第33話 捲土重来

 軍馬強奪事件から4年後の西暦227年。倭国に追い遣られた斯蘆人しろびとには9年もの長い歳月が流れている。帰郷を諦めて土着を考える兵が相次ぎ、筑紫ちくし狗奴くぬの集落で暮らし始めていた。今や傭兵として城内に留まる異邦人は100名前後に半減している。

 一方で、邪馬台軍は数だけ見れば乱世前の陣容を回復させていた。その数は500を僅かに上回る。但し、2人に1人は童顔の新兵で、命を賭した経験に欠ける。心許無い限りだが、騎兵を厚くしているので、以前よりも強い戦力と言えなくもない。

 頼みとする騎兵の数は斯蘆しろ方と合わせて約100騎。一昔前に朝鮮半島より持ち込んだ匹数の5倍にまで増殖を果たしている。難を言えば、両者の連携が円滑でない点だろうか。大勢派の城方が指揮権を握る事は理にも適っているが、優越意識の強い古参兵には面白くない処遇らしい。

 その不協和音を補うべく、軍馬の繁殖には力を注いでいた。忠誠心の強い城兵のみで騎馬隊を編成できれば、彼らの顔色を窺わずに済むとの発想だ。用心すべきは敵の強奪。南郷谷の一件で懲りた邪馬台軍は牧畜の場を狗奴まで後退させている。

 少数ながら兵を常駐させ、日向の侵攻を察知すれば、早馬を走らせる算段だ。軍略上の哨戒基地なれど、その実態は馬泥棒を警戒するだけの牧歌的な拠点に過ぎない。亡国の徒が自堕落に振る舞うに及んでは、練兵の日課すらも滞り勝ちだった。

 それはそうだろう。休戦状態が10年も続くと、誰しも緊張感を緩めるものだ。くずし的に終戦を迎えるのでは?――と、勘繰りたくもなる。その願望が蜃気楼に過ぎずとも、自分に好都合な方へと頭を巡らす傾向は人間のさがと言えよう。


 国家存亡に無頓着な傭兵のみならず、為政者も淡い期待に心を慰めようとしていた。

われは夏の青空が好きです」

 大気を凝縮させたような濃い青空を見上げて呟く。彼女の長い黒髪が潮風に揺れている。

「雲仙の遥か彼方、あの空には本当の神の国が在るそうですよ」

 卑弥呼の説く言い伝えはミカヅチも知っている。太古の昔、神々は雲上に世界を築いていたそうだ。ところが、季節に応じて白雲は大きくなったり小さくなったり。秋も深まれば鰯雲となって分裂する。不安定な領域に嫌気が差して、神々は地上に降りた。その名残が現人神あらひとがみらしい。

 有明海に遠出した2人の頭上には綿菓子の様な白く大きな雲が浮かんでいる。

「争いの止まぬ地上より、あの雲の上で安らかに暮らしたいものです」

 別に同意を求めた発言でもなさそうだ。気苦労の絶えぬ姉を気遣う弟と言った風情で「そうですね」とだけ追従しておいた。無粋な彼自身は(放棄した地に戻っても詮無い)と思っていたし、日向と雌雄を決する時の到来を肌身で感じてもいた。

 オモイカネの放つ密偵に拠れば、着々と軍勢を整えているらしい。端的には騎馬隊。邪馬台軍と遜色無い数まで充実させたなら、迷わずに進撃を開始するだろう。我ら3人が生きている限り、彼らの怨念は燻り続ける。

 ミカヅチの思考を知ってか知らずか、卑弥呼が唐突に振り向いて言う。

「ホタレは何故に死んだのでしょう?」

「それは・・・・・・」

 直截に「我がきみの身代わりです」とも言えず、二の句を探して口籠るしかない。しかし、そんな配慮は無用とばかり、「あの娘は主女あるじ一人の命を救ったのみ」との呟きが追い討ちを掛ける。

「人の命に軽いも重いもないけれど、もしもわれの命を差し出していたら――?」

世迷言よまよいごとを言われるな!」

 思わず大声を上げ、危険な問答を断ち切った。女の口を塞ぐ粗暴な男の常套手段。卑劣とそしられようが、口下手な武臣には他に術が無い。彼の脇下を冷たい汗が濡らす。

「そうね、忘れて頂戴。ホタレに申し訳ないもの――」

 後援者の機嫌取りに余念の無いオモイカネは海の向こう。〝鬼の居ぬ間に洗濯〟とばかりに、憂愁に染まる卑弥呼を連れ出したものの、果たして彼女の気分転換に成功したのやら。実直だけが取柄とりえの彼は帰城後もしばらく悩み続けるのだった。


 阿蘇山を挟んだ反対側の大地にも、卑弥呼と同じく、物思いにふける者が佇んでいた。よわい60に達したシオツチである。何かを奮闘の末に獲得するのではなく、既に得たものを保持し続ける事にこそ価値を見出す。そんな老齢世代の発想に彼も囚われ始めていた。

 此処は五ヶ瀬川の河口域。日向灘に向かって立てば視界を遮る物は無く、髪を乱す海風の冷たさが頭皮に心地良い。沈思黙考するには最高の場所であろう。しかしながら、足を伸ばした目的は視察。彼の眼前では16歳のサチタが軍用犬の訓練に励んでいる。

 中洲に設けた巨大な輪状柵の内側が演習場。砂地の円形闘技場コロッセウムでは、立派な角を生やした牡鹿が何十匹と放たれ、犬笛の指図に従った群狼が追い回している。追随せんと全力疾走する若者の溌溂さが老人の目には眩いばかりだ。

 珍しい毛並みをした先頭の1匹が筆頭格。脇腹に浮かんだ斑模様が四肢の躍動に合わせて伸縮する。群走する鹿の側面を遠巻きに並走し、後続に連なる狼達が遮壁を形成し始めた。逃げ惑う獲物の行動範囲を狭めた上で襲い掛かるようだが、その合図は人耳に聞こえぬ犬笛らしい。

 振り回される鋭い角。その牽制を避けながらの襲撃は確かに見物ではあるが、特筆には値しない。自然界の捕食者が繰り広げる行動に過ぎないからだ。真骨頂は襲った後である。

――牙を立てた獲物に執着せず、その場を離れられるか?――

――そして、笛鳴に呼応し、元の縦陣形に戻れるか?――である。

 つまり、血臭に刺激される本能の克服こそが訓練目的なのだ。しかし、調教の対象は理性を持たぬ野生動物。その困難さを承知しているが故、末期の巨獣から餓狼の群れが離れる瞬間、シオツチは感嘆の言葉を漏らした。

『仕上がっているようじゃの』

 軍師として戦の準備が整う事は喜ばしい限り。だが、彼の管掌範囲は軍事の領域に止まらない。ホノギ亡き後、ウガヤの円滑な統治に心を砕いて来た。民族融和と殖産振興にける功績は比類無きものと言える。

 まず称えるべき手腕は邪馬台城から逃れた弁韓人べんかんびとの起用だろう。ナムジが瀬戸内各地に開拓した稲場いなばの最大顧客は日向集落である。生産能力が消費量を上回るだけに余剰米は増加の一途。年を追う毎に増える貯米先の管理も難易度を増す。とても算術を知らぬ倭人やまとびとの手には負えない。

 反面、貨幣経済に馴染んだ弁韓人の中には四則演算を得意とする者も多い。極少数ながら読み書きできる者すら居た。シオツチが再婚した元妃も其の一人だ。彼らは桧皮ひわだの裏に出納を書き記し、帳簿作成までって退けた。彼らの才能は引手数多ひくてあまたで、出雲集落の引抜きを警戒せねばならぬ程だった。

 一方、薩摩人に関しては、若い男の募兵活動に止まらず、女性をも季節労働者として招き入れた。特に農作業の繁忙期には貴重な労働力となった。労働力人口の増加は新田開発を促し、増産を果たせば、非生産的な軍隊も抱え易い。

 比較的裕福で多人数の家庭では女中として通年雇用する事例も相次いだ。出稼ぎに来た者の太宗が未婚女性。適齢期を迎えた彼女らの中には、帰郷して結婚する者のみならず、勤め先に嫁ぐ者も現れる。

 冷戦下とは言え、長く続いた太平楽の世は人々の心を豊かにした。共存共栄の意識が熟成され、連帯感も強まった。何より、邪馬台城と無関係な経済圏を作り上げた事が大きい。没交渉で済むのだから、外交に頭を悩ます必要も無い。

――戦争とは最後の外交手段――

 軍略家クラウゼヴィッツは1500年後の未来にしか登場しないが、シオツチも戦争自体を目的とする異常さを敏感に察知していた。そして、熊襲兵を集め『不義なる卑弥呼をいただく城兵らを殲滅し、お前らが後釜に座れ。すれば、争いの無い世が訪れる』と懐柔した過去を悔いてもいた。

 仲間を失い激高する彼らを宥めるには必要な方便だった。放置すれば、反乱が起きただろう。一触即発の状況を乗り切るには戦時体制の継続が理に適っている。その判断は間違っていまい。

――でも、平和裡に解決する好機を逸して仕舞った・・・・・・。

 と、今になって思い直すのだ。軍人の目で観察する邪馬台城の動静からは戦を望まぬ姿が窺い知れる。ならば、破壊より建設に力を注ぐべきであった。

――苦労して充実させた国力を灰燼に帰すのは忍びない。

 我が子を儲け、『戦場に生命を散らすだけが人生ではない』との想いを強くしていた。それは若殿とて同じはず。仇討ちの呪縛から救い出すのが腹心の務めだろう。『領地の発展こそ統率者の歩む道』と説くべきかも?――との逡巡が日増しに募っていた。


 実際、35歳のウガヤも悩みを抱えていたが、老軍師の推察とは正反対の発想。統治の実績に自信を深める壮年の其れであった。現人神あらひとがみを征伐して九州を統一する。有体ありていに言えば、その宿願達成の執念は全く以て色褪せておらず、意気軒高なままだった。

――シオツチの健在な内に捲土重来を期さねばならん。

 軍師の才能に一目置くからこそ、彼の言動に感じる衰えが気懸りであり、覇業の実現に差し障らぬか――と心配であった。具体的な兆候を挙げるならば、以前に見られぬ優柔不断さであろう。朝議の場で開戦の時期を問うても言葉を濁すばかり。

「詰まる処、どの様な条件が整えば、其方そなたは踏ん切るのだ?」

日向ひむかの戦力が城の戦力を上回った時です』

「それは何時いつ?」

『あと幾年いくとせの後には・・・・・・』

 今朝も同じ場面が繰り返され、堪忍袋の緒を切らせたウガヤが厳しく追及する。

「亡き父の恩を忘れたのではあるまいな?」

『滅相も無い』

「それでは、妻と子を持ち、生命が惜しくなったのか?」

『戦に明け暮れた人生――。臆病とそしられるのは心外です』

「ならば何故、攻め入り時を明らかにせぬ?」

 のらりくらりと開戦を先送る時間稼ぎも限界のようであった。意を決したシオツチが居住いを正す。

『この十年とうとせ、ホノギ様の想いをわしなりに忖度して参りました』

「兄ホオリの仇討ちに決まっておる」

『そうでしょうか?』

「他に何がある?」

首長おびとの望む事とは子々孫々まで続く繁栄でありましょう?』

「邪馬台城を落とす事が日向ひむかの安泰につながる」

『その前に多大な犠牲を強いられます』

「已むを得んだろう」

『彼らから戦意は感じられず、日向ひむかの民を納得させる大義名分が有りましょうか?』

「その民の心に波風を立てぬ為にも戦うのだ」

 逆説的な反論に戸惑うシオツチ。その怯んだ隙を見逃さず、思索の奥深さを見せ付けんと畳み掛けるウガヤ。

「戦わぬ軍とは単なる無駄飯喰らいの集まりだ。民が厭い始めたら、如何する?」

 是非にも鉄槌を下す積りだ。常日頃、温和な表情を崩さぬ為政者の真意を読み誤っていたと自戒するも、そうであるならば尚更、生半可な説得では戦争回避を望めまい。そう判断した忠臣は、僭越に過ぎると自覚しつつ、最後の抵抗を試みる。

『若殿。私憤に民を巻き込んでいるのでは?』

 果たして、辛辣な指摘は血気を抑える冷水ひやみずとなっただろうか。いな。残念ながら、相手を追い遣るだけで、むしろ君臣の境界を厳粛に区切る結果を招いたようだ。確かに平常心を取り戻したが、細めた目の放つ光が鋭くなる。

其方そなたの言う〝若殿〟とはの様な意味だ?」

 尋常ならざる口調に通訳のタマヨリすら息を呑む。虎の尾を踏んだか――と背筋を寒くしたが、覆水は盆に返らず。雲行きを見守るべく、片言の倭言葉やまとことばを慎重に紡いで恭順の姿勢を示すのみ。

「若い・・・・・・首長おびと・・・・・・」

「もう若くはないし、少なくとも民の前では、自ら日向ひむかを統べる者として振舞っている」

 淡々と述べられた当たり前の事実は単なる前振りだろう。張り詰めた空気の中で、本題に身構えた2人が耳を澄ます。

「兄を殺され、父をたおされても泣き寝入りする男に、果たして民がき従うだろうか?」

 確かに。自分の運命を託す為政者には相応の気概を求めるだろう。家族の死をないがしろにするようでは心許無い。呆れと諦めの感情が蟻の一穴となり、民衆の寄せる人望が薄れ行く事態は十分に考えられる。頂点に立つ者の足許とはくも脆いものなのだ。

 シオツチは(二回り以上も年少の者に悟らされるとは・・・・・・)と自身の不明を恥じ入った。そして、武人のほまれを汚すまいと開戦を決意するのだった。

『今夏にも仕掛けましょうぞ』

 こうして最終決戦の歯車が動き始める。


 前哨戦の舞台は狗奴くぬ集落の辺縁部。現代の熊本県益城ましき町・御船みふね町・嘉島かしま町に広がる熊本平野の北縁に位置する。有明海の沿岸街道を、邪馬台軍は北から、日向軍は南から進軍し、両者の邂逅地点がすなわち合戦場となった。

 緩やかに蛇行した道路の幅は10メートル程度であろうか。表層の赤土が人馬や二輪台車の往来で踏み固められている。雑草すら根を下ろすのを断念し、その繁茂域を道の両端に押し分けられていた。

 街道の左右には田圃たんぼが青々と広がっている。米花の受粉も半ばの夏の盛り。稲穂は、鈴生りなれど、未だこうべを垂れてはいない。雲仙岳より有明海を渡って来た夏風がもてあそぶに任せている。

 騎馬戦を挑む構えの日向軍が平地を戦場に選ぶのは自明の理。とは言え、軍馬が縦横無尽に走れる広大な平地は邪馬台城の周囲に限られる。何しろ初めての騎馬戦だ。敵地に深入りしての合戦を望むほど、シオツチも自惚れてはいない。

 ただ、馬3頭が並列するのが精々の狭い空間が相応しい場所なのか?――と問われれば、僅かなりと兵術を心得る者なら答えに窮するであろう。強いて言えば、動きを封じられる制約は双方とも同じ。騎馬隊の優劣が大して表面化しないと判断したのかも知れない。

 その弱気を見透かしたように邪馬台軍が南下する。但し、必ずしも積極的に出張でばった進軍でもない。何日も居座る武装集団を追い払い、狗奴の民を安心させんと義務感に駆られた受身の行動である。

 軍師は現人神の逡巡を想定していたようで、遺漏無く道中に斥候を放っていた。大部隊で進軍可能な幅広の行路は限られる。よって、敵の接近に身構える事は造作もない。

 両軍とも先陣には騎馬隊。その後に続く歩兵の陣形は長槍隊の左右側面を弓箭きゅうせん隊が挟むサンドイッチ構造だ。馬に乗った総大将は殿尾しんがりに控えている。

 総勢を比べると、決戦に臨む覚悟の日向軍に軍配が上がる。歩兵の数が圧倒的に多い。ウガヤが全軍を率いたのに対し、卑弥呼の守護を第一に考えるミカヅチは半数を城に留め置いた。武臣として当然の判断だろう。

 半面、頼みの騎兵数では優劣が逆転する。薩摩人さつまびとの騎乗する軍馬は80余り。邪馬台軍の其れを2割ほど下回る。しかしながら、数の劣勢を挽回し得る馬具が備わっている。それはあぶみの前身とでも言うべき代物。具体的には下駄の鼻緒を想起して欲しい。

 まずは馬の胴体を麻紐で一回りさせ、左右の脇腹の辺りに結玉を作る。両足の親指と人差指でこぶを挟むだけなのだが、下半身が安定するので、短時間ならば両手を手綱から離しても大丈夫。乗馬中も武具を振り回せるので、戦闘力が格段に上がる。

 その優位性を承知する熊襲兵は、城の騎兵を見下し、馬上でも泰然自若としていた。彼らの醸す気配に感化され、後続の歩兵達も肩肘張らずに隊伍している。久方振りの合戦に身体を強張らせてもおかしくはないが、全員が全員、歴戦の勇士が如く平然とした面構えをしている。

 剛毅に待ち構える兵士達を頼もしく感じながら、ウガヤとシオツチは開戦の狼煙を上げる時期タイミングを見極めていた。一方の邪馬台軍も意気軒高であった。騎兵の数が勝敗を決すると信じており、自軍が負けるとは夢にも思っていない。

 彼我の距離が40メートル前後に縮まった処で、両者が相見あいまみえた。目を細めれば、先頭を率いる敵兵の表情を視認できる。(吠え面を掻くなよ)。内心で毒吐どくづきながら、長槍を振り回して威嚇し合う。自然発生的に演じた序奏の儀式だろう。


 ドドーン。示威行為マウンティングに水を差すかのように、日向軍の後方で太鼓が打ち鳴らされた。

「でりゃ~」、「こん畜生っ」、「死にやがれ!」

 大音声の罵詈雑言と共に、土手下の田圃から泥塗どろまみれの伏兵が現れる。その数、百余り。湛水の中に腹這いとなり隠れていたのだった。稲草で全身を覆った扮装いでたちさながら迷彩服のよう。敵の騎馬隊に襲い掛かる光景は大量発生したいなごの群れを連想させる。

 不思議な事に、掌中に握る物は武器にあらず。その正体は鹿革の巾着袋。何やら容れているらしく、激しい振動にタップタップと揺れていた。軍馬を狙った投擲こそが彼らの使命。放物線を描いて標的に当たるや否や、粘稠ねんちゅうな液体をち撒けた。

「臭っせぇ」、「何だ!?、これは」

 黒多どすぐろく変色した内容物は鹿の臓物。正確には、軍用犬の訓練で屠殺した牡鹿の内臓を、保存を利かせた積りで、冷水に漬け置いた物だ。谷間の湧水に浸しただけでは腐敗を抑え切れない。当然、鼻が曲がりそうな程に強烈な異臭を放っていた。

 嫌がらせの様に見えても、れっきとした次なる攻撃の下準備。サチタの犬笛を合図に、遠く離れた場所から鈍色にびいろの凶器と化した群狼が走り寄る。そして、土手面を駆け上がり、助走の勢いを飛躍の運動量エネルギーに変えた。跳躍の先には動転して足踏みする軍馬の列。1頭に数匹の割合で鋭牙を突き立てる。

 初撃の犠牲は十数頭の軍馬に過ぎないが、新手の登場に邪馬台の軍列は大いに乱された。落馬した者は歩兵の中に隠れ、騎乗を保った者は群狼の去り行く方向に馬首を巡らせた。二撃目に備える為である。

 ただ、長槍一本での牽制は困難を極め、その行動が意味を成したとは思えない。踵を返した狼達は個々に狙いを定め、側面の馬腹に喰らい付く。不運な騎手は片足を食い千切られもした。

 獣撃は何往復かに及んだ。その度に弓兵が弾幕を張ったが、俊足の動きに翻弄され、効果的な迎撃が叶わない。騎兵隊は過半が切り崩された時点で抵抗を断念。後陣の歩兵を蹴散らすようにして難を逃れる。狼狽した彼らに仲間を気遣う余裕は皆無だった。

 味方の逆走に慌てた歩兵は土手下に転げ落ちるしかない。鎧の重さに四苦八苦しながらも、泥土の中に立ち上がる。遮蔽物の無い田圃に佇み、野獣の襲来に身構える恐怖とは如何許いかばかりだろう。誰もが武器を握る拳を力ませていた。

 ところが、狼の群れは、歩兵の脇を走り去った切り、二度と姿を見せなかった。何故なら、臓物の臭いこそが、襲撃の引き鉄トリガーであり、攻撃対象を特定する標識マーカーだったからだ。サチタが率いる獣撃隊の任務は出鼻を挫く事。機先を制する処か、敵の騎馬隊を一掃したのだから、想定外の大戦果と言える。

 この間、高みの見物を決め込み、傍観者に徹する日向軍。腐敗した臓物入りの巾着袋を投げた兵も、自軍内の定位置に戻り、剣と盾を構え直していた。勿論、死傷者はゼロ。これから始まる第二幕こそが彼らの実質的初戦であった。

 此処で両軍の兵装を確認しておこう。全員が兜と鎧を着用している。露出部は顔面と手足の先に限られ、致命的な矢傷を負う恐れは無きに等しい。唯一最大の相違点は材質。軽い竹札たけざねで覆われた日向兵の方が相対的に俊敏性で優る。

 身軽な動きで白兵戦を有利に進める魂胆なのだろう。日向側では一兵たりとも弓箭具きゅうせんぐを携行していない。但し、輜重しちょう台車に全員分の短弓を積んでおり、臨機応変に弓兵へと変わる事は可能だ。

 一方の邪馬台軍では歩兵の過半が長弓を携えている。敵を侮っての不埒ではなく、シオツチの欺瞞工作に嵌った結果だった。熊襲兵は、昔ながらの貫頭衣で進軍し、前夜に鎧兜を装着した。何れにせよ、程々に離れた相手には有効な弓箭も肉弾戦では役に立たない。弓兵は一方的に斃される運命にあった。

 敢えて指摘するなら、足先も異なる。素足か靴か。ただ、戦闘力を左右するかと問われれば、答えは「否」。泥土に足が沈む田圃での乱闘となった緒戦では特に甲乙付け難い。ちなみに、騎馬隊は両軍とも素足である。日向の騎兵は締め紐の鼻緒を足指で挟むからだ。

 彼ら騎兵の得意技は馬上から歩兵を刺し殺す戦法。尺の短い厚剣では頭上を薙ぐのが関の山だから、武器は得てして長槍だ。しかし、殆どの邪馬台兵が田圃に散っており、その長槍すら届かない。天端てんばから追い降りても、泥濘ぬかるんだ地に馬脚が埋まるばかり。つまり、戦果を期待できず、無用の長物である。

 よって、シオツチは隊伍の後ろ半分に並んでいた歩兵を一斉に散開させた。

 カキン、カキンと随所でしのぎを削る金属音が響く。武芸と体力が物を言う剣戟の輪舞。足許を掬われ平衡バランスを崩すと、かさず討ち込まれた。その度に鱗片が砕け散るが、同じ場所に刃先の当たる確率は小さい。防御力の劣化を気に病むには及ばないが、拙い兵ほど鎧の損傷は大きくなる。

 討ち合いは数時間にも及んだ。頭上から太陽が照り付ける炎天下。肩で息をする者が増加する一方だ。疲労と空腹が相俟って、空を切る剣の勢いも滅切めっきり衰えた。

――徐々そろそろ、中入りの間を取るべきか?

 ウガヤが戦場を見渡す。見渡すと言っても此処は平地。眼前に伸びる街道は騎馬隊の列に塞がれていた。待機中の彼らに疲れは無く、案山子かかしの様な背筋が馬上に並ぶ。手持無沙汰の感が漂っていなくもない。

 歩兵と騎兵の入れ替えを軍師に指摘しようと、前方に目を凝らした時である。好機を見過ごしていた事実に気付いて愕然とする。部下の人垣が視界を遮っていたとしても、戦場では言い訳にならぬ迂闊さであった。

――易々と敵将を討ち取れるではないか!

 自分と味方の騎馬隊との間は歩兵集団が抜けたまま。更なる向こう空間を占めた敵兵は、騎兵や歩兵を問わず、獣撃で四散していた。つまり、全くの殻空がらあき状態。ミカヅチとの距離が詰まっておらずとも、何ら問題は無い。彼を守護する敵兵は本の一握りだ。

者共ものども、我に続け~っ!」

 力任せに鞭を入れるウガヤ。驚いて後ろ立ちする駿馬。そして、いななきの消えた次の瞬間、尻尾の揺れる馬列を押し退け始める。進路を切り拓く総大将の強引さに戸惑いを隠せない騎兵達であった。


 単騎での突撃に気付いたミカヅチは我が目を疑った。戦術的に考え難い展開だ――と、始めは面食らった。しかし、自らの孤立状態を再認識すると、今度は冷たいものが背筋を走り抜ける。

――あの蛮行が大挙して押し寄せる騎馬隊の先駆けだとしたら?

 狼襲の難を逃れた軍馬は全て筑紫つくし方面へと走らせていた。邪馬台城に返し、貴重な武力を温存すべきだろう。そう判断したのだ。馬の習性の一つは群れで動く事。必ずしも全頭に騎手が乗る必要は無い。

 加えて、斯蘆しろ兵の戦意喪失も悩ましい問題だった。元々が忠誠心の欠片も見出せぬ存在だ。山狼おおかみの再出現に怯えて汲々と自衛するのみの足手纏いに堕す。よって、厄介払いとばかりに軍馬の回送役を命じたのだ。

 邪馬台人の騎兵は、その大半を戦場に残留させるも、今は長槍持参で白兵戦に加勢中。武臣の周囲で身構える兵数は三十に満たない。

 田圃での戦況は、厚剣で互角に鬩ぎ合う均衡を綻ばせ、槍兵の加担した城側優勢となりつつある。そうであっても、局地的な好転に安堵し、全体の俯瞰を怠っては本末転倒。(日向軍の挙動を疑わぬとは愚鈍の極み)と臍を噛む思いだった。

――絶体絶命の危機!

 軍馬に跨る者はミカヅチのみ。彼を守らんと、半数の元騎兵が盾鈑で壁を築く。残り半数が槍先を突き出し、狭い街道を何とか封じる槍衾やりぶすまが出来上がった。一列に並んだだけの防御陣は、如何にも頼りなく、軟弱で心許無い限りだ。

 それでも猪突猛進するウガヤの暴走を防ぐには十分であった。銀光ぎんびかりする刃の前では右往左往するしかない。指呼の距離まで迫りながら、手も足も出ない状況に苛立ちが最高潮に達する。赤ら顔の真中に寄せた眉毛に、血走った両のまなこ。怒気のにじむ顔貌が鬼を思わせる。

「差しで勝負しろっ、俺が怖いのかっ!」

 唾を飛ばし、「臆病者、卑怯者」と口汚く罵る。品性の欠片も感じられぬ振舞い。大方、武芸一筋にし上がった下賤の者であろう。そう邪推されても仕方の無い言動だ。もっとも総大将が単身で乗り込んで来るとは誰しも想像すまい。

 冷やかに眺めていたミカヅチだが、次第に違和感を抱き始める。年の頃は、自分と同じく、脂の乗った中年域。筋骨隆々とは言えぬが、其れなりに引き締まっている。馬上で長槍を小脇に挟んだ雄姿からは、剣技を磨くのみならず、乗馬にも勤しんだ様子が窺えた。

 単なる捨駒ではなさそうだ。更に言えば、後背の騎馬隊に動揺の色が見える点もおかしい。人後に落ちぬ武装からして高位な階級なのだろうか。そう思い直して観察するに連れ、約十年前に邪馬台城にて対面した若者の面影がよみがえる。

「もしかして、貴様はウガヤかっ?」

「おうよ。我こそは日向を統べる者なり。いざ勝負せよ」

 眼前の指導者を斃せば、九州全域を二分した内乱に終止符を打てる。

――これを天祐と言わずして、何と言う!?

「相分かった。謹んで御相手致そう」

 部下には「傍観を決め込め」と手出しを禁じ、槍衾の中央に道を開けさせる。武士道精神の発露ではない。瞬時に打算を巡らせた末の采配である。複数の兵で取り囲めば、形勢不利と判じ、自陣へと馬首を巡らせるだろう。戻られては困るのだ。

 援軍が到着する迄の数分間。それが首長おびとの殺害に許された時間である。

――自分に果たせるか?。いや、遣らねばならんのだ!

 そう言い聞かせた刹那、朗らかな声が耳朶じだに響いたように思う。脳裏に浮かぶ卑弥呼の微笑顔。それを吉兆と頼み、跨る馬を前に出させた。

 腰に佩いた厚剣では遠く及ばず、片膝を突いた騎兵から長槍を受け取る。槍柄の其処彼処そこかしこに乾き付いた汚物は獣撃戦の名残だ。えた臭いが鼻を突くも、気を散らす彼ではなかった。救世の務めを背負った今、虚無僧こむそうの如き心境に昇華している。表情の消えた面貌は軍神と呼ぶに相応しい其れだった。


 日向陣営ではシオツチが固唾を呑んで対決劇を見守っていた。馬を走らせれば十秒余りで加勢に馳せ参じられる。しかし、敵兵が先にウガヤを槍玉に挙げるだろう。総大将を危険に追い込む愚行はおかせず、騎馬隊を動かせないでいた。

 と言って、無為に甘んじてもいない。『長槍を弓矢に持ち替え、先端から矢尻を抜け』と、騎兵に命じる。怪訝な表情で戸惑う者は『言われた通りに遣れ!』と叱り飛ばす。

――若殿を死なせては、留守を預かるタマヨリ殿に顔見世できん。

 兵士の得心を重んじる彼も、この時ばかりは講釈を垂れる精神的余裕を失っていた。


 軍師の焦燥を余所に、ウガヤは胸を高鳴らせていた。憎き現人神を一騎討に誘い出した事に浮かれ、我が身の安全を軽んじていた。いや、日々の鍛錬を怠らなかったとの自負が勇猛果敢な行動を取らせたのであろう。

 だから、最初の一突きはウガヤが繰り出した。気がはやってはいても、手元に揺らぎは無い。ミカヅチの胸部中央に刺突せんと、3メートル余りの長槍を寸分違わずに伸ばす。

 しかし、武稽古の指南役を務めるミカヅチの方が一枚上手だった。握った槍柄を下から持ち上げる事で凶刃の軌道を逸らし、頭上の宙を虚しく泳がせる。それだけではない。伸び切って勢いの陰った槍柄を絡め取るように円を描き、挑戦者の手から奪い落そうとする。

 そうはさせじと、長槍を素早く引き戻すウガヤ。同時に愛馬の横腹を足で叩き、射程の外まで後退する。上半身と下半身を同時に動かせるのはあぶみ替りの鼻緒で足場を固定しているからだ。

 その後も一合、二合と討ち結ぶも、決定打を見舞うには至らず、浅い切傷だけが増えて行く。空に飛ぶ赤い汗の飛沫。それらは消耗する体力の結晶でもあった。膂力りょりょくの限界を感じ始めると、油断無く呼吸を整え、隙を伺い合う展開へと様変わり。

 着かず離れずの距離を取り直し、互いに相手の馬尻を追う形で、時計回りにグルグルと輪進する。つまり、陰陽を表す太極図の様に、腰を右方向に捻って牽制し合う構図だ。間合まあいを詰めんと勇み過ぎ、上半身の姿勢を崩せば、返り討ちに遭うのが関の山。迂闊には手を出せず、数十秒も睨み合っただろうか。

 日向側に回ったミカヅチが膠着状態の打開に動く。素早く手綱を引いて、不毛の輪より離脱した。その位置取りは、突撃に必要な助走距離を確保するのみならず、ウガヤの退路断ちも兼ねていた。深く息を吸い込むと、右脇に長槍を挟み、左手に手綱を握り直す。

「いざ、勝負!」

 中世欧州の騎士を思わせる突進。長槍を押さえた上腕に力を籠める為、背筋を伸ばしている。相討ち覚悟の気魄をみなぎらせた猪突猛進の勢い。金属製の重い鎧が無いだけに、駆ける蹄音つまおとは軽やかで、青嵐の力強さがあった。

 少しでも先に標的を刺し貫いた方が勝者となる。

 迎え撃つウガヤも槍柄の末端を握り直し、馬背に跨った下肢に力を入れて前傾姿勢を取った。図らずしも防御の体勢となり、彼の上半身は馬の首筋に殆ど隠された格好になる。但し、その自覚が本人に無く、飽くまで一撃必殺の気構えにて上目遣いに刺突の狙い目を定める。

 殺意に満ちた二つの槍刃に迷いは無く、胆力比べチキンゲームから降りる積りは無いようだ。

――ギュイーン!――

 人間の聴力限界ギリギリの高周波音域を金属が奏でる。耳障りな擦過音に続いて、重量級の肉塊が轟かせる鈍い衝撃音。そして、激痛に驚く甲高いいななきが周囲に異変を知らせた。

 ミカヅチは、愚直に勝つ算段を巡らせ、今や正々堂々と戦う事に何ら拘っていない。将を射んと欲すれば先ず馬を射よ。殺到する馬の喉元を鋭鋒で突き刺していた。貫通せずに急制動を強いられた長槍から伝わる反動。それを利用して、鞍から後ろに飛び降りる。

 従って、乾坤一擲の刺突は彼に届かなかったし、意表を突かれたウガヤの方が寧ろ窮地に陥った。棒立ちとなった馬から振り落とされ、地面に翻筋斗もんどりを打つ。両者とも降馬しているとは言え、尻を地面を押し付けた体勢で仁王立ちの相手の立ち向かうのだ。進退窮まったと言うべきだろう。

 厚剣を手に近寄るミカヅチ。勝利を確信したに違いない。余裕綽々よゆうしゃくしゃくの歩調は場違いな程に緩慢であった。ジャリリと砂地を踏む音が迫り、死神を近付けまいと長槍が虚しく空を切る。唯一の慰めは厚剣よりも長い射程であるが、後退あとずさる者の不利はくつがえしようが無かった。

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