第01話 富分けの希求

「俺達は法外な要求をしていない!」

 仁王立ちとなったスサノオは邪馬台城に向かい雄叫びを上げた。彼の眼前には、身の丈の3倍は高く、両腕で抱え込めない程に太い丸太をつなげた門扉が屈起くっきしている。背後には徒党を組んだ1万人強の大群衆。手には石槍を握り、其れなりに威圧感を放っている。

 城に押し寄せたスサノオ達は熊本平野の出身で、魏志倭人伝に登場する『狗奴くぬ国』の農民集団だ。働き盛りの10歳から25歳の男ばかりが参集し、女子供や老人は留守居を預かっている。

 弥生時代末期。2世紀初頭の平均寿命は30歳にも満たない。それだけ生き延びる事が難しい時代であった。一方で、日本の総人口は約60万人。稲作の黎明期を迎え、縄文時代の3倍まで増えている。

 最大の人口密集地は此処、邪馬台城(佐賀県鳥栖とす市)を中心とする筑紫ちくし平野で、約15万人を擁する。

 平野面積は最大規模を誇り、海岸線の奥まった当時でも900平方キロ程度と広い。干拓が進んだ江戸時代に1200平方キロまで拡張されたが、それだけ期待される土地だったのだ。

 耕作地の広さを米穀の収穫量で評価してみよう。1平方キロ当り約500トンの現代と比べ、僅か100年前の明治時代ですら200トンに止まる。約二千年前の其れが現代の十分の一だったと見積もれば、4万5千トンと試算される。

 半面、現代日本人の1人当り消費量は60キロと少ないが、それは豊富な食糧に恵まれているからだ。弥生人の摂取量を現代人の3倍と仮定すれば、筑紫平野の扶養可能人口は25万人と推定される。つまり、周辺地域の人々――10万人弱――をも養っていた勘定だ。

 辺域の内訳を列挙すると、九州南部を拠点に独自の生活習慣を営んでいる熊襲くまそ族が約3万人。中津や宇佐を中心とした九州東部には黒輝族の生活圏が広がっている。その数は3万人弱。平野部の少ない九州西部でも、山間に点在するように1万人前後が暮らしており、那岐族と呼ばれた。

 九州第二の密集地は5万人強が暮らす熊本平野。先述の通り、地元民は自らの土地を『狗奴くぬ』と称していたが、元々の語源は『熊(の地)』。この物語では中国の歴史書に当字あてじされた『狗奴』を踏襲する。尚、月輪熊つきのわぐまは熊本以南に色濃く生息するが、『熊襲(くまそ)』とは「熊を襲う程に勇猛果敢な民族」と言う意味である。

 ところで、邪馬台城下の筑紫と隣接域の狗奴は東京都と埼玉県の関係に似ていると言えなくもない。農耕に依拠した両者の風習に根本的相違は無く、合わせて20万人の巨大な文化圏を形成していた。有明海の北東に広がる平野部に日本人の三分の一が集中していたのだから、その存在感たるや、読者にも容易に想像できよう。

 九州全域と本州全域は約30万人ずつで概ね拮抗する。稲作に支えられた九州の隆盛振りを端的に示す数値だ。富士山や浅間山などが順繰りに噴火する関東平野には入植が進んでおらず、広大なれど人口密度は低い。大阪平野――本州最大の生活圏――ですら熊本平野と同規模の約5万人に過ぎなかった。


「不思議な白い粉を分けて欲しいだけなんだ!」

 スサノオの求める『不思議な白い粉』とは酸化カルシウム。生石灰きせっかいと言った方が読者に馴染むだろうか。現代人と同様、除湿剤として利用し、巨大な穀物庫の床下に撒く。

 当時の一般的な貯米施設は木材組みの高床倉庫。湿度に応じて伸縮する木材が適度な通風性を保つにせよ、外気の遮断までは望めない。春先の長雨期を経て、本格的な梅雨時つゆどきを迎えると徐々そろそろ、保存状態が怪しくなる。酷い時には、水分を吸って発芽し、貯蔵物としての価値を失って仕舞う。

 一方、邪馬台城の穀物庫は秀逸で、堅牢な外観は巨大な蔵を思わせる。煉瓦とセメントを交互に積み上げた壁。丸太を割り裂いた平板を何枚も渡した屋根。その平板にはセメントを被せ、漆喰で上塗りする念の入れようだ。

 幾つかの採光窓を穿うがつも、壁全体に占める開孔面積比は僅か。更には、木工扉を几帳面に取り付けている。つまり、気密性に優れ、生石灰の除湿効果を存分に発揮できる仕様なのだ。相当に長い期間、籾米の越年貯蔵が可能である。

 その利点に狗奴人くぬびとは着目した。ところが、賢明なる読者は御気付きであろう。気密性の劣る高床倉庫も合せて改善しなければ、宝の持ち腐れだと。

 探求心に富んだ人々は挑戦し、失敗しくじっては改善を重ねる。幾世代も前から試行錯誤し、邪馬台城は知見を蓄積してきた。その先進性を容易たやすく真似できないからこそ、周辺集落は服従するのだ。


「邪馬台には感謝している。でも、自分達の米を自ら保管したいんだ!」

 収穫量の少ない地域に余剰米は生まれず、邪馬台城の貯米事業ビジネスは専ら筑紫ちくし平野と熊本平野の農民を顧客としている。

 預米者には引換証として銅貨を手渡す。朝貢の見返りに漢王朝や魏王朝から下賜かしされた物だ。日本に持ち帰っても、遣い道が無い。窮余の策として引換証に採用したが、始めてみると利便性がすこぶる良かった。

 50キロは入りそうな麻袋100俵に1枚の割合。銅貨で引き出せる籾米は80俵分。差引20俵が城の手間賃マージンだ。両手の掌腹てのひらを開かせ、十の指を眺めさせる。そして「あらぬ方向に突き出す親指の分だけ納めなさい」と仕切っている。

 表面的には貨幣経済のごとき現象であるが、需給で変化する米相場とは異なり、交換比率は揺るがない。

――何故、2割の暴利を貪る邪馬台城に預けるのか?――

 自ら保存しては梅雨時に少なからぬ量を断腸の思いで廃棄する。預米で8割が保障されるのだから、誰も不平不満を抱かない。

――それなら何故、狗奴人は邪馬台城に不満をつけるのか?――

 越年貯蔵を可能とした筑紫平野の発展は群を抜いている。豊かになれば、商品が集まる。物品を手放す者と求める者とを効率的に引き合わせる常設市場マーケットが城を中心に点在していた。

 その一つが吉野ヶ里。

 市場では、特産品を持ち寄った近隣住民が商売にいそしみ、その交換媒体として籾米が重宝されている。取引対象はいずれも小額商品。80の米俵に見合う物品は店頭に並ばず、銅貨の出番が無い。擬似通貨としては1升とか1合の少量で十分なのだ。

――潤沢な籾米が手元に有れば、自分達もあきないを催せる――

 少なくとも九州南部の熊襲くまそ族を狗奴の経済圏に組み込めるだろう。農業だけでなく、商業でも潤いたい。スサノオ達は、そう考えたのである。理路整然と算盤そろばんを弾かずとも、彼らの鋭い嗅覚は富裕へと通じる道を嗅ぎ取っていた。


「毎年、毎年。狗奴くぬ者供ものどもは本当に執拗しつこいですね。あの騒ぎに冬の到来を感じるようになりました」

 宗女達の前で、卑弥呼が倦んざりとした様子で独白する。季節変遷の風物詩には渡鳥の飛来や早朝の初霜が相応しい。風雅を愛する彼女にとって、俗世の極みとも言える騒動は無粋に過ぎた。

 稲刈り後の数週間だけ、狗奴人は徒党を組んで押し寄せる。抗議活動の期間は短いけれど、5年以上も続いていた。最初の参加者は村祭りと同程度だったのに、回を重ねるに連れて増え、今年は1万人を超える規模まで膨らんでいる。

 豊かさを求める飽く無き欲望は止まる処を知らない。「邪馬台に続け!」との合言葉に心をくすぐられた狗奴人は薔薇色の夢を膨らませていた。ただ、肝心の邪馬台城は無視を決め込み、彼らの野外喊声シュプレヒコールは負け犬の遠吠えと大差無い。

 だから、筑紫ちくし平野での野宿生活に飽いた者から三々五々、地元に帰って狩猟生活に入る。鹿や野猪いのししを求めて山野に分け入るが、時には熊襲くまそ族の案内で冬眠中の月輪熊つきのわぐまを捕獲したりもする。それに先立っての身体慣らしウォーミングアップと割り切り、示威行動に加わる者も多い。

 彼らの狩猟具は石槍だ。鋭く削った黒曜石を先端に差している。確かに殺傷能力を持つが、鉄製の武器を携えた城兵と戦おう等とは夢想だにしない。所詮は景気付けの小道具だと、そこはわきまえている。

 男達が口にする主食は持参した玄米。他には魚や肉の燻製、里芋や山芋等の根菜類が食卓に並ぶ。ジャガイモやサツマイモは、戦国時代の末期に近世欧州ヨーロッパから伝わった作物であり、弥生時代には見当たらない。

 食糧の補充や細々こまごまとした生活必需品は現地調達する。多大な経済効果をもたらす団体旅行客と同じだ。地元民は、彼らを密かに歓迎しつつも、抗議活動とは距離を置いている。邪馬台城が在ってこその御利益だ、と肌身に沁みて理解しているからだ。

 一方、留守宅を預かる狗奴の女子供は、雑木林を散策し、栗や胡桃くるみの採取に明け暮れる。木実きのみも貴重な越冬食糧なのだ。柿の実を見付ければ、それも口にする。乾燥保存が基本だから、離郷中の男達が熟柿の柔らかい食感を味わう事は無い。今はもっぱら彼女達の甘味糧デザートとなっている。


「大勢の生口いぐちを集めて一体、何をしたいのでしょう?。われらは痛くも痒くもないと言うのに」

 直径1キロ強の少し歪な円形の敷地に築城された邪馬台城。天皇が住まわれる現代皇居よりも僅かに広い。皇居前広場、北の丸公園や日本武道館まで含めた、広義の皇居と概ね同じ敷地面積であった。

 外周に巡らせた城壁の高さは5メートル程度。煉瓦積みの頑強な構築物だ。その内側には水濠と土塁を二重にしつらえている。人間の背丈程の深さで水濠を掘り、掘削土を盛った塁上には防護柵バリケードを築いている。丸太を交差させた鹿砦ろくさいと合わせ、防御力は鉄壁だと言えよう。

 城と言っても、卑弥呼の宮殿は慎ましく、天守閣とは程遠い。城内では寧ろ、建ち並ぶ穀物庫や工房棟、居住棟の方が存在感を放っている。何しろ1万人程度の人間が暮らす城郭都市なのだから。

 工房棟のれもが穀物庫と同じく煉瓦造り。但し、通気性を優先した仕様だ。棟内で発生する熱を逃がす為、軒下の壁面には空隙を広く開けている。ふいごを使って加熱された窯内の温度は高く、職人は皆、岩塩を嘗めながらの作業を強いられていた。

 それら工房の一つでは、鉄素材を鍛冶打ちする槌音が幾つも鳴り響いている。

 鉄餅てっぺいと呼ばれる素材の形状は薄っ平な長方形。表面は赤錆に覆われており、現代人には襤褸ぼろ同然となった雑巾を思わせる。梁山ヤンサン――2世紀当時の鉄鉱山――の付近、現代の韓国慶尚キョンサン南道で製造された交易品だ。

 陳寿なる人物が3世紀末に記した歴史書『三国志』には、日本に関する章編も編み込まれている。俗に『魏志倭人伝』と称する該当部分には、『韓半島の南部、弁辰地方にある狗耶くや韓国は、製造した鉄を倭人やまとびとの米と交換している』との記述が見える。

 その中国人の食文化は、小麦主体(麺、餃子、饅頭)の華北・東北地方と、米主体の華中・華南地方に大別される。稲作が中国大陸から朝鮮半島経由で日本に伝来した――との通説は、広大な小麦食の文化圏を米食文化が飛び越えたとの妄想に立脚する。

 実際、イネの遺伝子調査を通じて朝鮮半島ルートは否定され、長江流域から直接伝播したと判明している。恐らく、東シナ海を渡航した華僑が伝えたのだろう。つまり、朝鮮半島の人々は米穀を日本から輸入していたのだ。

 当時の日本人は、鉄餅を鍛冶打ちする事で、農具や大工道具を調達していた。くわすきかまなたおの鍬斧ちょうな金槌かなづち槍鉋やりがんなくさびのみ、小刀。数え上げれば切りが無い。少ないながらも、武器すら製造している。鉄器こそが邪馬台城の君臨を支える権力の源泉であった。

 二種類目の工房群は生石灰きせっかい(除湿剤)の製造現場。

 製造工程は、炭酸カルシウム(石灰石)を825℃以上に熱する事で二酸化炭素を放出させ、酸化カルシウム(生石灰)とする化学反応だ。石灰石の産地はカルスト地形で有名な平尾台、城の北東60キロの距離に広がっている。

 カルストの地下を這う鍾乳洞しょうにゅうどう。悠久の時を雨水に浸食され続けた石灰岩の成れの果てだ。つまり、壁面を削るだけで済む。他にも、石膏(硫酸化カルシウム)や岩塩(塩化ナトリウム)が採掘できる。其々それぞれが異なる地層に含まれ、容易に掘り分け可能であった。

 最大規模を誇る三種類目が須恵器すえきや煉瓦の工房群だ。片手間に木炭や竹炭をも作っている。

 朝鮮半島から製法が伝わった須恵器は、900℃程度の野焼きで作る従来土器と違って、半地下式の窖窯あながまを使い、1100℃以上の熱量で焼成される。

 高温焼成により強度の増した土器は薄肉化の方向に進化した。取り落とせば割れるとしても、人々は軽い鍋や食器を歓迎した。平安時代までの永きにわたって、須恵器は使用され続ける。それだけ完成の域に達していたと評価できよう。

 伝来技術を逸早いちはやく遣いこなした邪馬台城はセメントすら生産している。石灰石・粘土・硅石・スラグを混成した半製品(クリンカ)を高温環境下に晒す。その後、焼き固めたクリンカと石膏を砕き、混ぜ合わせた粉状製品がセメントだ。製造には窖窯の昇温能力が欠かせない。

 質の良し悪しに目を瞑れば、全国的に粘土の調達は容易たやすい。ちなみに、有田焼の原料として有名な天草陶石は、熊本県天草下島――鳥栖とす市の南南西100キロ――で採取される。有明海の海運を使って効率良く、城内に良質の粘土を持ち込んでいたのだろう。

 硅石――鉱物学的には石英――は、大分県由布市の伽藍岳(硫黄山)の火成岩から採掘していた。伽藍岳は鳥栖市の東方70キロの距離に位置する。

 スラグとは製鉄工程で発生する副産物。再利用の道を知らぬ当時は廃棄するしかない。つまり、朝鮮半島から無料タダ同然で仕入れていた。

 邪馬台製セメントの優れた耐久性も特筆すべきだろう。妙薬として添加する阿蘇山の火山灰が効いている。

 古代ローマ時代の遺跡群――円形競技場等――が往年の姿を現代に留める最大の理由は、風雨の浸食被害が軽微な地中海気候にある。しかしながら、ボスピオ火山の噴灰を混ぜたセメントの貢献も無視できない。


「城の営みには支障を来しておらぬのでしょう?」

 卑弥呼に念押しされた内守うちもり衛士えじうやうやしく「何ら問題は御座いません」と答える。

 城門は東西南北に1箇所ずつ、全部で四つ。熊本平野から北上した狗奴人は南の門前でたむろしている。換言すると、残り三つの門前には平時と変わらぬ長閑な光景が広がっている。

 魏志倭人伝に『伊都国』と記載された交易拠点の伊都いと郷。その所在地は現代の福岡県糸島市。佐賀県との県境に近く、脊振せぶり山地の麓で玄界灘に面する。交通の要衝地ゆえ、此処にも常設市場マーケットが設けられていた。

 朝鮮半島からの舶来商品は、脊振山地を東に迂回し、福岡平野を横目に大宰府を通過。筑紫ちくし平野を南下して、北門から城内に運び込まれる。

 米穀以外の食糧を始め、国産品の大半を仕入れる吉野ヶ里の常設市場マーケットは西方に位置する。鉱物資源は東門から搬入されていた。だから、邪馬台城の経済活動には何ら支障が出ていない。

 尚、物資の運搬に当っては、人間が広さ1畳ほどの台車を曳く。野生馬は、九州南部の霧島連峰を始めとした奥深い山中で見掛けるも、未だ飼い慣らされていない。

 当時の畜産対象は食用の小動物や番犬に限られる。子豚や庭鶏にわとりは天敵の狐に襲われ易く、人家に隣接するようにして飼育小屋を建てる。更には木柵で囲み、外周には水濠を巡らす念の入れよう。狐が水を恐れるからだ。また、屋内に保管した食糧さえも掠め取る厄介者の猿だって泳げない。

 報道番組で流れる猿が温泉を楽しむ映像は、たまさか入浴の心地良さを経験できた個体の演じる局所的現象である。誤解した現代人が多いようだが、珍しいからこそ外国人旅行者が殺到するのだ。

 水濠を掘削する時に発生した土砂は外縁に盛り、家畜の離散防止も兼ねた一石二鳥の環濠構造とする。考古学の通説は戦闘に備えた土木様式と見做しているが、真の目的は獣害対策である。

 話を馬に戻して、体格の似る鹿と比較してみよう。山奥では俊敏に動き回れず、山狼おおかみの餌食となり易い。四つの胃を持つ鹿は反芻しながら消化するが、馬の胃は一つ。食する植物も選り好み、樹皮で飢えを凌ぐ真似も出来ない。当然の帰結として、個体数は鹿よりも圧倒的に少ない。

 前述の歴史書が『倭には馬が居ない』と伝えるも、正確を期すならば、人間社会に家畜として組み込まれていない、と記述すべきであった。

――何故、『馬』の漢字を当字あてじした『邪馬台国』と表記するのか?――

 弥生人は文字を知らない。中華史書の編纂に参画するべくもないが、本来は『冶マ台国』と記述するのが正しい。冶金技術の黎明期を迎えた女王の統べる国と言う意味だ。

 母親を意味する中国の漢字『マ』は、女へんの右横に馬と書き、maと発音する。日本語には存在しない。蛮国を記述する際に女へんは省かれ、発音が殆ど同じの『馬』に変化した。冶金を意味する漢字も同様。同じ発音の『耶』に格下げされ、更に草書の転記ミスで『邪』に転じた。

――『卑弥呼』の当字あてじも誤解と侮蔑の産物であり、正しくは『輩米婦』と書くべきだ――

 中華皇帝に謁見した遣使は「貯米により人民は飢えと無縁だ」と女王の治世を称賛した。だから、『輩米婦(発音はbei-mi-fu)』。

 ところが、偏見の強い書記官によって、中国語で同一発音の『卑弥呼』に書き換えられる。偶々たまたま、日本語の発音が『日御子ひみこ』と同じだから、定着する事となった。日本人が漢字を使い始めた時期は大和朝廷の時代。異議を唱えたかも知れぬ彼女は既に存在しない。

 中国人が日本を文明度の低い国としか認識しない故の卑称である。酷い話であっても、それが当時の現実だ。それに、邪馬台城の住民は勿論、卑弥呼にすら国家の概念が無かった。

 経済活動ネットワークの中で最重要な歯車として機能する矜持を抱きつつも、周辺地域を支配対象とは見做していない。九州全域に点在する集落は交易相手なのだ。武装した兵を抱える目的はもっぱら自警。付加価値の高い物資が溢れており、城内の防備を怠れば、盗賊のたぐい簒奪さんだつされ兼ねない。

 程度の差は有れ、吉野ヶ里、伊都の常設市場マーケットも同様である。敷地内の要所々々には深い堀と土塁を巡らし、土塁の上には逆茂木さかもぎに突き刺した丸太の防護柵バリケードわざと切り残した枝が丸太同士の間隙を遮り、さながら有刺鉄線を張り巡らせた様。少数ながら警邏兵けいらへいも常駐する。

 飽くまで武装目的は交易につどう者の生命と財産の安全。他集落との武力衝突は想定していない

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