第05話 神格継承

 邪馬台城に戻った卑弥呼達は惨状に息を呑む。煉瓦作りの建屋は無事なれど、至る所に狗奴人くぬびと屍体しかばねが転がっていた。討ち入りの首謀者は除くとして、彼らの大半は群衆心理に呑み込まれた犠牲者かも知れない。そうであるならば、焼かずに送り返し、遺族と対面させるのが人の道と言うものだろう。

 亡骸の中には少数ながら城兵も紛れており、荼毘だびに付す準備を進めていた。丸太を井桁に積み、燃料の木切れを放射状に突き刺しただけの簡単な火葬台。1人に付き1台を設置するので、大広場の光景はさなが海栗うにの群生した海底のようだ。

 避難民の大半は帰還しておらず、復旧作業は遅々としてはかどらない。城内に残った者は傷付いた虜囚の手当てに追われ、二輪台車の大半は熊襲くまそ族が持ち逃げている。労働力と機材の両面で不足を来していたが、城民の誰一人として再建意欲を失わず、額に汗を流していた。

「オモイカネとミカヅチに後始末を任せます。われは身を清め、今後に備えます」

 何にせよ、身体を洗い清め、身繕いをして臨む必要が有った。水甕みずがめを持った宗女達が水浴場との間を何往復もする。先輩格の者は奇麗な小袖を準備し、別の或る者は脱衣を手伝う。神聖不可侵なる裸体が露わになるが、布地に代って、腰まで伸びた黒髪がまばゆいばかりの玉肌を隠す。

 脇にかしずいた宗女が水を掛け、まずは濡手で汗と埃を洗い落とし始める。次に石鹸の泡で主女あるじの全身を隈無く磨き上げる。宮殿内に限られるものの、石鹸の使用に邪馬台城の文明的な暮らしが窺えよう。

 但し、重量制の物々交換で得られる籾米は労力に見合わず、誰も商品としては作らない。だから奢侈品の域を出ない。

 生産を担う宗女の段取りを記しておこう。消石灰(水酸化カルシウム)と玉藻の焼灰(炭酸ナトリウム)を水に溶いて加熱し、擬似的な苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)を製造。それを菜種油に混ぜ、海水を加えながら煮沸する。表層に浮かんだ不純物を取り除いた後、冷やして固化させると原始的な石鹸が出来上がる。

 彼女達の作品をも使って身綺麗に仕上げたら、しずくの滴る柔肌を乾布で拭う。別の1人は、黒髪に椿油を注ぎ、素手で揉みながら梳かす。最後に、絹布の小袖を両手に掲げた宗女が腕を通させる。

 鮮やかな紅紫色に染められた女神の着衣。赤螺あかにし――北海道から台湾までの広範囲に生息する巻貝――の内臓から採れる分泌液が染料だ。有明海や瀬戸内海の沿岸部では赤螺を常食している。

 洋の東西を問わず、貝紫に染めた繊維の希少価値は高い。〝帝王紫〟や〝クレオパトラの紫〟と呼ばれ、重宝され続けた。魏志倭人伝に載る『卑弥呼が献上した斑布』とは、吉野ケ里遺跡で発掘された貝紫染めの絹布と思われる。

 一方、宗女の着衣は茜染あかねぞめの紅梅色。日本茜の根を染料とするが、生状態からの抽出液を使えば紅梅色に、乾燥状態からの抽出液を使えば雄黄色に染まる。茜染めの繊維もた同遺跡から出土しており、当時の服飾品が多彩であった事は明らかだ。

 こうして再び女王の風格を取り戻した卑弥呼。おくみを合わせ腰紐を結ぶと、楚々とした足取りで大広間に移動する。沐浴もくよくする間に、宗女達が土足で汚れた床板を綺麗に磨き上げていた。熊皮の敷物に着座すると、火鉢に手を掲げ、冷えた身体を暖める。

われは人心地が着いたゆえ、今度は貴女達が水を浴びていらっしゃい」

 優しい声音に「は~い」と朗らかな返事で応じ、嬉々として表情を緩ませた宗女達が散って行く。平静を取り戻した主女あるじの姿を目にして、誰もが安心し切っていた。

「そうそう。奴男やっとこを呼び、白い粉の全ての種類を此処に運ばせてね」

 無防備な背中の群れに何気無い指示を飛ばす卑弥呼。彼女達の姿が消えるや否や、スックと立ち上がる。賄い部屋に自ら足を運び、小皿の山を抱いて大広間へと戻る。

 端坐して耳を澄ませば、水浴場の壁に反響する少女の笑い声が聞こえる。丸で春の到来を喜ぶ鳥のさえずりの様。冬を迎えて縁遠くなった今だからこそ余計に心地良く感じる。

 20分程は待っただろうか。8人の奴男が両腕に大きな須恵器すえきの壺を抱えて登場する。上り框あがりかまちの手前に整列すると、手を滑らせぬよう慎重に腰を屈め、如何にも重そうな壺を地面に安置した。

 奴男とは、読んで字の通り、男性奴隷である。女性奴隷は婢女はしためと呼ぶ。悪行や禁忌を犯した者、その一族郎党が奴隷に身を落とす。彼らは庶民と寝食を共にせず、交わる事も無い。奴隷の子供は、生まれながらに奴隷であり、下層民として一生を全うする。

 居住民の糞尿処理も彼らが従事する使役の一つだ。城外では小川なり用水路で用を足せば済むが、城内には下水路が無い。幾つもの肥溜めを設え、二輪台車に糞尿入りの水瓶みずがめを載せて、筑後川ちくごがわの支流まで運搬する。

 話を元に戻そう。運び込まれた其々それぞれの壺には、石灰石、生石灰きせっかい、消石灰、石膏、セメント、クリンカー(セメントの中間材)、石英、岩塩の8種類が入っている。色合いは微妙に異なるが全て白色、一様に乾燥した粉末である。

 卑弥呼は、奴男達をねぎらって退出させると、手ずから木匙を使い小皿に装い始めた。一つの壺から七つの小皿に取り分ける。同じ作業を繰り返して56皿を用意し、順不同で大広間の床板に並べて行く。

 水浴場から戻った何人かが慌てて駆け寄るも、「近寄らないで!」と厳しい声で遮り、黙々と作業を続ける。全てを並べ終わる頃には、宗女全員が再集合していた。人心地を着け、溌剌とした表情を取り戻している。

「並べた小皿の前にお座りなさい」

 風変りな指示に怪訝な表情を浮かべつつ、一堂は正座した。卑弥呼は、彼女らの背後を通って自席に戻り、前裾を合わせて居住いを正す。

「今から貴女達を試します。間違えた者は部屋の隅に退きなさい。良いですね」

 丁寧な言葉遣いではあったが、常時いつもとは異なる無機質な声音。緊迫した雰囲気に宗女達が互いの顔を覗き合う。どの顔にも動揺の色が浮かんでいた。

――重大な選抜試験が始まるのだ!

 8皿の羅列から鉱物選別を求められるのだと容易に想像できる。人生の行末ゆくすえを左右する登竜門を前に無駄口を言う者は皆無。黙して頷くのみ。彼女らの覚悟と気合を確認した卑弥呼が最初の課題を与える。

「まずは白塗り粉しらぬりこを選びなさい」

 漆喰の主原料とする消石灰である。熱した生石灰に水を掛けると化学反応が起こり、自ら粉末状に分解する。だから、その粒径は最も微細。寄せ集めた粒粉体は、小麦粉の様に盛られた際の形態を止め易く、選定も容易だ。受験者の緊張を少しでも軽減してやろうとの温情の現れかも知れない。

 それでも、全員が前屈みとなって鑑定対象に真剣な眼差しを注ぐ。あたかも百人一首で競う乙女の如く、小皿の一つ一つを仔細に検分する。或る者は床板に手を突き小皿の群れに目を凝らす。或る者は小皿を両手に取り、左右を見比べる。(これは!?)と思う小皿を選び取り、凛とした表情で主女あるじを見詰め返す。

掌腹てのひらに塗って、われに見せなさい」

 宗女達が、一掴みした粉を左手に載せ、右の人差指で擦り回す。滲んだ汗が白き凝固体にとろみを加え、葛餅にも似た物体に変化させた。劇性石鹸と同じアルカリ性の水溶液は表皮を解かすので、指先の感触で自己判定できた。

 自信を持った者から行列を成すのだけれど、順番を待つ間にも緊張は募る一方だ。ずと差し出された細腕を掴み、手元に引き寄せる卑弥呼。一人ひとり肌の具合を慎重に見定めては、正解を告げて行く。深い安堵の溜息が連鎖した。小手調べの易問であり、1人の脱落者も出ない。

「今度は、水火粉みずびこを選びなさい」

 生石灰である。粉砕してあるが、他と比べて粒径が微妙に大きい。再び小皿の群れに見入る宗女達。逡巡の末に選んだ小皿を手にすると、或る者は不安気に視線を彷徨わせ、或る者は目を瞑って祈詞を小さく唱える。

 審査官たる彼女が水浴場へと消える。そして、胴切りの竹筒に柄を通した柄杓ひしゃくを手にして戻る。7人の元を順繰りに巡り、小皿に少量の水を注ぎ回る。塊面を洗う細流が白い蜷局とぐろを巻くと、微かな沸騰音が漏れ始め、やがて儚気な湯気すら立ち上る。

 ただ1人の小皿を除いて・・・・・・。

 昇温反応を示さぬ小皿の宗女に命じる「退きなさい」との厳粛な声。能面の様に一切の表情を消した顔貌。正誤の結果だけが運命を決めると改めて宣言したに等しい。

 脱落を悟った者の目に浮かぶ大粒の涙。気丈にも軽く頭を下げて一礼し、部屋の隅にて正座し直す。毅然としつつも、時々目元を拭う仕草に幼さの片鱗が窺えた。静まり返った空間に流れる洟音はなおとが残った者の緊張を煽る。

「次は、始め粉はじめこを選び、われに見せなさい」

 石灰石である。新たな指示に背筋を過敏に震わす6人。前回よりも強張った表情で、眼前に並ぶ小皿の群れに目を凝らす。意を決した1人が歩み出ると、触発された2人目が続く。拝跪して捧げられた小皿は、順番に吟味され、無言の頷きと共に受領される。

 ところが・・・・・・、4人目の皿が突き返された。失格の烙印を押され、後悔と落胆に泣き崩れる宗女。大袈裟に反応しようとも、判定は覆らない。感情の籠らぬ声音で退場を命じられた。

 残る2人の下半身は硬直し、ひざまずく事が出来ない。卑弥呼は冷酷無比に徹するようだ。両手を差し出し、「早くせよ」と仕草で催促する。棒立ちのまま、震える手で提出する宗女達。

 幸い、彼女らの選択は正しかった。正解を告げる首肯を認めてへたり込む。弱者への配慮を常に怠らぬ卑弥呼だが、今回ばかりは淡々と選抜試験を続行する。「自席に戻りなさい」と容赦が無い。極限状態に臨む胆力をも審査項目とする意向らしい。

固め粉かためこを選び、われに見せなさい」

 セメントである。激しく動揺した2人の内、1人が落伍した。卑弥呼に斟酌する様子は見えない。残る候補者は4人。

「固め粉の前に準備する混り粉まじりこを選び、われに見せなさい」

 クリンカである。追加で1人が資格を失い、候補者は3人に絞られた。

竃粉かまどこを選び、われに見せなさい」

 優れた耐火性ゆえに工房の大型炉や炊屋かしきやの竃に使われる石膏だ。石膏ボードを見慣れた現代人は色味を純白と信じて疑わないだろうが、皿上の試験体は違う。工業製品ではなく、自然物なのだ。彼女らの目の前に残った識別対象は石膏と塩と石英の3つ。硝子にも似た透明感が共通している。

 更に1人が部屋の隅へと引き退がり、2人の候補者を残すのみとなった。最後の一騎打ち。共に同種の小皿を選んで二次選抜の試練を迎えるのか。それとも雌雄が決するのか。否が応でも、競争心が掻き立てられる。

――ここまで来たら、負けたくない!

 今や決勝戦に臨む2人の心境は同じだった。先刻までは下腹に微かな痛みすら感じていたのに、不思議なものだ。むしろ気分は高揚している。〝和を以て貴しと為す〟と教育されたにもかかわらず、闘争本能がうずき始めていた。

「塩を選びなさい」

 二者択一問題と侮るなかれ。酷似した石英との判別は難しく、感性とでも呼ぶべき資質が必要だ。

 無臭の鉱物に鼻をひくつかせても無意味だと知りつつ、嗅がずにはれない。案の定、悪足掻きは徒労に終わり、今度は粉末の密着具合を丹念に観察し始める。双方ともに微細な粒子。小皿に盛られた脆い粉塊は何も示唆してくれない。八方塞りであった。

――運を天に任せるしかない。

 踏ん切りの良い宗女が、人智を超えた存在に委ねると決心し、選んだ小皿を捧げ持つ。その気配を察したもう1人も覚悟したようだ。同じ様に背筋を伸ばし、審判の時を待つ。

「舐めて御覧なさい」

 小指を粉粒体に押し付け、その指腹を口に含む。勝利の味と言うに値するのだろうか。微苦ほろにがい塩味が広がって行く。

 可哀想なのは選択を誤った方だ。ガリリと歯を擦る感触が有るだけで、一向に味覚を刺激しない。厳然たる事実が舌先から伝わって来る。悔しいけれど(無様な真似だけはすまい)と思い直した。深呼吸の後、主女あるじと好敵手に一礼すると、落伍者の列に加わった。

われの跡を継ぐ者は・・・・・・ツイナです」

 常なる声量であったが、聞く者には大音声と感じられただろう。

「本日を以って代替わりします。貴女達は、絹の衣を脱ぎ、宮殿みやどのより立ち去らねばなりません」

 涙を流しながらも、嗚咽おえつを漏らす者は居ない。醜態を晒すようならば、候補生として召し上げられなかったであろう。

「幼き頃よりわれに仕えてくれて、本当に有り難う」

 打って変わって、優しい口調に戻っている。選抜を取り仕切る者にとっても気の張る一幕だったのだ。

「さぁ、行きなさい」

 優しいながらも厳粛な命令。一斉に立ち上がった6人が奥の支度部屋に姿を消す。主従関係と言うよりも師弟関係と表現するのが相応しい。現代で喩えるならば、寄宿学校の雰囲気に近いだろう。卒業する女学生を見送る校長の様な眼差しで彼女らの背中を眺めていた卑弥呼が振り返る。

「ツイナよ。最初の務めです」

「・・・・・・?」

「共に学んだ仲間を見送るのです」

 貫頭衣かんとうい姿で再登場した顔には消炭けしずみの黒い顔料が着け直されている。大広間入口の敷居を跨ぐと振り返り、深々と頭を下げた。居住棟へと立ち去る後姿が何とも物悲しいが、それも一種の門出なのだ。今は「若人わこうどの未来に幸あれ」と願うしかない。


 離別者と入れ違いに、オモイカネが姿を現す。選抜試験の帰趨を屋外から見守っていたのだ。

 呆然と座り込む次期主女あるじから一歩だけへりくだった場所に腰を降ろす。胡坐あぐらを組んで平素を装い、気張らぬ口調で話し掛ける。

「やはり、ツイナ殿が残りましたか」

「日頃から心のまなこを見開いて万物を眺めておりましたからね」

「それで、卑弥呼の地位を譲ると端切はっきり伝えられたのですか?」

「ええ。今しがた」

 夢現ゆめうつつ彷徨さまよい続ける中、オモイカネの発言にピクンと反応するツイナ。疲れ切った頭に一つの現実が鋭く突き刺さる。陶然とした表情で「譲る?」と自問するも、実感が湧かない。

「そうですよ。ツイナ」

 優しげな微笑みを浮かべ、鼓舞するように告げ直す主女あるじ

「ツイナ殿。これからは貴女が邪馬台を統べるのですぞ」

「それじゃあ、我がきみは?」

 智臣の表情が強張った。自分の立場をわきまえ、黙り込む。

われの務めを果たします」

 毅然とした答えに空気が張り詰める。だが、重苦しい空気を散らしたのも彼女だった。

「さ、さっ。忙しくなりますよ。2人ともいて来て下さいな」

 軽快に立ち上がると、前裾の重ねを改め、同席者を優しく促す。2人の漏らした声は、返事とも溜息とも聞き取れ、その正体が判然としない。鈍重な動きは傀儡子くぐつしに操られた木偶でくを連想させた。

 3人の向かった先は宝物の間。他の小部屋とは違って保管物も少なく、整然としている。正面には赤い木箱が三つ。床上に段積むのではなく、横一列で長床几に載せてある。

「三種の神器です。箱の中を見るのは初めてでしたね?」

 ツイナが無言で頷く。赤い木箱に限らず、宝物の間に安置された木箱は全て、宗女が触れてはいけない物だ。

 卑弥呼は、正方体の赤い木箱を引き出すと、一辺が約30センチの両端に手を添えて蓋を開ける。

 箱の内面に幾重も差し込まれた絹布を払うと、大きな石が顔を覗かせた。研磨されたあかい表層には、白・黄・茶・鮮紅・藍青の縞模様が波打っている。丸で雨上がりの空に出現した虹を球体に埋め込んだようだ。

「まあ、奇麗な石。心を奪われそうだわ」

 陽光の間接照明下、優美なオーロラ状の紋様が観る者を幻惑する。

八尺瓊勾玉やさかにのまがたまです」

 宝物の中で唯一の天然物だ。女性ならば誰しも、創造主の作品を耽溺せずには居られない。

「言い伝えに拠ると、白き岩々を称えた天の神様が太陽を真似て創りました。豊穣をもたらす証だそうです」

 勾玉まがたまの正体は虹色石灰石レインボー・ストーン。マグネシウムを多く含有する石灰岩であるが、石灰質の殻を持つ貝や海栗うに、原生生物の化石が溶け込み、鮮やかに縞を織り成す紋様が異彩を放つ。

 世界的にも採掘地は限られ、現代の日本では沖縄県の東方400キロ弱の海に浮かぶ北大東島のみ。北大東島――石灰岩で形成された孤島――の地底には幾つもの鍾乳洞しょうにゅうどうが空いている。

 平尾台から奇跡的に採掘された虹色石灰石レインボー・ストーンが、代々の卑弥呼に受け継がれ、神器の一つに収まったのだ。

「神様からの贈り物であるゆえ、眼にする者は現人神あらひとがみの3人に限られます。今日からは貴女が大事にするのですよ」

 八尺瓊勾玉を納めた木箱を脇に押し除け、今度は中央に安置した木箱――扁平な正方形――の蓋を開ける。一辺の長さが腕の長さ程もあり、現代人が目にするピザ屋の梱包箱よりも一回り大きい。

此方こちらに近寄りなさい」

 膝立ちで移動したツイナは、主女あるじに寄り添う感じで正座し、かしこまって木箱を覗き込む。

 卑弥呼は、四つ折りに覆った絹布を右に左にと剥がし、後継者にあらためさせる。中には大きな銅鏡が納められていた。鏡面を下にして安置されており、彼女の眼には銅鏡の裏面が映る。

 銅鏡中央の正方形を取り囲む配置に彫られた四獣神――青龍せいりゅう白虎びゃっこ朱雀すざく玄武げんぶ――の姿。背景に不規則な曲線を掘り込んだ文様は、数多あまたの蛇が蠢く様を連想させ、天穹てんきゅうの構成要素を表現している。

八咫鏡やたのかがみです」

 中国古代の尺貫法では、1尺が10寸で約30センチ、1あたが8寸で約23センチ。8咫ならば180センチ強となる。円周率で除して直径を求むと60センチ弱。それ程までに大きな銅鏡であった。

カンと称する大陸の大集落から何世代も前の卑弥呼が賜った物です」

「初めて耳にする呼び名ですが、その大集落とは今も付き合っているのですか?」

「ツイナ殿。残念ながら、交流は途絶えました」

 当時の渡航経路としては、九州北部から壱岐島・対馬島を経由して朝鮮半島の狗邪(釜山プザン)に上陸。洛東江ナクトン川を北上し、小白ソベク山脈の鳥嶺(現俗離山ソンニさん)を超える。標高1000メートル余りの鳥嶺は、山肌を灌木と岩に覆われ、比較的容易に登山できる。山腹南麓を源流とする南漢江ナマン川を下って広州クアンジュ首爾ソウルに至ると、黄海に面した河口から海路で山東半島を目指す。

 朝鮮半島の西海岸沿いに対馬島から山東半島に直行する航路は危険極まりなかった。立ち塞がる岩崖の数は雨後の筍に喩えるべき程だ。潮流を乱すだけでなく、水面下に潜む幾多の暗礁が牙を剥く。

「近頃の韓半島は物騒で深入りし難く、噂話を集めるしかないのです」

 前漢王朝末期の中国人口は6000万人と想定される。ところが、王莽おうもうが国を乱し、光武帝が再興を果たした西暦37年には四分の一まで激減していた。人手不足が国政にたがを嵌め、皇帝に直轄領の取捨選択を迫る。朝鮮半島も例外ではない。

 具体的には、玄菟郡と臨屯郡(現北朝鮮の東側)、真番郡(韓国南岸)の運営権を手放し、地元有力者――得てして自己の栄華をのみ追求する野蛮人――に統治を委任した。

 3代にわたる名君が国勢を盛り上げた西暦150年前後に、人口は5000万人超まで回復する。ところが、4代目以降に幼帝や愚帝が続いた結果、後漢王朝は周辺地域への影響力を喪失しつつあった。歴史の必然として、栄枯盛衰の運命から逃れた王朝は存在しない。

 中国の東北地方では、騎馬民族の鮮卑せんぴ族が蠢動している。鎮圧軍が迫れば一時的に恭順の意を示し、引き揚げれば直ぐに反旗を翻す。その繰り返しで、一向に治まらない。

 更に僻遠となれば、残照の如き威光が愈々いよいよ届かない。北朝鮮を拠点とする高句麗は、勢力拡大の機会を虎視眈々と狙っていた。満州から大陸に侵攻するのみならず、南方進出にも余念が無い。朝鮮半島全域が混沌としている。

「それよりも、ツイナ。此方こちらを御覧なさい」

 ぐるりと回した手の先には、平たい木箱が山積みされている。

「全て、大陸からの下賜品かしひんです。その中で最も古く最も大きな八咫鏡やたのかがみは知恵と知識の象徴なのです」

 現代では三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょうが有名だ。銅鏡の円周部分が三角錐に尖った辺縁で縁取られ、空想の動物達が裏面一杯に浮き出ている。それとは異なり、箱に収められた銅鏡は後漢王朝時代の中国で一般的だった方格規矩四神鏡ほうかくきくししんきょう。後の西暦238年に魏朝から下賜された品も同型式だったと思われる。

「三つ目の神器を見せましょう」

 最後の木箱は軽いようだ。扁平な長方体の蓋を開け、絹布にくるまれた銅矛を取り出す。

草薙剣くさなぎのつるぎです。八咫鏡やたのかがみと同じく、カン首長おびとより賜った物です。

 この形状なら容易たやすく草木を薙ぎ払えるでしょう。荒地を耕し、民を豊かにすべしとの趣旨で賜りました」

 舶来当初は見る者を圧倒した金色も今は鈍い輝きを放つのみ。下賜から半世紀余り。錆びに強い青銅といえども製造直後の光沢を永遠には保てない。

 銅に錫を混ぜた合金を青銅と言う。場合によっては少量の鉛を調合する。

 世界的に銅や錫の産地は限られ、端的に言うと日本では殆ど産出しない。正しくは、愛媛県別子銅山、栃木県足尾銅山、秋田県荒川鉱山――いずれも坑道掘り――が近世に開発されたが、弥生時代の土木技術では採掘不可能である。

 一方、中国大陸では湖北省大冶県銅緑山の孔雀石鉱山が有名だ。現代社会で取引される銅鉱石の銅含有率は僅か数%。孔雀石の其れは30%を超える。銅緑山から北西150キロの場所では殷時代――紀元前1000年よりも遥かに昔――の精銅遺跡(盤竜城遺跡)が発掘されている。

 錫の2大産地は中国とインドネシア。確認埋蔵量では、古くから産地として有名なマレーシア(産出量で世界9位)が世界2位に浮上するが、その絶対量は中国の五分の一以下に過ぎない。

 錫の融点は232℃。銅の融点は1085℃。鉄の融点は1538℃。

 中国大陸では、青銅器時代が千年以上も続き、春秋時代の後半期にようやく鉄器が現れる。鉱石の加熱温度を上げる技術革新を地道に進め、冶金技術の高度化に努めたのだ。

 反面、銅や錫に恵まれぬ日本には冶金技術を育む培地も無い。朝鮮半島経由で大陸産の地金が搬入される流れは必然の結果だ。着目すべきは、概ね同じ時期に青銅器文化と鉄器文化が伝来した事実だろう。自然の成り行きとして、実用性に劣る青銅器は儀式用途に限定された。

「以上が三種の神器です。この内、八尺瓊勾玉やさかにのまがたま八咫鏡やたかがみの二つを引き継ぎます」

草薙剣くさなぎのつるぎは?」

 不安と不審、戸惑いの混濁した表情で尋ねるツイナ。後任者を安んじようと頬を緩める卑弥呼。だが、直ぐに口元を引き戻し、謹厳な雰囲気を纏う。

「過日の騒ぎで明らかな通り、農具や工具は武器に転じます。その結果、火焔神ひのかみの逆鱗に触れました。この神剣はけがれたと考えるべきです」

「それでは、神器を三種から二種に減らすのですか?」

 卑弥呼は「いいえ」と首を振った。

「三種の神器を欠いては行けません。だから、新たに創るのです」

の様にして?」

鉄餅てっぺいを鍛え、新たな草薙剣くさなぎのつるぎを打つのです」

「ですが、鉄は錆びます」

「ええ、貴女の言う通り。でもね、それでも構わない、とわれは思います」

 青銅器の錆び難い性質は重宝するも、地金の入手が困難であった。新たな調達を試みれば、城民に大きな負担を強いるだろう。鉄餅の長所と短所は全く以て正反対。両者を比較しながら、「統率者たる者、絶えず人々の心に寄り添わねばなりません」と説教する。

 代々の卑弥呼は「自律と節制の精神こそが治世の原則だ」と考えて来た。代替りの度に三種の神器を揃え直し、その所作を通じて善導の志を胸に刻み直す過程は培われた哲学とも矛盾しない。先代の全てを盲目的に踏襲し続けては社会の変化に取り残される恐れすらある。

「貴女なりに時代遅れの因習は捨て、新しい行動様式を取り入れなさい。邪馬台を栄えさせる事こそ、われらの存在意義なのです」

 ちなみに、古事記には『出雲国でスサノオが八岐大蛇やまたのおろちと戦い、大蛇の尻尾から草薙剣を取り出した』と記されている。

 編纂された当時、既に出雲地方の踏鞴たたら製鉄は盛んだった。赫灼かくしゃくと輝く溶銑の流れは大蛇を想起させた事であろう。八岐の言葉は、古代の人々にとって、数の多い事を意味する。

 日本神話に落とし込まれた再創生の黎明は弥生時代まで遡るのだ。


 説明し終えた卑弥呼は「肩の荷が降りた」と言わんばかりに、深い安堵の溜息を吐いた。

「オモイカネよ。白い粉の配合比も、われから教えておきましょうかね?」

 後背に控えた参謀役を振り返りながら、(2度も新女王の指南役になるのね)と茫漠に思う。

「お疲れで御座いましょう。一度に何も彼もと欲張っても・・・・・・ツイナ殿の頭もいて行けませんし・・・・・・」

 悲愁を帯びた空間に末の言葉が消え入る。奥義口承の後に待つものは自害の宿命さだめ。その冷徹な局面を少しでも繰り延べ、事態の好転に一縷の望みを託したい。オモイカネの偽らざる心境だった。

 嬉しい配慮であったが、彼女は意図して受け流し、誰にともなく天意を口にする。

「ですが・・・・・・、火焔神ひのかみの御怒りを鎮めるなら、早いに越した事はありません」

 覚悟の揺らいでいない事に安心したのだろうか。彼女はクスリと笑った。少女に戻ったような、邪気無あどけない表情をしている。

「彼に叱られそうだから、白状したくは無かったのですが・・・・・・」

 通常サイズの銅鏡を収めた木箱の列まで移動すると、その一つを抜き出した。ツイナの前で絹布を解き、露わにした銅面を「ほらっ」と見せる。この期に及んでは一向に悪怯わるびれる風もない。

「先代の卑弥呼様やオモイカネから何度も教わったけれど、中々覚えられなくてね」

 理知的な風貌とは相容れない述懐だが、「随分と難儀しました」とのしんみり漏れた一言が往年の奮励を窺わせる。それと同時に、(努力は報われる)と励ます風でもあり、後継者ツイナの心を温かくした。

「手引を当てに出来ない貴女の場合、愈々いよいよ苦労すると思うわ。だからね・・・・・・これは重宝するはず

 平滑であるべき鏡面には幾つもの痘痕あばたが並んでいる。浅く穿たれた小穴の集合体。

「忘れないように刻んだの」

 案の定、オモイカネは絶句し、目を白黒させる。漢王朝から下賜された銅鏡に穴を穿つとはおそれ多い。りとて、元首を諫める役目はうに御免蒙ごめんこうむっている。海を隔てた遠方の地で、今さら不逞の所業が露見する恐れも無いだろう。だったら、不問に付すのが落し処かも。

 そんな老師の戸惑いを敏感に感じ取ったのか、悪戯子いたずらっこの様に「ほらね」と微笑む。幕間の息抜きが気分転換にもなったようだ。

「鏡面をく御覧なさい」

 少し陽気になった卑弥呼と、神妙な面持ちで覗き込むツイナ。

「集まった小穴が幾つかの群れを作っているでしょう?」

 口元を真一文字に引き結んだツイナが頷く。受験中に感じた緊張とは全く次元が異なる圧迫感。最高責任者として耐えねばならぬ精神的負荷だ。

「一つ一つの群れは種類の異なる白い粉を意味します。穴の数が混り粉を作る割合です」

 クリンカー(セメントの中間材)の組成比率を説明している。

「他にも探して御覧なさい。同じ様に穴を彫った銅鏡が有ります」

 柔和な表情で秘め事を白状する卑弥呼であったが、真剣な表情に戻り、次なる遺言を伝える。三種の神器を説明した時ですら見せなかった怖い顔であった。

の粉を如何いかに混ぜ合わせるか。この配合比こそが門外不出の知識です。肝に命じるのですよ。

 公になれば、邪馬台の存立が危うくなります。われらを頼まなくても、自ら白い粉を作れるのですから。だからこそ、狗奴くぬ者供ものどもが欲したのです。

 配合比を知る者はわれとオモイカネの2人だけ。知識の秘匿には細心の注意を払っていて、ミカヅチでさえ蚊帳の外です。工房で働く者が全容を見渡せぬよう、作業を細切れに分断する念の入れ様なのですよ。

 邪馬台の知識に近隣集落が従っている現実を忘れてはなりません」

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