第05話 神格継承

 邪馬台城に戻った卑弥呼達は城内の惨状に息を呑んだ。

 煉瓦作りの建屋に損壊の傷跡は見受けられないが、城内の至る所には狗奴人くぬびと屍体しかばねが転がっている。邪馬台兵の亡骸も少数ながら紛れている。

 城内広場では丸太を井桁積みに組んだ火葬炉が幾つも設置されていた。無造作に隙間から差し込んだ木切れが放射状に伸び、巨大な海栗うにの群生を思わせる。荼毘だびに付す対象は兵士の亡骸のみ。邪馬台城の全住民が立ち合う状態で荼毘に付したいが、避難民の大半は未だ帰還していない。

 一方、狗奴人の屍体は焼かずに狗奴集落に送り返す。だが、虜囚となった狗奴の怪我人も手当てせねばならないし、運搬手段の大八車も熊襲くまそ族が持ち去ってしまい、その数が足りなかった。後始末の作業は遅々として進まない。

 城内復旧の指揮をミカヅチに任せ、卑弥呼は宮殿で沐浴すると決めた。騒乱の後に何をするにせよ、身体を洗い清め、身繕いをして臨む必要があった。

 宗女達が井戸水を注いだ水甕みずがめを持って宮殿内の水浴場まで何往復もする。

 一糸纏いっしまとわぬ卑弥呼の脇にかしずいた宗女の1人が、水で濡らした麻布で身体を丁寧に清める。汗と埃を落とした後は、乾燥した麻布を現人神あらひとがみの肌に当て、滴る水滴を拭っていく。

 最後に、卑弥呼の腰まで伸びた黒髪に椿油を注ぎ、素手で揉みながら梳かす。後ろに控えた宗女が絹布の小袖を両手に掲げ、卑弥呼に腕を通させる。

 卑弥呼の着衣は鮮やかな紅紫色に染められている。赤螺アカニシ――北海道から台湾に掛けた広範囲の浅海に生息する巻貝――の内臓から採れる分泌液が染料だ。有明海や瀬戸内海の沿岸部では赤螺を常食している。

 洋の東西を問わず、貝紫染めの繊維は希少価値が高く、『帝王紫』や『クレオパトラの紫』と呼ばれて重宝され続けた。魏志倭人伝に載る「卑弥呼が献上した斑布」とは、吉野ケ里遺跡で発掘された貝紫染めの絹布と思われる。

 一方、宗女の着衣はあかね染めの紅梅色。日本茜の根を染料とするが、生状態からの抽出液を使えば紅梅色に、乾燥状態からの抽出液を使えば雄黄色に染まる。茜染めの繊維も亦た吉野ケ里遺跡に埋もれていた。

 卑弥呼は、袖口から出した両手で左右のおくみを合わせると、水浴場から大広間へと移動する。大広間では、他の宗女達が土足で汚れた床板を磨き終えていた。毛皮の敷物に着座した卑弥呼は、火鉢に手を掲げ、沐浴中に冷えた身体を暖める。

われは人心地が着いたゆえ、今度は貴女達が水を浴びていらっしゃい。

 そうそう。奴男やっとこに言い付けて、白い粉の全ての種類を持って来させてね」

 優しい卑弥呼の指示に「は~い」と朗らかな返事で応じ、宗女達が楚々と散って行く。普段通りの落ち着きを取り戻した卑弥呼の姿を目にして、誰もが安心し切っていた。

 大広間から宗女達の姿が消えると、スックと立ち上がった卑弥呼は賄いの小部屋に足を運び、壁に渡した杉板の棚から小皿を一抱えして大広間に戻る。

 其処へ大きな須恵器すえきの壺を両腕に抱えた奴男達が遣って来た。

 奴男やっとことは、読んで字の通り、男性奴隷である。女性奴隷は婢女はしためと呼ぶ。悪行や禁忌を犯した者、その一族郎党は奴隷に身を落とし、邪馬台城で使役に服していた。

 使役の一つとして、奴隷は約1万人の居住民の糞尿処理も担う。城外に住む者は小川なり用水路で用を足すが、城内では幾つもの肥溜めを設え、奴隷達が大八車に糞尿入りの水瓶みずがめを載せて、筑後川ちくごがわの支流まで運搬する。

 奴男や婢女は庶民と寝食を共にせず、交わる事も無い。奴隷の子供は生まれながらに奴隷であり、奴隷として生を全うする。

 8人の奴男達は大広間に通じる階段の手前で一列となり、重量物を抱えた腰を落とす。手を滑らせぬよう慎重に降ろした壺を地面に並べる。

 其々それぞれの壺には、石灰石、生石灰きせっかい、消石灰、石膏、セメント、クリンカー(セメントの中間材)、石英、岩塩の8種類が入っている。微妙に色合いは異なるが、全てが白いサラサラの粉である。

 奴男達を退らせた卑弥呼が壺に寄る。手ずから小枝で作った匙を遣い、賄い部屋から拝借した小皿に白い粉を装った。一つの壺から七つの小皿に取り分ける。

 同じ作業を繰り返して56皿を用意し、順不同で大広場の床板に並べて行く。

 水浴場から先に戻った宗女が「私が遣ります」と駆け寄るや、「近寄らないで!」と厳しい声で遮り、卑弥呼は黙々と小皿を並べ続ける。

 全てを並べ終わる頃には、身繕いを整えた宗女達7人全員も大広間に集合した。

「好きな場所にお座りなさい。但し、小皿を囲むように」

 風変りな指示に怪訝な表情を浮かべつつ、一堂は正座した。その宗女達の背後を通って、卑弥呼が自分の席に戻る。熊の毛皮に正座した卑弥呼も改めて小袖の前裾を合わせた。

「今から、貴女達の識別能力を試します。間違えた小皿を選んだ者は後ろに退くように。良いですね」

 引き続き優しい声音であったが、常時いつもとは違う真剣な表情が卑弥呼の顔には浮かんでいた。

 ピリピリと緊張した雰囲気に宗女達が顔を見合す。だが、無駄口を言う者は皆無。卑弥呼の言葉に頷くのみ。

「まず最初は、水に燃える粉を選びなさい」

 生石灰の粉である。

 卑弥呼の指示に、宗女達は前屈みとなる。真剣な眼差し。小皿の一つ一つを仔細に検分する様は、あたかも百人一首の骨牌カルタに臨む乙女が競うが如し。或る者は床板に手を突き小皿の群れに目を凝らす。或る者は小皿を両手に取り、右手と左手を見比べる。

 審査の趣旨は窺い知れないが、張り詰めた空気が重大事の始まりを告げていた。(此れは!?)と小皿を選んで自席に戻り、凛とした表情で卑弥呼を凝視みつめ返す。

 宗女達の覚悟と気合を確認した卑弥呼は水浴場へと消え、柄付きたらい――角短材に彫刻加工を施して製造――を手にして戻って来た。7人の元を順繰りに巡り、盥から小皿に少量の水を注ぐ。

 水を注がれた白い粉から沸騰音がシューと漏れ始め、やがて儚気な湯気が立ち上る。

 ただ1人の小皿を除いて・・・・・・。

 昇温反応を示さない小皿を手にした宗女に向かい、卑弥呼は厳粛な声で「退きなさい」と命じる。卑弥呼の顔からは一切の表情が消え、能面の様であった。皆が選抜試験だと理解した一瞬であった。

 失格の烙印を押された者は目に大粒の涙を浮かべると、前屈みに軽く頭を下げて一礼し、大広間の隅の方に移動した。毅然と正座し直すも、時々袖で涙を拭っている。

 落伍者の漏らす鼻音が第一問に正解した6人の宗女達の緊張を煽る。

「次に、塩を選びなさい」

 卑弥呼の新たな指示に、残った6人は強張らせた背筋を過敏に震わす。

 初回よりも真剣な表情で、目前の床板に並ぶ小皿の群れを見比べた。逡巡の末に選んだ小皿を手にして正座に戻る。或る者は卑弥呼を凝視みつめ返し、或る者は目を瞑って祈詞を小さく唱える。

「舐めて御覧なさい」

 人差指で白い粉の山に触れ、その指先に付着した白い粉を口に運ぶ。

 脱落を悟った1人が後悔と落胆に表情を崩す。泣き顔の宗女に向かい、感情の籠らぬ声音で卑弥呼が退場を命じる。

「次は、白き岩々の山から採れた白い粉を選びなさい。選んだら、われに見せなさい」

 石灰石の粉である。

 再び小皿の群れに見入る宗女達。やがて1人た1人と小皿を手にして卑弥呼の元に歩み出る。卑弥呼の前にひざまずき、両手で小皿を捧げる。

 各自の小皿を検分し、卑弥呼が無言で頷く。今度は1人の脱落者も出ず、5人全員が正解を選んだ。深い安堵の溜息が連鎖する。

「次は、水に溶くと煉瓦と同じ様に固まる固め粉かためこを選びなさい。選んだら、われに見せなさい」

 セメントの粉である。

 今度は1人の脱落者が出た。残る候補者は4人。

「次は、固め粉と成る前段階の粉を選びなさい。選んだら、われに見せなさい」

 クリンカーの粉である。

 追加で1人が離脱し、候補者は3人に絞られた。

「次は、先の粉に混ぜて固くする粉を選びなさい。選んだら、われに見せなさい」

 石英の粉である。

 更に1人が部屋の隅へと引き退がり、2人の最終候補者を残すのみ。

「次は、肌を溶かす粉を選びなさい。選んだら、われに見せなさい」

 消石灰である。

 卑弥呼は眼前に2人が揃うまで待った。そして盥を持ち上げ、2人の小皿に水を注いだ。

「粉を混ぜ、手の甲に塗るのです。その甲をわれに見せるのです」

 小皿の粉を溶いた右手の人差指で左手の甲を擦る。そして、ずと差し出した。卑弥呼は2人の左手を掴み、手元に引き寄せる。

 2人の左手を慎重に検分した後、厳かに宣言した。

われに続き卑弥呼を継ぐ者は・・・・・・ツイナです」

 緊張の糸が途切れたツイナは脱力し、左手を卑弥呼に掴まれたまま、浮かしていた尻をストンと落とす。

 最終選考で敗れた宗女は、卑弥呼の手から自分の左手をそっと引き抜くと一礼をし、5人の落伍者の列に加わった。

 一列に並んだ6人の落伍者に向かい、卑弥呼が労いの声を掛ける。

「これまでわれに仕えてくれて、本当に有り難う。

 ですが、今日を以って、卑弥呼の立場をツイナに譲ります。

 貴女達は絹の衣を脱ぎ、庶民の暮らす建屋に移るのです。行きなさい」

 優しいながらも威厳を帯びた卑弥呼の命令に、6人の宗女達は立ち上がった。大広間から退室し、廊下に姿を消す6人。

 涙を流しながらも、嗚咽おえつを漏らす者は1人も居ない。彼女達も卑弥呼の座を目指した候補生だったのだ。醜態を晒すような者ならば、候補生として召し上げられなかったであろう。

 麻布の貫頭衣かんとうい姿で再び大広間に登場した6人。彼女らの顔からは赤い顔料が拭き取られ、素顔に戻っている。明日以降、彼女達は消し炭の黒い顔料を着け直す。

 候補者の立場を返上した元宗女は大広間の扉まで歩むと、卑弥呼を振り返って深々と一礼した。階段を静々と降り、庶民の暮らす居住棟へと去って行く。


 6人の退場とは入れ違いに、オモイカネが大広間に姿を現す。選抜試験の帰趨を屋外から見守っていたのだ。

 呆然と座り込むツイナから一歩だけへりくだった場所で、オモイカネは腰を降ろし胡坐あぐらを組んだ。

「やはりツイナ殿が残りましたか」

「日頃から好奇心旺盛に万物を眺めておりましたからね」

「それで、ツイナ殿には卑弥呼の立場を譲ると端切はっきり伝えられたのですか?」

「ええ。つい先程」

 オモイカネの台詞フレーズにピクンと反応するツイナ。緊張で疲れ切った頭に一つの現実が鋭く突き刺さる。夢現ゆめうつつ彷徨さまよい続けるかのように陶然とした表情でオモイカネを振り向く。

「卑弥呼の立場を譲る?」

「そうですよ。ツイナ」

 今度は卑弥呼の方を振り返り、一言「何故?」と問うた。

 選抜試験の最中とは打って変わり、卑弥呼は優しげな微笑みを浮かべている。

「ツイナ殿。これから貴女が卑弥呼様と成られるのですぞ」

「それじゃあ、卑弥呼様は?」

 瞬時に表情を強張らせたオモイカネ。最高神位の委譲話に口を挟むのは分不相応だ――とわきまえ、顔を背けて黙り込む。

われには行かねばならぬ処が有るのです」

 卑弥呼が毅然と答える。張り詰めた空気が重い。漂う圧迫感を散らしたのも卑弥呼の深い吐息だった。

「さ、さっ。忙しくなりますよ。2人とも、われいて来て下さいな」

 木偶でくの様に身動きしない2人を優しく導く卑弥呼。軽快に立ち上がった卑弥呼は前裾の重ねを改める。ツイナとオモイカネを流し目に見降ろし、無言で促す。溜息とも掛け声とも判然としない発声と共に、2人は重い腰を上げた。

 動きの鈍い2人を先導して、卑弥呼は宝物の間に移動する。

 宝物の間は、木箱で満杯となっている他の小部屋とは違って、保管された荷物も少なく整然としている。正面の壁際には赤い木箱が三つ、床上に段積むのではなく、横一列で長床几に載せてある。

「三種の神器です。ツイナが木箱の中を見るのは初めてでしたね?」

 卑弥呼の問いにツイナが無言で頷く。赤い木箱に限らず、宝物の間に安置された木箱は全て、宗女が触れてはいけない物だと教えられている。

 卑弥呼は、三つの赤い木箱の内、一辺が1尺程の正方体の木箱を引き出した。

 木箱の両端に手を添えて蓋を開けると、床板を這わせるように動かし、箱の中身をツイナに検めさせる。

 収納された綺麗な石――漬物石程度の大きさ――を傷つけぬようにと、箱の内面には緩衝材として幾重もの絹布が差し込まれていた。

 研磨されたあかい表層には白・黄・茶・鮮紅・藍青の縞模様がオーロラの様に波打っている。

「まあ、雨上がりの空で捕えた虹を握飯の様に丸めて埋め込んだような石。心を奪われそうだわ」

 怪しい紋様が戸口から差し込む日光に輝いている。

八尺瓊勾玉やさかにのまがたまです。

 天の神様が白き岩々を称え、豊穣を約束する太陽を真似た創造物だと言い伝えられています。それを邪馬台城の民に下賜くだされたのです」

 勾玉まがたまの正体は虹色石灰石レインボー・ストーン。マグネシウムを多く含有する石灰岩であるが、石灰質の殻を持つ貝や海栗ウニ、原生生物の化石が溶け込み、様々な色彩の鮮やかな縞模様が織り成す紋様に特徴が有る。

 世界的にも採掘地は限られ、現代の日本では沖縄県の東方400千米キロメートル弱の海に浮かぶ北大東島にしか無い。北大東島――島全体が石灰岩で形成される小さな孤島――の地形内部には幾つもの鍾乳洞しょうにゅうどうが空いている。

 平尾台のカルスト地形から奇跡的に採掘された虹色石灰石レインボー・ストーンが、代々の卑弥呼達に受け継がれ、神器の一つに収まったのだ。

「神様からの贈り物であるゆえ、直に眼にする者はわれとオモイカネ、ミカヅチの3人。現人神あらひとがみに限られます。これからは貴女がわれに替わって大事にするのですよ」

 八尺瓊勾玉を納めた木箱を脇に押し除け、中央に安置した木箱――扁平な正方形――の蓋を開ける。一辺が2尺強もあり、虹色石灰石レインボー・ストーンの保管箱よりは一回り大きい。

 絹布で四つ折りに覆った銅鏡が中に納められていた。円周が8あたもある大きな銅鏡。

 中国古代の尺貫法で1尺は10寸で約30センチ、1あたは8寸で約23センチ。8咫ならば180センチ強となる。円周率で除して直径を求むと60センチ弱。それ程までに大きな銅鏡であった。

「ツイナ。此方こちらに近寄りなさい」

 膝立ちで移動したツイナは、卑弥呼に寄り添う感じで正座し、かしこまって木箱を覗き込む。

 卑弥呼は、右に左にと銅鏡を覆う絹布を剥がし、銅鏡をツイナに検めさせる。

 鏡面を下にして安置されており、ツイナの眼には銅鏡の裏面が映る。

 銅鏡中央の正方形を取り囲むように彫られた四神――青龍せいりゅう白虎びゃっこ朱雀すざく玄武げんぶ――の姿。背景には不規則な曲線が蠢く数多の蛇の如くに掘り込まれているが、天穹てんきゅうを構成する得体の知れない存在を表現した文様だ。

八咫鏡やたのかがみです。

 何代も前の卑弥呼の時代、大陸に君臨した『漢』と自称した大集落の首長おびとから賜った物です」

「初めて耳にする呼び名ですが、その大集落とは今も交流を続けているのですか?」

「ツイナ殿。残念ながら、“漢”との交流は途絶えました。

“漢”を訪問するには韓半島を北上しますが、近頃の韓半島は世情が不安定なのです」

 当時の渡航経路としては、九州北部から壱岐島・対馬島を経由して朝鮮半島の狗邪(釜山プザン)に上陸。洛東江を北上し、小白ソベク山脈の鳥嶺(現俗離山ソンニさん)――標高は1000メートル少々。灌木と岩に覆われた山肌は比較的容易に登山可能――を超える。山腹南麓を源流とする南漢江を下って広州クアンジュ首爾ソウルに至ると、朝鮮半島西側に面した南漢江の河口から黄海に漕ぎ出でて、山東半島を目指す海路が一般的であった。

 対馬島から朝鮮半島を海岸沿いに西へと迂回しない理由は、雨後の竹の子に喩えるべき程に多数の岩礁が潮流を乱し、水面下に潜む幾多の暗礁が当時の木造小型船舶に牙を剥くからだ。

「だから、遣使できない状態が続いており、韓半島の人々を通じた噂話しか集められないのです」

 6000万人と想定される前漢王朝末期の中国人口は、王莽おうもうが国を乱し、光武帝が後漢王朝を再興した西暦37年時点に4分の1まで急減していた。帝国運営の人手不足は光武帝に直轄支配領の取捨選択を迫る。朝鮮半島も例外ではない。

 具体的には、玄菟郡と臨屯郡(現北朝鮮の東側)、真番郡(韓国南岸)の運営権を手放し、地元有力者――得てして自己の栄華をのみ追求する野蛮人――に統治を委任した。

 西暦150年前後。

 3代にわたって名君が全盛を誇り、その間に中国大陸では5000万人超の人口を回復したが、4代目以降に幼帝や愚帝が続いた結果、残照の如き周辺地域への支配力を完全に喪失しつつあった。

 現代中国の東北地方では、騎馬民族の鮮卑せんぴ族が後漢王朝に盾突き、鎮圧されると一時的に恭順の意を示すものの、直ぐにた反旗を翻していた。

 更に僻遠となれば、後漢王朝の威光は増々届かない。朝鮮半島北部から満州に至る地域を治めていた高句麗は、勢力伸長の機会を虎視眈々と狙っていた。大陸侵攻のみならず、朝鮮半島南部にも野心を燃やしており、半島全域が混沌としていたのだ。

「それよりも、ツイナ。此方こちらを御覧なさい。

 同じ様に平たい木箱が山積みでしょう? 全て、大陸からの下賜品かしひんです。

 中でも、最も古く最も大きな八咫鏡やたのかがみは、邪馬台城の知恵と知識の象徴なのです」

 現代では三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょう――銅鏡の円周部分は三角錐に尖った辺縁で縁取られ、不思議な動物達の姿が裏面一杯に浮き出ている――が有名だが、それは西暦239年に魏朝から下賜された物。現卑弥呼の手にした銅鏡は方格規矩四神鏡ほうかくきくししんきょう――漢朝時代に一般的な銅鏡――である。

 卑弥呼が別種の木箱――扁平な長方体――に手を伸ばす。今度の木箱は女性の細腕でも容易に持ち上がる。卑弥呼は手ずからツイナに渡し、中身を検めさせる。

 絹布にくるまれた銅矛が安置されていた。

「これが草薙剣くさなぎのつるぎです。

 八咫鏡やたのかがみと同じく、“漢”の首長おびとから賜った物です。

 この草薙剣くさなぎのつるぎの形状は、見ての通り、草木を薙ぎ払うのに適しています。荒れ地を耕して田圃たんぼと為し、民を豊かにすべしとの趣旨で賜りました」

 下賜されてから半世紀余りの時間を経ている。今もって鈍く金色に輝いているが、舶来当初は眩いばかりに輝いていた筈だ。錆びに強い青銅といえども、製造直後の輝きを保つ事は叶わない。

 青銅。青銅とは銅に錫を混ぜた合金。場合によっては少量の鉛を調合する。

 世界的に銅や錫の生産地は限られ、端的に言うと日本では殆ど産出しない。確かに近世日本でも、愛媛県別子銅山、栃木県足尾銅山、秋田県荒川鉱山――いずれも坑道掘り――が開発されたが、弥生時代の土木技術では採掘不可能である。

 一方、中国大陸では湖北省大冶県銅緑山の孔雀石鉱山が有名。現代社会に取引される銅鉱石は僅か数%の銅しか含有しないが、孔雀石の銅含有率は30%を超える。この鉱山から北西150千米キロメートルの場所で発掘された盤竜城遺跡は殷時代――紀元前1000年よりも遥かに昔――の精銅遺跡である。

 錫の2大産地は中国とインドネシア。中国の確認埋蔵量の方が圧倒的に多い。錫の産地として有名なマレーシア(産出量で世界9位)の埋蔵量は世界2位だが、中国の5分の1以下に過ぎない。

 錫の融点は232℃。銅の融点は1085℃。鉄の融点は1538℃。

 中国大陸に鉄器が現れる時期は春秋時代の後半期なので、中国の青銅器時代は千年以上も続いた事になる。鉱石の加熱可能温度を上げる技術革新を地道に進め、冶金技術の高度化に努めたのだ。

 一方、日本では銅や錫を産出しない。日本人が独自に冶金技術をつちかうなんぞ不可能だったと容易に想像できよう。

 その日本には中国大陸から朝鮮半島経由で地金が搬入されるのだが、青銅器文化と鉄器文化は概ね同じ時期に伝来する。鉄器に比べて柔らかい青銅器は実用性に劣り、自然の成り行きとして儀式用途に限定された。

「ツイナ。以上が三種の神器です。

 この内、八尺瓊勾玉やさかにのまがたま八咫鏡やたかがみの二つを貴女に引き継ぎます」

草薙剣くさなぎのつるぎは?」

 不安と不審、戸惑いの混濁した表情で尋ねるツイナ。後任者を安んじようと頬を緩める卑弥呼。だが、直ぐに口元を引き戻し、謹厳な雰囲気を纏う。

「農具や工具は武器に転じます。その事は過日の謀反騒ぎで貴女も認識したでしょう。謀反が発端となり、火焔神ひのかみの逆鱗に触れました。この草薙剣くさなぎのつるぎけがれたと考えるべきです」

「それでは卑弥呼様。神器は三種から二種に減るのですか?」

 卑弥呼は「いいえ」と首を振った。

「三種の神器を揃えねばなりません。だから、新たな草薙剣を貴女が創るのです」

の様にして?」

鉄餅てっぺいを鍛え、草薙剣くさなぎのつるぎを打つのです」

「ですが、鉄は錆びます」

「ええ、ツイナの指摘する通りですね。でもね、それでも構わない、とわれは思います。

 卑弥呼が代替りする度に新たな草薙剣を打つのです。

 確かに青銅器は錆びませんが、地金の入手が困難です。新たな調達を試みれば、邪馬台城の庶民に大きな負担を強います。人々の暮らしに寄り添っているとは、到底言えませんもの。一方、鉄器ならば、容易に鉄餅を入手できます。

 卑弥呼たる者、絶えず人々の心に寄り添うべき。自律と節制の精神こそが邪馬台城を治める行動原則だ、と代々の卑弥呼は考えて来ました。新たな卑弥呼が、草薙剣くさなぎのつるぎを打つ所作を通じて、人々を導く志を胸に刻む。

 何も先代から引き継いだ全てを其のままに温存する必要は無いのですよ。貴女なりに時代遅れの因習は捨て、新しい行動様式を取り入れなさい。邪馬台城を栄えさせる事こそ、貴女の存在理由なのです。

 但し、知識を象徴する八咫鏡やたかがみは連綿と引き継がねばなりません。知恵と知識こそ、艱難辛苦の経験を積み重ねた代々の卑弥呼が授ける賜物たまものです。

 ですが、草薙剣くさなぎのつるぎは時代に合わせて変えるべきです。人々の暮らしも変って行くのだから・・・・・・」

 ちなみに、『出雲の国でスサノオが八岐大蛇やまたのおろちと戦い、大蛇の尻尾から草薙剣を取り出した』と古事記に記されている。

 八岐の言葉は、古代の人々にとって、数の多い事を意味する。

 古事記が編纂された時期には既に、出雲地方の踏鞴たたら製鉄が盛んになっていた。高温で鉄が溶けた溶銑の流れは大蛇を想起させた事であろう。鉄を溶かし、剣を打ち、何度も新たな草薙剣を創出する。

 日本神話に落とし込んだ再生の作為。その黎明は卑弥呼の時代に遡る。


 三種の神器を説明し終えた卑弥呼は「肩の荷が降りた」と言わんばかりに、深く長い安堵の溜息を吐いた。卑弥呼の後背でオモイカネは無言を貫いている。女王が参謀役――否、今後は指南役か――を振り返る。

「オモイカネよ。白い粉を混ぜ合わせる割合も、われからツイナに教えておきましょうかね?」

「卑弥呼様もお疲れで御座いましょう。一度に何も彼もと欲張っても・・・・・・ツイナの頭もいて行けませんし・・・・・・」

 悲愁を帯びた空間に末の言葉が消え入る。冷徹な事実――秘事の口承を完了した暁には自害を覚悟すべき宿命さだめ――を、オモイカネは雅量したのだ。嬉しい配慮であったが、卑弥呼は意図して受け流し、誰にともなく天意を口にした。

「ですが・・・・・・、火焔神ひのかみの御怒りを鎮めるなら、早いに越した事はありません」

 自分の覚悟が揺らいでいない事に安心したのだろうか。卑弥呼はクスリと笑った。少女に戻ったような、邪気無あどけない表情をしている。

「ツイナ。これは叱られそうだから、オモイカネの前で白状したくは無かったのですが・・・・・・」

 この期に及んでは一向に悪怯わるびれる風もない。

 通常サイズの銅鏡を納めた木箱の列まで移動すると、その一つを抜き出した。絹布を解いて露わにした銅鏡を両手に持ち、「ほらっ」と鏡面をツイナに見せる。

「混ぜ合わせる白い粉の割合を覚えるのには、われも四苦八苦したのよ。

 先代の卑弥呼様やオモイカネから何度も教えてもらったのだけれど、随分と難儀しました。

 貴女の場合、十分な学習時間が無いから、愈々いよいよ苦労すると思うわ。

 だからね・・・・・・これは重宝する筈」

 平滑であるべき鏡面には幾つもの痘痕あばたが並んでいる。浅く穿たれた小穴の群れ。

「配合の割合を穴の数に刻んだの」

 案の定、オモイカネは絶句し、目を白黒させる。漢王朝から下賜された銅鏡に穴を穿つとはおそれ多い。

 卑弥呼は悪戯子いたずらっこの様に「ほらね」と後継者ツイナに微笑んだ。

「ツイナ。この鏡面をく見て御覧なさい」

 少し陽気になった卑弥呼と、神妙な面持ちで鏡面を覗き込むツイナ。

「小穴が集まり、幾つかの群れを作っているでしょう? 分かる?」

 ツイナが頷く。選抜試験の最中に感じたのとは別種の緊張。最高責任者として耐えねばならぬ圧迫感を感じて、口元を真一文字に引き結んでいる。

「一つ一つの集まりが種類の異なる白い粉を表しています。穴の数に倣って複数の白い粉を混ぜ合わせれば、目的の混じり粉となります。

 この銅鏡に彫った穴は、固め粉の材料を作る時の割合です」

 クリンカー(固め粉の材料)の構成比率――必要とする鉱石の種類が最も多い――を、卑弥呼は説明している。

「他にも探して御覧なさい。同じ様に穴を彫った銅鏡が有ります」

 柔和な表情で秘め事を白状する卑弥呼であったが、真剣な表情に戻り、次なる遺言を伝える。三種の神器を説明した時ですら見せなかった怖い顔であった。

の粉を如何いかに混ぜ合わせるか。この配合比こそが秘匿せねばならぬ知識です。肝に命じるのですよ。

 配合比の知識が外に漏れ出せば、邪馬台城の存立が危うくなります。われらを頼まなくても、不思議な粉の数々を自ら作り、掌中に収められるのですから。だからこそ、狗奴くぬ者供ものどもが欲したのです。

 配合比を知る者はわれとオモイカネの2人だけ。ミカヅチでさえ蚊帳の外です。

 勿論、白い粉の配合者達も全容を知りません。配合作業を細切れに分け、1人では決して全体像を見渡せぬように気を配っていますから。

 この知識を独占するがゆえに卑弥呼たる者は、邪馬台城だけでなく、近隣集落をも統べる事が可能なのです」

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