第06話 鎮火の祈り
卑弥呼は、ツイナを先に休ませ、煌々と輝く満月を夜通し眺めていた。
明くる朝、辞世の挨拶をせんと、
祭儀場と定めた工房の前で、紅紫色の衣装に身を包んだ女王が即席の演台に立つ。小柄な彼女の目線でも衆人の最後尾に集う頭頂部までが見渡せた。自身に注がれる無数の瞳を見据え、あらん限りの大声を張り上げる。
「
限られた庶民が流言を耳にした程度で、城民の大半は真相を知らされていない。不意打ちめいた宣言が人伝に拡散するに連れ、方々で
喧噪を静めようと振り上げられた可細い両手。聴衆の誰もが黙り込み、生唾を呑み込んだ。不安なのだ。新たな宣託を求め、聴覚を研ぎ澄ませる。
「
練習した
「皆の者とは・・・・・・もう少し・・・・・・長く一緒に居たかったけれど、それも叶わぬ夢となりました・・・・・・」
集いし者は既に大声で泣き叫び、口々に悲嘆の呻き声を上げていた。腰砕けに膝を折る者が続出し、周囲は愁嘆場と化している。
――雰囲気に呑まれてはいけない。指導者には毅然とした態度が求められるのだ。
そう自分に言い聞かせる。目元を袖で拭い、ふうっと深呼吸する。
「次なる卑弥呼はツイナです!」
高らかに告示する。
「泰平な世の回復、邪馬台が繁栄を取り戻す未来。それが
彼女は、傍に跪くツイナ、オモイカネ、ミカヅチの顔を順繰りに見納めた。視線を上げ、3人の向こうで平伏する背中の群れを眺める。彼らは苦楽を共にした仲間だ。
――自分の治めた城が本当に愛おしい。どうか皆が幸せでありますように!
哀愁の漂う眼差し。双眸を細めた弾みに
不思議と死への恐怖心は無い。平穏な心持で立ち去れる事を、素直に有り難いと思う。最後にニッコリと頬を緩めたが、慈母の如く朗らかな笑顔であった。
「有り難う。そして、さようなら・・・・・・」
小声で呟くと、クルリと踵を返す。落ち着いた足取りで工房の奥へと姿を消す卑弥呼。
工房の大きな開口部の全てに城兵達が木戸を立て始めた。恥も外聞も捨て去り、全員が泣いている。ミカヅチまでもが大粒の涙を地面に落していた。
密閉空間と化した工房内の酸素が欠乏すると、
こうして、彼女は
背後の出入口が塞がれると、工房内の照明は一挙に落ちる。但し、暗闇ではない。窖窯内の木炭が、
眼前には祭壇として仮設台が組まれている。5段の短い梯子に足を掛け、檀上に
祭壇の向こうには、巨大なロールパン然とした窖窯が3基、等間隔に並んでいる。其々が幅3メートル、高さ2メートル、長さは10メートルを少々上回る大きさ。奥面の地面からは煉瓦積みの煙突が屋根へと伸びている。
窖窯とは、地下を掘って下部構造とし、上部構造は煉瓦を長方体に積んだ焼成炉である。炉口で木炭を焚くと、熱せられた空気は炉奥の煙突へと向かう。熱気流の高温が隅々まで行き渡った炉内で焼成するのだ。
煉瓦や木炭の焼成工房は、同一原理ながら、生石灰や
理論上は
説明が脇道に逸れたが、単独仕様の焼成炉が石灰石(炭酸カルシウム)を825℃以上に加熱し、生石灰と二酸化炭素に分離する。この
黒塊の表面で踊る火の妖精達。控えめに輝く舞踏会を遠巻きに眺める彼女は、
代々に語り継がれし
でも・・・・・・、不思議と炉内の炎は安心感を与える。これから
――
一瞬たりとも気を抜けなかった最後の奉公。自分が弱みを見せれば、城全体が恐慌に陥る。過酷な運命に直面した自分こそ誰かに縋っていたいのに・・・・・・。統率者の務めだと覚悟しても、未知への恐怖心は消えない。強い意志を保たねば押し殺せない。
その緊張感から解放された今・・・・・・、確かに安寧の瞬間とも言える。無音の空間。右に左にと揺らめく炎の群れは彼女の意識を過去――先代の御世――に
秋の収穫期を迎えると、城外の至る処で豊穣祭が催される。卑弥呼は、神の化身として招待され、彼女の前には幾重もの舞踏の輪が出来る。踊り続ける民衆。疲れては列から離れ、休憩と飲食の後に復帰する。祭りの間、老若男女の歓声が途絶える事は無い。
誰もが陽気な雰囲気に感化され、
「ミナモ。貴女も踊ってらっしゃい?」
朗らかな笑顔が其処に有った。少女の肩に手を添え、勇気付ける様に頷く先代女神。
――初めて参加した
二の足を踏む彼女の背中を色白の手が優しく押し出す。後は成り行きだった。
子供達の連なりに加わり、周囲の一挙手一投足を真似てみる。踊りに慣れて仕舞えば、高揚感しか感じない。得意気に振り返れば、自分を見守る先代女神が目尻を下げていた。
室内の蒸し暑さに不快を感じた途端、楽しき追憶は儚くも消える。気付けば、全身から噴き出した玉の汗が流れを結んでいる。水分を補給せねばと、水瓶に木椀を潜らせた。童心に返って威勢良く
――そう言えば、私の名前はミナモだ。水遊びの好きな子供だった・・・・・・。
流水の感覚が思い出させた事実。愕然として空の木椀を見詰める。意識の底に封印した過去が蘇れば、別の記憶も呼び覚まされる。窯口の照火が届かぬ天井を見上げれば、薄暗い空間に幼少期の残像が鮮明に浮かび上がった。
心底から沸々と
祭祀行事を除けば、行動範囲が城内に限られる宗女の身。基本的に深窓の令嬢と同類なのだ。筑後川での入水体験は蛮行との
遠出の一件から
意外にも、先代女神の反応は
城門の外に広がる異世界。若草色に染まった
大樹の間を蛇行する山道は、其処々々の人々が往来しているようで、
茫漠とした大海原を一刻も早く間近に見たい。幾ら疲労しようが、強い渇望は若い肉体に活力を充足させる。干飯と水だけの簡素な昼食を摂るや、気持ちの急く
末蘆郷に到着するや否や浜辺へと走り、押し寄せる浪間に飛び込んだのも懐かしい。泳ぎとは無縁に育った者の無鉄砲さ。水中でも呼吸できると早合点していた。海水に
ミナモにとっての真骨頂は波間の遊泳法を手解きされた後だ。両脇と腰に
翻る度に反射光を煌めかせる小魚の群れ。その周囲を大きな魚が悠然と泳ぎ過ぎる。水流に揺れる海草の森。水底には大小様々の厳つい岩が転がり、砂化粧している。海底を能く見れば、瓜種型の魚が岩場の陰に隠れ、扁平な魚が海底に這い
――魚って息をしないのかしら?
調理済みの魚しか知らぬ彼女にとって、活き活きと海中を泳ぎ回る魚は摩訶不思議な存在だった。
そんな魚群の背後に緩やかな泳ぎで迫る案内人。殺気を封じて銛を衝く。鮮やかな緩急の切り替え。尖頭の刃先に捕えた黒鯛が身悶えながら血筋を流している。
釣果を携えたら、さも当然と言わんばかりに呑気な動きで、ミナモの元へと泳ぎ帰る。丸太に括り付けた
今度は素潜りで海底の岩間を突き、
海中世界の思い出に浸りつつ、夢と
――何時間が経過した事だろう?
約40℃に上昇した室温。岩盤浴の密室と同じ環境だ。誰でも息苦しさに目を覚ます。彼女の意識も現実に引き戻された。
渇きを覚え、木椀に手を伸ばすミナモ。
――水を飲んで喉を潤すのは何の為?。間も無く
明敏な思考は乱れ、再び意識が混沌とし始める。でも、全身から噴き出す汗が止まらない。濡れた布地が肌に張り付く居心地の悪さ。拘束されているようで我慢できない。
――自由に成りたい、全ての
上半身を
渇いた口唇から吐息を漏らした後、大きな笑い声を上げ始めた。自暴自棄の嘲笑とは異なるが、満ち足りた哄笑とも言えない。人間としての常識を超越した、狂人めいた呵々大笑。理性を失ってこそ初めて神への拝謁が叶うのであろう。
狂笑の余勢を借りて、手足を大の字に伸ばしてみる。四肢を折曲げ、再び伸ばす。筋肉を
カチャン。暗闇に響く金属音。
神憑り状態から我に返ったミナモが音源を覗き込む。どうやら、蹴り押された襦袢が
――炭の補充が必要だわ。
祭壇から片足を下ろし、後ろ向きに降り始めるミナモ。赤銅色に鈍く反射する神剣を拾おうと、身を屈めた時である。目眩に襲われ、意識が
十分な酸素が有る限り、木炭は二酸化炭素を排出する。ところが、酸素が薄くなれば、一酸化炭素を発生させ始める。密閉空間内の最下層を重い二酸化炭素が覆い、その上に一酸化炭素が漂う。今や酸素を奪う蓄積層が迫っていた。
慌てて
――
不様な真似は出来ないと覚悟し、静かに横たわった。目蓋を閉じて胸の上で両手を組み、
意図せずして一酸化炭素の空塊を吸い寄せたのだろう。長い時間を置かずして、彼女の意識は
魏志倭人伝は卑弥呼を『鬼道に
歴代の中華皇帝には信じられない発想であった。彼らは自身の君臨だけを考え、世襲による一族繁栄を追求する自己中心的な人種。理想の地――蓬莱――で実践される民主の風習に
『卑弥呼を埋葬する際に、100人余りの
中国でも皇帝墳墓に生者を殉葬する習慣は太古に
人口1万人前後の邪馬台城に
反面、7世紀後半の日本人は大国の歴史書を盲信していた。『
視点を変え、今度は被葬者の心情を想像してみよう。独占欲の強い皇帝が後宮の美女達を道連れにするなら、その動機を(感情的な嫌悪は
縄文時代から土偶文化を育んだ日本人が、埴輪の副葬に移行するのは自然な流れ。その移行期に突如、生者を殉葬させ始める不連続性こそが不自然である。
もう一つ、歴史の裏話を開陳しよう。
斉国出身の道師徐福は「
――自らの享楽ではなく、臣民の幸福を第一に考える統治者が治める安住の国――
山東半島の東方沖に浮かぶ仙郷(蓬莱)とは、慈愛に満ちた卑弥呼の風聞が具現化した姿なのだろう。また、世代交代を通じて君臨し続ける卑弥呼の名は不老不死の迷信を生む素地ともなった。
ところが、邪馬台国の滅亡後、桃源郷と呼べる地は日本から消滅する。一方で、人々の理想郷追求の念は衰えない。古代日本では、丹後国風土記や日本書紀の浦島伝説へと結実する。物語の主人公(浦島子)は、中国大陸との交易で財を築いた人物で、蓬莱伝説の定着にも一役を買った。
哀しいかな、理想郷とは空想の産物。蓬莱の所在地を中国人は東方に、日本人は西方に求めたが、広漠たる黄海の波間に仙郷は存在しない。所詮は蜃気楼なのだ。浦島太郎が歓待された竜宮城が海中楼閣とされた
焼成工房に卑弥呼が安置されること三日三晩。煙突から立ち上った煙は
4日目の朝、オモイカネが工房の開扉を指示し、
誰も招集しないのに、城民の殆どが自発的に集まり、固唾を呑んで一連の作業を見守っている。
対の太竹に麻布を渡した擬似担架に遺体を横たえ、工房の戸口に現れたミカヅチ達。彼らの面持ちは痛恨の極みとの表現に尽きる。
対照的に、口元に笑みを浮かべ、穏やかな表情をした卑弥呼。白磁色の顔が桜色に染まっている。一酸化炭素中毒に特有の上気した桜色の肌。両手を胸の前で組み、目を閉じた彼女は眠っているようだった。
――声を掛ければ、今にも起き上がるのでは?――
いいや、全ては幻想に過ぎない。ツイナ、オモイカネ、ミカヅチの3人は無言で涙を流し続けた。
卑弥呼の亡骸は
埋葬地の最終選定にはツイナの女性らしい意見も反映されている。陽当り良好な一帯に広がる水仙の群生地が理由だった。冬の到来にも負けず、昂然と伸ばした花茎。山吹色の副冠を淡黄色の花弁が囲う。
俯き加減に咲き乱れる花々を眺め、言葉少なに語るツイナ。
「丸で卑弥呼様の死を悼む民の化身です。仄かに甘い香りも彼女の魂を慰めるでしょう」
随行した股肱の2人も、静謐ながら華やかな光景に心を安らげ、一も二も無く賛同した。
墳墓の形状は
上底部分を掘り下げて内部に設けた縦穴式石室の擁壁は、石材ではなく、煉瓦とセメント――城内建屋の標準仕様――で構築された。
磐座の周りに積んだ麻袋には手向けの品が詰められている。当人の絶命時に製造した
石室の上蓋も
土砂を被せ終えた築山は単なる丘陵と変わり映えしない。時が経つに連れ、表層には草木が生い茂り、四神獣の姿は埋没して仕舞う。自然に還る事が万物の摂理であっても、参拝者は寂寥感を禁じ得なかったようだ。
彼女の功績を
先代以前の卑弥呼は、亡骸を
ところが、当代以降の卑弥呼は歴代墳墓に寄り添う形で追葬され始める。回数を重ねるに従い、円墳は偉人の葬送手法として社会に馴染んで行く。新たな風習が人的交流を通じて本州へと広がり、日本全土で古墳文化が花開くのだが、その源流は此処に在った。
また、6世紀初めに叛乱を企てた
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