卑弥呼とスサノオの系譜〜邪馬台国隠滅記1〜
時織拓未
はじめに
中国の歴史書に拠ると、2世紀前後の日本には、女王の統べる邪馬台国なる国家が存在したそうです。断言しない理由は、肝心の日本側で記録されていないからです。古事記や日本書紀を編纂した大和朝廷にすれば、日本以外に統一国家は在り得ず、その存在を正史から消し去るのは当然です。
確証の無い古代日本史だからこそ、多くの者が貴賎を問わず、想像力を巡らせ続けました。端的には「邪馬台国の所在地は?」との疑問ですが、江戸時代より始まった九州北部説と近畿説との論争が今以って決着していません。
私自身は、『佐賀県鳥栖市に所在し、石灰石文明を築いていた』との仮説を主張します。
石灰石文明。聞き慣れませんね。詳細説明の必要性を承知しつつ、まずは製鉄業に話を転じます。石灰石は製鉄業と二人三脚の関係にあるからです。
鉄鉱石(酸化した状態の鉄)を炭素と一緒に強い火力に
有名な
ところが、鉄が溶ける程の高温(1400℃~1600℃)ですから、窯の内部だって焼損します。だから、耐火煉瓦で内壁を覆い、壺状の内部に溶けた鉄を溜めます。この耐火煉瓦の主原料が石灰石なのです。
続いて、鳥栖市の立地を評価してみましょう。
弥生時代後期に
次に、鳥栖市の北東50キロ程の地には、平尾台――日本三大カルスト地形の1つ――が広がっています。羊の如き白い岩石が草原に群れている、あの光景です。
前述の通り、石灰石と硅石を混ぜて焼き固めると、原始的な耐火煉瓦になります。硅石は、火成岩に含まれる石英ですが、鳥栖市の東70キロ程に
また、製鉄に用いる還元剤の炭素ですが、製鉄黎明期に用いた木炭よりも、石炭の方が強い火力を発します。
日本には坑道を深く堀る炭鉱ばかりとの先入観を抱き勝ちですが、実は露天掘り可能な炭鉱が有ったのです。福岡県若宮市の貝島炭鉱。鳥栖市から北北東50キロ程、平尾台の西隣です。歩いても1~2日の距離です。
さて、今度は近隣諸国に目を転じてみましょう。
韓国に相当する当時の朝鮮半島南部では、
北朝鮮と違って鉱物資源に恵まれない韓国ですが、百済と新羅の領土には小さいながらも炭鉱と鉄鉱山の両方が在りました。(北朝鮮に重なる地域は高句麗の勢力圏でした)
一方の任那は致命的な弱点を抱えていました。具体的には、半島南端に
任那の鉄鉱石と、邪馬台国の石炭や耐火煉瓦。両国間には戦略的互恵関係の成立する余地が大きかったのです。実際、後の大和朝廷は任那と友好関係を結び、新羅に滅ぼされる直前の任那に援軍を出しました。武器や農具の材料となる鉄の調達問題が絡みますから当然でしょう。
対馬海峡の渡海路を中継せんと、壱岐島と対馬島が約50キロの間隔で飛石状に浮かびます。九州と韓国南部の往来が盛んだった事は、衆目の一致する処です。
以上の考察を踏まえると、鳥栖市を拠点に国家が営まれたとの想像は理に適っています。
石灰石文明には製鉄業の他にも際立った特長を見出せます。それはセメントです。
製造に必要な材料は、石灰石を始め、粘土・硅石・製鉄工程で発生する副産物。
野焼きでは実現不能の温度ですが、人々は土器を
「邪馬台国はセメントを製造していたのでは?」と、私は睨んでいます。
長い年月を経て習得した組成比率――現代でも企業秘密――を、門外不出の情報として独占したに違いありません。「卑弥呼は神術に長けた巫女だ」との伝説が生まれる
粘土を焼き固める通常煉瓦の製造はセメント以上に容易です。
想像するに、邪馬台国の建築物は、煉瓦を積み、床や屋根には平板を渡した構造。今で言う
反面、石材に比べて、煉瓦の劣化は早い。加えて、地面を整地して煉瓦を並べるだけの簡略工法。つまり、基礎工事を省略します。千年以上も風雨に晒されては、遺構の
こんな
これから叙述する物語は、
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