視線をやると、彼は笑顔で頷いた。
「わかった。ついていく」
初仕事スタートである。
「悟、ニグモを連れ出す時のルールがあるんだけど、聞いてくれるかい?」
私が仕事の同行を了承すると、サンタさんはルールを提示し始めた。
悟くんは黙って頷く。
「ルールその①、移動中は必ず手を繋いで歩くこと。彼女が迷子にならないようにエスコートしてあげなさい。ルールその②、彼女が理解できないことは解説してあげること。ルールその③、何かあった時は全力で守ることだ。安全の確保をよろしく頼むね」
サンタさんはこの三つのルールを提示した。いくらお手伝いするからとはいえ、私はまだまだ子供であるということだろう。
「わかった。この斉天大聖孫悟空の末裔、品川悟。サンタさんとの約束を守り切るぜ」
こうして私は、悟くんに手を引かれこまったさんの元へと向かう。
「よーし、しっかり俺についてこいよ」
右手をポケットに突っ込み、左手で私の手を握る悟くん。
「あい。ところで悟くん。あなたは何歳なの?」
「え? 十六歳だけど」
ビンゴ、一番年齢が近かった。
「年齢が近い方が親しみやすいかなって」
悟くんは警戒した様子で言う。
「俺、ガキを相手にする性癖はないぜ?」
黙れクソ猿
「別にそんなんじゃないよ。普通に仲良くなりやすいかなって」
「ああ、なるほど。俺てっきり迫られてるのかなって」
「どこの出会い厨なのそれ」
「どっからそんな言葉覚えてきたの! 」
「お母さんみたいなこと言わないで」
「もう思春期? 早くない? 反抗期」
「いい加減にしない?」
「お、おう」
それから少し沈黙が続き、目的地に向かって歩き続けた。横断歩道へ差し掛かったところで悟くんが下ネタを言ってきた。
この人も十分思春期だった。
信号を待つ。
先に沈黙に耐えられなくなったのは悟くんだった。
「初仕事、緊張するか?」
「別に、ただのお手伝いだもの」
「とか言って本番でチビんなよ?」
「そんなハードな仕事なわけ?」
「いや、今回はどちらかと言うと気分の悪い仕事だな」
悟くんは下がってきたマスクを上げて、首筋に手を置いて言った。
「ニワトリから卵を取り上げる? それとも近所のトニーおじさんの口にチーズになった紙パック牛乳でも突っ込むの?」
「気分悪いどころか罪悪感しかねぇよ。トニーおじさんって誰だよ!」
「トニーおじさんは、娘好きの気さくなおじさんだよ」
「余計に罪悪感が増すよ」
「でも、トニーおじさんは過保護すぎて娘には嫌われてるらしい」
話し込んでいる間に信号が赤から青に変わり、そしてまた赤になった。
「あ、信号……まあ、過保護なお父さんっているよな。昔、俺の付き合ってた女の子もお父さんが過保護でよ。付き合って間もないから海に行っても水着はダメだなんて言うんだぜ?」
そりゃあ、自分の娘がこんな頭の痛い猿と海へ行くとなれば、親としては気が気でないだろう。
「で、結局水着はお預けだったの?」
「約束通り水着は着てなかったな」
「律儀だね」
「それどころか夏服すら着てなかった」
「……」
「わははは」
ただの全裸ですよ!
事務所からこまったさんの待ち合わせ場所まで、約二十分かけて歩いた。待ち合わせ場所は喫茶店だった。少し小洒落たお店で、私は少しだけ気にいった。
『エピソード3』
喫茶店で待つこと五分、こまったさんはやってきた。私の想像とは全く違って、こまったさんは中学生程度の男の子だった。それでも私より歳上なのには、変わりないけどね。
「それで、両親の離婚を取り消して欲しいと?」
大まかな依頼内容を聞いた悟くんは、もう一度確認した。
「はい。一週間ほど前に離婚をすると言いだしまして、父か母のどちらかを選ばなければならないのです。僕としては二人に仲良くして欲しくて……」
こまったさんはオレンジジュースを一口飲み、乾いた口を潤した。
「原因とかは、わからないんですか?」
少し私はでしゃばり聞く。
「お前黙ってろよ」
悟くんが小声で文句をつけて来る。どちらにせよ聞かなければならないのだからいいではないか。
「いいじゃん。少しくらい」
私も小声で返した。
「おそらく、母の浮気が原因かと……」
わお、ママさん浮気なんてしてたのね。
「浮気?」
悟くんが聞き返す。するとこまったさんはさらに詳しく話し始めた。
「三ヶ月ほど前から母が浮気を始めまして、最初のうちは隠れてしていたみたいなんですが……。日に日におおっぴらにし始めて、近所でも噂になるほどでして……。酷い時なんかは家の前でキスまでしていました。まるで見せつけている様で」
そんなのテレビドラマでしかみたことがない。こまったさんには悪いが少しワクワクした。
「それで浮気がバレて大喧嘩です」
「なるほど、そんな状態で仲直りか……」
悟くんは顎に手を当てて悩む。
それもそのはずだ。ただの喧嘩ならまだしも、浮気が原因なら関係の修復は難しい。
「母は何度も謝っているのですが、父が激怒してしまって……」
裏切られたのだから、それもそのはずだ。家の前でチューまでされてるんだ。私が夫でも怒る。
どう言った風に仲直りをしてもらおうか、悟くんは頭を抱えている。
「そりゃそうだろうな……。親父さんが怒ってまともに話ができないのが厳しいな。冷静にならなきゃ話もできない」
人の感情とはまるで魔法のようなものである。怒りという魔法は解けない限り、判断力は低下し、コミュニケーション能力までも低下する。話し合いの上で一番かかりたくない魔法だ。
そんなとき、私の頭にある考えがよぎる。
魔法?
その時の現場を見れば、何かヒントを掴めるかも……。
「記憶を……読み取る魔法……」
そうだ。私はサンタさんから魔法を授けられた。思考を読み取る魔法と記憶を読み取る魔法の二つ。記憶を読んで現場を直に見ることができれば、何かヒントを得られるのではなかろうか。
いや、でも……。
魔法の使い方わかんない。
「どうか、なされましたか?」
私がモジモジしているのを気にして、こまったさんは声をかけてくれた。
「あ……大丈夫です」
どうしたらいいの。
例え使い方を知っていても、こまったさんが喧嘩の現場にいなかったかもしれない。
「まずは親父さんに冷静になってもらいますか」
赤の他人が声かけても逆に怒らせるだけだよ! ああ、もっと相手があるはずなのになぁ。
魔法の使い方……。
「そうですよね。一度父を冷静にしなければ」
記憶を読み取れば早い。
その現場を目撃できるだけで、話を聞く以上の情報を手に入れることができる。
こうなれば仕方ない。
「悟くん。おトイレ行きたい」
「え?それくらい自分でいけよ」
「一人で行けない」
気づけクソ猿。
知能までも猿なのか。
悟くんは頭を掻きながら「すいません」と謝り私をトイレへ連れて行く。
「ほら、行ってこい」
悟くんはトイレの前で待っててやるからと腕を組んだ。この猿まだ気付かないか……昨日一人で眠れた私が一人でトイレに行けないわけがない。
「ねえ、悟くん。魔法ってどう使うの?」
用事はトイレではなくこちらの方だ。
「え、イメージ? 自分の魔法の効果を理解してイメージすると言うか、自然にやってるからこれくらいしかわかんねえ。早くトイレ行ってこい」
「おっけー、わかったありがとう。戻ろう」
なるほど、イメージか。
子供の想像力を侮るなよ魔法め。
すぐに使いこなしてくれる。
「おい、トイレは?」
「引っ込んだみたい」
悟くんは訳のわからなさそうな顔をして、私と席に戻る。猿がびっくりした時の顔によく似ている。
「席を外してごめんなさい。こまったさん」
私は深々と頭を下げ、五秒ほどして頭を上げた。私は愛想笑いができないので笑わなかったが、ここに笑顔があれば可愛らしい謝罪だなと思った。
「いいえ、お気になさらずに」
こまったさんの言葉遣いは、とても綺麗だった。育ちの良さが伝わってくる。家は裕福なのかもしれなかった。
「では、失礼します」
本当にそう思った。
悟くんとこまったさんは、未知と遭遇した猫みたいな顔をしていた。あの体を丸めて目を大きく見開き、じっとそれを見つめる猫の様子を思い出して少しおかしくなった。
私は目を閉じて、おさらいする。
私の魔法は記憶を読み取る魔法。
次はイメージだ。
私はガラスの破片が舞うイメージをした。それら一つ一つが輝き反射したり、何かを映し出したりする。
私が映し出したいのは記憶。
それでは、失礼して……。
目を開くと、あたりにガラスの破片を思わせる記憶のカケラが散らばっている。
これが、魔法。
記憶のカケラのその一つ一つが輝いている。その中で輝かないカケラもある。
輝いているのは、明るい記憶。
輝いていないのは、暗い過去。
なんだかまるで、星に囲まれたような気持ちになった。
私はその中から一つだけ記憶を手に取り、額に当てる。
『ふざけるな! 浮気だと……この裏切り者が』
中年の男性が、同じく中年の女性を怒鳴りつけている。これが記憶。
『ごめんなさい……でも、あなたを裏切るつもりはなかったの……』
女性は涙を流しながら謝罪した。
しかし、男性は聞く耳を持たない。
『裏切る気はなかっただ? その行動こそが裏切りじゃないのか? バカも休み休み言え!』
もっともだね。
人は行動でその誠意を示し。
その誠意で愛を示す。
裏切る気がなかったとはいえ、女性……ちがうね。こまったさんのママさんがしたことは間違ってる。
『私はただ……"あなたの気を引きたくて"浮気をしたの』
『今更、そんなことが信じられると思っているのか?』
『お願い……浮気をしたことは私が愚かだった。けれど、これだけは信じて……私はあなたを愛しているわ』
浮気をした人間は、おそらく誰しもこう言うし、最悪開き直ったりする。
『浮気者はみんなそう言う』
言ってることが被ってしまった。
『ごめんなさい……でも、お願い……信じて……』
『黙れ!』
そこで襖が閉まるように記憶が暗くなった。おそらくこまったさんは、襖から覗いていたのだろう。
その襖の閉まる様が、私には舞台の閉幕に見えた。
拍手喝采は、ない。
「ママさんは、パパさんの気を引きたかったの?」
魔法を解除した私はこまったさんに問いかけた。
「え……ええ? ああ、はい。確かそんなことを言っていたような気がします」
悟くんは黙っている。
「パパさんは、ママさんと仲が悪かったの?」
こまったさんは即答した。
「仲が悪いわけではありませんでした。しかし、父の仕事が忙しくて僕達家族の相手をしなくなったんです。しなくなったと言うよりは、できなかった。仕事で疲れているので、家に帰ればすぐにシャワーを浴びて寝てしまいます。ここ最近は一緒に食事をしたこともありません」
"あなたの気を引きたくて"
これはつまりそう言う意味だったのだろう。
それでも、ダメだよママさん。
仕事って、家族を守るためやってるのだから。
たった一言、たった一言だけ優しい言葉をかけてあげられなかったのだろうか。
パパさんの言葉一つで、なにかがかわっていたかもしれない。
ママさんの浮気が大胆になっていくことも頷けた。見て欲しかったのだ。振り向いて欲しかったのだ。嫉妬して欲しかったのだ。
でも、もっとやり方はあったはずなのに……。
「もし、よかったら……ママさんの話をよく聞いてあげて、そして息子であるあなたから一度、ママさんの気持ちをパパさんに伝えてあげて欲しい」
「僕からですか?」
「他人がでしゃばるより、家族であるあなたが間に立ってあげたほうがいい」
私が話し終えると悟くんが口を開く。
「きっと、そのほうが家族のためになる。俺たちは弁護士でもなければ、便利屋でもない」
悟くんはさらに続けた。
「俺たちはあくまでも相談屋なんだ。手を貸しすぎず、甘えさせすぎず。方向性を示し、行動する勇気を与えてやるのが相談だと思う」
初めて、私は悟くんが少しかっこいい猿だと思った。
『後日談』
今回のオチ。
その後、こまったさんの両親は結局離婚してしまった。
私は無力に感じてしまったが、こまったさんは私と悟くんに感謝したのだ。
「ありがとうございました」
「悪かった。ご両親の離婚の阻止、できなくて」
悟くんは深々と頭を下げて謝ったが、こまったさんはそんな彼に頭を上げてと言った。
「不思議とね。後悔はないんです。お母さんの話を聞いて、お父さんの話を聞いて、間に立って頑張って、やれることをやったら、前を向けました。もしかすると落ち着いて、やり直してくれるかもしれませんしね」
そう言ってこまったさんは、ママさんの方へ付いて言ったそうな。
結果的にこまったさんは前を向いた。
こまったさんなりに歩み始めた。
これはこれで、よかったのだろう。
それでも、私は遣る瀬無かった。
「二グモ、帰ろうか」
私の頭に手を置き、ぐしゃりと撫でる悟くん。
「問題、解決できなかったね」
私は、人生で初めて悔しく感じたかもしれない。後悔と罪悪感で心が握り潰されそうな感覚に、初めて陥った。
「二グモ、俺たちまだ十代なんだぜ。そんなに思いつめた顔しなくてもいいんじゃねぇか?」
悟くんは、慰めようとしているのか。
それでも彼の言った言葉が無責任に感じた。
「じゃあ、悟くんは悔しくないの?」
しかし、それは間違いだった。
早とちりをした私は愚かだった。
「悔しいに決まってんだろ。だから、次の依頼人は絶対に幸せにして見せるんだよ。今悔しい思いしたから次を必ず成功させるんだろ?俺たちまだ十代だ。人生の半分も生きてない。こうやって頭打って後悔すりゃいいのさ。そうやって子供の俺らは強くなって大人になるんじゃないか」
悟くんの言葉は重かった。
とても、深く私の心に響く。
「悟くん。人生ってなんだろうね」
悟くんは優しく答える。
「人生なぁ……いまいち俺にもわからない。けど、学び続けなければならないんじゃないだろうか」
学び続ける。
その言葉の真意を私はまだ理解できないだろう。
「サンタさんがよく俺に言うんだ。今生きてる世界は自分の魂を磨くための世界なんじゃないかって、だから辛いことも苦しいこともあって、それらを乗り越えて魂を磨くんだ。辛いこといっぱい経験したら、同じ経験をしたやつに優しくできるし理解を示せる。いっぱい悔しい思いして辛い経験したやつが優しい人間になれるんだって」
私にはわからない。
辛い経験をしたら、魂が腐るではないか。
恨んで。
妬んで。
嫉んで。
怒って。
憎んで。
心は汚れるじゃないか。
「ますます難しいね」
その日の夜。
サンタさんが私の部屋にやってきた。
「先日の初仕事、どうだった?」
私は答える。
「最悪でした」
サンタさんは笑う。
「そうか、最悪だったか。ひとまずご苦労様」
サンタさんはいつも通り、私の頭を撫でる。優しく撫でるのだ。
「今回の報酬を持ってきた。お給料日にはまだ早いが、早めのプレゼントだよ」
「この前魔法もらったばかりだし、今回の仕事は失敗したし、受け取れない」
だって、彼を幸せにできなかった。
「こまったさんは、君を責めたかい?」
ううん。
責めなかったよサンタさん。
こまったさんはありがとうと言ってくれた。
「ううん……」
「だったら君は上手にできたんじゃないかい?」
「わからない……」
サンタさんは懐からスマートフォンを取り出した。そしてそれを、私に差し出す。
「これを君に、これが君の初報酬だ」
私は受け取ることができない。
どうしても、ムズムズする。
「ふうむ、二グモ。そんなに下を向いてちゃ。何も見えなくなってしまうよ?」
サンタさんは私の頭を撫でた。
私は顔を上げる。
「君を必要としている人が見えなくなる。それじゃ、この先誰も幸せにできないよ」
「それは、少しだけやだな」
「なら、前を向こう二グモ。君も自分の道をしっかり歩もうではないか。この先たくさんの人に出会い。たくさんの経験をする。それらは君の人生においてきっと、掛け替えのない宝物となるだろう。この経験も宝物の一つさ二グモ」
そう言ってスマートフォンを差し出すサンタさん。私は受け取り答えた。
「一人は寂しいけどね」
サンタさんは笑う。
「私たちがいるさ、共に歩もう。人生という名の旅に出よう。旅は道連れ世は情けだ」
私は、サンタさんたちとなら歩いてみてもいいなと思った。
さっきまで曇っていた私の天気は、今は晴れである。今日は
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