第04話 天の岩戸、閉じる

 城内に林立する建屋はれもが同じ煉瓦作りなれど、白い漆喰で綺麗に塗装された宮殿は目を引く。邪馬台城は、消石灰を貝粉や藁屑と捏ね、漆喰を内製しているのだ。

 5段の正面階段を忍び足で登り、壁際の踊場で耳を澄ますスサノオ。物音一つしない。耳に入る唯一の雑音は遠くに聞こえる喧騒のみ。観音開きの大きな扉の陰から屋内を覗き見る。もぬけの殻となった大広間の面積は50畳程度だろうか。

 製材された杉板が隙間なく渡された端正な床。柾目まさめ板目いための板材を規則正しく組み合わせ、幾何学模様を思わせる天然の装飾。背中を預ける扉もそうだが、軽石で研磨された板面はれも滑らかで、上品な香りが鼻腔をくすぐる。

 その粛然と調うべき居住空間を何十組かの土足痕が汚している。湧き起った動転の痕跡だ。残土の列を目で追えば、奥の一画に小さな揺炎の灯った燭台の円陣が見える。陣内の仄暗い空間に浮かぶ三つの火鉢。かすかな余熱を放つ消炭けしずみが一寸前まで有人だった事実を語っている。

 石槍への掌握を強め、身を屈めて重心を低くするスサノオ。五感を研ぎ澄ませ、忍び足で大広間を横切る。

 奥面と左右の側面から一直線に延びた3本の廊下。その両側には小部屋の列が続いている。上空からは逆さ丁の字を俯瞰できるはずだ。室内に段積みされた千差万別の木箱。貴重品の保管庫だろう。試しに一つを開封すると、絹の着物が収まっていた。

 人気ひとけの無い事に安堵しつつ、肩透かしに腹を立てる複雑な心境のスサノオ。幾分乱暴な歩調で大広間に取って返す。

――何処に行ったんだ・・・・・・?

 茫然とたたずんでいると、正面門扉の向こうが騒がしくなった。ミカヅチに率いられた警邏隊の出現。

「我がきみは無事、お逃げになったのだな?」

 大声に気圧された城兵が「はい」と返事をする。

「念の為、取り残された者の有無を確かめる!。御前ら、いて来い!」

 聞き耳をそばだてていたスサノオは慌てた。

――何処かに身を隠すべきか・・・・・・?、それとも抜け道を探すべきか・・・・・・?

 如何せん、建物の見取図が頭に入っていない。四方に首を巡らせようが無意味な仕草だ。決めあぐねた躊躇の一瞬が命取りとなり、足音高く登場した10名余りの兵隊と鉢合せになる。

「誰だ?、狗奴くぬか?」

 誰何すいかの声に脱兎の如く奥へとはしり出す侵入者。

「建屋を包囲しろ。逃がすでないぞ!」

 出入口へと駆け戻った兵達が左右に分かれ、殿舎の裏手に回り込む。外で待機中の仲間も合流したようだ。

 殺到する捕物とりものの声がやかましい。正に袋の鼠。最奥の窓に手を掛けるも、逃走を諦めざるを得ない。(正面突破あるのみ)。緊張で汗ばんだ手を服地で拭い、踵を返す。

 一方、顛末を見透かす捕獲者は、深追いもせず、仁王立ちで待ち構えていた。両手に厚剣こうけんと盾鈑を持った容貌が威風堂々としている。

「名前を聞いておこう」

 冷たい声音に凄みを効かせた口調は丸で死刑宣言。並みの小心者ならば、ガクガクと膝を震わせ、失禁しているだろう。

「スサノオだ!」

 捕獲者の迫力に負けじと、大声を張り上げる。名乗った本人も気魄きはくだけで危機を脱出できるとは思っていない。自身を奮い立たせる為に、喉を枯らせる必要が有ったのだ。石槍の柄を両手で強く握り、前傾中腰に身構える。

「威勢が良いな。だが、御前らの企みは潰えたぞ」

 農民風情が――と、完全に舐め切っている。希望の芽を摘めば、温和おとなしく降参するだろう。そう思って、不審者を軽んじる彼の判断を誰が批難できようか。

「南門を閉め切った後は、城内に残る奴らを1人ずつ退治するのみ」

 余裕綽々よゆうしゃくしゃくの表情で語る掃討の予定。追い込まれた者には一種の脅迫と聞こえるに違いない。

「御前の空元気も何時いつまで続くものやら・・・・・・」

 侮蔑を含んだ投降勧告の積りだったが、彼の意表を突くスサノオの反応に言葉尻が途切れる。摺足で半歩の距離を詰める徹底抗戦の構えに目を細めるミカヅチ。歯向う者は容赦せぬが、武人の矜持が弱者虐めを諫める。此処は威圧を強め、反抗心を萎えさせるべきだろう。

 引き締まった太い右腕を緩寛ゆっくりと振り上げ、厚剣を上段に構える。後ろに控える城兵達も、遠巻きに円陣を作り、其々それぞれに厚剣を構えた。

此度こたびの首謀者を捕縛せねばならん。其奴そやつの名を白状すれば、御前を逃がしてやっても構わぬが・・・・・・、如何どうする?」

 偽名を語らって逃亡する千載一遇の好機に視線を泳がすスサノオ。しかし、捕虜を集めて裏取りすれば、直ぐに露呈する。先の展開は全く読めないが、臆しながらも覚悟を決めた。

「首謀者は・・・・・・俺だ」

 ミカヅチは「ほう」と独り言ち、眼光を鋭くした。その冷めた迫力は追い詰めた獲物を射竦める猛獣と同じ。

「ならば殺す訳柄わけには行かんなあ。素手で遣り合っては如何どうだ?」

 攻撃の構えは崩さず、不敵な笑みを浮かべて挑発する。

「万が一、御前が勝ったら、召し取らずに見逃がしてやろう。部下にも約束させるが・・・・・・?」

 スサノオは石槍を後ろに放り投げた。甘言を素直に信じるほど愚かではないが、剣戟けんげきで勝ち目は無い。眼前の偉丈夫を倒せたとしても、彼の部下達まで薙ぎ倒すのは不可能だと承知している。

 一縷の希望を胸に両手のこぶしを固く握り締め、中腰の殴打撃体勢ファイティングポーズを構え直す。

「多少は気骨が有るみたいだな。楽しみだ」

 厚剣と盾鈑を部下に預け、指を鳴らしながら前に進み出るミカヅチ。武器を持って対峙するよりも間合まあいは狭い。

 スサノオも大柄な方だが、彼は更に頭一つ身長の高い大男であった。しかも、兵団のおさとして鍛錬に明け暮れる肉体は丸ではがねの如し。頑強な体躯の男でなければ、軍神の地位には就けない。

 脇を広げて裕度を保ち、屈強な両腕を肩より高く掲げる。熊襲ゆうしゅうの形だ。身長差を活かし、上からじ伏せる積りらしい。勝利を確信する者の落ち着き払った表情。対戦者を品定めしているのか、睥睨へいげいするばかりで、先制攻撃する気配を見せない。

 焦れたスサノオの方から仕掛ける。ドン。踏み込んだ左足が床を鳴らす。同時に、右腕の握り拳を相手の脇腹に強く打ち込んだ。渾身の痛打を見舞ったのに、眼前の顔は微塵も歪まない。

――化け物か・・・・・・。

 絶望の余り、二発目の打撃が疎かとなった。その隙を百戦錬磨の猛者が衝く。大槌を振り降ろす勢いで舞い降りる両腕。熊手状に立てた十指に両肩を鷲掴みされる。強烈な怪力には圧倒されるばかり。両足が床に根を張ったか――と幻覚しそうな程に抑え付けられた。

 移動の自由を奪われ、僅かな間隔で向かい合う。堪らずに息を緩めた刹那だった。金剛力士を思わせる左腕が脇の下を潜り、右の掌底が下顎に押し付けられる。下半身のみならず、上半身までもが封印されては万策尽きたも同然だ。海老反りに寄り切られた体勢で両腕を空しく泳がせるしかない。

 手籠てごんだミカヅチが反撃を開始する。大きく前方に跳ぶと、重力の為すがままに倒れ込んだ。スサノオにすれば、脊中から押し倒された格好。床に打ち衝けられた後頭部がドシンと鈍い音を響かせる。落下速度と2人分の体重を合わせた衝撃。軽い脳震盪に意識が朦朧とする。

 素早く背後に回り、寝技に転じるミカヅチ。左上腕をスサノオの下顎に回し、押えに当てた右腕で強く絞める。絡め取られた者は酸素を求めて悶絶するのみ。口から泡を噴こうが、万力並みに重い膂力りょりょくは緩まない。報復を兼ねた真剣勝負、手心を加えるべくもない。

 脱力しただけでは組手を解かず、気絶を認めてからようやく立ち上がった。赤い絞め跡の残る雁首を小脇に抱え、扉口まで引き摺って行く。そして、したたかに地面へと投げ打った。

――大それた押入りの狙いくらいは聞いておくか。

 犯行の動機が判れば、対策も立て易い。卑弥呼の面前に引き出してから尋問したのでは時宜を逸するかもしれない。露ほども疲れを見せぬ勝者は、捕縛を命じると共に、「気付けの水を持って来い」と指示する。

 刳桶くりおけに汲んだ水を顔面に浴び、咳き込みながら意識を取り戻すスサノオ。反射的に立ち上がろうとして翻筋斗もんどりを打つ。首を回して確かめた全身は蓑虫状に麻紐で巻かれていた。目を閉じて横たわるしかない。

 すっかり諦観した敗者に向かい、勝者が冷たい声で問い質す。

「一体全体、御前は何を欲したんだ?。城門前で何やら大声で叫んでいたが」

「ゲオっ、不思議な白い粉を分けて欲しいと、ゲオっ、ゲオっ、卑弥呼様に談判したかったんだ」

 剣呑な面持ちで口角を歪め、スサノオを嘲笑あざわらう。

「白い粉ねえ・・・・・・。幾つもの種類が有ると承知しているのか?」

 鉱石粉の情報は些細であっても門外不出。殺される運命だと早合点した故に口が滑ったのだろう。問われた方は明かされた秘密に面食らうばかり。

れを欲しがったのかは知らんが・・・・・・遣い方も理解できんのに、城の物を欲しがるとは、全く愚かな奴だ」

 城の秩序を掻き乱した張本人が浅はかな愚者とは――。情けないやら、腹立たしいやら。

「今から御前を連行する。我がきみが耳を貸すとは思えんが、その時に戯言ほざいてみろ。根国ねのくにへと旅立つ前に少しは心が晴れるかもしれん」

 当時の人々は死後の世界を信じ〝常世とこよ〟と呼んでいた。中でも、人道にもとる行為を働いた者の魂は穢れの濃い空間に集められ、其処を〝根国ねのくに〟と蔑称して区別していた。

「荷車に乗せよ。吉野ヶ里まで護送するぞ」

 虜囚の身柄を運び上げた時である。剛健な男達を跳ね上げようと地面が激動し、雷鳴をも凌ぐ大きな噴火音が大気を震わせた。流石の城兵達も不安気に辺りを見回す。

「何事か!?」とミカヅチが怒鳴るも、異変の正体が分からない。互いに困惑の視線を交わし合う中、彼方に目を転じた1人が奇声を発した。全員が一斉に顔を振り向ける。

 その指差す方向の夜空が赤く照らされていた。阿蘇山の上空だ。対照的に、深緋ふかひ色に染まった部分の周辺では、燦然と輝く星々が漆黒の闇に隠されて行く。強烈な勢いで拡大する禍々まがまがしき天幕。

 火焔神ひのかみの宿る火山が不気味な光景の原因だとすると、人間に抗うすべは無い。剛毅な彼らですら言葉を失い、生唾を呑み込む事しか出来なかった。


 スサノオと別れた熊襲くまそ族の集団は、避難民の群れを縫うように城内を徘徊し、建屋を順繰りに検分し回っていた。

 不安定な狩猟生活を送る彼らに籾米を蓄える余裕は無い。すなわち、今夜が城内に足を踏み入れた初日である。外観で穀物庫を判別するなんぞ至難の業だろう。それでも、右往左往する内に目星の付け方を学び始める。

 最多の居住棟はれもが似た雰囲気、それを除外すれば効率的だ、と誰かが気付く。火事場泥棒の集団は、城郭都市の南西に位置する居住区を素通りし、西門まで突っ切った。その判断は報われ、多数の棟――小さな採光窓のみ空いた閉鎖的な壁が特徴――が建ち並ぶ穀倉区を探し当てる。

 手近な煉瓦倉庫の一つを選び、調査を命じた族長の声が期待に震えていた。あらため役が壁をじ登り、採光窓から内部を覗き込む。「有ったぞ!」との一声に、300人弱の男達が大歓声で呼応した。皆が肩を叩き合って喜び、粗忽者は高揚の余り小踊りする。

 族長は冷静に心算できる男であった。彼らの目的は籾米の搬出。男手が減れば、それだけ九州南端の地まで運べなくなる。だから、事前に「戦闘には極力巻き込まれるな」と念押ししていた。

 次なる仕事は運搬具の手配。蜘蛛の子を散らすように黒い集団が霧消し、城内を隈無く探索して回る。そして、二輪台車を押して戻る度毎に米俵を積み、三々五々に離脱した。

 避難民は一様に、身勝手な火事場泥棒に眉をひそめはしたが、特段の反応は示さない。城門を無事に抜ける事が最優先だし、先行して脱出した城民は散り散りに姿を消している。多勢に無勢。彼らに歯向かうなんぞ怖くて出来ない。

 50台強の長い車列の先頭車両に陣取った族長が上機嫌で行軍を指図する。避難民の列に混じる間は遅緩な速度に焦燥やきもきもしたが、城外に踊り出た後は凱旋あるのみ。遠目に隊商を眺めれば、餌場から巣に戻る蟻の行列を連想しただろう。

 意気揚々と引き揚げる熊襲族の面々には満面の笑みが浮かんでいる。くびきを押し、ながえを牽く四肢に活気がみなぎる。満載の荷がわだちを深くえぐるも、達成感に酔い痴れる彼らは苦痛ものともしない。

 北門を抜けた後はしばらく東に進路を取り、南の門前で途方に暮れる狗奴くぬの大集団を大きく迂回する。小一時間も歩いた頃だろうか。南に進路を転じ、浅瀬を見付けて筑後川ちくごがわを渡河し、樹々の生い茂る九州山地の麓に至った時であった。

 世界が割れたと心胆を寒からしめる激震と噴火音が襲う。彼らは阿蘇山の北西方向、僅か30キロ余りの近距離で罹災した。卑弥呼よりも、スサノオよりも近い。距離が近ければ、重い噴石の餌食と成り兼ねない。火山灰や火山礫かざんれきに交じって、漬物石と同じ位の火山弾すら降り注ぐだろう。

 一切の明りが噴煙に掻き消された真の闇夜。全員が不安気な表情を浮かべる。何も見えないと承知しつつも、上空を仰がずにはいられない。パラリ、パラリと舞い落ちる火山礫かざんれき。爪ほどの大きさであっても、顔に当たれば、平手でたれる様に痛い。両手で頭を庇うと、今度は腕が叩かれるばかりである。

 困惑した一堂が右往左往する中、火山弾の一撃が車列の1台を大破させた。衝撃波が籾米を撒き散らす。天神の振り降ろす鉄槌だ。迷信深い熊襲族は恐慌を来し、視界を封じられた現場は阿鼻叫喚のちまたと化した。

 現人神あらひとがみの城で働いた強盗行為を多少はやましく感じている。戦利品に喜ぶ家族を想像し、得意気な高揚感で誤魔化していたに過ぎない。審判の被告席に引き摺り出された途端、畏怖と後悔の念に苛まれる。族長が大声で鼓舞するも虚しく、つぶての落下音が恐怖心を煽る。

 暗中に逃げ道を探さんと銘々が目を凝らす状況で、狂人染みた悲鳴が合図となった。闇雲にはしり出した臆病者に続き、我も我もと浮足立った男達が遁走を開始する。強者と豪語する日頃の不貞々々さは微塵も窺えない。

 引き留めんと伸ばした族長の腕が幾人かの胸倉を掴むも、必死の形相で拘束を振り解く手下達。その不甲斐無さに「腑抜けがっ!」と悪態を吐く。同時に、瓦解した自分の統率力に毒づく捨て台詞せりふでもあった。

 成敗すべき者が離散しようと、火焔神ひのかみの作為は続く。放置された貨物列車の積荷に、刻一刻と火山灰が層を厚くする。物欲し気に眺めていた彼も諦めざるを得ない。米俵の一つを肩に担ぐと、後ろ髪を引かれる思いで仲間の背中を追い始めた。


 西門から逃れた卑弥呼は一路、吉野ヶ里の常設市場マーケットを目指す。西南西の方向、徒歩でも1時間ちょっとの移動距離だ。

 槍と同じ程度に長い太竹を2本並べ、約60センチ四方の麻布でつないだ担架のごとき移動具。竹竿の端を前後2人の衛士えじが両手に握る。ホッ、ホッ。にない手の掛け声に合わせ、節奏リズム良く揺れる移動座席。

 布板に腰掛けた卑弥呼は、振り落とされぬよう、竹竿を強く握り締める。主女あるじと同様、7人の宗女達も運ばれるに任せていた。都合八つの担架を50人程の衛士えじ達が取り囲み、闇夜を駆け抜けて行く。深夜の逃避行。朝日はおろか、三日月すら未だ顔を見せない。

 刈り立ての田圃たんぼを区切る畦道が心許無い逃走路。彼方に茅屋の三角影を認めるも、其処を寝座ねぐらとする庶民は安眠を貪っており、緊迫の逃走劇が進行中だとは夢想だにしない。

 吉野ヶ里までの中間に位置する村に到着すると、村の入口で担ぎ手が一斉に交代。地元民との接触を避け、休む間も無く移動を再開する。緊張と恐怖に冷汗を流し続けて30分余り、一行は這々ほうほうの体で目的地に辿り着く。入場門の両脇には篝火かがりびが焚かれ、門兵2人が寝ずの番をしていた。

「皆を起こせ!。我がきみは此処に居らっしゃる」

 邪馬台城と同じく東西南北に四つの門が設けられ、各門に2脚ずつの炬火柱が灯されている。但し、灯光の届く範囲は限られ、自らの存在を周囲に知らせる灯台の役割と大差無い。

「城が襲われた!。追捕ついぶの手が迫るやも知れぬから、篝火の数を増やすのだ!」

 天空の光源は煌々と流れる天之河のみ。物見櫓ものみやぐらからの索敵効果も限られる。

「見張りを市場周辺に放て!」

 逃走部隊を率いる中隊長が矢継ぎ早に指示を出す。

 門兵達が前代未聞の緊急事態を何処まで理解できたのか?――は甚だ疑問であったが、兎に角、足をもつれさせつつ屯所とんしょに駆けて行く。彼らの任務はもっぱら夜盗相手の警戒警備。小競り合い程度には一切動じないが、合戦ともなれば話は別である。 

 市場に集う人々の目的は商売。1日では商いが終わらず、訪問者の多くは郭壁の内側で野宿する。夜盗を心配せずに済むからだ。普段は安眠できるのに、今夜は事情が異なった。市中の不穏な気配に起き出し、兵士達の慌ただしい動きを寝惚け眼で見守っている。

 吉野ヶ里は、邪馬台城と概ね同じ面積を占めるものの、当然ながら外観の異なる点も多々有る。

 最大のそれは煉瓦作りの構造物と無縁な事。何故なら、政治や生産、貯米の拠点ではないからだ。交易の要衝に過ぎず、頑強な建造物の必要性を認めていない。

 市場を取り囲む郭壁も、丸太を地面に突き刺しただけの粗雑な構造で、邪馬台城の城壁には大きく見劣りする。念の為、楼観ろうかん等の中核構造物だけは個別に外堀と内堀とで二重に囲っている。更に掘沿いにも丸太の防護柵バリケードを築いているが、本格的な防衛設備とは言い難い。

 卑弥呼と宗女達が楼観――高床式の二階屋――に腰を落ち着けた頃には、四方八方で篝火が焚かれ始めていた。入場料――少量の籾米――を徴収し、定期的に城まで運ぶ役人を市頭いちがしらと呼ぶ。楼観とは、市頭(市場責任者)の職住拠点であり、宮殿と比ぶべくもない。

 それでも、彼女らは大きく安堵の息を吐いた。此処には邪馬台に属する庶民しか居らず、誰も自分達に危害を加えたりしない。九死に一生を得た今は、それだけで十分であった。

 2階の縁側から眼下に視線を漂わせ、環状に連なる火焔かえんを数えては安堵を重ねる。東の夜空には下弦の薄細かぼそい三日月も昇って来た。僅かに薄らいだ闇夜を通して遠くを眺める限り、攻め寄せる軍勢は認められない。

 冷汗に濡れた服地が夜風に冷やされ、肌寒さに身震いする。駐在の者が運び込んだ火鉢に覆い被さり、手をかざす。前身に当たる心地良い暖かさが、緊張の糸を解し、夢の世界へと誘う。無理も無い。今夜は一睡もしていないのだ。

 忍び寄る睡魔には抗えず、半眠半覚醒の意識を目蓋が封印しかけた、その時である。

 最初の異変は、城よりも遥か向こう、東の空を赤暗く照らす不気味な鈍光だった。続いて、月光ばかりか天之河の輝きまでもが刻々と黒雲に掻き消され、世界は地獄の闇に隠され始める。

 止めの一発は体感に訴えて来た。微かに感じる振動の正体は身震いなのか、地面の揺れなのか。横揺れの前兆から間髪を容れず、大地を上下に揺さぶる激震が襲う。

 火鉢が軽く跳ね、姿勢を崩した卑弥呼は後ろ手に身体を支えた。平衡感覚を正す間も無く、ドドーンと腹に響く重低音が耳朶じだを叩く。天神の弩声としか思えない大音量が駆け抜ける。

「キャア」と悲鳴を上げた宗女達が四つ這いで主女あるじの元に参じる。安否を慮る動きではなく、現人神あらひとがみの御加護を頼らんとする条件反射だった。だが、慕われた方も心中が穏やかではない。今宵は狗奴人くぬびとに襲撃された不吉な夜。初めて遭遇する現象に「よもや?」と訝り、恐怖心を募らせる。

――先代から言い伝えられし神罰ではないか?

 背筋に悪寒が走り、歯の根が合わない。顔面蒼白となった彼女は、両腕を強く抱き締め、鳥肌立った身体を必死に宥めようとした。

 数百年振りの大規模な噴火だった。火山性地震が断続的に続くも、鶏鳴が昇日を告げる時頃までは全貌を把握できない。暁闇ぎょうあんの中、仄白む東の空に目を凝らしていると、鉛色に染まった偽りの曇天が姿を現した。

 天変地異を認めた卑弥呼は「誰か!」と叫び、参上した市頭に命じる。

「至急、末蘆まつろからオモイカネを呼び戻しなさい」

 毅然とした口調であったが、声音には畏れがにじんでいた。


 肌寒い季節には珍しく、オモイカネは真綿で首を絞められるような寝苦しさに何度も目を覚ました。得も言われぬ胸騒ぎに安眠を妨げられ、招待所の寝床で微睡まどろみながら朝を待つ。

 朝鶏の声を合図に早々と起き出した途端、常軌を逸した自然現象に慄然とする。東から天頂を抜けて西に至る卯酉線ぼうゆうせんを境に、天空が真二まっぷたつに割裂していたのだ。南半分だけが曇天に覆われ、残る北半分には澄み切った青空が広がっている。目をすがめて雲状を仔細に観察すれば、鈍色にびいろの表層は泡立っている。

 気を取り直そうと眼前の玄界灘げんかいなだに視線を落とす。北部九州の沿岸部には那岐族の海辺集落が幾つも点在し、彼の滞在する末蘆まつろ集落(佐賀県松浦市)は最大規模の戸数を誇った。約200キロの彼方、朝鮮半島との交易で潤っているからだ。

 勿論、当事の航海術では対馬海峡を一足飛びには渡れない。幸いなるかな。南北に細長い対馬島が良い塩梅あんばいで海路の往来を助けている。朝鮮半島から島の北端までは約50キロの距離に過ぎない。島の南端から九州本土までは約100キロと幾分は遠いものの、その途上には飛石の如き壱岐島が浮かぶ。

 また、貿易港としてのみならず、漁業基地としても栄えていた。対馬海流が東シナ海から多種多様な魚を玄界灘に誘い込むのだ。つまり、末蘆人まつろびととは船の扱いに長けた集団であり、海を語る上では無視できない存在であった。

 後世には『松浦党まつらとう』と総称される水軍勢力が群雄割拠。時々の惣領に従って源平合戦や元寇撃退に勇名を馳せるようになった。戦国時代には『村上水軍』と並び称され、周辺武将の征圧や懐柔の対象となる。

 加えて、優れた造船技術も特筆に値するだろう。海岸間近まで押し迫る山々で古木を伐採し、かしけやきくぬぎを始めとする硬木かたぎから木造船舶――1本の巨木から2隻の丸木舟――を作る。

 切り倒した丸太は、切断面にくさびを打ち込み、縦方向に割る。蒲鉾状に二分割した後は、長方形の平面を鍬斧ちょうなえぐって漕手(水手かこ)の座る空間を作り、槍鉋やりがんなや小刀で形を整える。通常は精々数人の乗船を想定した大きさで、沿岸の漁場に赴く手段として活躍している。

 目立つ存在の貨物運搬船は双胴構造。2隻の単胴船を並べ、間に渡した筏で相対の舷側同士を連接する。裏面に何本もの梁を通した平板部分には大量の積荷を載せ、増える一方の海上物流を担う立役者だ。

 漕手の体力に航続距離が律則されては用を成さないし、重量も嵩むので、海風を最大限に活かしている。甲板中央部に立つ帆柱マストは見上げる程に高く、帆布はんぷ替りの竹簾たけすだれを広げた雄姿は(鳳凰も斯くや)と見る者を圧倒した。

 短櫂オールを使っての推進も可能だが、飽くまで拡帆航法が転覆の危険を招く時――例えば暴風雨――に限った遣り方だ。現に今も、眼下の洋上には何艘もの双胴船が浮かび、皆が皆、竹簾を広げている。普段と何ら変わらぬ、長閑な一日が始まろうとしていた。

 冬が間近に迫った九州では北西からの季節風が吹き始め、噴煙は北方に漂って来ない。天候を知悉するオモイカネだけが異変を直感的に理解できた。遠くから指を咥えて見ているしか能の無い自分が歯痒はがゆく、居ても立っても居られない。

――直ぐに戻らなければ・・・・・・。

 一際ひときわ大きな木造家屋に急ぎ参上すると、族長への面会を求めた。

「今朝の異変は只事ではありません」

「ええ。私は斯くも禍々まがまがしき空を初めて目にします。あの山容の彼方に凶事が舞い降りているのは一目瞭然。さぞや邪馬台の安否が心配でありましょう」

「はい。ですから、どうか私の帰参を御許し下さい」

「構いません。ところで、貴方様の検分が済んでおらぬ黒き岩の取扱いですが、如何いかが致しましょう?」

「族長を信頼しておりまする」

「壱岐経由で弁韓べんかんに運び、鉄餅てっぺいと交換すれば良いのですね?」

 弁韓とは朝鮮半島南部、後世の任那みまな、現代の韓国慶尚キョンサン南道の辺りを指す。中継拠点となる壱岐島の中核集落は現代でも原辻はらのつじ遺跡として有名だ。

「はい。そのように。どうか宜しく御願い致します」

 末蘆集落を出立しゅったつしたオモイカネは小走りに東を目指す。海岸沿いに伊万里を通過し、伊都いとの手前で出迎えの衛士えじら4人と合流した。彼らの持参した擬似担架に乗り、吉野ヶ里へと急ぐ。

 道すがら報告を聞き、昨夜の顛末を知る。れも驚く内容ばかりだった。卑弥呼の無事は何よりであったが、慌てて自分を呼び寄せたと聞くに付け、(そんなにも深刻なのか・・・・・・)と押し黙る他はない。


 帰着したオモイカネは市頭の楼観で卑弥呼と向かい合った。宗女達を退がらせ、今は2人切りである。再会を喜ぶ余裕は無く、沈痛な面持ちで今後の対応を協議する。

「大変な事になりました。われの治世が至らぬばかりに、火焔神ひのかみが怒りを爆発させました」

「卑弥呼様の治世が悪いとは・・・・・・私には思えません。城民のみならず、地方の民も皆、幸せに暮らしております」

 項垂うなだれる女王を智臣が懸命に慰める。

「ですが、オモイカネよ。実際、狗奴くぬ者供ものどもが刃向いました。世は乱れたのです!」

 図らずも強い口調で吐露したが、解き放った言葉に改めて恐れを成し、崩した膝の上で両手を強く握り締める。冷酷な事実を前にしては、人生経験の豊富な彼にも慰撫の言葉が浮かばない。

「斯く成る上は、この身を捧げて火焔神ひのかみを鎮める他は有りません。残念ですが・・・・・・」

 ガックリと肩を落とした女王の声が消え入る。

 就寝前に宗女達の梳かした長い黒髪、今は汗と埃でベッタリと横顔に貼り付いている。憔悴し切った表情に胡乱な眼差し。存在を否定されたと信じる彼女の視線は焦点を結んでいない。

 打ちひしがれた彼女とは対照的に、口惜しさの余り苦虫を噛み潰すオモイカネ。猶も言葉を探そうと苦悩する。

「卑弥呼様。もう少し様子を見ましょう。火焔神ひのかみの御怒りも直ぐに止むかもしれません」

 現人神あらひとがみとして尊敬を集める2人であったが、所詮は人の子。神意を予測するすべは無い。気休めに過ぎぬ台詞せりふだと両人が理解していた。

 たまれず、いきり立つオモイカネ。冷静沈着を常とする彼ですら腹癒せの誘惑に克てない。異変を招いた張本人に怒りをつけようと、階下を見下ろす縁側から大声でミカヅチを呼ぶ。

罪人つみびとを連れて来い!」

 後ろ手に縛られた戦犯が引き立てられる。楼観前の中庭では、厚剣を持ったミカヅチが待ち構えていた。城の防備を衝かれた失態を挽回する為、自ら斬首する積りのようだ。

 屹立する熟年男しか頭上に視認できずとも、その奥には女神が居るはずだ――と察知したスサノオ。背中を蹴られ蹌踉よろめきながらも大声を張り上げる。

「俺達は不思議な白い粉が欲しかっただけなんだ!」

「控えろっ!」

「邪馬台に盾突こうなんてこれっぽっちも考えちゃいねえ。どうか、話し合いを!」

 独善的な要求に応える義理は無いものの、精気を失った俯き顔が条件反射的に上がる。招いた重大事に吊り合わぬ軽薄な弁明。理不尽さに憤慨する一方、「白い粉は匹夫の扱える代物でもないのに」と少し呆れもする。

――もう如何どうでも良いわ。全てを失ったのだから。

 叛乱の動機が判明したとて、心身に纏わり付く虚無感は一向に霧消しない。

「言いたい事を言えて良かったな。続きは根国ねのくにで気の済むまで戯言ほざくが良い」

 強く腹を蹴られ、ゲホリと咳き込みながら前屈みに倒れ込むスサノオ。露わになった背中を踏みしだき、その首に剣刃を当てるミカヅチ。

「卑弥呼さまぁっ!」

 助命嘆願の言葉が延々と続く。土壇場の叫びを遠くに聞きながら、彼女は(常世とこよへの道を一緒に歩むのは嫌だな)と、ぼんやり考えていた。

「オモイカネ様、この狼藉者を殺しても構いませぬな!」

 殺意をみなぎらせた怒鳴り声に承諾の返事を放とうとした矢先だった。女王が「オモイカネ」と小声で呼び止める。「はっ」と背後を振り返る智臣。

 彼の目に写った姿の何と弱々しい事だろう。今にも泣き出しそうな表情で下唇を震わせている。やっとの事で半開きの両唇から諦念の言葉を絞り出した。

「その者を殺すのは止しましょう。今更・・・・・・ですしね」

 堅く結んだ両のこぶしを凝視しながら、今度は自分に言い聞かせるように再び呟く。

「卑弥呼となって以来このかた、諍いの無い、平和で豊かな世を作ろうと、心を砕いて来ました。・・・・・・われなりにね。その努力を最期まで貫きたいと思います・・・・・・。だから、無益な殺生は避けて下さい」

 一方、部下の心情を察するに、自分の矜持だけでは納得させられぬ。何らかの大義名分が必要だ。そんな気の回し方をする余裕は残っている。此の期に及んで不思議な事だとは思うが、指導者として日々に心掛けた賜物であろう。

「それに、城で死んだ狗奴人も多いのでしょう?。家族の元にむくろを帰さねば。その者には葬送の役目を果たしてもらいます」

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