第20話 騒乱前夜、忍び寄る魔手
西暦214年、邪馬台城の再統一から15年余り。時の経つのは早い。赤児は成人し、至る処で世代交代が着実に進む。
兄ホデリが
重要な交易品の一つが海で紛失し易い
特筆に値する商品は酒や味噌だろうか。日向の食文化を随分と豊かにした。但し、完成品の引き渡しに徹し、醸造方法の詳細を問われれば口を噤む。製造技術を秘匿し、競争力維持に腐心する姿勢の表れである。ホオリ自ら知的財産の重要性を認識し、随行者にも箝口令を敷く周到さだ。
彼の
今は昔、スクナとオオヤツの老夫婦は、孫に接する祖父母の様に、トヨタマを溺愛していた。2人とも
活発な性格ならば、同世代の輪に入って傷心を癒せただろう。でも、彼女の場合は当て嵌まらない。引っ込み思案な性分は、生来のものか、孤児の境遇に依るものなのか。遊び群れる子供らを物陰から窺う姿が何度も目撃された。
――不憫ねえ。母親に甘えたい年頃だものねえ・・・・・・。
養女の寂し気な背中を、オオヤツは遠目に見守り続ける。そう遣って何年も過ぎた或る冬の朝。
「珍しい事も有るものね。トヨタマ!。御爺ちゃんを起こして頂戴」
穏やかな寝顔は甘美な夢を愉しんでいる風。揺り起こそうと両手を伸ばし、羽毛入りの麻布団に小さな体重を乗せる。普段なら
「お、御婆ちゃんっ!!」
助けを求める悲鳴を上げた切り、口元が
包丁を置き、急いで駆け寄るオオヤツ。
彼女は養父の亡骸に取り縋り、三日三晩、
――この娘は独りぼっちになったのね・・・・・・。私が本当の母親にならないと・・・・・・。
と、小さな背中を擦りながら、密かに決心し直すオオヤツだった。
更に時は流れ、その彼女も10年前に亡くなった。享年51歳。当時としては群を抜く長寿であった。恐らく、発酵食品――味噌や
養父母と死に別れた時のトヨタマは10歳。ナムジ家に引き取られるが、
「息子の次は、娘を育てるのね」
多産の時代には珍しく、ヤガミは第二子を身籠らなかった。絶倫とは言わないが、ナムジの心身は共に健常。彼は方々で隠し子を儲けていたし、妻との営みも疎かにしない。女性側に生じた身体的変調が原因だと思われる。
それもあって、ヤガミは養女を実子同然に育て、
キマタの歓迎振りも周囲を驚かせる。「姉が出来た」と
振り返ってみると、この縁組は新家族の全員を元気にした。交易網の巡回に出た後の留守宅を賑やかにしたから、旅先での心配事が一つ減るとナムジも喜んだ。それだけではない。帰郷の折には土産を欠かさぬようになった。
ただ、トヨタマは家族と繕わずに接する一方で、井戸端談義や寄合では人見知りする。臆して控え目な態度を保ち、物静かに存在感を消すのが常だった。
そんな風に育ち、14歳の少女へと成長したトヨタマが同年代のホオリと出会う。家督を継げぬ次男が出雲の叔父宅に居候し始めたのだ。一つ屋根の下で暮らせば、幾ら寡言に過ぎるとしても、最低限の会話は生まれる。打ち解けて仕舞えば、交わす口数も増える一方だ。
青年の方は初対面の時から好感を抱いていた。健気な少女に母親の面影を重ねたようだ。
少女の方だって
2人は自然な流れで恋仲となり、恋は愛へと昇華する。結婚の誓いを交わし、新居を構えたのは4年前の事だ。翌年の盛夏にはトヨタマが懐妊し、明くる新緑の頃には待望の第一子が誕生する。息子イワレは、
西暦214年の時点で、ホオリは22歳、トヨタマは20歳。2歳のイワレは居宅の外周を独りで歩き回る程に成長していた。
一方、ナムジとヤガミの息子キマタは18歳。父親に倣い、物心の着いた頃から長旅に明け暮れる毎日だ。思春期を迎えるに連れ、義姉に寄せる思慕の念は横恋慕へと様変わり。一方で、男女の機微にも敏感となる。その結果、自分が初恋相手の眼中に無いと悟り、居た堪れなくなった側面が有る。
彼は甘酸っぱい思い出を胸に新天地を求め続けた。敢えて未踏の東に針路を定め、父親の軌跡が残る瀬戸内を避ける様に
血筋の為せる
古今東西、大事に育てられた良家の子女は赤の他人に警戒心を抱く。特に余所者には強い拒絶反応を示す。集落長の
記紀の描く
実の処、彼の饒舌は特筆に値する。深窓の令嬢を射止めた事からも明らかだ。各地で浮名を
意中の女性を口説き落としても、今度は保守的な父母が立ち塞がる。許しを得るまでに相当の期間を要したが、一向に
こうして、越境結婚に漕ぎ着けた夫婦は睦まじく暮らし始める。後々2人の息子を儲けるが、西暦214年の時点では初々しい新婚生活を満喫中であった。
人々が安息な時を紡ぐ日本から中国大陸に目を転じると、其処には全く違った風景が広がっている。「後漢王朝に仇なす黄巾の乱を鎮撫する」との大義名分を掲げた諸将が群雄割拠する動乱の世。
華北地方では、最大版図を誇る曹操が西暦208年に赤壁の戦いで敗れ、一時的な勢力減退を余儀無くされている。
ところが、絶対権力の及ばぬ半島の南半分は、平和を謳歌するどころか、無法地帯と化している。
仔細に眺めれば、半島南西部(
『辰韓』は『秦韓』とも呼ばれ、中国の歴史書――後漢書、三国志、晋書――には『秦朝の苦役を逃れた者が韓半島に辿り着き、先住民から土地を奪って樹立した国だ』と記述されている。
犯罪者の子孫である彼らの性格は、紀元前200年前後の当時から変わっていない。暴力に訴えての侵略や
流民の立場を同じくしても、互いに反目し合い、一致団結しようとは考えない。乱立した12の小国が統合されずに過ぎた400年の歴史が、その証左である。
特に領土拡張の野望を抱く
冷酷非道な
鉄鉱山の接収後、卑弥呼に対して「恭順し、求めに応じよ」と高飛車に下命する
使者の口上した具体的な内容は次なる通り。
『倭国に逃げ延びた
更には、『恭順の意を示さぬなら、侵攻の憂目に遭うだろう』と恫喝した。
現代の
話を斯蘆国に戻そう。彼らは、横柄に振舞いつつも、飽くまで怜悧狡猾だ。被占領民が素直に帰属すると、自惚れてはいない。暴動が発生すれば鎮圧に梃子摺り、次なる侵略に支障を来す。だから、王族を公開処刑して再興の夢を断ち、民衆の反抗心を萎えさせる算段だ。
治安政策と裏腹の捜索活動には並々ならぬ意欲を見せており、上辺だけの協力で誤魔化そうものなら、外交の険悪化は必定である。慇懃無礼な使者の帰国を見送った3人は「
平和に安住し切った歳月の内に、世代交代も進んでいる。治世上の難局に臨む卑弥呼は20歳、為政者としては幼い。海千山千の智臣と武臣が補佐する布陣ならば、女王の若さは新風を吹き込む好機と歓迎されよう。ところが不運にも、
政策立案を
23歳のミカヅチに至っては一層見劣りする。確かに軍才には秀で、部下の寄せる人望も厚い。でも、優等生の資質だけで
「我らの急所を断つとは・・・・・・。
「一戦、交えますか?。オモイカネ殿」
好戦的な発言が平和主義者の女王を慌てさせる。
「何としても争いは避けねばなりません」
勢い込んで大方針を定めたものの、2人には説明を尽くすべきだと反省する。合議制を円滑に運営するには、最新参の自分が謙虚さを忘れてはならぬ。そう肝に銘じていた。
「邪馬台城の御世が再び定まってより15年余り。
再統一の当時、彼女は年端も行かぬ
「苦労を重ねて手にした安寧です。出来る限り長く――、長く続ける事こそ
誰も泰平を乱そうとは考えない。凛とした発言に両臣が頷き、異口同音に賛意を示す。但し、その実現には困難を伴う。早速、途方に暮れたミカヅチが弱音を吐いた。
「
入国管理の概念が無い時代だ。一応の玄関口である
「我が
「何です?、オモイカネ。常にも増して、頭の冴えた考えを聞きたいものです」
「
目下の詮議事項は亡命者の行方。
「出雲こそが王族の潜伏先ではないでしょうか?」
強引に過ぎる推論だと思いつつ、無碍に否定する事も
「先代は『
「私も彼の意見に賛成です。我らは多大な便宜を図って貰いました。その恩人を裏切るなんて・・・・・・」
故人の威光を頼って消極的な反応を示す。単なる知識として経緯を知るに過ぎないが、前任者からの申送りを心に深く刻んでいる。
「そうは言っても、
腰の引けた2人に対し、オモイカネが強い口調で喝を入れた。彼だけが両集落との友好関係を軽んじている。対峙した時に煮え湯を飲まされた先代の影響だろうか。
「我らが使命は
「それは分かっていますが・・・・・・」
一面の真理を衝いた大義名分には抗えない。反面、恩を仇で返すとは人道に
「出雲との紛争には発展しません。亡命者を捕えるだけですから」
伏目に横を覗き見れば、ミカヅチが在らぬ方向に目線を
「我が
静かな呼び声なれど、その冷たい響きは鋭利な刃物を連想させる。容赦無い追及に女王も顔を上げざるを得ない。
「我らが直接手を下さぬならば――、
その先の発言を聞きたいような、それでいて聞くのが怖いような。彼女の双眸に微妙な感情が浮かぶ。ミカヅチは顔を背けた
「対馬の海賊共に誘拐させれば良いのです」
「人質で得られる米俵は知れてます。彼らが興味を示すとは思えません」
即座にミカヅチが難点を指摘する。
「十分な量を得られるなら?」
「その米を我々が提供すると・・・・・・?」
「いいや。邪馬台は1粒たりと提供しない」
「それでは、誰が?」
「斯蘆に支払わせるのだ。合意に足る報酬は当事者同士で交渉して貰う。」
直接の行為に及ばないばかりか、利害関係すら結ばない。誘拐の共犯とも言えない程に極めて薄い関与。画策した張本人であっても、良心の呵責を感じずに済むかも知れない。優柔不断なる者を思考停止の罠へと追い込み、臆病な偽善者を安心させる甘言であった。
「斯蘆ならば、米の他にも、奴らが食指を動かしそうな褒美を提示できるだろう」
彼らなら邪馬台城に無い物を準備できると、自信満々のオモイカネ。実際、略奪行為に役立つ武器の方が交渉材料に相応しい。一方で、狐に莫迦された様に間抜けな表情を浮かべるミカヅチ。卑弥呼も釈然としていない。
「邪馬台の役回りは適任者の紹介のみですが、友好関係を保てます」
オモイカネは『海賊』と言わず、
「奴らの活動範囲は壱岐と韓半島の周辺。山陰の村々を熟知しておりません。出雲を探し当てるのは至難の業でありましょう」
指摘された方は実行の成否に拘っていない。協力の事実こそが肝要。(そんな事も分からないのか)と、侮蔑の雰囲気を漂わせる。但し、重箱の隅を突く指摘が端緒となって、卑弥呼が
実際、彼女の顔面には精彩が戻りつつあった。悪事の片棒を担がずに済むと、期待を寄せ始めたようだ。
――甘いな。
好戦的な専制国家が無為無策を見逃すものか。オモイカネ自身は夢幻に過ぎぬと一顧だにしないが、最終的な裁定権は女王にある。此処は辛抱強く説得すべき局面だ、と思い直した。
「ならば、
「
反対意見が猶も続く。空理空論と侮っていたが、評定の不文律は多数決。連帯して論陣を張られては具合が悪い。迂遠なれど、まずは稚拙な同僚を言い包めんと舵を切るオモイカネ。
「末蘆人から斯蘆の使者に出雲までの道程を伝授させよう。その使者を海賊共と同道させ、手柄を立てさせれば良い」
「末蘆人が協力すると・・・・・・?」
「
代替策の無い2人は、良心の呵責を感じつつも、渋々同意する。息苦しい事、此の上ない。影の采配者が御前から退いた後、示し合わせたように深呼吸した。
開け放たれた引戸の向こうから生暖かい風が
オモイカネは(存分に手腕を振るうぞ)と意気軒昂であった。初舞台に臨む主役俳優にも似た意気込み。権力志向の強い彼の心底では、(卑弥呼なんぞ何する者ぞ)と
――やっと此処まで登り詰めた。
自分の半生を振り返ると感慨も
彼の両親は、多夫多妻制の邪馬台城では珍しく、相思相愛の仲だった。自然の流れで城外へ転出し、田畑を耕す自給自足の生活に入ったものの、人生とは酷なものだ。野良作業中の父親が毒蛇に噛まれ、死んでしまう。
途方に暮れた母親は幼い息子の手を引き、城内の集団生活に復帰する。ところが、以前と同じようには溶け込めない。母親が頑なに
冷遇される息子を不憫に思い、心労が祟ったのかも知れない。程無くして母親は病に倒れ、当時6歳だった彼は孤立無援の状態に追い込まれる。幸い、死際の助言が彼の人生を切り拓く糸口となった。
「
その遺言を片時も忘れず、臥薪嘗胆の日々を重ねて幾星霜。焼成炉の工房に潜り込み、下働きとして朝から晩まで肉体を酷使した。7年もの間、彼の観察眼は一貫して鉱石粉の調合工程に注がれ続ける。初志貫徹の努力が実を結び、朧気ながらも組成比の推定に至った顛末は吉兆である。
後は開陳の機会を窺うのみ。秘伝の知識を銅鏡に彫り留めた4代前の卑弥呼と同様、彼も木片に
――何処から秘密が漏れたのだっ!!
白髪老人の浮かべた驚嘆の表情は今でも鮮明に憶えている。導き出した回答は、微妙に間違っていたけれど、才能を示すに足る証拠となった。深い洞察力と強い探究心を見込まれた彼は、後継候補の一番弟子に収まる。
仕える上位者が不在となれば、饒舌にもなろう。奪い合うのではなく、第三者を犠牲にする謀議とあらば、腹蔵無く対話できる。「功績を挙げよ」と
海賊の頭領は、
対馬海賊の殆どを投入したに等しい、本拠地を
我先にと先頭を争う有様は東アジアの各地に根付く龍舟競漕を思わせる。現代日本での風習を挙げるなら、長崎県の
――そんなに意気込んで、300キロ余りもの長い航海を続けられるのか?
歴史を振り返ってみても、熱狂集団が悲劇を招く事例は枚挙に
「山並みを右に見ながら東へ進み、最初に現れる大きな
地図の無い古代。末蘆人の説明は口頭であった。その上、簡潔に過ぎる。(素人相手の詳述は無駄だ)と匙を投げたのだろう。操船とは無縁の使者は航路上の道標を仔細に問い質そうともしない。
曖昧な手引を又聞いた頭領は眼前の
秋分を過ぎ、草木が朝露に濡れ始める寒露の時節。憂慮すべき台風の到来期は去り、風向きの変わった季節風も穏やかに船速を後押しする。対馬を出立した船団は晩秋の日本海を順調に航海し、僅か3日目にして出雲の沖合を通り過ぎる。
此処で彼らの盲点を指摘しておこう。海上から陸地を眺めても、内陸部の様子は窺えない。
順風満帆に思える航海だったが、些細な事が蛮行に狂いを生じさせる。稲佐の浜――出雲の玄関口――を通過した時刻が、柔らかな日差しの降り注ぐ昼過ぎだったのだ。
半日の違いが、出雲集落ではなく、東隣の農漁村に不運な惨事を招き入れる。住民が『
海原が赤く染まる頃、団欒の笑い声に包まれた青谷村の沖合に海賊船団が到達する。幾筋もの炊煙を認め、揚陸された舟艇から凶刃を手にした男達が躍り出る。横一列に並ぶ武骨な800人弱。何人かは舌を舐め擦っている。獲物を追い詰めた猛禽と同じ心境なのだろう。
黒い影の集団が一斉に砂浜を駆け上がる光景は、母体の腹を食い破って湧き散る蜘蛛の子を連想させた。萱屋毎に包囲されては、正に袋の鼠。闘争と無縁な村民に立ち向かう
全員の配置完了を見定めると、頭領は「おおっ」と大きな雄叫びを上げ、右拳を天高く振り上げる。急襲の合図だった。轟く鯨波。瞬く間に興奮状態の海賊達が殺到する。怒声や悲鳴が飛び交うも、
虐殺劇が幕を開けた。弱者には悪夢でしかない一幕。住民の半分近くは斬り殺された。山裾の森林に逃げ込めた僅かな村人までは深追いしない。餓鬼同然、まずは自分達の空腹を満たすのだ。
我を忘れ、性欲の発散を優先する男も多かった。若い娘は後ろ髪を鷲掴みにされ、土間に引き倒される。手足を
それに、優先すべきは連行者の取調べ。弁韓人の居所を聞き出さねばならない。奪い取った
「白状しないと、
凄みを利かせた濁声は逆効果だったようだ。
業を煮やした頭領が森奥に消えた逃走者を改めて捜索させる。そして、1人の老婆が連れて来られた。短い余命と達観した者の胆力は据わっている。鬼の形相にも動じない。だからこそ、村の惨劇を終わらせたと言える。尋問者の知り求めた事実を伝えたからだ。
「もっと手前に出雲は在るだと!?。此処には
自分達が無関係だと知った虜囚が正気を取り戻し、
災禍に見舞われた
当地の殺戮劇は
一方で、自然界での生存に必要な高い繁殖力は食肉用家畜に求められる理想の資質だ。白兎が登場する背景には、山陰地方では欠かせぬ存在だった事実が隠れている。
現代に暮らす我々は、鳥取市の一辺を縁取る海岸線の内、東半分を白兎海岸と呼ぶ。
青谷上寺地遺跡から約10キロの距離に在るが、口承の過程で虐殺現場が東方向へ誤伝したと推察される。近い将来、日の目を見た遺跡が真相を明らかにするだろう。
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