第19話 慶事で迎えた新時代

 西暦195年の秋。ナムジとヤガミが結婚式を挙げる。

 2人の年齢は18歳と15歳。ヤガミ自身は少々気早に過ぎると感じていたが、本人達の意向は扨措さておき、周囲の節介焼きが「適齢期だから」と煩かった。娯楽の乏しい社会だ。人々は刺激に飢えている。親兄弟といえども例外ではない。祭騒ぎの高揚感に舞い上がった者の台詞せりふは一様に〝善は急げ〟である。

 弁韓人べんかんびとは、船倉に残っていた白地の絹布で婚礼衣装を作り、2人に贈呈した。新郎の着る長襦袢じゅばんには、前裾を結ぶ紐が左右に縫い付けてある。花嫁衣装は丈短たけみじかの半襦袢と丈長たけながの袴の組合せ。漂着民達は前者を『チマ』、後者を『チョゴリ』と紹介した。

 朝鮮半島の民族衣装なのだろうが、袴の腰紐を乳房の下で結び、胸の膨らみを強調する意匠デザインは官能的に見栄えする。

「御洒落な袴ねえ」

 披露宴に先立ち、ヤガミの花嫁姿を眺めるオオヤツ妃。恍惚うっとりと見惚れ、溜息を漏らす。彼女の場合、単なる鑑賞者に甘んじるのではなく、美の探究者としての強い関心を呼び覚まされたようだ。「ウズメの袴よりも随分と裾が膨らんでいるのが不思議」と、着衣を念入りに検分する。

「そうか、絹布を不断ふんだんに使って、胸回りの折返しの数を増やしているのね。贅沢な衣装だわ」

 御多分に洩れず、彼女の生活圏も黒木集落の内に限られた。『海の向こうは常世とこよ』との迷信に囚われ、外界に踏み出そうとは露にも思わない。ところが、双胴船での船旅に挑戦し、尾道おのみちからは馬上に揺られての山越えをこなす。全てが初体験だった。

 道中に味わった興奮が、遅ればせながら、彼女の知的好奇心を刺激したようである。遠路の苦労が老体に鞭打ったのは事実だが、解き放たれた知識欲は彼女を精神的に若返らせもしていた。

 それに、結婚式に臨む息子夫婦を目にするや、嬉しさに長旅の疲れも吹き飛ぼうと言うものだ。奇禍に遭ったアマツとカツヒを偲ぶに連れ、新天地で新たな人生を歩み始めた三男の晴れ姿に胸を撫で下ろす。

 当の息子は、緊張なのか照れなのか、仏頂面を崩さない。これではヤガミが余りに可哀想。白く着飾った瑞々しい姿を見るに付け、朴念仁の尻を叩かねば――との思いを強くする。

「こんなに綺麗な御嫁さんだもの。大切にしなさいよ」

 暇を持て余し、棒立ち状態の息子に激励の喝を入れる。

「分かっているよ、母さん」

「御義母様。これからも宜しく御願いします」

 嫁の叩頭に「何よ、改まったりして」と慌てる義母。右手をひらりとなびかせ、「他人行儀は止して頂戴」と照れ隠し。

「それに、私の方こそ頭を下げなくちゃ。出雲で世話になるんですもの」

 オオヤツ妃は42歳。短い余生を息子夫婦と過ごし、異郷に骨を埋める積りであった。親類縁者や旧知の友人にも今生の別れを告げ、住み慣れた邸宅を出立しゅったつした。政治的にも、首長おびとの地位を娘婿ホノギに譲ると正式に宣言し、後顧の憂いを断っての移住である。

 宮崎平野は、スサノオが流れ着いた昔日とは様変わりして、今や立派な穀倉地帯。林業と造船業で栄える英多あがた(現延岡)の発展も目覚ましく、田園地帯に伍する規模まで人口が増えていた。首長おびととなったホノギは、その広大な統治範囲に『日向ひむか』と命名し、人心の刷新を図る。

『昇日に向かいし地』なる地名はいまの繁栄に相応しい――と、誰もが実感する処だ。尚、『日向』は由緒正しい領国名称として後世の律令体制に組み込まれる。

「でもね、安心して。私はヤガミ姫の実家で御厄介になるから、貴女達は夜の営みに励むのよ」

 経験者らしい戯言に、初心な2人は赤面して黙り込む。

「初めて貴女と会ってから、もう1年が経つのね。何だか慌ただしくって、アっと言う間だったわ」

「そうだね、母さん。でも、こうして一緒に暮らせるんだし、通い道を拓いた苦労の甲斐が有ったよ」

 道程を定める試行錯誤の過程にいては、ヤガミが相棒として苦楽を共にした。特に中国山地を跨ぐ山道整備の過程では、野性味の乏しいナムジを助け、狩猟の才能を存分に発揮する。自然の厳しさに耐えながら交易路を開通させた経験は、賞賛に値するのみならず、彼らの紐帯を強くした。

「本当にねえ。2人とも有り難うよ」

 日向在住時より彼らの奮闘振りは聞き及んでおり、両人の絆を頼もしく感じてもいる。息子の太い二の腕に手を添えると、押しも押されもせぬ丈夫ますらおになった――との想いで感無量となるオオヤツ妃であった。


 かげり始める陽光に促され、3人は新築のナムジ宅から集落長邸へと移動する。屋敷の入口を潜ると、広間には料理の載った須恵器すえきや木器の皿が所狭しと並び、滞りなく披露宴の準備が進んでいた。

 今夜の祝宴は、豊穣祭の意味合いも兼ねており、集落内の重鎮を全て招待している。漂着民が其々それぞれの新居に移り住んで閑散としていた屋敷も今夜だけは再び手狭になるだろう。気の早い村人が何人か、既に座り込んで談笑している。

 片隅では、スクナが胡坐あぐらに乗せたトヨタマをあやしていた。オオヤツ妃が然気さりげ無く隣に腰を下ろす。異国人であっても、出雲集落では部外者同士。逆に気心が知れる。

「可愛い赤ちゃんね。私が抱いても構わないかしら?」

 両手を差し出す仕草で意思は伝わる。老爺は抱き上げた稚児を手渡した。為すがままの当人は微妙に表情を曇らせる。見知らぬ者の腕に抱かれる事への警戒。同時に、女性特有の柔和な力の加減に居心地の良さを感じる。泣き出すべきか、幼いながらに考え込んだようだった。

 その機微を察知したオオヤツ妃は、両眼を大きく開けたり、口をパクパクさせる。彼女が幼児語で優しく話し掛ける内に、笑窪を浮かべた口元から嬌声が上がり始める。一抹の不安を感じていたであろう老爺も白眉の下で目を細めた。傍目には初孫をいつくしむ老夫婦にしか見えない。

 彼らの意思疎通には言葉の壁が立ち塞がる。それでも、共に顔を寄せ、トヨタマの上機嫌な表情を覗き込んでいれば、気持ちは通じ合える。野心や功名心の枯れる老境に達した者の対人関係は素朴だ。

 着座した参列者の数が三々五々に増えると、自然発生的に酒宴が始まる。スクナを始めとする漂着民の御蔭で、出雲の宴会では濁酒どぶろくも供されるようになった。

 今も酒壺の中では米糀と酵母の共演が続いている。祝事で飲む度に蒸煮米を継ぎ足すばかりか、酒壺の数も随分と増えていた。腐敗し易い夏の盛りは涼気の溜る山裾の日陰に安置する。今後は発酵反応を止める火当て処理を施す予定だ。賞味期限が延びれば、交易品の一つに加えられる。

 酔いが回って興奮し始める一堂。お調子者が立ち上がり、広間の中央に進み出る。素頓狂そっとんきょうな奇声を上げつつ、千鳥足で踊り始める。触発された村人が加わって珍妙な集団舞踊劇と化せば、周囲の者も呂律の回らぬ濁声だみごえで囃し立てる。持ち込んだ銅鐸どうたくばち棒で叩き、拍子を取る者さえ現れた。

 婚礼衣装に包まれた新郎新婦が愉快な出し物に笑い声を上げる。酒宴の賑やかさに圧倒されるオオヤツ妃であったが、息子夫婦の莞爾にこやかな笑顔を遠目に認め、幸せな気分に満たされていた。

 出演者の踏み足に合わせて上半身を揺らしていると、隣のスクナが軽く小突いて来た。振り向けば、トヨタマを指差し、自分が抱擁役を交代しようと身振りする。次なる仕草は、オオヤツ妃を指差し、口元で箸を動かす真似事。食事を摂れと言いたいらしい。

――この韓人からびと。優しいのね。言葉が話せると良いんだけど・・・・・・。

 好意に甘えた彼女が不慣れな箸を動かし始める。日向では未だ手掴みが当たり前。出雲で驚いた利器の一つが箸である。熱々の料理を愉しめるのだから、寒い土地では余計に重宝するのだろう。

 第二の発見が味噌。調味料は食生活を豊かにする。塩と魚醤ぎょしょうに味噌が加わる事で、味付けの多様性バラエティが格段に広がる。実際、海産物の調理方法も塩焼きに味噌煮と様々で、同じ食材が別料理として登場する。異色な調理方法は酒粕をまぶした焼き魚。粕漬けである。

 第三の発見は食材の貯蔵方法だろうか。出雲人いずもびとは雪国特有の雪室を積極的に活用していた。山影の冷気湖に設けた庫内であれば、冬に詰め込んだ雪が夏の最中まで根強く残存する。つまり、年間を通じて冷蔵保存が可能だった。

 その結果、季節外れの食材が食卓に並ぶ事も珍しくない。また、雪室で低温熟成した魚介類や獣肉のたぐいは、燻製とは別種の味わいを醸し出す。つまり、出雲は舌の肥えた者の桃源郷と言えよう。

 雪室の効用は食材加工に止まらない。最大長所は不安定な自然の恵みを平準化させる点にある。食糧備蓄に憂いが無いからこそ、人々は寒くて長い冬を平穏に過ごせるのだった。

 息子と共に平穏な余生を過ごせれば満足。その実現に必要な隠棲だ。そう自分に言い聞かせ、最果ての地に移って来た。ところが、出雲の方が寧ろ文化的に洗練されている。都落ちしたとの感傷はおろか、(もっと早くに来れば良かった)と少々後悔する彼女だった。


 披露宴を機に親密さを深めるオオヤツ妃とスクナの2人。彼らの年齢差は僅か4歳。共に老いる分には丁度釣り合う。男は故国を失い、女は息子達を喪った。辛酸を嘗めた過去を背負い、慰め合う相手を欲してもいた。

 後日談として記すと、地縁血縁の頸木くびきが外れた熟女の決断は早く、嬉々として異邦人宅へと転がり込む。集落長邸での居候生活に窮屈さを感じた面も否定できないが、本音は別の処に有った。

――男手一つでの女児養育は難儀の一言に尽きる。老爺には後妻が必要だろう。

 そう周囲には漏らしたが、後指を差されぬ為の方便に過ぎない。長い未亡人生活に倦んだ彼女は、年甲斐も無く、第二の新婚生活に高揚感を抱いていたのだ。とは言え、燃え上がったのは感情面だけで、肉体的には純潔そのものであった。


 一方の新婚夫婦は連夜の如く睦声を夜闇に漏らしていた。交易先を開拓しようにも、冬の間は瀬戸内へと抜ける林道が積雪に閉ざされ、身動きが取れない。若い2人は夜肌の愉悦を貪り同衾の営みに明け暮れた。汗と嬌声にまみれた奮闘の成果は直ぐに実を結ぶ。

「気分が優れない」と新妻が体調不良を訴え始めた時、ナムジは酷く動揺した。医術を心得ない者には対処しようが無く、直ぐにスクナ宅の戸を叩く。ところが、往診に同行したオオヤツ妃は、嫁を見るや「ナムジ!!」と破顔し、愉快そうに笑い出した。

「病気じゃないわ。赤ちゃんが出来たのよ」

 片言の倭言葉やまとことばしか話せぬスクナも、〝赤ちゃん〟の単語を理解し、微笑みを浮かべて大きく頷く。

「ヤガミの吐気は続くでしょう。でも、その内に落ち着くから、しばらくの辛抱よ」

 姑は床に伏せる嫁の手を握って励ました。

の位?」

 不安気に尋ねる新妻。懐妊の吉報は嬉しいものの、目下の問題は目眩と吐気。余り長くは続かないで欲しい。

「まぁ、三ヶ月って処かしら」

 平然と答える歴戦の経験者。片や初産に臨む者は床の中で微妙な表情を浮かべた。二つ三つ年上の娘が妊娠した光景を思い浮かべる。確かに「お腹を触らせて」と頼んだ記憶が有るから、懐妊から随分と経った頃だったのだろう。

――誰もが幸せそうな顔を自分に見せていたから、出産の時以外にも苦しむなんて想像もしなかったわ。

 冷静に考えると、スクナが色々と薬膳を調合してくれるので、ヤガミは可成り恵まれた境遇で悪阻つわりに悩む期間を過ごせる。でも、この時点の彼女は倦んざりとした気分に染まっており、自身を慰める心の余裕は無かった。

 ちなみに、古代日本に太陽暦は存在しない。判然と季節が移ろう日本では、太陽の軌道観測にてこよみを刻む必要が無い。

 世界四大文明の地に共通する点は、四季の変化が乏しく、降雨量も少ない事。ところが、雨季にだけは突如として大河が氾濫するので、防災の観点から太陽暦が発達した。但し、洪水の運ぶ上流域の肥沃な土壌が農耕文化を育んだ面を忘れてはならないだろう。

 さて、対照的に日本では、初春と梅雨時の長雨、秋の台風と言う風に、河川の氾濫が予測可能だ。直視できない太陽の運行を几帳面に観察しようとは思わない所以ゆえんである。

 しかしながら、社会生活を営む上で、大雑把な時間の区切りは欠かせない。人々の採用した尺度は月の満ち欠けを計る簡便な太陰暦。但し、1年の区分は田植え期を基準としている。

 話を若夫婦の居宅に戻そう。オオヤツ妃は、目蓋を閉じた嫁の表情に諦観の色を見て取ると、今度は息子の方に向き直った。

「実家に羽毛の布団を借り、重ね着した方が良いわね」

 その後も、「熱い汁物を食わせろ」だの「湯を使って髪を洗え」だの、妊婦の身体を冷やすな――との趣旨で細々こまごまと注意事項を並べ立てる。

「もう其処まで春が来ているはずだけど、出雲は寒くっていけないわ」

 南国育ちの彼女は両腕を交差させ、初めて経験する山陰気候に身震いした。


 地表がうららかな陽気に包まれ、雪解け水を得た河川が水流を復活させる啓蟄けいちつの頃。穏やかな日和ひよりに誘われて虫達が蠢動する。餌の出現を喜ぶ樹鶯うぐいすが林間に響き渡る歌で春を告げる。濡れ落ち葉の陰からはふきとうが淡緑の頭を覗かせ、繁縷はこべも小さな白い花を躊躇ためらい勝ちに咲かせ始める。

 時を同じくして、妊婦の容態も安定期に入った。安心したナムジは、新妻の面倒を母親とスクナに託すと、自らは瀬戸内を目指して出発する。何人もの出雲人を従え、残雪の居座る泥濘道ぬかりみちを越える。

 端緒は尾道おのみち宿場の整備。出雲との間を往来する人馬の休憩所を構えるのだ。雨露を避けて商品を一時保管する倉庫もだ。その建設現場の監督がナムジの役割だが、尾道に常駐はしない。着工後の円滑な始動を見届けると、末蘆人まつろびとの操る双胴船で巨大な内海へと出帆する。

 甲板には、出雲集落の特産品――鉄製品、濁酒どぶろく、味噌等――のみならず、社交辞令用の手土産として、大量の余剰米も載せてある。

 瀬戸内沿岸を渡り歩き、貯米事業ビジネスの基礎を築くのだ。将来的には交易網を張り巡らせ、各地に物流拠点を整備し、海運を強化する。果ては、瀬戸内各地の特産品をも流通させる。すれば、食文化も豊かとなり、生活に彩りを与える。

 また、人々は大自然の気紛きまぐれに不安を抱いている。自給困難な物品を手に入れ、余剰な物品を供出する互助体制は凶作や飢饉への備えとなるだろう。万民を幸せにする社会資本インフラの充実策に誰が異議を唱えると言うのか。実現までの道程が遠くとも、共存共栄の夢を諦めはしない。

 久しぶりに母親と話してみて、ナムジは経済発展を遂げた薔薇色の未来図を改めて実感していた。気宇壮大な構想を披露する来訪者に、各地の民は「神の降臨か」と圧倒され、下にも置かない歓迎振りを示す。

「ようこそお越し下さいました。何の取得も無い貧しい村ですが・・・・・・」

 何処いずこの村長も同じ台詞せりふで受け入れる。実際、宴席の料理は貧粗の一言に尽きる。そして、判を押した様に「此処ら辺は雨に恵まれず、田畑の実りが少ないのです」と弁解し始める。富を諦めた彼らにとって、「出雲と手を取り合おう」との誘いは想像の域を遥かに超えていた。

残米のこりごめを預かってみませんか?。手間賃は払います」

 貧村側で準備する物は高床倉庫のみ。他の集落から運び込んだ預託物を、盗まれぬよう見張っているだけで、一定の籾米を裾分けして貰えると言う。元手が無くても始められる事業ビジネスであり、貧乏人には願ったり叶ったりの提案である。

 反面、聴衆は物々交換が社会の基本原則だと信じ込んでいる。だから、突飛な仕組みを中々理解できず、胡散臭いと警戒する。競り市の様に質問が相次いでいたのに、一転して口数が減り始めると、それは交渉が漂流しつつある予兆だ。

 だが、ナムジの方でも何度も似た問答を重ね、勘所こつを掴んでいる。「預託者側にも十分に利得が有る」と、根気強く因果を説き続ける。詐欺や法螺のたぐいではないと理解するには夜更けまでの長談義を要するが、最後には「有り難い仕組みだ」と得心するのが常だった。

「私も疲れました。明日もう一度、詳しく話し合いましょう」

 提案内容を咀嚼そしゃくし吟味する時間を与えんが為の方便だ。残念ながら、その配慮は空転する。思考するより肉体を動かして日々を生きる人種だ。難しい話は端から忘れ、〝濡れ手に粟〟的な骨子だけが脳味噌に刻み込まれる。

――参加資格を問わぬなら、誰もが先を争って立候補するだろう。

 往々にして村長の思考は在らぬ方向にれて仕舞う。

――儲け話の選に漏れる村が出るかも知れない。歓心を買っておかねば・・・・・・。

 ナムジが既婚者だと承知の上で、自分の娘を一晩の夜伽よとぎに差し出す事例は後を絶たない。運良く孕めば、一種の政略結婚が成立する。懐妊しなくても、歓待した事実は残る。村落の立場を悪くはしない。そう考える者は多かった。

「明日の段取りが有りますから」

 娘に目配せした村長は、同席者を急き立てる様にして、屋外に姿を消す。居残った娘は、甲斐々々しくナムジの足を洗い、寝床の準備をする。

「ありがとう。君もやすむが良い」

 ところが、娘は慰労の言葉に反応する素振りを一向に見せない。狭い竪穴住居の中では行き場も無いのだが、モゾモゾと貫頭衣かんとういを脱ぎ始める。

「ちょっと、何をするのっ!?」

「私を抱いて下さいませ」

「抱いてって、俺は見ず知らずの男だぞ」

「いいえ、既に存じ上げてます」

「そ、そんな事を言ってるんじゃなくて――」

「貴方の子種を頂戴しない事には、両親に叱られます」

 退屈な一人旅の末に観覧する蠱惑的な見世物。若人の身体は性欲の捌け口を求めて荒れ狂う。妻の監視の目が届かぬ地に御膳立てされた密室だ。如何に清廉な理性の持ち主であろうとも、甘誘には抗い続けられまい。斯くなる経緯により、大国主は恋愛の神様として全国各地で祀られ始める。

 勿論、瀬戸内を流離さすらい続ける間も何度か出雲に戻った。実家暮らしの厚遇に後顧の憂いは無いものの、寂しき夜長をかこつ新妻の慰撫は夫の務めである。本音では、母体の見舞いよりも、胎児の成長を楽しむ気持ちの方が強かったかも知れない。

 夏が過ぎ、頭を垂れる稲穂が黄色く染まる頃だった。ヤガミが元気な男児を出産する。乳を求める泣き声は威勢良く、昼間は蝉噪と張り合い、夜長には蟋蟀こおろぎの鳴声を掻き消したと言う。

 無事な生誕に安堵したナムジは、婚前の記憶にあやかり、キマタ(木俣神きのまたのかみ)と命名した。ヤガミと一緒に交易路を切り拓いた際、大木の根方に空く樹洞が常宿だった事に由来する。

 実際の懐妊時期は異なるのだろうが、「狭い空間に籠って抱き合った夜に身籠った」とヤガミ自身が吹聴した結果である。十月十日の妊娠期間が周知されておらず、月経の動静を知らぬ男に真偽を判別するすべは無い。それに、女性の御伽噺的メルヘンチックな心情を優先させたとて誰が批難しようか。

 慶事とは重なるもので、程無くして尾道宿場も完成し、出雲人が交代で詰め始める。冬期の孤立を免れない出雲集落。交易網の主催者が不在となっては、第三者に実権を横取りされ兼ねないからだ。そんな先駆者達の苦労が報われ、九州の東半分、山陰と瀬戸内各地を結ぶ人々の往来は太くなる一方だ。

 ナムジの構築した広域経済圏の目玉の一つは貯米に協力する村落の組織化フランチャイズだ。瀬戸内各地に設立された幾つもの『稲場いなば』。その当字は『稲羽』へと変遷し、大国主を称える『因幡の白兎伝説』――古事記の原文では『稲羽之素兎』――が生まれる。

 それだけではない。瀬戸内の津々浦々を豊かにした実績が人口に膾炙する内に、大国主は大黒様と呼び親しまれるようになる。〝物種〟を詰めた大きな袋を背負う姿は、殖産興業や医療普及に尽力した彼を象徴した人物像である。

 此処で一つ指摘しておくべきだろう。彼の始めた貯米事業ビジネスには邪馬台城の其れとは大きく異なる点が有った。

 手元に潤沢な銅銭を持たない出雲勢は引換証を準備できなかった。窮余の策として、貯米者と穀物庫を紐付け、単純な倉庫貸しに徹する。家賃が定額なので、荷主は貯米量を厚くする程に採算が良くなる。安定収入を見込める稲場運営者にとっても異存は無い。

 後世、事業形態ビジネスモデル――金融業か保管業か――の相違が両者の帰趨に決定的な影響を及ぼすのだが、詳述は別の物語に譲るとしよう。


 キマタの誕生した西暦196年は、九州北部の情勢が大きく動いた年でもあった。邪馬台城と香春集落が和睦を結び、ミカヅチ出奔から足掛け9年に及んだ分裂状態に終止符が打たれる。

 この間、邪馬台城の貯米は機能を停止した。平尾台からの鉱石供給が途絶え、生石灰きせっかいを製造できなくなったからだ。『朝鮮半島に流民が押し寄せた』と先に語った背景でもある。梅雨時に備蓄米は腐敗し、秋の収穫期まで食糧が枯渇する。飢饉の発生は必定だった。

 オモイカネも手をこまねいてはいない。彼なりに善後策を講じたのだ。腐敗を傍観するよりは・・・・・・と、鉄餅てっぺいとの物々交換を進める。副次的に城内の鍛冶加工量は急増した。

 ところが、人智を嘲笑あざわらうかのように不運が見舞う。彼の逆境は〝泣きっ面に蜂〟としか表現できまい。備蓄米が払底する中、2度の冷害が九州北部を襲ったのだ。籾米の買い戻しを試みても、弁韓人べんかんびとに足元を見られるばかり。

 小さな取り付け騒ぎが散発し、「預米は大丈夫か?」との疑心暗鬼が周辺住民の心を跋扈する。中核が信用不安を起こせば、経済圏全体がきしみ始める。一戦も交えぬ内に敗色は濃くなるばかり。兵糧攻めを指向した智臣の戦略は完全に頓挫していた。

 一方の香春集落は、遠賀川おんががわ流域の開墾が実を結び、飢餓とは無縁の楽天地と化している。後世の人々が香春を『田川』と呼び慣わす所以ゆえんである。冷害も日向ひゅうが集落からの融通米で何とか乗り切った。

 両集落が連携を深める情勢下、城側の起死回生は全く以て望めない。賢明なオモイカネなら百も承知だ。袋小路の構図から目を逸らし続ける愚を悟り、遂に白旗を揚げる。死を覚悟して敵地に赴いた領袖を、ミカヅチは寛大に遇した。

「貴殿に邪心が無かった事は、不肖、このミカヅチも理解している」

 粉骨砕身の努力を惜しまず、同じ卑弥呼を奉じた仲だ。意見を異にし、不幸にしてたもとを分かったが、邪馬台の将来を憂う気持ちは共通している。

「綻びを修復したからには、二人三脚で再興しようではないか!」

 恩情の溢れる言葉が意固地に凝り固まった心をほぐす。堪え切れず、むせび泣くオモイカネ。長きにわたる心労が彼の頭髪を真白まっしろに染め、数々の憂苦が顔に無数の皺を刻んでいる。

 半面、ミカヅチの性格は、武人らしく、竹を割ったよう。戦争が終われば、敵も味方もない。同僚だった男の健闘を讃え、枯れ細った背を優しく撫でる。

「だが、卑弥呼は2人も要りませぬ」

御尤ごもっともな指摘。貴殿の指図に従います」

 城側の女神が還俗し、香春側の女神が入城するに至り、皆が九州北部の再統一を実感した。ホノギも、三勢力鼎立ていりつの構想を改め、祝賀の使者を遣わす。出雲集落との連携が深まった今、再統一こそが望ましいと考え直していた。

 香春集落から邪馬台城への鉱石供給が再開されれば、運搬用途に馬を貸す日向集落の懐も潤う。加えて、城の顔色を伺う末蘆まつろ集落との関係も親密度を増すだろう。瀬戸内各地との交易網を発展させるには、造船や操船に長けた彼らの協力が不可欠である。

 実際、一つの経済圏として纏まった西日本の各集落は平和で豊かな時代を10年以上も謳歌する。


 世代交代の準備は一朝一夕に済まされない。だから、後任と見定めた人材には腰を据えて英才教育を施す事が望ましい。ところが、オモイカネに残された時間は短かった。分裂時代に精魂を磨り減らし、義心の弛みを多々感じ始めてもいた。

「ミカヅチ殿。実は迷うておる事が有りましてな。相談に乗って頂きたい」

「何を藪から棒に?」

わしの後任ですじゃ」

 現人神あらひとがみは自身の後任を自ら選ぶ。それは古来からの仕来しきたりであり、三権分立を機能させる知恵でもあった。

「人選に介入しても構わぬのか?」

「貴方は実質的な統率者だ。気力の衰えた儂ではなく、貴方の意見を尊重した方が良い結果を招くでしょう」

 事実、統一を果たしたミカヅチの気力はみなぎっていた。「強力な指導力で混乱を治めるべきだ」との声は城内でも多い。独善だと反発される懸念も無く、同輩からの嘆願も理に叶うように思える。

「承知した。具体的には?」

 智臣は「此奴こやつ彼奴あやつ」と2人の候補者を挙げた。正直な処、現時点では〝帯に短し襷に長し〟だ。従前の手順は、方々を連れ回して知見を深くし、機会を得ては問答を重ねて資質を見極めると言うもの。そんな風に選抜する時間的猶予が無い今回は、目隠し状態で指差すような割り切りが求められる。

 1人は年端も行かぬ少年。好奇心が強く、向上心に優れる。反骨精神に富み、叱責を恐れずに進言する度胸が頼もしい。秘めた可能性を感じるも、前任者の薫陶を十分に受けられない。果たして、才覚を開花できるだろうか。

 もう1人は二十歳はたちを過ぎた成人。既に人格が形成されており、教育の手遅れ感を否めない。反面、冷静沈着で、他人と接する態度も慎ましい。少なくとも、そう見える。彼について特筆すべきは、得体の知れぬ空恐ろしさを感じる点であろう。

「もし若い方を選んだなら、彼奴あやつの動きを常に監視して下され。手に余るようでしたら・・・・・・」

 言い淀んだ口端に浮かぶ苦渋の痕跡にミカヅチが片眉を上げる。続く言葉を待つも、一向に逡巡の解ける気配が無い。聞き流す事も出来ず「手に余るなら?」と、その先を促した。

あやめて下され」

 短くも物騒な回答。理由をつまびらかにせねば、疑心を招く。引いては確執を招き兼ねないのに、当の発言者は押し黙ったまま、目を伏せ続ける。予断を与えてはならん、と判断したのかも知れない。

 選択を任された者としては居心地の悪い限りだが、要は自分自身で見定めれば済む話だ。詮索する事を諦め、「その積りで日頃から接するとしよう」と請け負った。多少の情が湧いた者とておのれの都合で始末する。冷酷無比に徹する割り切りはアマツの一件で経験済みだ。

 後事を託して安心したのだろう。翌年の田植えを待たずして、敗残の功労者は息を引き取る。異例な事ながら、武臣が智臣の後任人事を定める顛末となった。


 世代交代に備える者が日向ひゅうが集落にも――。

 その立居振舞いから冷淡だと誤解され易いホノギであるが、彼も人の親。いや、むしろ子煩悩な方だと言えるだろう。折に触れ、双子の将来と集落の行末ゆくすえについて悩むようになる。

――日向ひむかを分割し、2人に分け与えるか?

 否々いやいや。そんな事をすれば、兄弟間にいさかいを生むだろう。隆盛を誇る日向に災厄の種は撒けない。

――どちらを跡取りとする?

 知れた事。長男を跡取りに据えねば、火種を抱え込むも同然。

――それでは、次男を何処に遣る?

 同盟の友誼よしみを結ぶ出雲集落が良いだろう。異心の無さをも証明する一挙両得の為業しわざだ。

 息子達のうっすらと芽吹いた顎髭を見比べながら、自問自答し、そう決断した。

「ホオリは未だ16歳ですよ。見知らぬ土地で暮らすには早過ぎます!」

 常日頃から夫婦間の決定は上意下達で為され、今回も通告に近い雰囲気で提案された。ところが、何事にも唯々諾々と従うハナサクが異議を唱える。愛する息子の処遇となれば、良妻の鏡と誉れ高い彼女も見過ごせなかったらしい。頑迷な態度に手を焼くホノギ。

「ナムジだって16歳の時に旅立った。ホオリに出来ないはずが無かろう?」

「それはそうですけれど・・・・・・」

「ナムジ夫婦を頼れるのだから、心配には及ばぬと思うぞ」

「でも・・・・・・」

 頑迷な態度に手を焼くホノギ。

「可愛い子には旅をさせよ、と言うだろう?」

「仲が良いのに・・・・・・、二人一緒じゃ駄目ですか?」

「だからこそ、引き剥がすんだ。双子のぬるい世界に籠り、他人と交わろうとしない」

 説得に努める流れから一転して、今度はホノギは意図して厳しく突き放す展開。交渉の緩急に聡い者としては腕の見せ所だろう。

「2人が逞しく育つ為なんだよ。親としては心を鬼にしなければ・・・・・・」

 反論が途絶えたのを良い事に、滔々とうとうと理を説き続けるホノギ。能弁な夫に何も言い返せず、膝の上で拳をきつく結ぶハナサク。俯く目には涙が溢れ、手の甲に滴る。理性と感情が心中で葛藤していた。

「それに、な。其方そなたも時々は出雲を訪ねよ。そうすれば、実弟ナムジとも会えるぞ。随分と長い間、会っていないだろう?。母の墓にも参らねば――」

 消沈する妻を慰め、手練手管を駆使して懐柔する。

「会いたいとは思いますけれど・・・・・・」

 感情に訴える作戦が功を奏したようだ。不承々々ふしょうぶしょうながらも譲歩を引き出せそうな雲行き。間髪入れず、強い口調で「そうだろう!」と畳み掛ける。

「それに勘違いするなよ。今生こんじょうの別れでもないし、おれだって息子とは頻繁に会いたい」

――旅立たせると言ったり、会いたいと言ったり。貴方あなたの真意はどちらなの?

 涙に濡れた顔を上げるも、得心が行った感じではない。

「出雲に腰を据えた後も、時々は日向ひむかに里帰りするだろう」

「本当に?」

 毎年、晴天の続く夏になると、出雲の交易品を山積みした隊商が日向に現れる。集落長の息子であるホオリは早晩、その商隊長を務めるだろう、と説明する

「その内に、商いの品ではなく、嫁を連れて来るかもな」

 ガハハと哄笑するホノギ。場の雰囲気を変えんと気遣ったのだろうが、彼にしては珍しい反応だ。遣口やりくちを変え、説き伏せるよりも、悲遇を慰める優男やさおとこ風に語り始めた。妻の肩を抱き、耳元で囁き続ける。

 従順な妻として結婚生活を送る彼女に〝徹底抗戦〟の気構えは無い。奮い立たせた抵抗心も風前の灯火ともしび、陥落は時間の問題であった。

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