第04話 天の岩戸、閉じる
城内に林立する建屋は
5段の正面階段を忍び足で登り、壁際の踊場で耳を澄ますスサノオ。物音一つしない。耳に入る唯一の雑音は遠くに聞こえる喧騒のみ。観音開きの大きな扉の陰から屋内を覗き見る。
製材された杉板が隙間なく渡された端正な床。
その粛然と調うべき居住空間を何十組かの土足痕が汚している。湧き起った動転の痕跡だ。残土の列を目で追えば、奥の一画に小さな揺炎の灯った燭台の円陣が見える。陣内の仄暗い空間に浮かぶ三つの火鉢。
石槍への掌握を強め、身を屈めて重心を低くするスサノオ。五感を研ぎ澄ませ、忍び足で大広間を横切る。
奥面と左右の側面から一直線に延びた3本の廊下。その両側には小部屋の列が続いている。上空からは逆さ丁の字を俯瞰できる
――何処に行ったんだ・・・・・・?
茫然と
「我が
大声に気圧された城兵が「はい」と返事をする。
「念の為、取り残された者の有無を確かめる!。御前ら、
聞き耳を
――何処かに身を隠すべきか・・・・・・?、それとも抜け道を探すべきか・・・・・・?
如何せん、建物の見取図が頭に入っていない。四方に首を巡らせようが無意味な仕草だ。決め
「誰だ?、
「建屋を包囲しろ。逃がすでないぞ!」
出入口へと駆け戻った兵達が左右に分かれ、殿舎の裏手に回り込む。外で待機中の仲間も合流したようだ。
殺到する
一方、顛末を見透かす捕獲者は、深追いもせず、仁王立ちで待ち構えていた。両手に
「名前を聞いておこう」
冷たい声音に凄みを効かせた口調は丸で死刑宣言。並みの小心者ならば、ガクガクと膝を震わせ、失禁しているだろう。
「スサノオだ!」
捕獲者の迫力に負けじと、大声を張り上げる。名乗った本人も
「威勢が良いな。だが、御前らの企みは潰えたぞ」
農民風情が――と、完全に舐め切っている。希望の芽を摘めば、
「南門を閉め切った後は、城内に残る奴らを1人ずつ退治するのみ」
「御前の空元気も
侮蔑を含んだ投降勧告の積りだったが、彼の意表を突くスサノオの反応に言葉尻が途切れる。摺足で半歩の距離を詰める徹底抗戦の構えに目を細めるミカヅチ。歯向う者は容赦せぬが、武人の矜持が弱者虐めを諫める。此処は威圧を強め、反抗心を萎えさせるべきだろう。
引き締まった太い右腕を
「
偽名を語らって逃亡する千載一遇の好機に視線を泳がすスサノオ。しかし、捕虜を集めて裏取りすれば、直ぐに露呈する。先の展開は全く読めないが、臆しながらも覚悟を決めた。
「首謀者は・・・・・・俺だ」
ミカヅチは「ほう」と独り言ち、眼光を鋭くした。その冷めた迫力は追い詰めた獲物を射竦める猛獣と同じ。
「ならば殺す
攻撃の構えは崩さず、不敵な笑みを浮かべて挑発する。
「万が一、御前が勝ったら、召し取らずに見逃がしてやろう。部下にも約束させるが・・・・・・?」
スサノオは石槍を後ろに放り投げた。甘言を素直に信じるほど愚かではないが、
一縷の希望を胸に両手の
「多少は気骨が有るみたいだな。楽しみだ」
厚剣と盾鈑を部下に預け、指を鳴らしながら前に進み出るミカヅチ。武器を持って対峙するよりも
スサノオも大柄な方だが、彼は更に頭一つ身長の高い大男であった。
脇を広げて裕度を保ち、屈強な両腕を肩より高く掲げる。
焦れたスサノオの方から仕掛ける。ドン。踏み込んだ左足が床を鳴らす。同時に、右腕の握り拳を相手の脇腹に強く打ち込んだ。渾身の痛打を見舞ったのに、眼前の顔は微塵も歪まない。
――化け物か・・・・・・。
絶望の余り、二発目の打撃が疎かとなった。その隙を百戦錬磨の猛者が衝く。大槌を振り降ろす勢いで舞い降りる両腕。熊手状に立てた十指に両肩を鷲掴みされる。強烈な怪力には圧倒されるばかり。両足が床に根を張ったか――と幻覚しそうな程に抑え付けられた。
移動の自由を奪われ、僅かな間隔で向かい合う。堪らずに息を緩めた刹那だった。金剛力士を思わせる左腕が脇の下を潜り、右の掌底が下顎に押し付けられる。下半身のみならず、上半身までもが封印されては万策尽きたも同然だ。海老反りに寄り切られた体勢で両腕を空しく泳がせるしかない。
素早く背後に回り、寝技に転じるミカヅチ。左上腕をスサノオの下顎に回し、押えに当てた右腕で強く絞める。絡め取られた者は酸素を求めて悶絶するのみ。口から泡を噴こうが、万力並みに重い
脱力しただけでは組手を解かず、気絶を認めてから
――大それた押入りの狙いくらいは聞いておくか。
犯行の動機が判れば、対策も立て易い。卑弥呼の面前に引き出してから尋問したのでは時宜を逸するかもしれない。露ほども疲れを見せぬ勝者は、捕縛を命じると共に、「気付けの水を持って来い」と指示する。
すっかり諦観した敗者に向かい、勝者が冷たい声で問い質す。
「一体全体、御前は何を欲したんだ?。城門前で何やら大声で叫んでいたが」
「ゲオっ、不思議な白い粉を分けて欲しいと、ゲオっ、ゲオっ、卑弥呼様に談判したかったんだ」
剣呑な面持ちで口角を歪め、スサノオを
「白い粉ねえ・・・・・・。幾つもの種類が有ると承知しているのか?」
鉱石粉の情報は些細であっても門外不出。殺される運命だと早合点した故に口が滑ったのだろう。問われた方は明かされた秘密に面食らうばかり。
「
城の秩序を掻き乱した張本人が浅はかな愚者とは――。情けないやら、腹立たしいやら。
「今から御前を連行する。我が
当時の人々は死後の世界を信じ〝
「荷車に乗せよ。吉野ヶ里まで護送するぞ」
虜囚の身柄を運び上げた時である。剛健な男達を跳ね上げようと地面が激動し、雷鳴をも凌ぐ大きな噴火音が大気を震わせた。流石の城兵達も不安気に辺りを見回す。
「何事か!?」とミカヅチが怒鳴るも、異変の正体が分からない。互いに困惑の視線を交わし合う中、彼方に目を転じた1人が奇声を発した。全員が一斉に顔を振り向ける。
その指差す方向の夜空が赤く照らされていた。阿蘇山の上空だ。対照的に、
スサノオと別れた
不安定な狩猟生活を送る彼らに籾米を蓄える余裕は無い。
最多の居住棟は
手近な煉瓦倉庫の一つを選び、調査を命じた族長の声が期待に震えていた。
族長は冷静に心算できる男であった。彼らの目的は籾米の搬出。男手が減れば、それだけ九州南端の地まで運べなくなる。だから、事前に「戦闘には極力巻き込まれるな」と念押ししていた。
次なる仕事は運搬具の手配。蜘蛛の子を散らすように黒い集団が霧消し、城内を隈無く探索して回る。そして、二輪台車を押して戻る度毎に米俵を積み、三々五々に離脱した。
避難民は一様に、身勝手な火事場泥棒に眉を
50台強の長い車列。遠目に隊商を眺めれば、餌を咥えて巣に戻る蟻の行列を連想しただろう。先頭車両の米俵に鎮座した族長が上機嫌で行軍を指図する。避難民の列に混じる間は遅緩な速度に
意気揚々と引き揚げる熊襲族の面々には満面の笑みが浮かんでいる。
北門を抜けた後は
世界が割れたと心胆を寒からしめる激震と噴火音が襲う。彼らは阿蘇山の北西方向、僅か30キロ余りの近距離で罹災した。卑弥呼よりも、スサノオよりも近い。距離が近ければ、重い噴石の餌食と成り兼ねない。火山灰や
一切の明りが噴煙に掻き消された真の闇夜。全員が不安気な表情を浮かべる。何も見えないと承知しつつも、上空を仰がずにはいられない。パラリ、パラリと舞い落ちる
困惑した一堂が右往左往する中、火山弾の一撃が車列の1台を大破させた。衝撃波が籾米を撒き散らす。天神の振り降ろす鉄槌だ。迷信深い熊襲族は恐慌を来し、視界を封じられた現場は阿鼻叫喚の
暗中に逃げ道を探さんと銘々が目を凝らす状況で、狂人染みた悲鳴が合図となった。闇雲に
引き留めんと伸ばした毛深い腕が幾人かの胸倉を掴むも、必死の形相で拘束を振り解く手下達。その不甲斐無さに「腑抜けがっ!」と悪態を吐く。同時に、瓦解した自分の統率力に毒づく捨て
成敗すべき者が離散しようと、
西門から逃れた卑弥呼は一路、吉野ヶ里の
槍と同じ程度に長い太竹を2本並べ、約60センチ四方の麻布で
布板に腰掛けた卑弥呼は、振り落とされぬよう、竹竿を強く握り締める。
刈り立ての
吉野ヶ里までの中間に位置する村に到着すると、村の入口で担ぎ手が一斉に交代。地元民との接触を避け、休む間も無く移動を再開する。緊張と恐怖に冷汗を流し続けて30分余り、一行は
「皆を起こせ!。我が
邪馬台城と同じく東西南北に四つの門が設けられ、各門に2脚ずつの炬火柱が灯されている。但し、灯光の届く範囲は限られ、自らの存在を周囲に知らせる灯台の役割と大差無い。
「城が襲われた!。
天空の光源は煌々と流れる天之河のみ。
「見張りを市場周辺に放て!」
逃走部隊を率いる中隊長が矢継ぎ早に指示を出す。
門兵達が前代未聞の緊急事態を何処まで理解できたのか?――は甚だ疑問であったが、兎に角、足を
市場に集う人々の目的は商売。1日では商いが終わらず、訪問者の多くは郭壁の内側で野宿する。夜盗を心配せずに済むからだ。普段は安眠できるのに、今夜は事情が異なった。市中の不穏な気配に起き出し、兵士達の慌ただしい動きを寝惚け眼で見守っている。
吉野ヶ里は、邪馬台城と概ね同じ面積を占めるものの、当然ながら外観の異なる点も多々有る。
最大のそれは煉瓦作りの構造物と無縁な事。何故なら、政治や生産、貯米の拠点ではないからだ。交易の要衝に過ぎず、頑強な建造物の必要性を認めていない。
市場を取り囲む郭壁も、丸太を地面に突き刺しただけの粗雑な構造で、邪馬台城の城壁には大きく見劣りする。念の為、
卑弥呼と宗女達が楼観――高床式の二階屋――に腰を落ち着けた頃には、四方八方で篝火が焚かれ始めていた。入場料――少量の籾米――を徴収し、定期的に城まで運ぶ役人を
それでも、彼女らは大きく安堵の息を吐いた。此処には邪馬台に属する庶民しか居らず、誰も自分達に危害を加えたりしない。九死に一生を得た今は、それだけで十分であった。
2階の縁側から眼下に視線を漂わせ、環状に連なる
冷汗に濡れた服地が夜風に冷やされ、肌寒さに身震いする。駐在の者が運び込んだ火鉢に覆い被さり、手を
忍び寄る睡魔には抗えず、半眠半覚醒の意識を目蓋が封印しかけた、その時である。
最初の異変は、城よりも遥か向こう、東の空を赤暗く照らす不気味な鈍光だった。続いて、月光ばかりか天之河の輝きまでもが刻々と黒雲に掻き消され、世界は地獄の闇に隠され始める。
止めの一発は体感に訴えて来た。微かに感じる振動の正体は身震いなのか、地面の揺れなのか。横揺れの前兆から間髪を容れず、大地を上下に揺さぶる激震が襲う。
火鉢が軽く跳ね、姿勢を崩した卑弥呼は後ろ手に身体を支えた。平衡感覚を正す間も無く、ドドーンと腹に響く重低音が
「キャア」と悲鳴を上げた宗女達が四つ這いで
――先代から言い伝えられし神罰ではないか?
背筋に悪寒が走り、歯の根が合わない。顔面蒼白となった彼女は、両腕を強く抱き締め、鳥肌立った身体を必死に宥めようとした。
数百年振りの大規模な噴火だった。火山性地震が断続的に続くも、鶏鳴が昇日を告げる時頃までは全貌を把握できない。
天変地異を認めた卑弥呼は「誰か!」と叫び、参上した市頭に命じる。
「至急、
毅然とした口調であったが、声音には畏れが
肌寒い季節には珍しく、オモイカネは真綿で首を絞められるような寝苦しさに何度も目を覚ました。得も言われぬ胸騒ぎに安眠を妨げられ、招待所の寝床で
朝鶏の声を合図に早々と起き出した途端、常軌を逸した自然現象に慄然とする。東から天頂を抜けて西に至る
気を取り直そうと眼前の
勿論、当事の航海術では対馬海峡を一足飛びには渡れない。幸いなるかな。南北に細長い対馬島が良い
また、貿易港としてのみならず、漁業基地としても栄えていた。対馬海流が東シナ海から多種多様な魚を玄界灘に誘い込むのだ。つまり、
後世には『
加えて、優れた造船技術も特筆に値するだろう。海岸間近まで押し迫る山々で古木を伐採し、
切り倒した丸太は、切断面に
目立つ存在の貨物運搬船は双胴構造。2隻の単胴船を並べ、間に渡した筏で相対の舷側同士を連接する。裏面に何本もの梁を通した平板部分には大量の積荷を載せ、増える一方の海上物流を担う立役者だ。
漕手の体力に航続距離が律則されては用を成さないし、重量も嵩むので、海風を最大限に活かしている。甲板中央部に立つ
冬が間近に迫った九州では北西からの季節風が吹き始め、噴煙は北方に漂って来ない。天候を知悉するオモイカネだけが異変を直感的に理解できた。遠くから指を咥えて見ているしか能の無い自分が
――直ぐに戻らなければ・・・・・・。
「今朝の異変は只事ではありません」
「ええ。斯くも
改めて山容の彼方を凝視する2人。末蘆郷と阿蘇山とを結ぶ線上に邪馬台城は位置しており、その方角には取り分け色の濃い暗雲が垂れ込めている。真相が分からずとも、凶事が舞い降りているのは一目瞭然であった。
「山向こうで
「はい。ですから、どうか私の帰参を御許し下さい」
「構いません。ところで、まだ貴方様が
「
「
弁韓とは朝鮮半島南部、後世の
「はい。そのように。どうか宜しく御願い致します」
荷造りも其処々々に
道すがら報告を聞き、昨夜の顛末を知る。
帰着したオモイカネは市頭の楼観で卑弥呼と向かい合った。宗女達を退がらせ、今は2人切りである。再会を喜ぶ余裕は無く、沈痛な面持ちで今後の対応を協議する。
「大変な事になりました。
「卑弥呼様の治世が悪いとは・・・・・・私には思えません。城民のみならず、地方の民も皆、幸せに暮らしております」
「ですが、オモイカネよ。実際、
図らずも強い口調で吐露したが、解き放った言葉に改めて恐れを成し、崩した膝の上で両手を強く握り締める。冷酷な事実を前にしては、人生経験の豊富な彼にも慰撫の言葉が浮かばない。
「斯く成る上は、この身を捧げて
ガックリと肩を落とした女王の声が消え入る。
就寝前に宗女達の梳かした長い黒髪、今は汗と埃でベッタリと横顔に貼り付いている。憔悴し切った表情に胡乱な眼差し。存在を否定されたと信じる彼女の視線は焦点を結んでいない。
打ち
「卑弥呼様。もう少し様子を見ましょう。
「
後ろ手に縛られた戦犯が引き立てられる。楼観前の中庭では、厚剣を持ったミカヅチが待ち構えていた。失態を挽回せんと、自ら斬首する積りのようだ。
屹立する熟年男しか頭上に視認できずとも、その奥には女神が居る
「俺達は不思議な白い粉が欲しかっただけなんだ!」
「控えろっ!」
「邪馬台に盾突こうなんて
独善的な要求に応える義理は無いものの、精気を失った俯き顔が条件反射的に上がる。招いた重大事に吊り合わぬ軽薄な弁明。理不尽さに憤慨する一方、「白い粉は匹夫の扱える代物でもないのに」と少し呆れもする。
――もう
叛乱の動機が判明したとて、心身に纏わり付く虚無感は一向に霧消しない。
「言いたい事を言えて良かったな。続きは
強く腹を蹴られ、ゲホリと咳き込みながら前屈みに倒れ込むスサノオ。露わになった背中を踏み
「卑弥呼さまぁっ!」
助命嘆願の言葉が延々と続く。土壇場の叫びを遠くに聞きながら、彼女は(
「オモイカネ様、この狼藉者を殺しても構いませぬな!」
殺意を
彼の目に写った姿の何と弱々しい事だろう。今にも泣き出しそうな表情で下唇を震わせている。
「その者を殺すのは止しましょう。今更・・・・・・ですしね」
堅く結んだ両の
「卑弥呼となって
一方、部下の心情を察するに、自分の矜持だけでは納得させられぬ。何らかの大義名分が必要だ。そんな気の回し方をする余裕は残っている。此の期に及んで不思議な事だとは思うが、指導者として日々に心掛けた賜物であろう。
「それに、城で死んだ狗奴人も多いのでしょう?。家族の元に
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