第05話 神格継承
邪馬台城に戻った卑弥呼達は惨状に息を呑む。煉瓦作りの建屋は無事なれど、至る所に
亡骸の中には少数ながら城兵も紛れており、
避難民の大半は帰還しておらず、復旧作業は遅々として
「オモイカネとミカヅチに後始末を任せます。
何にせよ、身体を洗い清め、身繕いをして臨む必要が有った。
脇に
但し、重量制の物々交換で得られる籾米は労力に見合わず、誰も商品としては作らない。だから奢侈品の域を出ない。
生産を担う宗女の段取りを記しておこう。消石灰(水酸化カルシウム)と玉藻の焼灰(炭酸ナトリウム)を水に溶いて加熱し、擬似的な苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)を製造。それを菜種油に混ぜ、海水を加えながら煮沸する。表層に浮かんだ不純物を取り除いた後、冷やして固化させると原始的な石鹸が出来上がる。
彼女達の作品をも使って身綺麗に仕上げたら、
鮮やかな紅紫色に染められた女神の着衣。
洋の東西を問わず、貝紫に染めた繊維の希少価値は高い。〝帝王紫〟や〝クレオパトラの紫〟と呼ばれ、重宝され続けた。魏志倭人伝に載る『卑弥呼が献上した斑布』とは、吉野ケ里遺跡で発掘された貝紫染めの絹布と思われる。
一方、宗女の着衣は
こうして再び女王の風格を取り戻した卑弥呼。
「
優しい声音に「は~い」と朗らかな返事で応じ、嬉々として表情を緩ませた宗女達が散って行く。平静を取り戻した
「そうそう。
無防備な背中の群れに何気無い指示を飛ばす卑弥呼。彼女達の姿が消えるや否や、スックと立ち上がる。賄い部屋に自ら足を運び、小皿の山を抱いて大広間へと戻る。
端坐して耳を澄ませば、水浴場の壁に反響する少女の笑い声が聞こえる。丸で春の到来を喜ぶ鳥の
20分程は待っただろうか。8人の奴男が両腕に大きな
奴男とは、読んで字の通り、男性奴隷である。女性奴隷は
居住民の糞尿処理も彼らが従事する使役の一つだ。城外では小川なり用水路で用を足せば済むが、城内には下水路が無い。幾つもの肥溜めを設え、二輪台車に糞尿入りの
話を元に戻そう。運び込まれた
卑弥呼は、奴男達を
水浴場から戻った何人かが慌てて駆け寄るも、「近寄らないで!」と厳しい声で遮り、黙々と作業を続ける。全てを並べ終わる頃には、宗女全員が再集合していた。人心地を着け、溌剌とした表情を取り戻している。
「並べた小皿の前にお座りなさい」
風変りな指示に怪訝な表情を浮かべつつ、一堂は正座した。卑弥呼は、彼女らの背後を通って自席に戻り、前裾を合わせて居住いを正す。
「今から貴女達を試します。間違えた者は部屋の隅に退きなさい。良いですね」
丁寧な言葉遣いではあったが、
――重大な選抜試験が始まるのだ!
8皿の羅列から鉱物選別を求められるのだと容易に想像できる。人生の
「まずは
漆喰の主原料とする消石灰である。熱した生石灰に水を掛けると化学反応が起こり、自ら粉末状に分解する。だから、その粒径は最も微細。寄せ集めた粒粉体は、小麦粉の様に盛られた際の形態を止め易く、選定も容易だ。受験者の緊張を少しでも軽減してやろうとの温情の現れかも知れない。
それでも、全員が前屈みとなって鑑定対象に真剣な眼差しを注ぐ。
「
宗女達が、一掴みした粉を左手に載せ、右の人差指で擦り回す。滲んだ汗が白き凝固体に
自信を持った者から行列を成すのだけれど、順番を待つ間にも緊張は募る一方だ。
「今度は、
生石灰である。粉砕してあるが、他と比べて粒径が微妙に大きい。再び小皿の群れに見入る宗女達。逡巡の末に選んだ小皿を手にすると、或る者は不安気に視線を彷徨わせ、或る者は目を瞑って祈詞を小さく唱える。
審査官たる彼女が水浴場へと消える。そして、胴切りの竹筒に柄を通した
ただ1人の小皿を除いて・・・・・・。
昇温反応を示さぬ小皿の宗女に命じる「退きなさい」との厳粛な声。能面の様に一切の表情を消した顔貌。正誤の結果だけが運命を決めると改めて宣言したに等しい。
脱落を悟った者の目に浮かぶ大粒の涙。気丈にも軽く頭を下げて一礼し、部屋の隅にて正座し直す。毅然としつつも、時々目元を拭う仕草に幼さの片鱗が窺えた。静まり返った空間に流れる
「次は、
石灰石である。新たな指示に背筋を過敏に震わす6人。前回よりも強張った表情で、眼前に並ぶ小皿の群れに目を凝らす。意を決した1人が歩み出ると、触発された2人目が続く。拝跪して捧げられた小皿は、順番に吟味され、無言の頷きと共に受領される。
ところが・・・・・・、4人目の皿が突き返された。失格の烙印を押され、後悔と落胆に泣き崩れる宗女。大袈裟に反応しようとも、判定は覆らない。感情の籠らぬ声音で退場を命じられた。
残る2人の下半身は硬直し、
幸い、彼女らの選択は正しかった。正解を告げる首肯を認めて
「
セメントである。激しく動揺した2人の内、1人が落伍した。卑弥呼に斟酌する様子は見えない。残る候補者は4人。
「固め粉の前に準備する
クリンカである。追加で1人が資格を失い、候補者は3人に絞られた。
「
優れた耐火性ゆえに工房の大型炉や
更に1人が部屋の隅へと引き退がり、2人の候補者を残すのみとなった。最後の一騎打ち。共に同種の小皿を選んで二次選抜の試練を迎えるのか。それとも雌雄が決するのか。否が応でも、競争心が掻き立てられる。
――ここまで来たら、負けたくない!
今や決勝戦に臨む2人の心境は同じだった。先刻までは下腹に微かな痛みすら感じていたのに、不思議なものだ。
「塩を選びなさい」
二者択一問題と侮る
無臭の鉱物に鼻をひくつかせても無意味だと知りつつ、嗅がずには
――運を天に任せるしかない。
踏ん切りの良い宗女が、人智を超えた存在に委ねると決心し、選んだ小皿を捧げ持つ。その気配を察したもう1人も覚悟したようだ。同じ様に背筋を伸ばし、審判の時を待つ。
「舐めて御覧なさい」
小指を粉粒体に押し付け、その指腹を口に含む。勝利の味と言うに値するのだろうか。
可哀想なのは選択を誤った方だ。ガリリと歯を擦る感触が有るだけで、一向に味覚を刺激しない。厳然たる事実が舌先から伝わって来る。悔しいけれど(無様な真似だけはすまい)と思い直した。深呼吸の後、
「
常なる声量であったが、聞く者には大音声と感じられただろう。
「本日を以って代替わりします。貴女達は、絹の衣を脱ぎ、
涙を流しながらも、
「幼き頃より
打って変わって、優しい口調に戻っている。選抜を取り仕切る者にとっても気の張る一幕だったのだ。
「さぁ、行きなさい」
優しいながらも厳粛な命令。一斉に立ち上がった6人が奥の支度部屋に姿を消す。主従関係と言うよりも師弟関係と表現するのが相応しい。現代で喩えるならば、寄宿学校の雰囲気に近いだろう。卒業する女学生を見送る校長の様な眼差しで彼女らの背中を眺めていた卑弥呼が振り返る。
「ツイナよ。最初の務めです」
「・・・・・・?」
「共に学んだ仲間を見送るのです」
離別者と入れ違いに、オモイカネが姿を現す。選抜試験の帰趨を屋外から見守っていたのだ。
呆然と座り込む次期
「やはり、ツイナ殿が残りましたか」
「日頃から心の
「それで、卑弥呼の地位を譲ると
「ええ。今しがた」
放心の境地を惑う中、恬淡と交わされた老若の
「そうですよ。ツイナ」
優しげな微笑みを浮かべ、鼓舞するように告げ直す
「ツイナ殿。これからは貴女が邪馬台を統べるのですぞ」
「それじゃあ、我が
智臣の表情が強張った。自分の立場を
「
毅然とした答えに空気が張り詰める。だが、重苦しい空気を散らしたのも彼女だった。
「さ、さっ。忙しくなりますよ。2人とも
軽快に立ち上がると、前裾の重ねを改め、同席者を優しく促す。2人の漏らした声は、返事とも溜息とも聞き取れ、その正体が判然としない。鈍重な動きは
3人の向かった先は宝物の間。他の小部屋とは違って保管物も少なく、整然としている。正面には赤い木箱が三つ。床上に段積むのではなく、横一列で長床几に載せてある。
「三種の神器です。箱の中を見るのは初めてでしたね?」
ツイナが無言で頷く。赤い木箱に限らず、宝物の間に安置された木箱は全て、宗女が触れてはいけない物だ。
卑弥呼は、正方体の赤い木箱を引き出すと、一辺が約30センチの両端に手を添えて蓋を開ける。
箱の内面に幾重も差し込まれた絹布を払うと、大きな石が顔を覗かせた。研磨された
「まあ、奇麗な石。心を奪われそうだわ」
陽光の間接照明下、優美なオーロラ状の紋様が観る者を幻惑する。
「
宝物の中で唯一の天然物だ。女性ならば誰しも、創造主の作品を耽溺せずには居られない。
「言い伝えに拠ると、白き岩々を称えた天の神様が太陽を真似て創りました。豊穣を
世界的にも採掘地は限られ、現代の日本では沖縄県の東方400キロ弱の海に浮かぶ北大東島のみ。北大東島――石灰岩で形成された孤島――の地底には幾つもの
平尾台から奇跡的に採掘された
「神様からの贈り物である
八尺瓊勾玉を納めた木箱を脇に押し除け、今度は中央に安置した木箱――扁平な正方形――の蓋を開ける。一辺の長さが腕の長さ程もあり、現代人が目にするピザ屋の梱包箱よりも一回り大きい。
「
膝立ちで移動したツイナは、
卑弥呼は、四つ折りに覆った絹布を右に左にと剥がし、後継者に
銅鏡中央の正方形を取り囲む配置に彫られた四獣神――
「
中国古代の尺貫法では、1尺が10寸で約30センチ、1
「
「初めて耳にする呼び名ですが、その大集落とは今も付き合っているのですか?」
「ツイナ殿。残念ながら、交流は途絶えました」
当時の渡航経路としては、九州北部から壱岐島・対馬島を経由して朝鮮半島の狗邪(
朝鮮半島の西海岸沿いに対馬島から山東半島に直行する航路は危険極まりなかった。立ち塞がる岩崖の数は雨後の筍に喩えるべき程だ。潮流を乱すだけでなく、水面下に潜む幾多の暗礁が牙を剥く。
「近頃の韓半島は物騒で深入りし難く、噂話を集めるしかないのです」
前漢王朝末期の中国人口は6000万人と想定される。ところが、
具体的には、玄菟郡と臨屯郡(現北朝鮮の東側)、真番郡(韓国南岸)の運営権を手放し、地元有力者――得てして自己の栄華をのみ追求する野蛮人――に統治を委任した。
3代に
中国の東北地方では、騎馬民族の
更に僻遠となれば、残照の如き威光が
「それよりも、ツイナ。
ぐるりと回した手の先には、平たい木箱が山積みされている。
「全て、大陸からの
現代では
「三つ目の神器を見せましょう」
最後の木箱は軽いようだ。扁平な長方体の蓋を開け、絹布に
「
この形状なら
舶来当初は見る者を圧倒した金色も今は鈍い輝きを放つのみ。下賜から半世紀余り。錆びに強い青銅と
銅に錫を混ぜた合金を青銅と言う。場合によっては少量の鉛を調合する。
世界的に銅や錫の産地は限られ、端的に言うと日本では殆ど産出しない。正しくは、愛媛県別子銅山、栃木県足尾銅山、秋田県荒川鉱山――
一方、中国大陸では湖北省大冶県銅緑山の孔雀石鉱山が有名だ。現代社会で取引される銅鉱石の銅含有率は僅か数%。孔雀石の其れは30%を超える。銅緑山から北西150キロの場所では殷時代――紀元前1000年よりも遥かに昔――の精銅遺跡(盤竜城遺跡)が発掘されている。
錫の2大産地は中国とインドネシア。確認埋蔵量では、古くから産地として有名なマレーシア(産出量で世界9位)が世界2位に浮上するが、その絶対量は中国の五分の一以下に過ぎない。
錫の融点は232℃。銅の融点は1085℃。鉄の融点は1538℃。
中国大陸では、青銅器時代が千年以上も続き、春秋時代の後半期に
反面、銅や錫に恵まれぬ日本には冶金技術を育む培地も無い。朝鮮半島経由で大陸産の地金が搬入される流れは必然の結果だ。着目すべきは、概ね同じ時期に青銅器文化と鉄器文化が伝来した事実だろう。自然の成り行きとして、実用性に劣る青銅器は儀式用途に限定された。
「以上が三種の神器です。この内、
「
不安と不審、戸惑いの混濁した表情で尋ねるツイナ。後任者を安んじようと頬を緩める卑弥呼。だが、直ぐに口元を引き戻し、謹厳な雰囲気を纏う。
「過日の騒ぎで明らかな通り、農具や工具は武器に転じます。その結果、
「それでは、神器を三種から二種に減らすのですか?」
卑弥呼は「いいえ」と首を振った。
「三種の神器を欠いては行けません。だから、新たに創るのです」
「
「
「ですが、鉄は錆びます」
「ええ、貴女の言う通り。でもね、それでも構わない、と
青銅器の錆び難い性質は重宝するも、地金の入手が困難であった。新たな調達を試みれば、城民に大きな負担を強いるだろう。鉄餅の長所と短所は全く以て正反対。両者を比較しながら、「統率者たる者、絶えず人々の心に寄り添わねばなりません」と説教する。
代々の卑弥呼は「自律と節制の精神こそが治世の原則だ」と考えて来た。代替りの度に三種の神器を揃え直し、その所作を通じて善導の志を胸に刻み直す過程は培われた哲学とも矛盾しない。先代の全てを盲目的に踏襲し続けては社会の変化に取り残される恐れすらある。
「貴女なりに時代遅れの因習は捨て、新しい行動様式を取り入れなさい。邪馬台を栄えさせる事こそ、
編纂された当時、既に出雲地方の
日本神話に落とし込まれた再創生の黎明は弥生時代まで遡るのだ。
説明し終えた卑弥呼は「肩の荷が降りた」と言わんばかりに、深い安堵の溜息を吐いた。
「オモイカネよ。白い粉の配合比も、
後背に控えた参謀役を振り返りながら、(2度も新女王の指南役になるのね)と茫漠に思う。
「お疲れで御座いましょう。一度に何も彼もと欲張っても・・・・・・ツイナ殿の頭も
悲愁を帯びた空間に末の言葉が消え入る。奥義口承の後に待つものは自害の
嬉しい配慮であったが、彼女は意図して受け流し、誰にともなく天意を口にする。
「ですが・・・・・・、
覚悟の揺らいでいない事に安心したのだろうか。彼女はクスリと笑った。少女に戻ったような、
「彼に叱られそうだから、白状したくは無かったのですが・・・・・・」
通常サイズの銅鏡を収めた木箱の列まで移動すると、その一つを抜き出した。ツイナの前で絹布を解き、露わにした銅面を「ほらっ」と見せる。この期に及んでは一向に
「先代の卑弥呼様やオモイカネから何度も教わったけれど、中々覚えられなくてね」
理知的な風貌とは相容れない述懐だが、「随分と難儀しました」との
「手引を当てに出来ない貴女の場合、
平滑であるべき鏡面には幾つもの
「忘れないように刻んだの」
案の定、オモイカネは絶句し、目を白黒させる。漢王朝から下賜された銅鏡に穴を穿つとは
そんな老師の戸惑いを敏感に感じ取ったのか、
「鏡面を
少し陽気になった卑弥呼と、神妙な面持ちで覗き込むツイナ。
「集まった小穴が幾つかの群れを作っているでしょう?」
口元を真一文字に引き結んだツイナが頷く。受験中に感じた緊張とは全く次元が異なる圧迫感。最高責任者として耐えねばならぬ精神的負荷だ。
「穴の数が混り粉を作る時の割合で、一つ一つの群れは
つまり、クリンカー(セメントの中間材)の組成比率。
「他にも探して御覧なさい。同じ様に穴を彫った銅鏡が有ります」
柔和な表情で秘め事を白状する卑弥呼であったが、真剣な表情に戻り、次なる遺言を伝える。三種の神器を説明した時ですら見せなかった怖い顔であった。
「
配合比を知る者は卑弥呼と智臣の2人だけ。その秘匿には細心の注意を払っており、武臣でさえ蚊帳の外。工房で働く者が全容を見渡せぬよう、作業を細切れに分断する念の入れ様だ。
「現人神ではなく、秘め事を持つ故に、近隣の
知識が公になれば、邪馬台城の存立が危うくなる。例えば、
よって、工房で焼成した粉を藁俵に詰めた後、直ぐには穀物庫に運ばない。別種の粉を詰めた藁俵と同じ在庫棟で保管する。そう、
経済的な主導権や優位性を守る為、この様にして門外不出とする知識や情報は数知れない。
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